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異世界飛空艇ジャーニー -転生の方舟-

作者: 天谷霧鷹

 カッとなって書いてしまった。反省はしていない。


 罵倒、絶賛、その他諸々のご意見もお聞かせください。泣いて喜びます。

 Ⅰ


 男――辺見政宗(へんみまさむね)の意識が身体に引き戻されたその時、そこは彼の『家』ではなかった。

 珍妙な黒いローブとヴェールを着用した、祈祷師然とした男女に囲まれ、辺見は自分が四肢を投げ出しているとこに気が付いた。

 先程まで感じていたはずの激痛と、それを撒き散らしていた腹に突き立てられた金属片は消え失せている。


「ちょ……これは何だよ……」


 状況が呑み込めていないままに、辺見は黒ずくめの一人に連れ出された。抵抗はしようと思えば可能だったが、摩耗した精神がそれを拒絶していた。


 辺見を連れ出した黒ずくめは、木をそのまま使った素朴な机や窓枠が特徴的な部屋に彼を放り込んだ。

 窓から差す光を受けて、つやつやとして濡れたようにも見えるソファの上には、如何にも神経質そうな空気感を発散するダークグレイのスーツを身に付けた男が乗っている。細く紅い唇に、濛々と湯気を立てるコーヒーを口腔に吸い込ませつつ、男は自分の向かいにあるもう一脚のソファに座るよう、目線で辺見に促す。

 乱暴に音を立てて扉が閉められる音を背にした辺見は、黙ってソファのクッションに腰を下ろす。


「突然こんな所に呼び出して済まない。そして、君をここへ連れて来た部下の粗暴な態度を詫びよう」


 男はコーヒーのカップを陶器のソーサーに置くと、辺見に頭を下げた。存外に真摯な態度に辺見は意外の念に打たれるが、頭を上げた男は気にもしない様子で話し始める。


「まずは名前を聞こうか。それと職業……」

「おい、人に名前を訊くなら、自分が先に名乗るのが礼儀ってもんじゃあねぇか?」


『他人には真心と思い遣りを』が人生の標語である辺見は、男の態度が少し気に食わなかった。尤も、辺見の物言いに“真心”も“思い遣り”も無いと言えばそれまでではあるが。

 内ポケットから名刺を一枚、男は二人を隔てる木の味わい深い広めの、コーヒーが二杯置かれた机に乗せ、辺見に差し出した。


「失敬した、私はカエサル・ジルファという者だ。現在は()る閑職に追いやられ、先刻の者共と仕事をしている。さあ、君の名も伺おうか」

「……辺見政宗、職業は海上自衛官だ。俺は勤務中のはずだったんだが……ここは一体何だ?」


 辺見は、自分が勤務する『家』を思い浮かべながら問う。それを聞いて、コーヒーを一口、口に含み、よく味わってからそれを嚥下した男は、あっさりと言ってのける。


「辺見君、残念だが、君がここに呼ばれたということは、君は何らかの原因で死んだということだ」

「しっ、死んだ……!? そんなわけあるか! 現に俺はこうやって動いてるじゃねぇか!」


 見ず知らずの男に突然「お前は死んだ」と言われて「そうですか、分かりました」と納得出来るはずがない。生来、自分は感情的になりやすい性質(たち)だと考えている辺見でなくとも、そのような思いになるのは仕方のないことだ。

 ソファから立ち上がり、声を上げた辺見を男は慣れた風に宥める。


「落ち着け。誰しも初めはそう言うものだ。不安なのも分かる。だが、今は私の話を聞いてくれ」


 男の真っ直ぐな視線に辺見は射竦められ、すとんと腰を下ろす。しかし、辺見を座り直させたのは男の視線だけではない。

 ――あの状況なら、死んでいてもおかしくはない。寧ろ、死んで然るべき状況でしかなかったはずだ。

 その思いと、脳裏に鮮明に甦る噴き出した火焔、押し寄せる海水とが混ざり合い、辺見から気力を奪っていた。


「聞いてくれる気になったか。何も一度で全て理解してくれとは言わない。だが、ここが君の知っている世界ではない。所謂『異世界』であるということだけは、念頭に置いておいてくれ」

「……分かった。話せよ」


 そして男は辺見に、自分は彷徨う魂に肉体を与え、労働者として使役するために召喚を行う部署の者であるという旨を話した。荒唐無稽にも思われたが、山羊の頭と獅子の胴、そして尾が蛇という怪物の写された写真を見せられては、強く反駁することも敵わなかった。

 最後に男は、一枚の紙を傍らのアタッシュケースから丁寧に手袋をはめて取り出し、辺見に手渡した。


「それはとある特殊な魔術的加工が施されたものだ。中央に手を当て、目を閉じ、君の名を思い浮かべるだけで、君の経歴の全てが(つまび)らかになる便利な代物だ。やってくれたまえ」

「全部か……。まあ仕方ねぇ、やってみるか」


 若干の嫌悪を示しながらも、A4サイズの紙に手を当て、辺見は自分の名前を頭に叫んだ。


 東北出身の父が付けたという名だが、いつの年代も冷やかしを受けることの方が多かったのが実際だ。しかし、辺見自身、この名を嫌っていたわけではない。寧ろ誇りにさえ思っていただろう。それはこれからも変わらないという確固たる熱情は、常に辺見の胸の奥で渦巻き、何度となく彼を支える力を生み出していた。

 中心から伝播するように文字が浮かび上がると、男はそれをひったくるかのように取り上げた。辺見は男に湿った視線を送ったが、文字を読むことに没入してしまった男はそれにすら気が付いていない様子だ。男は辺見がげんなりと息を吐くのを、まるで彼岸の出来事のように意に介さずに読み耽る。


「ふむ……なるほど。ありがとう、君のことは大体分かった」

「感謝してるようには見えないけどな。仏頂面は生まれつきか?」


 五分ほどの後に男は慎重に紙を再びアタッシュケースに仕舞い、言った。辺見の吐いた弱毒は「生憎な」と適当に往なされ、霧消した。


「君は海で過ごしていたようだな。私は生まれてこの方、海なんて見たことがないんだ。どんなものか教えてくれるか?」

「……そんなの、その紙っ切れに書いてあるんじゃないか?」

「残念だが、個人の思考を読み取るのは魔導の禁忌だ。あれには客観的な事実しか書かれていない」


 理解し難いことを口走る男だったが、その身体には純粋な好奇心だけが滲んでいた。辺見は、絆されたわけではないと自身に言い訳をし、自分が見た海のことを語るため、渇いた唇を動かし始めた。


「……俺が中型犬ぐらいの大きさだった時、母親に連れられてよく夕焼けの海を見に行った。馬鹿でかい太陽に照らされた海と、キラキラ光る波はまるで宝石みたいに綺麗だった。俺が見た海で一番に優しかったのはその時だな」

「海が優しい……か。中々興味深い話だ。続けてくれ」

「それから……学生の頃は、夏場には毎年行ったな。正直、家から二、三分歩けば見えたし、飽き飽きしてたが、行ってみるとなんだかんだ楽しいもんだった」


 自然と唇の端から笑みがこぼれていると気付いた辺見は、舌で唇を湿らせると同時にそれを吹き消した。


「しかしまあ、仕事をするようになってからは最悪だった。俺が乗り組んだ時に限っていつも大時化だ。最初の三年くらいは、酔う度にデッキからぶちまけてやったさ」


 何をとは辺見は言わなかったが、男も察したように憐れみの目を辺見に向けた。辺見はばつが悪そうに頭を掻く。


「まあ、慣れるもんだ。艦長を任させるようになってからは一切酔わなくなった。代わりに、いくら酒をあおっても酔えなくなったけどな」

「船に乗っていると、(みな)そうなるものか?」

「いや、船酔いに耐性が付くのはよくあるが、俺みたいに酒でも酔わなくなったって話は聞いたことがない。……原因は分からずじまいだったな」

「そうか……。私は、君とは対照的に、幼少の頃はこの国で一番の高台の街で過ごしたんだ」


 ふと思いついたように語り出した男の声に、辺見は耳を傾けた。心中を話したことでか、男に対する警戒心と猜疑心はいくらか薄くなっていた。


「誰よりも高い場所に住んでいるというのが自慢でな、よくもっと近付こうとして屋根に登り、父に殴られたものだ」

「あんたも子供らしい時代があったんだな。意外だ」


 残ったコーヒーを一気にあおり、男は「当たり前だ」とだけ返す。辺見も冷めかけたコーヒーをソーサーから取り上げると、それを一口で飲み切ってしまった。


「だから私は、この平地に下りてしまった今でも、空を愛している」

「そうかい。結構なことだよ」


 男は次いで、口角を僅かに上げ、辺見に問うた。


「どうだ、君は空は好きか?」






 Ⅱ


 数日後、カプセルホテルのような部屋で過ごしていた辺見は、カエサル・ジルファの部下と名乗る男から封筒を受け取った。

 黒いローブも怪しげなヴェールも着けてはいなかったが、辺見は直感的に祈祷師の一人だと悟った。しかし、だからと言って何か感情が湧くわけでもなかった。自分が死んだということに納得しかけていた辺見にとって、彼らは命の恩人とも呼べるはずだったが、感謝を素直に述べるのはどうにも癪に障ると思った辺見は、カエサルから記念にと受け取った赤ワインを、男に少しだけ分けてやった。


 丁寧に紐で閉じられた茶封筒を開封すると、『辞令』という文字がまずは目に飛び込んできた。こんなものを渡されるのはいつ振りかとしみじみ思った辺見だったが、全文を読み、我が目を疑った。

 おおよそ『貴殿を巡視飛空艇《リーインカーネーション》の艇長に任命する』という内容であった。彼の目を惹いたのは“飛空艇”というたった三文字の言葉だった。


 更に数日したある日の真夜中、二人組の男が辺見を訪ねた。二人は辺見を“艇長”と呼び、やや慣れてきたばかりの狭い部屋から夜の帳の中へ連れ出した。

 久々に呼ばれた『おさ』の肩書の重さを胸に繰り返すうちに、気が付くと辺見は列車に揺られていた。黒煙を撒き散らしながら駛走(しそう)する蒸気機関車は、時折、辺見を懐かしいようなセンチメンタルな気分に陥れた。


