秋の忘れ物
日曜日。私は今、駅前の喫茶店にいる。お気に入りの、外が見易い窓側のカウンターテーブルに座りながら、腕時計を何度も確認する。我ながら忙しない、と思いながらも私はそうせずにはいられなかった。何故って言われたら、何て答えたら良いのだろう。人生初の、デートだからと言えば良いのか。とにかく私は酷く緊張している。決して、相手が好きとかそういうのではないはず。ただ、シャイで優しい彼の事を素敵だな、とか本当にちょっと思っているだけ。と、強がってみるんだけど。やっぱり彼の事が大好きなんだと思う。それが良い証拠に、私はしっかりとめかし込んだ上、待ち合わせの三十分前に喫茶店に来てしまっている。時計を見れば、まだ九時三十四分。もう一時間くらい待ったんじゃないかって思うくらい時間の流れがゆっくりだ。通り過ぎていく人たちが私の顔を見ていく。きっと、ドキドキし過ぎて変な顔になっているのかな。もしかして眉間に皺でも寄ってたり?
私はポーチから鏡を取り出す。雑誌に掲載されていた秋のおススメメイクをした私は、いつもよりも可愛いと思う。アイライナーとシャドウのお陰で目がぱっちりして見えるし、グロスの付いた唇は明るいピンクの艶がある。うん、ばっちり。彼が見たら驚くかな。「可愛い」って言ってくれるかな。
「よぉ夏実。おはよう」
右肩に触れた温もりと声に顔を上げれば、そこには彼が立っていた。楕円形レンズの銀縁眼鏡、その奥で揺れる鳶色の瞳と同じ色の髪、筋の通った鼻、少し色の薄い唇。二重で大きい目は僅かに垂れ目で、瓜実顔のシャープな顔立ちのせいでクールな印象を与えがちな彼を優しく見せている。どう見ても美形の部類に入る容貌。いつもの事だが、カッコよくて私はつい、うっとりと見てしまう。黒のジャケットにグレーのワイシャツ、細身のジーンズは、彼の身体の細さを浮き彫りにしていた。バランスのとれた体系だな、と考えながら私は少し馬鹿な妄想をしてみた。そんな事をしている間に、彼は私の隣に座ってアメリカンコーヒーを注文している。
「おはよ。遅いよ」
私は唇を尖らせて文句を言ってみる。
「悪い。・・・って、まだ四十七分じゃん。夏実が早過ぎなんだよ」
カウンター上の壁に掛かっている時計をちらりと見遣りながら、ぶつぶつと言う。そんな些細な動作すらカッコいいと思ってしまう私って・・・。
頬が熱くなっていく。どうしよう。考えたら、心臓が身体の中で元気良くダンスし始めた。このまま口から飛び出してきそう。
私はそっと彼を見る。落ち着いてコーヒーを啜る様子は、絵から抜け出した王子様みたい。そりゃあ、女の子にモテる訳だよね。なんだか遣る瀬無くなって溜息を吐くと、彼と目が合ってしまった。包み込むような温かい目の色が、心なしか不思議そうな表情を浮かべている。
「俺の顔、なんか付いてる?」
柔らかな笑みを唇に乗せて、彼はそう言う。私は恥ずかしさで頭が一杯になって目を勢いよく反らした。顔どころか、身体中が熱くて仕方ない。
「つ・・・付いてない。何でもないって」
必死になって紡ぎ出した言葉は掠れて、蚊の鳴くような小さな声になってしまった。一瞬、目の端に驚いた彼の顔を見た気がしたが、今更振り向けるわけもなく。私は彼が次の言葉を発するのをしばらく待った。
不意に右頬にひんやりとした感触がした。それはよく知っている・・・。
「ちょ・・・な、何してんの!?」
頬に添えられた彼の手を掴んで、私は彼の方を向いた。彼は悪戯をした子供みたいな無邪気な笑顔を見せている。なんとなくだけど、赤くなっているように見えるのはきっと、目の錯覚だろう。
「夏実、全然こっち向いてくれないから。つか、せっかく綺麗に化粧してるのに、そっぽ向かれたら見えないじゃん」
