幸せな彼女
隣の学生カップルは、今、この瞬間が人生における幸せの絶頂期なのかもしれない。テーブルに向かい合い、クラスの友人たちや期末に控えるテスト、お互いの担任の先生の悪口なんかをお喋りしている。その楽し気な会話は途切れることなく二人の間を流れ、まるで同じ喫茶店にいるこちら二人が場違いな気さえしてくる。
「そういうんじゃあないのよね」
「そうなんですか?」
そうよ、と小さくこちらも見ずに答えると、目の前の女性は冷め始めた紅茶にミルクを加え、スプーンをひとまわしした。
「何も悪くないのよ。むしろ私は最高だわ、今でもね」
TVに舞台に引っ張りだこだった彼女が急にその活動を休止して一ヶ月。以前はどれだけ頼み込んでも会うことがかなわなかった大女優が、今は部活帰り学生カップルがたむろするようなカジュアルすぎる喫茶店で私の前に座っている。昨日、私の事務所に直接電話がかかってきたときは耳を疑った。
「最高ならなぜ急に活動を……?」
スプーンで混ざり切っていなかったのか、少し顔をしかめながらミルク入りの冷めた紅茶を飲みほした彼女は唐突に私にこう告げた。
「あなた、クスリとかってやったことある?」
「クスリって……、いや、ないですけど……、えっ……もしかして……」
「ちがうわよ、もちろん私もないわ。ただね、私は……依存症なの」
依存症?どういうことだ?サングラスをかけた彼女からは表情も、話す会話の意図も全く読み取れない。
「私は女優になりたくて、高校を中退して17歳で東京に出て来た。必死にオーディションを受けて、今のプロダクションに拾ってもらったの。それからはもう本当にシンデレラストーリーだったわ。今まで15年間ずっと走り続けてきた」
「……でもね、本当はもう辞めたいの。走るのは疲れたの。だけど、辞められない。今まで幸せだったから。私は幸せ依存症なの。ずっと幸せだったから。疲れたけど、今よりももっと幸せなことがないと足も止められないのよ」
「昔は走るのが幸せだったけど、今はもう何も感じない。だからちょっとどうしたらいいかわかんなくなっちゃって」
「……来月には復帰するわ。早めの夏休みはもうおしまい。またがんばらなきゃ」
そう語る彼女は少し疲れたように首を振った。
華々しい世界ですべてを手に入れた彼女が言う「今以上の幸せ」なんて存在するのか私にはわからない。サングラス一つでろくな変装もしていない彼女に、なぜかこの店の客は誰も気が付かない。隣にいたはずの学生カップルはいつのまにか会計を済ませ、笑いながら店を出て行った。
(了)