 一度、列車内で二人の男のどちらともなくに辺見は尋ねていた。


「なあ、“巡視飛空艇”って何だ?」と。

「それは勿論、領空内を巡視するために建造された飛空艇に決まっているじゃありませんか」

「そんなのは字面から分かる。俺が聞きたいのは“飛空艇”の方だよ」


 男たちは顔を見合わせ、互いに耳打ちをしたあとに、納得したというような顔で頷いた。


「辺見艇長、以前は海を走る艦に乗られていたとか」

「まあ……護衛艦に乗っていたな。今はどうなっちまったか分からないけどな」


 けたたましく鳴り渡る異常を知らせるブザーと、薄暗くCIC(戦闘指揮所)を照らす赤色灯が交錯し、副長の怒号がそれに覆い被さる。コンソール上で、発射準備が完了していると教える緑色のランプ。それと連動しているスイッチを自分が叩けば、後部に取り付けられた燃料の爆発的な推進力を借りて、膨大なエネルギーを宿した鉄塊が飛び出し、対象を轟沈させるだろう。震える指をコンソールにかざす。その時、副長の一際大きい自分を呼ぶ声が重なり――。


「艇長?」


 と、辺見を呼んだのは男の一人だった。はっとして辺見は辺りを見回したが、見えたのは車窓に田園が映っている光景だけだった。

 いつの間にか思考と回想の海に溺れかけていた辺見を引き上げた男は、赤子に言い聞かせる口調で言う。


「単純ですよ。辺見艇長が乗られていた艦は海を走る。飛空艇は空をかける。艇長の世界にはなかったかも知れませんが、場所が海から空に移されただけです。大差ありませんよ」

「やっぱり、本当に空を飛ぶ船があるのか……。だが俺を働かせようっていうんなら、今まで通り護衛艦に乗せてくれればいいじゃねぇか。わざわざ乗り慣れない飛空艇とやらに乗るより、よっぽど活躍出来る」


 戦闘機や旅客機の流線形のフォルムを思い浮かべつつ、辺見はきっぱりと言い放つ。自分で言うのも何ではあったが、辺見にはそう言い切れるだけの自身と自負があった。海に慣れ親しみ、見守られつつ、叱咤されつつ育った自分は、海が一番に力を発揮できる場所で、それ以上はないという堅固な思いが辺見にはあったのだ。

 男は困ったように肩をすぼめて言う。


「そう仰るのも分かりますが……今や海は主戦場ではなくなりました。敵国から思わぬ攻撃を受けることも、もう永劫ないでしょう」

「戦争でもしてるのか、あんたらの国は?」

「ええ、しかし直接殴り合う時代は殆ど終わりました。今は経済戦争や小国同士での代理戦争がもっぱらです。ですがそれに伴い、危険な海洋生物が多数棲息する海よりも安全な空が重んじられる風潮になっていまして……」


 煮え切らない言葉に、辺見は「はっきり言え」と苛立ちを見え隠れさせる。そして少しの逡巡の末、男は短めの髪を掻き、へらへらと笑いながら言った。


「簡潔に言いますと……補給船等を含む全ての船舶はとっくに破棄されてしまいました。あはは……」

「……そうかい。そりゃあ俺が空飛ぶ船に回されるのも納得だな」

「あれ、意外です。もっと怒ったりするかと思いましたが……」

「呆れてんだよ、海を軽んじまくった、その姿勢にな」


 そう言って辺見は背もたれに倒れ掛かって腕を組むと、足元から響いてくる心地良いボイラーの振動に目を閉じた。

 辺見が男たちと共に列車を降りたのは、乗り込んでから半日した頃のことだった。その間、乗客は一人も現れず、ひたすらに煙突から出た排気と黒い鋼の獣が、のどかな田園に敷かれた果てしないレールの上を疾駆しているだけだった。


 * * *


 列車の旅が終わりを告げると、そこは港町だった。

 駅がある高台からは、太陽の輝きを乱反射して光る海が臨める。辺見にとって母であり、父でもあるその美しく深い青は、見慣れた故郷のものと何ら変わらないように見えた。

 水揚げされたばかりの魚――尤も、辺見に言わせればそれは深海魚以上に気色が悪く、奇怪なものばかりだったが――を氷水で〆《しめ》、買い物篭を片手にした主婦に売り捌く捩じり鉢巻きの魚屋の主人などは、嫌でも辺見の幼い頃の記憶を呼び起こした。


 昼下がりの商店街を抜け、閑静な住宅街を抜けると、高台から見えた海が広がっていた。だが、そこは平穏そのものである港町とは打って変わって、物々しい雰囲気に包まれていた。

 太い鉄のバリケードが辺見の前に立ち塞がり、その両脇にはコンクリートで塗り固められた高い壁がそびえている。

 突撃銃アサルト・ライフルを携え、立哨する兵士然とした若い男に、足止めを受けた辺見たちだったが、数歩後を歩いていた二人が若い兵士を連れ出し、辺見には聞こえないような声で話し始めた。もどかしいような感情と、若干の疎外感を覚えつつも、敬礼をして道とバリケードを開いてくれた兵士に礼を言って、辺見はそこを通過した。


 白亜の壁の中は、如何にも軍事施設といった風体だった。辺見自身、何度か防衛省に立ち入ったことなどはあるが、そこにはそれをそっくりそのまま移したような妙な空気が漂っていた。


「艇長、こちらです」


 辺見の前に躍り出た男たちの先導の声に、辺見は大人しく従う。

 大型トラックの往来を横目にしつつ、先導する男たちの後を追っていく。


「広さの割には人の気配が少ないな」

「そうですね。かつてはもっと多くの職員が勤務していましたが、船舶が失われた今では、多くが異動になりました」

「ここに残ってる連中は何の仕事をしてるんだ、艦の一隻もないんだろう?」


 談笑しながら歩く、職員と思しき者は散見されていた。弁当などを口に運んでいる者も見られ、そのとき、辺見は自分たちが朝食も昼食も摂っていないと気付かされ、急速に腹の虫が唸り始める音を聞いた。


「ここに残った職員は、全て“巡視飛空艇”《リーインカーネーション》の建造に携わったりした技術者です。現在の主な仕事は、停泊した《リーインカーネーション》の整備や細かな手直し、糧食や砲弾なんかの積み込みですかね」

「……しかし、本当の本当に空飛ぶ船があるのか? 今のとこ、それらしいのは見えないがなあ」


 辺見は晴れ渡った空を見上げ、太陽の眩しさに目を細めながら言う。それを見た男の一人が、可笑しそうに思わず口を押える。

 むっとした顔で辺見が睨みつけると、平静を取り戻し、何事もなかったかのように足を速めた。


 かつて辺見の『家』であった護衛艦も、こんなところによく停泊していた。そう過去を懐かしみながら港の凹凸の多い輪郭を眺めていると、唐突に辺見の前に灰色のコンクリートで造られた、棺めいた巨大なモノが現れた。

 ――船渠ドックか。

 反射的にそう感じた辺見は、男たちに問う。


あれ(ドック)の中はからか? やたらとでかいし、屋根まであって大層なもんだが、今は無用の長物だろう」

「いえいえ、とんでもありません。あの中にこそ巡視飛空艇《リーインカーネーション》が停泊しているのですよ」

「へぇ……はぁ!?」


 辺見は思わず大声を上げた。

 それは静かな午後の港町に響き、建造物に反射して何度も辺見自身の鼓膜を震わせた。


「もう一度訊くが、空ぁ飛ぶんだな?」

「ええ、間違いなく」

「だのに、コンクリ造りの海に面したドックに入ってるんだな?」

「そうですね」

「分かった、お前ら、俺を馬鹿にしてんだな?」


 怒りとも困惑ともつかない感情を籠めた声で男たちに問う。男たちは足を止め、辺見に向き直ると、口を真一文字に結んだ。だが、口の端は笑いを抑えられないといったように歪んでいる。


「まあ見れば分かりますから……。ここは抑えてください、辺見艇長……フフッ」

「お前な、あんまり人をコケにしてると、そのうち誰かに殴られるぞ」


 * * *


 その乾ドックの内部は日差しが完全にシャットアウトされ、日中とは思えないようなひんやりと冷たい空気が支配していた。

 そして、そこにそれ(・・)は静かに佇んでいた。


「こちらが、《ヘヴンズ・ゲート》級三番艇、巡視飛空艇《リーインカーネーション》です」


 護衛艦を遥かに上回る体躯を盤木――入渠にゅうきょ中の船を支える台の上に横たえ、目の前の海原を割らんばかりにユニコーンの如き角を突き出した《リーインカーネーション》は、圧倒的な重量感と共に辺見の前に立ちはだかった。


「す、すげぇ……」


 その言葉しか、出てこなかった。

 こぢんまりとした戦闘機や、細長い旅客機とは似ても似つかない、“本物の戦艦”がそこにはあった。

 しかしそれだけではない。大きく突き出た角がユニコーンのようだと言うならば、艦の両脇に並び立つ、上下二本の管で支えられた小さな――それ自体も駆逐艦ほどはあるが――舟は、ペガサスの翼のようであった。

 後部に巨大な球体を載せたその二つの分身は、内部からそれぞれ幾つもの機関砲の砲身が飛び出している。いざ戦闘となれば、その周囲に張り巡らされるであろう火線から逃れることは容易ではないはずだ。


 ――巡視飛空艇と銘打ってはいるが、これはどう見たってバトルシップだ。こっちのことは何一つ知らない俺でも、それくらいは分かる。


 辺見の中では、感動や畏怖、驚愕、当惑など、様々な色が入り交じっていた。しかし、それは一つとして声にはならないままに、彼の深奥へと沈殿していった。


「中々立派なものです。とても数年前までスクラップ置き場で眠っていたとは思えませんよ」


 ――こんな怪物艇がスクラップ!?