さらりと言ってのけた彼を凝視するしかなかった。特別甘い言葉ではないのだけれど、彼の言葉が私の心を鷲掴みにする。切ないくらいに胸が苦しい。私たちは友達なのに。どうして、こんなに私を動揺させるのだろう。いや、彼の言動に勝手に一喜一憂しているのは私か。彼は私よりも数倍、大人びた人だ。幼稚で怒りっぽい私と釣り合うなんて思えない。けれど、こうして隣にいる彼を見ていると幸せだ。怖いくらいに「好き」って気持ちが溢れ出してくる。砂糖菓子が口の中でゆっくりと溶けていくように、私の想いと彼の些細な言動によって甘くコーティングされた彼との時間はゆっくりと蕩けていった。
「普段とはまた違って、化粧してるのも悪くないな。結構良いじゃん」
「そ、そう?」
「あぁ。その・・・なんて言うか・・・・・・」
少し躊躇ってから彼は「可愛い」と、もごもごと言った。言うのに相当の勇気が要ったのだろう。口がへの字になって、眉間に皺が寄っている。その表情がおかしくて、私は笑ってしまった。よく分からない高揚感に、気持ちが軽くなる。
彼は不機嫌そうに窓の外に目を向けた。空は秋空から、冬の張り詰めた色へと衣替えを始めている。彼の眼鏡のレンズから見える景色は、どんな風に見えるんだろう。いつか、教えてもらえる日が来るのかな。
どういう訳か、気付けば辺りは暗くなっていた。当初の約束は別にあったはずが、映画館へ行き、本屋を巡り、ウィンドウショッピングに付き合わせてしまった。なんたる失態だ。結局、普通のデートになっちゃったじゃない。
自責の念に駆られながら、私は住宅街を彼と二人、歩いていた。無言でいる時間はそれでも心地よいと思う。
空気が冷えてきて、さっきから皮膚に突き刺さって痛い。敏感な鼻は冷気に刺激され、鼻水を垂らす羽目になっていた。
「今日はごめん・・・」
あと少しで私の家に着くという場所に差し掛かった頃、私はぽつりと謝った。何となく、そう言いたくなった。彼の時間を無駄にさせた気がしたのだ。
彼は立ち止って私を見た。顔の距離が遠くて、今イチ表情が見えない。いくら私が底上げブーツを履いても二十センチの身長差はどうにもならないから仕方ないけれど。
「夏実は今日、俺といてつまらなかった訳?」
普段は穏やかな低い声が少し苛立っている。理由が分からないまま、私は首を横に振った。いつもだったら、もっと意地悪を言ったりするけど、今はそんな気になれないし、そんな事しちゃいけないオーラが漂っていた。
「なら、謝るなよ」
「うん・・・」
彼は心底呆れたように言葉を吐き捨てた。それだけで私の心は急激に温度を失くしていく。自然に両目から涙が溢れてきそうになった。それを押し止めると、今度は口から嗚咽が漏れそうになる。私はその場から動けなくなってしまった。彼に嫌われたんじゃないか。そう思うだけで私を包む世界に罅が入っていく。
「何してんだよ。そんな所で突っ立って」
先を歩いていたはずの彼の声が頭の上から降り注ぐ。その途端、私は泣いた。彼の焦る様子は簡単に想像できたけど、止める事ができなかった。
「お、おい!泣くなって・・・」
「だって・・・嫌われちゃった、と思って・・・」
「んな訳ないって。つか、俺・・・そんな事言ってないし」
彼は長い指で私の涙を拭うと、きょろきょろと辺りを見回した。そして、私の手を握り締めて歩き出す。
「そこに公園があるから、行こう。そんな顔じゃ、家に帰れないだろ」
「うぇ・・・ひっく・・・うん・・」
彼は私を引っ張って公園まで行き、ベンチに座らせてくれた。彼の手の温もりが私を落ちつけて、涙が止まっていく。
そう言えば・・・手を繋ぐのって初めてだ・・・。
現金な私はそれが嬉しくて、でも顔から火が出そうなくらい恥ずかしくて顔を上げられない。そんな私の頭を撫でながら、彼は困ったような顔をしていた。近くの電灯の明かりを頼りにしなければ何も見えないくらい真っ暗な公園で、言葉もなく過ごした。
「急に泣いて、ごめんね」
暫くして私は心臓の音を気にしながら言葉を紡ぐ。
「別に、良いけど。俺も無意識に何か言ったみたいで悪かったよ。そういう機微は俺には分かんなくてさ」