 自分ではそう叫んだつもりではあっても、それは実際には辺見の声帯をぴくりとも動かしていなかった。


「今は乗組員はいませんし、ひとまず艦内に入りましょう」


 言われるがままに、辺見は足早に歩き去る男たちを慌てて追いかけて行った。


 * * *


「ふぅ……少し落ち着いて来たかな」


 艇長室に備え付けられたコーヒーサーバから淹れたブラックを飲み干すと、辺見はやっと言葉を発した。


 《リーインカーネーション》中央に位置する一際大きい船体――本艦は、前半分を上下に二分割し、後方は巨大なスクリューと、それを両脇に抱えた筒状の機関で大部分を占められている。辺見の見立てによれば、そこには機関室、回転するフィンを冷ますための冷却水、そしてそれを循環させる機構があるはずだ。


 ぱっくりと口を開けたような《リーインカーネーション》の口蓋に相当する部分に艇長室はあった。


「いやぁ、さぞ驚いたでしょう」


 おどけた口調で一人が言う。するとそれに触発されたようにもう一人もにやにやとしながら辺見に近付いてきた。


「口をぱくぱくさせながら目をカッと見開いて……ああ、面白かった」

「そんな感じだったか……? まあ、驚いたのは認めるが」


 辺見は疑いと諦念を滲ませる視線を交互に向ける。きっと、こいつらは痛い目に遭うまで反省しないだろう、という思いが辺見の胸を打った。


「これだけでかいと、並の人数じゃあ動かせないだろうな」

「そうですねぇ、確か定員は三百六十人程でしたかね」

「おい、冗談は顔と態度だけにしとけよ? こんな化け物がたった三百人ぽっちで動くかよ」


 辺見は、はっはっはと痛快な笑い声を上げる。しかし、男たちの眼差しは至って真面目であった。


「……嘘だろ?」

「本当ですよ」

「こいつ、戦艦くらいはあるぞ?」

「センカン……というのは私には分かりませんが、私どもの資料によると間違いなく定員は三百六十人です」


 視線で問い、視線で答える。そんな無言の問答に一分程費やされた頃、辺見の黒い瞳からふっと光が消えた。


「オーケイ、『異世界』の奴らに俺の常識が通用しないのがやっと分かった。何でも信じてやるよ」

自棄やけにならないでくださいよ……」


 辺見はクッションの効いた大きな椅子から立ち上がる。椅子の背骨がギッと小さく呻いた。


「自棄になったんじゃねぇさ。……それより、乗組員はどこに行ったんだ?」


 サーバからコーヒーをカップに注ぎつつ、男たちに問う。白い湯気が辺見の視界を一瞬奪い、コーヒーの酸味を含んだ香りが鼻を衝いた。


「艇長が召喚された翌日に帰港命令を出され、現在は休暇扱いですね」

「随分と手が速いな。組織ってのはもっと愚鈍なもんだと思ってたが」

「空治局は命令系統が短いですからね。レスポンスもその分、他より速いでしょう」


 空治局――飛空艇をはじめとする航空機が所属する組織だ。それは召喚されて日の浅い辺見もすぐにピンと来た。だが、疑問はあった。


「海は碌に使われてないのに、空の組織が小さいのか? だが、直接戦争をしていないなら、おかだって大して大きくないだろう」

「小さいわけではありません。それなりの規模はありますが、実質はジルファ局長の独裁状態ですから、あっという間に命令が行き届きます」

「あの野郎か。なら、俺を空送りにしたのもあいつの独断だろうな」


 辺見の言葉に、二人揃ってこくこくと頷く。

 閑職などと言っておきながら、本当のところは大好きな空に関する権力を独り占めとはな、と思案しつつ、辺見は口の端を歪めて不敵に嗤ったあの男――カエサル・ジルファの細面を虚空に見、「狐め……」と呟いた。


 * * *


 飛空艇《リーインカーネーション》のフライト再開は一月後だった。

 それまでに辺見には、艇長として艇の構造から武装、部署や操舵までのあらゆる知識を頭に叩き込むことが求められた。よくよく聞くと、ここまで辺見をエスコートした男たちは空治局の一職員で、飛空艇の乗組員ではないということだったが、一月後の飛翔まで、二人は徹底して《リーインカーネーション》についてを辺見に教え込んだ。


 その中で、艇名の由来についても話をすることがあった。


「ちらっとだけですが、この艇はスクラップ寸前だったと言いましたね?」

「言ってたな。これだけでかいと壊すのも馬鹿にならないカネが掛かりそうだが」

「そうです。元々、《ヘヴンズ・ゲート》級として初めて建造される艇だったのですが、技術的な限界に阻まれ、計画は凍結扱いになっていました。当時の艇名は《スカイ・スプリッター》と言いました」


 辺見は意外の念に打たれた。この異世界でも技術力不足はあるのだな、という思いと、付けられていた名前が現在とは違う雰囲気だったということからだ。


「本来は《スカイ・スプリッター》級の一番艇のはずでしたが、予算と他のプロジェクトとの兼ね合いから、ずっと放置されていたのです。そうするうちにあれよあれよと技術が進みまして、《ヘヴンズ・ゲート》が竣工。続く《エヴァンジェリック》が……という具合でした」

「ふぅん……ちなみに、その足りなかった技術って何なんだ?」

「反重力場発生技術です」


 むせた。唐突なSFサイエンス・フィクションに辺見は耐え切れなかったのだ。

 口から噴き出したコーヒーを染みにならないように拭いつつ、「……で?」と続きを求める。辺見が彼らを疑うことは最早意味を持たなかった。


「はい、その頃にジルファ局長が左遷されて来まして、魂を転生させる儀式を活発に行うようになりました」

「それで、俺みたいな安らかに眠らせてもらえない奴らが出てきたんだな」


 男はむっとして「人聞きが悪いですね」と言う。


「まあ、艇長の立場からだと、そういう見方もあるでしょうけど。……ええと、《エヴァンジェリック》までお話ししましたね。その頃、艇長と同じく、海の船に乗っていたという方が転生、召喚されました。まだお若い方でしたが、癌が原因でお亡くなりになられたそうで、また船に乗りたがっておられました」

「そうか……病気で死ぬのも当然だがいるわけだ」

「ええ、勿論。ですが当時、《ヘヴンズ・ゲート》と《エヴァンジェリック》はクルーが決まってすぐでしたので、それらには彼は乗れません。そこで、彼自らが発案したのが、《スカイ・スプリッター》の改修でした」

「リフォームすれば、新しく建造するよりは安上がりだし工事期間も短いって寸法か」


 それほどまでに艦に乗りたいなら、もし転生させられなくても化けて出そうだな、と辺見は笑った。


「その時に彼が改めて名付け直したのが《リーインカーネーション》というわけです」

「なるほどな……この船とそいつ自身のダブル・ミーニングか」


 かくして、《転生リーインカーネーション》が産声を上げたのだった。






 Ⅲ


「巡視飛空艇《リーインカーネーション》のクルーの諸君、本日の正午を以て、この艇は空に舞い戻る。その前に、もう名前は知っているだろうが、新たな艇長にご挨拶いただく」


 クローム・アダムス一等空士は、久々に聞いた副長の声に踵を揃えつつも、まともにその言葉は聞いていなかった。

 ――艇長は、死んだ。

 脳内にはその一言だけが駆け巡っていた。自分たち兵卒に寄り添い、共に《リーインカーネーション》を支え、家長として常に強くあった彼はもういないのだ。その思いから、アダムスは『異世界』から転生し、艇長になるという男の高説を拝聴させていただくつもりにはなれなかった。


「あーあー、マイクテストマイクテスト、本日は晴天なり……」


 クルーのせせら笑いが俄かにドックに広がる。

 ――ああ、終わったな。

 それを聞き、アダムスはそう確信した。下士官、兵卒に見下されながら円滑に仕事が出来る幹部は、少なくともアダムスは見たことも聞いたこともなかった。艇長とは、幹部から兵卒まで全てのクルーを束ね、畏怖と尊敬を集める存在でなければならない。そうアダムスが考えたのは、前任の艇長がそうであったからに他ならなかった。

 スピーカー越しに話し始めた声を睥睨へいげいし、そのままアダムスはゆっくりと心を閉じていった。


 * * *


「マイクテスト終わり。……諸君、お初にお目に掛かるな。話は聞いているそうだが、改めて名乗らせていただく。辺見政宗二等空佐だ。知っての通り、私は先日、空治局によって『異世界』より召喚されたばかりだ。まだ、この世界は右も左も分からない。そんな私がこの《リーインカーネーション》の艇長に任命され、正直なところ、私に務まるのだろうかというのが本音だ。

 ……私も、かつて船乗りだった。故に、諸君にとってここがかけがえのない『家』だということは分かっている。家長であった前艇長のことも聞いている。彼がどんな人物だったか、もだ。だから、私は彼の様に諸君を束ねられるとは思っていない」


 しんと張り詰めたドックの空気が揺れる。しかし辺見は気にも留めずに続ける。


「私が『家』への客人に過ぎないということも承知の上だ。……何が言いたいかというと、つまりだな、私をみなでまともな艇長に育ててほしい、ということだ」


 さざ波はどよめきに変わっていった。それを辺見は見下ろしながら、なおも続ける。


「私は呑み込みが悪い。時間は掛かるだろうが、きっといつか、諸君が艇長と呼ぶに値する男になってみせる。それまで、どうか私を待っていてほしい」


 辺見が腰を折り、深々と頭を下げると、そのどよめきさえもが静まっていった。

 そして、数秒の後に辺見は「以上」と告げ、副長にマイクを渡すと《リーインカーネーション》の艇内に静かに溶けていった。


 * * *


「辺見二佐、こちらに」


 副長の声に導かれ、辺見は《リーインカーネーション》で最も高い場所――上甲板に上がるラッタルを上っていた。


「二佐、〈シキ〉についてはどの程度ご存じですか?」

「飛空艇用の支援人工知能(AI)だとは聞いたが、それ以上はまだ分からないな。今日から機能を復旧したんだろう?」


 二段先をゆく副長の重低音に答えつつ、辺見はその後を追う。


 兵曹の居住区は艇の下半分と左右の翼に造られているため、上甲板への道では兵曹と出会うことはそうない。甲板の見張りや、その交代に向かう数人しか顔を見ることがないというのは、辺見にはもどかしいものであった。

 辺見は、艇長とクルーに呼ばれるためには、まずは彼らの顔と名前の一致が最優先だと考えていた。家族の顔が分からない家長など必要ではないとしていたからだ。現に、転生前はいつもそうしていたし、そうすることで失敗したと感じた経験は未だ無かった。まずはそこから、『家』の一員と認めてもらわなければ始まらない――それが辺見の率直な気持ちだった。


「ええ、零時にバグなどの調整を終えた〈識〉ver.1,20が運転を始めています。……〈識〉は、ミサイルの軌道やCIWS(近接火器防御システム)の管理などを一括に行うものです。会話も可能ですので、何か不明な点は〈識〉本人に訊くのが一番でしょう」

「へぇ……そいつは便利だな。で、上甲板に〈識〉の本体の機械が置いているんだったか?」

「そうです。今からそっちで二佐のID登録を行います」


 長いラッタルを上る音がドックに反響し、何度も重なっている。私物などの持ち込みで忙しそうなクルーが、眼下に豆粒程の大きさで見える。つくづくでかい船だなと内心に吐きつつ、辺見は足を進めた。


 * * *


 〈識〉の本体があるというのは、人が二人入れるかどうかという黒いポッドだった。ポッドの上のハッチを開き、辺見はその中に飛び込む。自動的にハッチが閉じる音が頭上に聞こえると、ただでさえ薄暗いドックの光さえ締め出され、ポッドは完全な闇に覆われた。


「暗いな……何も見えやしねぇな」


 辺見がそう呟いたその時、ポッドの内壁が青い光を放ち始める。いきなり照らされたことで目が眩みそうになるが、ゆっくりと目を慣らし、内壁を見回す。辺見がそれらは小型のディスプレイであるということに気が付くのにそう時間は掛からなかった。


 〈私はシキ、飛空艇支援AIです。お名前をどうぞ〉

「辺見政宗二等空佐だ」


 驚きつつも、辺見は無機質な声に答える。

 駆動音が狭いポッドを支配する数秒――その後、〈識〉はどこからとなく再び無機質な音声を発した。


 〈データが存在しませんが、新たに艇長に就任する左官だと認識しました。ID発行のため、データを採取させていただきます〉


 すると、辺見の正面やや右から、一つのディスプレイがせり出してきた。そこには親指大の大きさに楕円が描かれている。


 〈右手の親指をゆっくりと押し付けてください〉


 言われるまま、辺見は指を押し付ける。艦内上部――特に士官室付近でよく見られた装置は、指紋認証のためかと辺見は一人合点を打った。


 〈結構です。次は、顎を載せて目を大きく開いてください〉


 声がすると、引っ込んだ指紋ディスプレイの真上辺りから眼科で用いられるような台が現れた。


 〈奥の光を見つめてください……はい、結構です〉


 まるで本当に眼科検診に来たみたいだと辺見は笑いを零した。


 〈指紋データと虹彩パターンデータを採取しました。以降は指紋認証が基本となります。虹彩認証はCIC(戦闘指揮所)やブリッヂでの操舵に使用する場合があります〉

「ああ、ありがとう」

 〈最後に、もう一度お名前をお願いします〉


 結構面倒なもんだなと毒づきながら、辺見は咳払いをした。


「辺見政宗だ」

 〈……はい。登録が完了しました。よろしくお願いします、ヘンリー二佐〉

「……はぁ!?」


 一瞬反応が遅れた。俺は米国人じゃない、れっきとした日本人だぞ! と叫びたい衝動に駆られたが、それは糠に釘打つような真似だった。この『異世界』の連中、ましてや機械が日本なんて知るわけがない。しかし、機械に名前を間違えられたままではクルーに示しがつかない。ここは正さなくては――。


「もう一度言うぞ、辺見、政宗だ」


 辺見は努めてゆっくりと言い直す。


 〈ヘンリー・マサムネ?〉


 ――ああっ、馬鹿マシンめ!


「ゆっくり言うからな? よく聞け、へ・ん・み・ま・さ・む・ね、だ」

 〈ヘ・ン・リ・-・マ・サ・ム・ネ〉

「クソが! お前わざとやってるだろ!!」

 〈よろしくお願いします、ヘンリー・マサムネ二等空佐〉


 そうとだけ一方的に言うと、ポッドの内壁はまた光を失っていった。


 * * *


「さて、辺見二佐、いよいよ発進の時刻まで一分前です。準備はいいですね?」

「ああ、いつでもオーケイ」


 時刻は十一時五十九分、巡視飛空艇《リーインカーネーション》は空へ旅立とうとしていた。

 辺見と副長はCICでその時を待っている。先程から機関長と航行観測長が声を掛け合っている。飛空艇の発進では彼らが主役のようだ。

 そもそも、この艇には辺見の知らない部署がいくつも置かれていた。副長や砲雷長などの機本的な部分は護衛艦と同じだったが、やはり空を飛ぶとなると必要なものも増えてくるのだろうか、聞いたこともない部署の長を何人も見かける機会があった。


「三十秒前です」と副長の声に、機関長の野太い声が重なる。

「グラヴィティ・リアクター、始動。フィン、回転開始」


 * * *


 《リーインカーネーション》の左右の腕の後方に置かれた、反重力場発生装置――グラヴィティ・リアクターの黒い殻の隙間から、微かに青白い光が漏れ出る。反重力を発生させようとしている証だ。それと同時に、インド象とアフリカ象を同時に粉砕してしまえるような大きさを誇るフィンがゆっくりと回り出した。空中での推進力はこの二機のフィンによって生み出されている。


 グラヴィティ・リアクターの外壁に走る血管のような亀裂は、高エネルギーが熱に変換されることで外壁が割れてしまわないよう、ゆとりを持たせておくためのものだ。とは言え、空中でリアクターが破壊でもされれば飛空艇が助かる道はない。そのため、外壁は核弾頭を積んだライオンが千頭で押し寄せても壊れない程に強靭なつくりだ。尤も、そんな状況になる前に、〈識〉が自動的にCIWSを駆り、CICや各部ミサイル室からミサイルが放たれ、それらを撃墜する手筈だが。


 高周波がリアクターから発せられ、ドックに溜められ、船そのものを海と同じ高さまで持ち上げている水が振動する。

 リアクターが恒星のような眩い光を放ち始めたその時、《リーインカーネーション》本体が数センチだけ浮き上がった。それを皮切りに、回転数を高めていたフィンが空気を後方へと押し出す。反作用的にゆっくりと前進を始めた《リーインカーネーション》がドックから角を突き出すと、加速度的に動きを速め、たった十五秒足らずの間に、その巨体を全て太陽の下へとさらけ出した。

 張り出た竜骨キールが水面を隆起させながら、その巨躯は少しずつ高度を上げていく。そして、《リーインカーネーション》は完全に海を置き去りにした。

 リアクターから発せられた反重力が十分な値に達すると、その瞬間に飛空艇は大きく跳ね上がる。ほぼ垂直に近い角度で上昇を始めた《リーインカーネーション》は、あっという間に雲を突き抜け、高度八千メートルにまで到達していた。


 * * *


「高度八千メートル前後で安定。各機関、異常なし。風、向かい風ですが航行に支障なし。リアクター、正常に作動。本艇周囲五十メートルの気温、13.6度。リアクターのウィンド・リフレクト機能正常。……完璧です」


 線の細い航行観測長が精一杯声を出している。辺見にはよく分からないことだったが、その愉悦に溢れた声と言葉から察するに、上手くテイクオフ(離陸)出来たのだろう。辺見はほっと胸を撫で下ろした。


「周囲に他の飛空艇はいないな?」


 副長の声に、観測長は「問題ありません」と返答する。


「今日は快晴で、視界を遮る雲もありません。上甲板からの眺めはさぞ良いことでしょう」

「……外って、これだけの高さだと氷点下じゃないのか?」


 観測長の言葉に辺見は訊き返す。こういった手のことはマニュアルには記載されていないことが多かった。その疑問に答えたのは、観測長の背後で自らもディスプレイを眺める副長だった。


「リアクターの余剰したエネルギーで空気を暖め、ある程度に保つことが出来ます。尤も、戦闘配備中などには艇の敏捷性を高めるためにエネルギーが回されるので、あっという間に極寒ですがね。天気も良いとのことですので、一度行ってみられてはいかがですか?」

「そうだな……じゃあ、十分程空ける。ここは任せたぞ」


 * * *


「アダムス、さっきのあれ、どう思う?」


 高度が安定した《リーインカーネーション》の下甲板を掃除していたクローム・アダムスにそう訊いたのは、彼と同室の、同じく清掃作業中の一年先輩の男だった。

 階級は士長で腕っぷしが強く、良く言えば快活――悪く言えば乱暴な男だ。喧嘩っ早く、力だけで物事どうにかしようとする空士長の悪癖には、一等空士であるアダムスも手を焼いていたが、決して嫌っているわけではなかった。いざという時には、身を挺して仲間を擁護する度量も備えた士長は、アダムス以下空士の兄貴分だと言えるだろう。


「何の話ですか?」

「辺見とかいう奴の演説に決まってるだろ。……まさか、聞いてなかったのか?」

「まあ……。どうせ大した男じゃありませんよ」


 アダムスは入り込んだ塵を集めながら素っ気なく返す。士長が溜め息を吐く声が背中に聞こえた。


「お前はブレねぇなあ。でも、俺はちょっとだけだが、期待してみてもいいと思うぜ?」

「は?」


 いきなり人形のように振り向き、自分を見据えた二つの目に士長はたじろぐ。

 何を考えているのかが表情に出にくいのは、アダムスの長所にも短所にも繋がり得る点だった。


「艇長と同じ転生組だからか、他の幹部とはちょっと――」

「上甲板の掃除行ってきます。ここ、後はお願いします」

「お、おい! 待てよ!」


 箒とモップを一本ずつ携え、アダムスは上下甲板を繋いでいる艇の外側のラッタルへと歩き始めた。


 * * *


「思ったより肌寒いな……。こりゃあ、長居は出来そうにない」


 辺見はブリッヂと巨大なアンテナ、貯水タンクの中に紛れ込んでいる〈識〉の本体ポッドが見えるだけで、存外に殺風景な上甲板に上がり、そう呟く。

 グラヴィティ・リアクターのウィンド・リフレクト機能は、上空に吹き荒れる強風から艇を守り、揺れを軽減する機能だったが、それでも上甲板には生身の人間には強い風が吹き付けていた。気温は13度といっても、体感気温はがくんと下がっているだろう。