気まずそうに彼は空を見上げた。私はただ、その横顔を見ている。薄明かりの中に見える顔は物憂げで悩ましげである。淋しそうな、悲しそうな。きっと、私を泣かせてしまった事がショックだったのだろう。優しい彼なら、私が知っている彼ならそう考えているに違いない。
私は、ぽつりと告げた。
「・・・・・・怒らせちゃったと、思ったの」
「は?」
唐突に言った私に、彼は絶句する。何を言って良いのか、はたまた自分が何を言ったのか、悩んでいるみたいだ。
私はそっと彼の指から自分の手を引いた。ずっと繋いでいたから、離れた途端に一気に手が冷えていく。
「口調が、怒ってたんだもん・・・。だから私、嫌われちゃったって」
「あれは・・・。夏実が「ごめん」なんて言うから。確かに、今日は俺の手伝いしてくれる約束だったけど、そんなの・・・休日に夏実と会う理由作りのためだったし。・・・・・・実際、俺は忙しい。でも、普通のデートみたいに色々な所に行って、楽しかった。一日潰すだけの価値は十分過ぎるくらいあったよ。なのに、夏実はそうじゃなかったのかなって思ったら、なんか・・・ショックっていうか、痛かった。だから、言葉がきつくなったのかもしれない。ごめんな」
諭すように話す彼。私は何も言えずにいた。さっきの悲しさはどこへ飛んでいったのかと思うほど、脈拍が上がっていく。
「・・・あ。それと。夏実にこれ」
ポケットを探って、細長い箱を取り出した。
「何?」
「今日、誕生日だろ。だからプレゼント。先に言っておく。無い袖は振れなかったから安物だけど、文句言うなよ」
そんなムードぶち壊しの言葉を吐きながら、彼はその箱を私に渡した。
「私の誕生日・・・覚えていたんだ」
私の名前は『夏実』というから、どの人も私が夏生まれだと思っている。しかし、本当は秋の終りに生まれたのだ。名前は、私が生まれる前に亡くなった祖父が付けてくれたらしい。早産しそうになった時に『秋穂』から『夏実』と祖父が変えてくれたと聞いた事がある。結局早産する事もなく無事に生まれたわけだけど、その間に祖父が亡くなってしまったので、形見のような形で私は『夏実』と名付けられたのだ。『夏に実り成長した果実を秋に食べる』なんて、意味までこじつけられて。ずっとずっと私は自分の名前が嫌いだった。『秋生まれなのに、名前は夏実とか変』と言われたり、小さい頃はからかわれるネタでしかなかったから。悪くないかな、と思えるようになったのは彼に出会ってだろう。
「夏実」
そう呼ぶ時の、彼の柔らかな表情が大好きで。一瞬だけ目が細まるその仕草に心を奪われて。気付けば嫌いだった自分の名前が大切なものに変わっていた。彼と私を繋ぐ糸の一つみたいに思えた。だから今は、名前を付けてくれた祖父に感謝している。『夏実』って名前を考えてくれて、ありがとう。
私が物思いに耽っているうちに、彼は私の手のひらに乗せられた箱へ指を置いた。優雅な仕草でそっと開けられた箱の中にはシンプルなシルバーのネックレスが光っていた。ワンポイントに薄ピンクの宝石らしきものが、可愛らしい鳥の目に填っている。
「可愛い・・・」
思わず零れた言葉に、彼はふっと笑うと黙ってそれを、首にかけてくれた。金属が肌に触れる感触と彼の吐息が首の後ろに感じられて恥ずかしくなる。
「誕生日、おめでとう」
端正な顔が歪んで、見惚れるばかりの笑顔を作った。心臓は最高潮まで波打っている。このまま私、死ねちゃうよ。馬鹿な事を考えながらも、精一杯、感謝の言葉を告げた。その時の彼の顔を私は忘れる事が出来ないかもしれない。理由なんて、聞かないでね。嬉しそうに目を細めた彼の笑顔が、堪らなく愛おしかった。って、本人には言えないから。
彼の瞳に私だけが映っている。
大好きな人が私を見つめている。
女の子なら誰しも感じる喜びを噛み締めて、私は零れた涙を拭った。
夜空に瞬く星たちは例に漏れず、濁った空気で淀んでいたが、今まで見た中で一番綺麗な星だった。