 甲板の輪郭に沿って立てられたフェンスに手を掛け、辺見は下を覗き込んだ。雲を眼下に見下ろす程の高さでは、高所への耐性が高いわけではない辺見でも、却って恐怖は感じなかった。ただ、雲の隙間から覗く海は辺見の慣れ親しんだ小さなものとは違う、もっと広大な印象を彼に与えた。

 そんな中、流石に足が竦んでしまいそうな外付けラッタルを、平然とした足取りで上って来る人影が視界に移った。手には箒とモップを持っていることから、甲板の清掃に来たのだろうと辺見は踏んだ。


 甲板に辿り着いた時、その兵もやっと辺見に気付いたようだったが、大海原を見下ろす辺見に一瞥すると、モップで海水や雲に含まれていた水分で滑りやすくなっている足下を拭き始めた。


「よお、掃除お疲れ」


 そう言って辺見が兵に声を掛け、缶コーヒーを投げ渡したのはそれから数分後のことだった。


「お前、名前は? ……ああ悪い、俺は辺見政宗だ」


 自分がカエサル・ジルファと同じ轍を踏んでいると気付いた辺見は、すぐに自身の名を告げた。しかし兵はどこまでも冷静に「知ってます」と言っただけだった。缶コーヒーを握ったままモップを数回往復させた兵は、ようやく囁くように名乗った。だが、その声は突如として吹いた強風に遮られて掻き消される。


「何だって!?」と辺見は兵に近付きながら問う。すると兵はやっと辺見に顔を向け、モップを杖代わりに立てて、今度は風に負けない声で叫んだ。


「クローム・アダムス一等空士! 所属は第一ミサイル室! ……これで満足ですか!?」

「ああ、ありがとう!」


 数十センチにまで辺見が近付くと、アダムス一士は辺見から一歩下がり、距離を保つ。

 やっと吹き止んだ強風を見送った辺見は、自分の右手を差し出した。


「よろしく、アダムス一士」


 アダムス一士は石膏に固められたように硬直した。しばらくしても応答がない様子に辺見は苦笑し、アダムス一士に背を向けて「掃除、邪魔して悪かったな」と歩き出す。


「辺見二佐!」


 不意に背を打った声に辺見は振り返ると、言葉の続きを待った。冷たい風が肌を撫ぜ、そのまま通り過ぎていくのを感じた後、アダムス一士は目を見開いて言った。


「自分は、二佐を艇長とは認めません!!」

「……そんなこと、言われなくても分かってるって!」


 辺見はにっと笑うと、また艇内へ繋がる重厚な水密扉へと足を進めた。


 * * *


 《リーインカーネーション》での食事も、護衛艦と大差ない、粗末なものだった。

 当然、烹炊長が工夫を凝らして用意しているのは分かるが、『異世界』の食料は、肉から豆、野菜までのどれをとっても辺見にはゲテモノにしか映らなかった。カプセルホテルではパンがよく提供されていたが、それに文句を垂れていた自分がどれほど愚かだったかが辺見にはやっと理解出来た。


「副長……このやたらと臭い肉は何の肉だ」

「さあ……オーロラグンタイマントヒヒか何かでしょう」

「何だそれ、絶対食えない生き物だろ……」


 げんなりとしつつも辺見は皿に盛られたその肉を口に運んだ。食わなければ、とても仕事など出来ないと、護衛艦初勤務でとっくに思い知らされていたからだ。


「砲雷長、士官室係を呼んでくれ」


 皿を空けた副長がそう呼びかけると、砲雷長が下がっていた士官室係を呼びつけた。

 辺見がCICから降りた時には皿が人数分並べられていたため、辺見とは初めて顔を合わせることになる。こういうところから少しずつ始めなければな、などと辺見が考えていると、すぐに士官室係の足音が近付いて来た。


「あれっ、士官室係ってお前だったのか」


 現れたのは、クローム・アダムス一士だった。


「二佐は既にお知り合いでしたか」と砲雷長が言う。アダムス一士がミサイル室の担当ならば砲雷長の部下に当たるはずだ。それを紹介しておこうということだったらしいが、その手間は不要となった。


「ああ、上甲板に上がったときにな。奇遇だな」


 アダムス一士は黙って皿を片づけ始める。その動きからは早くこの場を立ち去りたいという思いが汲み取れた。


「アダムス、ちょっと聞いてもいいか?」


 辺見の言葉に、アダムス一士は動きを止める。辺見に向き直り、踵を付けて背筋を伸ばした。


「何でしょうか」

「いや、大したことじゃないんだがな」

「……早く言ってください」


 焦れたように辺見を急かす。

 周りの幹部連中は、食事を終えた者から三々五々に士官室を後にしている。


「前の艇長の死んだ理由聞いたぞ」


 アダムス一士はその言葉にびくりと肩を震わせた。


 前艇長の死因――それは、焼死だったという。

 俄かに信じ難いことではあるが、この『異世界』にはドラゴンが棲息しているという。或る者は海を、或る者は陸を、そして或る者は空を住処としている。

 海上の船舶が廃れた理由の一つにも、この龍の存在が挙げられる。積荷の魚などを狙って襲撃するためだ。そして龍の顎は、ヨット程度の大きさならば一飲みにしてしまえる程もある。これを二人組のあの男たちから聞いた時、辺見は妙に納得してしまった。

 空を舞う龍も、海龍に比べれば数も少ないものの、確かに存在している。それらには獰猛さや体躯の規格ごとにスターが称号として与えられるということだった。この《リーインカーネーション》を襲ったのも、その最下級、一つ星龍(モノ・スタードラゴン)の一種だったらしい。


 領空を荒らされたと感じた一つ星龍は、針路を変更して逃げる《リーインカーネーション》を執拗に追撃、攻撃した。当然応戦も行ったが、機銃程度ではその鱗の一枚を剥がすことさえ敵わなかった。ブリッヂでは当時の艇長が単身舵を取っていたが、ついには追いつかれ、龍の吐いた火球に焼かれて死んだという。現在のブリッヂは帰港後に新造されたらしいが、龍を撃墜出来なかったという事実が艇長を死に追いやったとクルーは考えているように辺見には思われた。


「特にミサイル室勤務のお前は、自分を責めてるかも知れないと思ったんだが、どうだ?」

「自分は……昔のことはもう、忘れました」

「そうか、そりゃあ結構なことだ。じゃあ、もう一つ訊くが、もしその龍がまた現れたとしたら、どうする?」


 我ながら意地の悪い質問だと辺見は思った。無理に心を抉り返すような真似だと思ったが、アダムス一士の答えは至ってシンプルだった。


「撃墜します。あのヘビモドキが尻尾巻いて逃げたって、地獄の底まで追いかけて、俺の手で、ミサイルで粉々に吹き飛ばす」

「……分かった、ありがとう。俺の皿も引いといてくれ」


 そう言って辺見は立ち上がり、艇長室へと戻っていった。

 明日は、その龍の縄張りに侵入する針路が予定されていた。


 * * *


「速力、およそ32.4ノット。針路上に障害なし。風の影響も薄いですね。〈識〉の自動操縦オートパイロットに切り替えます」


 朝だというのに薄暗いCICには、欠伸を噛み殺しながら言う航行観測長の声が響いていた。

 画面に〈識〉が制御していることを示すウィンドウが現れると同時に、張り詰めていた空気が僅かに弛緩する。


「32ノット……大体時速六十キロくらいか。実際はこの倍くらいまでは出るらしいな?」

「それは単なるカタログスペックです。積荷を極限まで減らせば可能ですが、現在の配備ではどう頑張っても精々54ノットでしょう」


 辺見の問いに答えたのは副長だった。

 ――大体百キロか。俺からすれば十分速いが、どうだろうな……。


「副長、ドラゴンはどれぐらいの速さで飛べる?」

「辺見二佐……縁起でもないことを言わんでください」

「だが、この後間もなくその龍が居た空域だ。『敵を知り、己を知れば百戦(あや)うからず』と孫子も言っている」


 コンソールを前にした辺見と、艇の四方に設置されたカメラの映像を眺めていた副長の視線がぶつかる。昨日に引き続き、今日も穏やかな天候が続く。尤も、低層の雲はこの高度には存在し得ないのだが。

 しんと静まったCICの空気を切ったのは副長の溜め息だった。


「はあ……“ソンシ”という人物は知りませんが、二佐の言い分も一理あります。砲雷長、例の資料をお渡ししろ」

「……了解ラジャー


 不服そうに返事をした砲雷長は、自分のシートの下に張り付けてあったファイルを手に取り、辺見に投げ渡した。


「……これは?」

「我々が調べ上げたくだん一つ星龍(モノ・スタードラゴン)の情報をまとめたものです。口頭で言うより、手っ取り早いでしょう」

「どうしてこんなものを……」


 独り言のように呟いた辺見を副長はじっと見つめ、一拍間を置いてから言った。


「あのヘビモドキを叩き潰すためです」


 辺見を除くCICの面々から滲み出た憎悪が一つに凝り固まったようなその言葉に薄ら寒さを感じた辺見は、逃げ場を求めるようにファイルを開いた。


 * * *


 下士官、兵卒が食事をする食堂には、一台だけテレビが置かれている。チャンネルは、その日の訓練の直後に行われるじゃんけん大会で勝ち抜いた者が自由に変更する権利を得るが、どのチャンネルも似たり寄ったりな退屈な番組ばかりで、結局誰が勝っても、支給品の古い映画を垂れ流すだけの箱になっていた。


「またこれかよ……。俺もう台詞覚えちまったぜ」


 そうぼやいたのは、アダムスの隣に座って肉を貪る士長だった。

 テレビの画面からは、白黒の映像と無駄にドラマチックなBGMが流れている。


「『ああ、ジェームズ! あなたともここでお別れなのね。でも私……離れたくないわ!』『済まないエイミー……。もう列車が行ってしまうよ。僕は生きて帰れないかも知れないけど、きっと生まれ変わって君に逢いに行くから――』」

「士長……うるさいです」

「……迫真の演技だったのに、興醒めだぜ」


 舌打ちをする士長をそのままに、昼食を済ませたアダムスは、昼休みを下甲板で過ごすことにして食器を返却した。


 * * *


 アダムスは、生来視力には自信があった。

 クルーの中では五本の指どころか、最も良い眼を持っているのではと度々考えることがあったが、全員分調べることは到底出来ない。そして第一、調べられたからなんなのだという自分の常識的な部分が、好奇心に溢れたアダムスの子供っぽい部分を抑圧していたのだった。

 ――そんな日は、甲板から遠くを見ると落ち着く。

 アダムスは、雲の切れ間から覗く青い島々をどこまで見通すことが出来るかに挑むことを趣味にしていた。他のクルーからは「何が楽しいのか」とよく尋ねられることがあったが、アダムスに言わせれば、カードゲームやボードゲームに楽しみを見出す彼らの方が理解出来なかった。そんなときによくアダムスが口にした言葉がある。


「他人の価値観と女の思考は理解出来なくて当然」


 所詮他の個体でしかない他人の考えを、ましてや女の考えを理解しようとするのが間違っているこの言葉は、アダムスの父が口癖のように言っていた言葉だった。ヒステリックな母が怒鳴った日には欠かさずに言っていたが、その続きの方がアダムスに与えた影響が大きかった。


「だから、理解しようと歩み寄ることが大切なんだ」


 その父の言葉が染み入るようになったのは、艇長と出会ってからだった。


「だから……あいつを艇長とは認められない」


 父の思いに反することとなっても、艇長は艇長だけだ。例え、それを艇長が望んでいなくても――。


 その時、雲の間にちらと見えた立ち昇る影に、アダムスは知らず知らずのうちに顔を歪めていた。


 * * *


 〈シキより全乗組員に通達。第一種戦闘配備が発令されました。直ちに各自配置に着いてください〉


 けたたましいサイレンと、絶え間なく艇内のスピーカーから流される〈識〉の無機質な声を聞いた艇内は、一瞬にして緊迫に包まれた。


「本艇上空千メートル付近に敵影!」


 CICには航行観測長の叫び声が響き、〈識〉の声を打ち消している。副長の声がさらにそれに覆い被さる。


「何事だ!」

「本艇後方から高速で飛来する物体あり! 本艇と速度を合わせ、徐々に降下中です!」


 〈映像を出します〉の声に合わせて、自動操縦オートパイロットの文字に重なるように現れたカメラの映像に、辺見は息を飲んだ。

 横長の画面を横断する影がうねりながらその巨体を大きく映していた。太陽を完全に遮ると、暗黒に包まれていた影はほんの少しだけその姿をカメラに映した。


 無数の蒼い、それ自体が人間程もあろうかという鱗。体長の半分近くまで伸びた長く、透き通るように白い髭。画面の端に僅かに映った口から漏れ出る紅焔――。


ドラゴンか……!」


 * * *


 飛空艇《リーインカーネーション》の上甲板にぴったりと張り付くように並走するドラゴン――スケールは一つ星(モノ・スター)、年齢はおよそ十歳程度と考えられている。

 龍は人間の倍程度の寿命を誇る長寿の象徴としても崇められている。まだまだ幼体ではあるものの、討伐を急がねば人里に危害を加える可能性も十分にあった。尤も、そうでなくとも、《リーインカーネーション》からは、激しい殺気が迸っているが――。


 グラヴィティ・リアクターの外殻の間隙から漏れ出す光が一層強まり、周囲に纏っていた温暖な空気を破棄する。その瞬間に一瞬にして周囲は氷点下を下回り、フィンが轟然と回転を加速させる。

 〈識〉が制御する、艇の左右の腕の上甲板にそびえる二門の主砲が最大仰角で龍に狙いを付ける。大気を揺るがす発射音と共に超質量の砲弾が凍てつく空気を引き裂いて撃ち出される。

 同時に射出されたふたつの砲弾は、あっという間に高度を上昇させ、五百メートルまで接近した一つ星龍の腹にそのうちの一つを命中させた。


 * * *


「対象、未だ健在! 尚も本艇へ向けて低下中!」

「前方に閃光弾を発射しろ! 隙を作って回り込め!」


 観測長と副長の声が狭いCIC内にびりびりと響く。映し出された映像を睨みつけた辺見は、汗が滲んだ手に持ったファイルを床に落とすと、その場を後にするように歩き出した。


「辺見二佐!」


 副長の声に振り返る。

 憤怒を一分も隠そうとしない修羅の形相をした副長に気圧されつつ、辺見は「何だ」と訊く。


「二佐は何もしなくてよろしい。これは我々の戦いです」

「……馬鹿を言うな。認められていないからと言っても、俺はここの艇長だ。権限は俺にある」

「……何をなさるおつもりか?」 

「決まってるだろ。最大速力で戦域を離脱する」


 * * *


 〈……ヘンリー・マサムネ二佐を承認しました。ブリッヂを開きます〉

「お前……生きて戻れたら本体に水ぶっかけてやる」


 艇の内部からブリッヂに上がるラッタルを封鎖している虹彩認証を通過すると、辺見は単身、舵を握った。

 辺見がよく知る護衛艦の円形に把手の付いたものとは本質が違う形の――比較的航空機に近い、一本のレバーが立っているだけの簡素なハンドルだった。


「〈識〉、レーダーと空図と計器は出しとけ。視界も保てよ」

 〈イエス・サー〉


 前方を覆うガラスにウィンドウが投影される。差し込む光の影響で若干見難いが、十分確認出来る程度だった。

 その時、舳先から小さな塊が仰角に発射されるのを見た辺見は、咄嗟に腕で顔を庇った。そして――。

 パン! という渇いた破裂音を追い越して辺見を襲ったのは、太陽が二つになったような激しい閃光だった。

 ――副長め……あくまでもやるつもりか……!

 胸中にそう叫んだ辺見は、ハンドルを右前方に押し倒した。

 しかし、《リーインカーネーション》が降下しつつ針路を変えるより早く、一つ星龍は攻撃を開始していた――。


 * * *


 炸裂した光の束を目の前で受けた龍は、失った視界に混乱したように空中でのたうち回る。何も見えないながらも口の端から溢れる炎を撒きつつ、一つ星龍はその長大な尾を艇に叩き付けようと試みる。高度を下げたとはいえ、未だ百メートル程度の距離があるにも関わらず、それを一切感じさせない射程距離を誇る蒼い尾が艇の中央に迫る。

 寸でのところで体躯を俯角にし、身を翻した《リーインカーネーション》は、その鋼鉄の鞭を左腕の主砲を掠めるだけに留めた。しかし、一瞬の接触にも関わらず、砲身は砕け散り、四散して彼方へと飛び去った。


 * * *


 天地がひっくり返るような衝撃がブリッヂを襲った。龍の尾が僅かにヒットしたのだと辺見はすぐに悟り、問い掛ける。


「〈識〉ぃ! 今のどこに当たった!?」

 〈左主砲が大破。使用不可になりました〉

「それ燃えてねぇか!?」

 〈出火は確認出来ません。ただし、左右のバランスが不安定になっています。右舷の反重力を強めて対応しました〉


 火が出てないのならばひとまずは安心、と溜め息を吐き、脂汗を拭った辺見の耳朶を、〈識〉とは違う声が打った。


(こちらはCIC、副長! ブリッヂの辺見二佐に告ぐ、即刻艇のコントロールをこちらに寄越せ!)

「やっぱりやるつもりか……。〈識〉、ブリッヂに放送用のマイクはあるか?」

 〈いえ、ありません。ですが、私がお伝えすることは可能です〉

「よし。じゃあ全艇に流せよ――」


 * * *


 〈こちらはブリッヂ、《リーインカーネーション》艇長、辺見政宗二等空佐だ〉


 支援AI〈識〉の声を借りた辺見の声明が《リーインカーネーション》の隅々に響き渡る。


 〈全艇、聞こえているか? 特にCICと第一ミサイル室!〉

「くっ……あくまでも我々の意志を邪魔するつもりか!」


 副長が拳を堅固な鋼鉄で囲まれた壁面に叩き付ける。

 映し出された三次元レーダーには、自機を示す輝点が点滅し、上空を暴れ回る一つ星龍の赤い点を引き離す様子が描き出されていた。針路を右に転換し、高速で離脱する様と、自動操縦オートパイロットの文字が消えたディスプレイを見、奥歯を噛んだ副長は、虚空に辺見の顔を見つつ言葉を聞いた。


 〈お前らがあの龍をぶっ殺したいっていうのは分かる。だが、俺は仮にも艇長だ。こちとらクルーの命預かる仕事なんだよ! だから悪いが、前艇長から引き継いだお前らの命とこのふね、絶対に護らせてもらうぞ! 以上!〉


 * * *


「……よし、こんなところだろ」


 吹き込み終えた辺見は、ふぅっと息を吐いた。

 速力は時速にすると九十キロ前後、やや俯角気味に旋回中。一つ星龍は未だにもがいているらしい。


「〈識〉、CICにある全てのコントロールをブリッヂに集めろ」

 〈可能ですが、責任問題が伴います〉

「構わねぇさ。戦ってクルー諸共海の藻屑になるより、俺の首だけが飛ぶ方がましだ。ああ、あとブリッヂには誰も入れるな。艇長命令だ」

 〈……イエス・サー〉


 目の前いっぱいに仮想コンソールが現れるのを確認した辺見は、その量の膨大さに呆れつつ、〈識〉にもう一つオーダーを出した。


 * * *


 〈各ミサイル室、引き続き艇長の辺見だ。諸君らには、追撃に来た龍を攻撃してもらいたい〉


 狭い第一ミサイル室に掌砲長と二人ですし詰め状態だったアダムスの心臓を、その声は大きく高鳴らせた。

 ――やっと、やっとあの憎いヘビモドキを撃ち落とせる……!

 だが、辺見の次の言葉は、アダムスは想定していなかったものとなった。


 〈俺が合図した時だけ、指名されたミサイルだけを発射しろ。……これは艇長命令だ。逆らって撃ったら責任を追及する。逆らって撃たなければ、一家丸ごと海に真っ逆さま。そういうことで頼んだ〉


 アダムスは血走った眼を剥いて、壁を殴り付けた。


 * * *


 〈一つ星龍、視界を回復。映像、出します〉


 艇の後方のカメラに映し出されたのは、耳をつんざくような絶叫めいた咆哮を上げつつ、《リーインカーネーション》に追い縋る龍だった。


「〈識〉、龍の速度はどうだ?」

 〈43ノットを突破、尚も加速中です〉

「八十キロくらいか……。流石にただでは逃がしてくれないな」


 ちらと速度計に目を遣る。《リーインカーネーション》の速度は現在、時速百キロに迫るまでに上がっている。速度の限界が近い――。その焦燥から、辺見の背中に冷たい汗が流れる。


「さっきの資料では、一つ星龍(モノ・スタードラゴン)は百二十キロくらい出るってあったが……。いまいち怪しいな」

 〈前回の交戦時にはそうでしたが、龍は脱皮で成長する生物です。現在は80ノット程度が最速でしょう〉


 80ノット――時速百五十キロという脅威のスピードに、辺見は吐き気を催した。バッティングセンターにでも来ているのかと錯覚するほどの速度だ。


 〈火炎放射、来ます〉

「――後方第一ミサイル室、ぇ!」


 * * *


 《リーインカーネーション》の本体、中央艇の尻尾の辺りの後方第一ミサイル室から合図に合わせて撃ち出された二機のミサイルが、口腔に赤々とした火炎を溜めた龍に向かって空を翔る。それに気付いた龍も、大口を開けて放射した炎で迎撃する。

 セ氏千度を優に超える炎に触れたミサイルは、瞬時に内部の爆薬に引火し、爆風を伴う火球に姿を変える。

 威力を相殺された二つの攻撃が、吹き付ける氷点下の風に打ち消される。そして、残った煙の残滓ざんしからもう一機のミサイルが姿を見せる。

 龍は体を捩って射線から外れようとするが、〈識〉が遠隔で修正したミサイル軌道に当たった脇腹に弾頭が突き刺さる。


 爆炎を巻き上げて破裂したミサイルに、鋼のような蒼い龍鱗を散らし、苦痛に叫びを上げた龍は、瞬間、そのスピードをがくんと落とした。


 * * *


 〈命中しました。若干の効果を認めます〉

「よぉし、いいぞ! このまま逃げ切れるか!?」

 〈――ああ、駄目です。激昂している模様。急速に加速中〉


 水晶のような眼を赤黒く染めた一つ星龍は、全身を波打たせながら再接近している。

 カメラの映像を一瞥した辺見は舌を打った。

 元来たルートに完全に乗った《リーインカーネーション》は、真っ直ぐに龍の領空を離れるために駛走していた。


「おい、まだ縄張りから出られねぇのかよ!?」

 〈現在の速度で、五分程度で突破します。ただし、荒ぶる龍神が縄張りから一切出ないという保証は出来ません〉


 ――つまり、どこまで逃げればいいのか分からないってことかよ……!


 辺見は、ハンドルを左手で抑えたまま、額から流れる汗を拭った。緊張感と、後方から放たれた爆炎の賜物だった。


 〈火炎放射、来ます。先程の倍程度の威力と推測〉

「――後方第二、第三ミサイル室、ぇ!!」


 * * *


 左右両舷のミサイル室から同時に射出された四機のミサイルが、一直線に龍の口許に殺到する。

 音速を超える速度のミサイルは、目標ターゲットと数百メートルと離れていないにも関わらず、龍の双眸そうぼうはその動きを完全に捉えていた。

 龍は、自身の左側から迫る二機に続けざまに火焔を浴びせ、それらを火球と爆音の塊に変えると、その爆炎に自ら突っ込むように針路を調整した。

 そして〈識〉が龍へと軌道修正を行うと、それを予期していたように鞭のようにしなる尾で一機を遥か上空へと跳ね上げる。何かが触れたことを信管に悟られない程に柔らかな動きで一機を往なした龍は、もう一機に向け、長く伸びた髭から青白く見える程の電撃を浴びせた。

 加熱された爆薬は龍の長い体躯へと炎を伸ばすが、それは僅かに届かずに燃え尽きてしまった。


 * * *


 ――まさに青天の霹靂か……。

 そう独りごちた辺見は、荒くなった息を整えるように深呼吸をし、頬を軽く叩いた。


 〈対空ミサイル、四機とも撃墜。対象は未だ健在〉

「そんなの分かってる! 速度を測れ!!」

 〈減速は殆ど見られません。本艇と同速程度と予測されます。プラスマイナス5%程度〉


 辺見は足を踏み鳴らした。いつまで続くのか分からない闘争に、辺見自身焦れて来ていた。


 〈縄張りと推測される空域からの脱出まで、残り二分。火炎放射、来ます〉

「畜生がっ! 後方ミサイル室、装填出来ている分だけ撃ち尽くせ!! ぇ!!」


 * * *


 第一ミサイル室から二機が、第二ミサイル室から一機が飛び出した。

 三機のミサイルをその赤黒い瞳に捉えた龍は、唯一開いた右側に体を滑らせ、執拗に自身を付け狙う一機を尾で押しやった。

 やはり信管には認識出来ない繊細さと緻密さを持ったその動きは、ミサイルの速度をほんの少しだけ削り取った。そしてその後ろから迫る二機は、減速した先頭の一機と擦れ合い、作動した信管と爆薬によって三つ分の巨大な火球としてその存在を消滅させた。


 スピードを殺さずに攻撃を乗り切った龍は、間もなく自身の領域のラインを超えると悟った。しかし、その瞳にも、迸る火焔にも、一寸の躊躇いさえ起らなかった。

 ――絶対に撃ち落としてやる。地獄の底まででも追い続けて……!

 そう思っているのは、今や一つ星龍も同じことだった。


 * * *


 〈龍の縄張りラインを突破します。三……二……一……突破しました〉

「……まだ、来ているか?」

 〈対象、減速の気配なし。本艇を追尾中です〉


 辺見はその無機質な声に深く息を吐くと、口から火炎を漏らしつつ、着実に《リーインカーネーション》に迫る一つ星龍の修羅の形相を見、そこに副長の面影を重ねた。

 互いに殺し合おうと殺意を向けることが、こんなにも不毛なことだと実感したのは初めてではなかった。辺見が初めて死んだあの日、護衛艦の敵味方識別装置(IFF)を欺瞞して接近した対艦ミサイルの直撃を受け、一瞬で壊滅したCICで感じたものと同じ思いが、今の辺見の内奥で渦巻いていた。

 その時、〈識〉の無機質な声が、自分を呼んでいると辺見はようやく気付いた。


 〈ヘンリー二佐、私に一つ名案があります。どうせこのままでは、最高速度に到達した龍神に丸焼きにされるのが落ちです。賭けてみる気はありませんか?〉

「へぇ……いいぜ、乗ってやろう。もし失敗したら、地獄で本体の中に塩水注ぎ込んでやるから覚悟してろよ」

 〈それは困りますね。意地でも成功させなくては〉

「機械にも意地なんてあったのか」


 辺見は、びりびりと痺れてきた腕を片方ずつ休ませながら皮肉っぽく言う。〈識〉も負けじと〈ヒトには理解出来ないマシン・プライドを見せて差し上げます〉と返した。


「……で、俺はどうすればいい?」

 〈十時の方角に針路を転換。その後、最高速度を維持しつつ直進してください〉

「イエス・サー!」


 高速での飛行を続けた《リーインカーネーション》は、体がギシギシと軋む程に多大な負荷を受けていた。追跡する一つ星龍は狂ったようにそれを追い続け、今にも喰らってしまおうとするかの如く口を開いていた。

 左右の腕、後方のグラヴィティ・リアクターから発する青白い光が絶え間なく空を照らし、美しい軌跡を描いている。

 龍が、自身の縄張りを超えたと気付いたその瞬間、追われる獲物は体を傾けて左へ頭を向ける。左舷のリアクターの光が一層強まり、崩れかけた艇のバランスを取り直す。

 軌道を完全に左へ変えた《リーインカーネーション》の障害となるものは、広大な青空には何一つ存在しなかった。


 〈火炎放射、来ます。本艇の全ミサイルの装填を確認。全弾発射を推奨〉

「――よし来た! 後方第一から第三ミサイル室、ぇ!!」


 辺見の合図と共に龍の正面、そして左右前方からそれぞれ二発ずつのミサイルが放たれた。龍は、それらを慣れたように悠然と眼球に捉え、頭を仰角に向き直し、すれ違いざまに左方から迫った一機を尾で揺すり、その後ろに控える一機との誘爆を狙う。目論見通りに炸裂したミサイルの衝撃波は音速を超え、上甲板に突き出たブリッヂの強化ガラスを振動させた。


「全然当たらねぇ! 大丈夫か!?」

 〈ミサイルなど捨ててしまった方がスピードが出せます〉

「物は言いようだな、おい!」


 辺見の中の緊張感が、高揚へと変わりつつあった。

 不意に降り注いだ〈識〉の、〈間もなく縄張り空域に突入します〉という声に辺見はぎょっとした。


「何で縄張りに戻ってんだよ!? 遂にバグったか、馬鹿AIめ!!」

 〈落ち着いてください、ヘンリー二佐。本艇は交戦中の一つ星龍(モノ・スタードラゴン)の縄張りとは違う場所にいます〉


 その時、〈識〉によって出力が上昇したリアクターが、《リーインカーネーション》を上空に引っ張り上げる。そして空気抵抗によって押し潰されそうな力を受けた《リーインカーネーション》の目の前に突如として出現したのは、飛空艇五機にも相当しようかという桁外れの全長を誇る黒雲だった。


「何だありゃあ……。こんな高度に雨雲なんて出来るはずが――」

 〈あれはあるドラゴンの住む巣です〉

「ドラゴンだと!? これ以上敵を増やすつもりか!?」

 〈馬鹿言わないでください。あそこのドラゴンは、後ろのヘビモドキとは格が違います〉


 黒雲の中に、ギラリと二つの黄色い輝点が生まれるのを、確かに辺見は見た。それは、《リーインカーネーション》からはまだ十キロも離れているというのにも関わらず、百メートル後ろに付ける一つ星龍のものと同等の大きさに思われた。


 〈あの巣のドラゴンには、人間は手を出せません。なぜなら、あのドラゴンに与えられたのは最上級の星――三つトリ・スター。どだい匹敵する相手ではないのです〉


 その瞬間、縦に細い線を刻んだ二つの黄色星が、黒雲を飛び立った。

 黒々とした左右の帳をはためかせ、天空を滑るようにそれ(・・)は辺見の目の前へ迫った。


 〈そして、彼の翼竜は、矮小な人間の舟に興味はありません〉


 瞬時に距離を詰めた竜の銀の爪が右舷の主砲に触れる。

 《リーインカーネーション》の右腕ごと破壊してしまうような莫大な質量は、主砲を根元から抉り取った。そして、鳴動する大気の奔流へと巻き込まれた主砲の残骸は、翼竜の黒光りする尾に触れた瞬間に、爆発炎上し、跡形もなく灰と消えた。


 〈猛禽は、仔鼠を追う蛇を喰らう――〉


 その竜――三つ星竜(トリ・スタードラゴン)の名を冠する黒竜は、一つ星龍(モノ・スタードラゴン)の首元を三つの銀の爪を備えた足を以て抑え込み、強靭は鞭を思わせる一つ星龍の尾を易々と喰いちぎった――。

 悲鳴を上げる龍を抑えたままに急降下した竜は、喜々として尾を呑み込むと、惑星そのものを揺らしたのではないかという雄叫びを上げ、龍の頭に鮮血で濡れた牙を突き立てた。


 龍の断末魔は、全速力で離脱する《リーインカーネーション》には届かないまま、黒竜に嚥下された。






 Ⅳ 


「……なるほど。初のフライトにも関わらず、運悪く一つ星龍(モノ・スタードラゴン)と遭遇。支援AIの機転により、三つ星竜(トリ・スタードラゴン)にそれを捕食させて命からがら生還、か」


 執務室で報告書を読み終えたカエサル・ジルファはそう呟いた。

 先日、『異世界』からジルファが召喚したばかりの元船乗りの男、辺見政宗が提出したものだった。そして、その男は今、執務室のソファでコーヒーを啜っている。


「全く、死ぬかと思ったぜ。……既に一回死んでるか」

「君は強運だな。都合よくあの翼竜が目を覚ましているとは」

「〈識〉――例のAIが言うには、しばらく活動が無かったから腹を空かせてると思ったらしい。……本当に五分の賭けだったな。何とか島の近くに着水した後、あいつの本体のポッドを大砲の残骸の金属片でぶん殴った」


 ジルファもブラックコーヒーを啜ると、一つ大きな溜め息を吐く。


「辺見君、クルー全員を無事で返した功績は認めるが、艇長権限を濫用してブリッヂに全てのコントロールを集めさせたことは重大な違反に当たるぞ」

「そりゃあ、そうだろうな。それは承知の上でやったことだ。死にたがりしかいない艇を『長』として守り抜くには、多少のリスクは必要だった」

「……後日、封書を部下に持たせて届けよう。内容は、まあ楽しみに待っているといい」


 げんなりとした様子で辺見は顔をしかめる。

 冷静になって考えると、自分はとんでもないことをしでかしたという思いに顔が白くなったこともあったが、結果として《リーインカーネーション》の二門の主砲の大破だけで済んだのは奇跡的だろうと言い聞かせ、辺見は自分を納得させていた。


「そうだ……辺見君、君にこれを」


 そう言ってジルファが取り出したのは、白銀に輝くアタッシュケースだった。


「何だ?」

「私個人からの礼だ。黙って、口外せずに受け取りたまえ」


 木目が美しい机に置かれたその光景に、辺見は息を飲んだ。彼にはそこの状況でアタッシュケースに詰められ、誰にも言うなと釘を刺されるようなものは一つしか思いつかなかった。

 持ってみると、それはやはりずっしりと重く、ますます辺見の確信を強めていった。


「おい、いいのかよこんなの……。俺は大歓迎だが、お前の立場上、どうなんだ……?」

「気にしないでくれ。あくまで個人から個人に譲渡されたものだ。そこには何のしがらみも存在し得ない」


ジルファはそう言って、片方の目をゆっくりと閉じてみせた。


* * *


カプセルホテルで提供されるパンの甘味を噛み締め、その旨さに辺見が愕然とするうちに、一週間が過ぎた。

その日の昼、カエサル・ジルファの部下を名乗る男が辺見を訪ねた。顔は忘れかけていたが、やはり以前にも来た、祈祷師然とした男女のひとりだった。


「辺見艇長……そのアタッシュケース、開けましたか?」


唐突にそう訊いた男を訝しがりながら、辺見はかぶりを振る。すると男は、「失礼します」というと、立て掛けてあったアタッシュケースを勝手に開いた。


「お前! 俺のカネに何を――」


だが、男がケースから取り出したのは、一本の赤ワインだった。いくら辺見が探しても、ケースの中にカネは仕込まれていなかったのだ。


「やっぱり! ……一口、戴けないでしょうか?」

「……丸ごと持ってけ!!」


男は辺見に茶封筒を渡すと、嬉しそうにワインを抱えて帰っていった。


辺見が封筒を開くと、目に飛び込んだのは『辺見政宗二等空佐への処分』という文字だった。仕方ない、と己に言い聞かせ、それを読み進めていくと、長々と文章が書いてある割には内容が薄いことに辺見は気付いた。

――文の嵩増しが得意なのはどこも変わらないな。

辺見は苦笑し、文書の読解に努めた。


* * *


文書に書かれていた通り、その三日後には顔馴染みの二人組の男が辺見の前に現れた。相変わらず、辺見を“艇長”と呼ぶ男たちに辺見は懐かしさを覚えながら、以前と同様に列車に乗り込んだ。


半日の間列車に揺られ、三人が辿り着いたのはやはりあの港町だ。

今日も今日とてグロテスクな魚を売る魚屋と、それを値切ろうと試みる主婦の図がそこにはあり、辺見を僅かに安堵させた。

白亜の壁をくぐり、馬鹿げた大きさの船渠ドックに入ると、やはり馬鹿げた大きさの飛空艇が傷付いた体を横たえている。数週間振りに見る《リーインカーネーション》の姿だったが、その生々しい戦いの、文字通りの爪痕を見ると、眼前に迫り、辺見を睥睨した二つの黄色い彗星に身体を縛り上げられるような感覚に囚われた。


「辺見艇長、文書での予告通り、艇長には引き続き飛空艇に乗り組んでいただきます」

「それなんだが、規則を破りまくった俺がほぼお咎めなしっていうのもどうなんだ。今一つ腑に落ちないんだが……」

「艇長の操艇技術を買われてのことです。ジルファ局長の動きが若干怪しい雰囲気でしたが、気になさることありませんよ。それに、次の艇は《リーインカーネーション》じゃありませんし」


辺見は納得出来ないといった顔つきで「そうか……」と呟いた。


翌日、ドックで《リーインカーネーション》の改修の様子を眺めていた辺見に声を掛けた者がいた。

《リーインカーネーション》第一ミサイル室のクローム・アダムス一等空士だ。


「ああ、アダムスか。どうした、休暇中じゃないのか」

「そうですが、辺見二佐がお見えになられると聞いたので残っていました」


こつこつと軍靴を踏み鳴らしてアダムスは辺見に近づいた。腰を下ろしていた辺見も、それを受けて立ち上がる。


「何だ、ミサイルを撃たせなかった俺に文句を言いに来たか?」

「それも勿論ありますが、本当に言いたいのはそれじゃない」


「それもあるのか……」と自嘲的に笑った辺見だったが、アダムスは顔色一つ変えず、身じろぎもせずに立っていた。


「辺見二佐、自分は――いや、俺は……あなたに一つだけ礼を言おうと思って」

「礼?」

「……艇長の仇を討ってくれて、ありがとうございます。俺のミサイルで殺せなかったのが残念だけど……」


辺見は、口の端から笑みを零し、俯き加減のアダムスの肩を軽く叩くと、「撃たせてやれなくて、悪かった」と言い残してドックの奥へと歩き去った。


* * *


一か月後、全ての修復と改修を終えたその飛空艇が、空へと帰ろうとしていた。

出立を正午に控えたクルーたちは、壇上に立つ副長の声に耳を傾けていた。


「我が家族であるクルー諸君、再び、我らの住処である空へと舞い戻る時が来た。……しかし、誠に遺憾ながら、我らの家であった飛空艇《リーインカーネーション》は失われてしまった。今日からはこの新しい艇が帰るべき家となる。その艇名の発表に先立ち、書類上の艇長からご挨拶いただこう」


わざわざ「書類上の」などと前置する辺り、未だ自分への反感は強いのだろうと思い、前任にはやはり及ばないかもな、と苦笑する。そして副長から手渡されたマイクを握り、口を開いた。


「マイクテストマイクテスト、本日は晴天なり――。マイクテスト終わり」


辺見は、総勢三百名余りのクルーを前に、晴れ晴れとした気分になっていた。

それは、いくら自分がみなに認めてもらえないとしても、自分は家族クルーを護らなければいけないという決心の炎が、心の暗雲を消し飛ばしたからかも知れない。


「もう名前は知っているだろうが、改めて名乗らせてもらう。諸君らの艇の艇長、辺見政宗二等空佐だ」


運転を再開した〈識〉ver,1.30がカメラ越しにその姿を捉えた。しかし、背後から見られているなどとは辺見は一切気付かない。

〈識〉はふと、何かの時に全艇に艇内放送してやろうと思い、録画モードに切り替える。


「以前は『異世界』の島国で自衛官をしていた。そして数週間前までは巡視飛空艇《リーインカーネーション》の艇長を務めていた……。私は、諸君らの父になろうとはしない。強いて言えば近所のおっさんぐらいで構わない。だが、『書類上の』艇長として、私には艇とクルーを護る義務がある。諸君らが泣いて嫌がったって、きっと無事で帰してやる。覚悟しておけ」


クルーから、苦笑いが幾つか漏れたのを聞くと、辺見は大きく息を吸って、新しく甦った自分の『家』を仰ぎ見た。


「新たな『家』の艇名を発表する。ああ、ちなみに俺が考えた」


「どうでもいいぞ!」と野次が飛ぶと、辺見は一つ咳払いをしてから言う。


「こいつの名前は――」


転生リーインカーネーションさえも必要としない、誰一人として犠牲にはしない。そんな辺見の思いを、この艇には与えた。


「《エタニティ(永遠)》だ!」


晴れ渡った天空から降り注ぐ日差しが、蒼く透き通る海を照らしている。

今日も『異世界』の天気は良好だ。





fin,

まず最後まで読んでくださった方がいれば、お礼申し上げます。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました!  


重ね重ねになりますが、感想や罵倒もお聞かせください。泣いて喜びます。

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