二人の出会い
俺と夏実の出会いは中学二年の時になる。いつも通り学校へ行き、昇降口のクラス分けを見て自分の名を探す。時間が早かったのか、貼られた紙の前にはまだ人だかりはなかった。それを幸いにして、俺は悠々と一組から目を通していく。三組までいった所でやっと「小林愁」というワープロ文字を見つけた。簡単に前後の名前を確認してみるが、友人らしきものは見つからない。
「今年は終わってんな」
独り事を言いながら、俺は教室へ向かった。創立六十何年というだけあって、うちの中学の校舎はとりあえず古い。木造でないだけマシというくらいだ。
俺の席は窓側から三番目の一番後ろの席だった。鞄を机にかけ、なんとなく窓に歩いていった。春の日差しが暖かいこの時期、日向ぼっこには窓の傍が最適なのだ。背中がじんわりと熱くなって、それがまた眠気を誘う。教室に誰もいない時は、俺にとって安らぎの時間でもあった。自然と瞼が降りてくる。
ガラガラ・・・。
急に扉の開く音がして、俺はぼんやりと音のした方を見遣った。そこには、辺りを見回しながら不安げにしている少女がいる。白い肌と黒いセーラー服のコントラストが印象的だ。俺はその少女から目を離せなくなった。
「あの・・・ここ、二年三組の教室で合ってますよね?」
耳に響く声が柔らかい。その声は木漏れ日を想像させた。
「そうだよ」
俺は笑顔を貼り付けて返事をした。上辺だけで人と付き合うのは慣れていた。そして、その愛想笑いは女子の受けが良いのを知っていた。人には言わない、ちょっとした優越感。少女が頬を赤く染める姿を期待していなかったと言えば嘘になる。めちゃくちゃ期待してた。なんせ、彼女は普通に可愛かったから。あわよくば、なんて考えていた。だから、彼女が俺という蜘蛛に魅せられ、銀色の糸に引っ掛かるように、女受けのする笑顔なんていうほんの小さな罠を仕掛てみたくなったのだ。
「良かった!間違ってたらどうしようとか思って。全然人が来てないし」
頬を染める所か、俺の仕掛けた些細な罠を飛び越して満面の笑みでそう答えた少女。その瞬間、俺のささやかな期待は脆くも崩れ去った。と、同時に彼女の笑顔にノックアウトされていた。これが彼女の作為的なものであったとしたら間違いなく気付けていただろうし、きっと俺は興味を失っていたのだろう。しかし、恐ろしく無垢な笑顔を向けられたために、一瞬の忘我に陥っていた。そして、柄にもなく見惚れてしまった。不覚にも恋の矢が自分の胸に刺さった事を思い知る。
―相手を落とそうとして、自分が逆に落ちてしまうだなんて―
まったく情けない話だが、笑顔の彼女は想像以上に可愛かった。それはまるで、空から舞い降りた天使みたいに。
一方、彼女はというと俺を無視して自分の席を探し始めていた。そして、俺の隣の席に鞄を置き、体育館シューズを机に掛け、本を読み出した。
訪れたのは、沈黙。
耐えきれなくなって、俺はそっと近寄って顔を覗きこんでみるが、彼女は気付く様子がない。どうやら自分の世界に入り込んでしまったらしい。机を見れば、そこに「古暮夏実」と書かれた名札が見えた。そこで俺は初めて彼女の名を知った。
「古暮さん」
呼びかけてみる。が、この文学少女は反応しない。目だけが凄いスピードで文字を追っているだけだ。
「古暮さん」
二度目。反応なし。
「古暮夏実!」
「うひゃあ!!!・・・あ、ごめんなさい。何ですか?」
目を見開いて飛び上がった後、ようやく古暮さんは俺の方を見る。
「古暮さんって、自分の世界に入ると戻って来ない人なんだね」
「え・・・あ、もしかして、何度も呼んでくれてました?」
「まぁ。自己紹介してないから」
「ご、ごめんなさい!つい、いつもの癖で・・・」
顔を真っ赤にして謝る彼女は、小動物染みていて可愛い。手を合わせている姿とか、リスっぽくて。
自然と笑えてしまった。
「なっ・・・何で笑うんですかぁ!」
頬を膨らませて怒る古暮さん。けれど怒っているように見えない辺りが、やっぱり可愛らしい。
「いや・・・何でもない。あ、そうそう。俺、小林愁。隣の席だから、よろしく」
「あ、え・・・えと。私は・・・」
「古暮夏実さん・・・でしょ」
俺は唇の端を吊り上げる。彼女の、色素の薄い茶色の瞳が驚きを隠せずに揺れていた。
「何で知ってるんですか?!」
声が裏返った。そのせいで、変な場所にアクセントが付き、更に笑いを誘った。彼女の肌は顔だけに留まらず、首元まで赤くなっていた。そんな彼女は愛らしいが、初対面で意地悪をするのも可哀想だと思い、素直に事実を白状する。
とんとん、と机に貼られた名札を指で示すと、古暮さんはきょとんとした表情で、首を右に傾ける。
「名札。さっき見えたから」
そう言うと、古暮さんの大きな目が一瞬、真ん丸になり、次には嬉しそうに口を開いた。
「なるほど~。名札ね!」
「そ」
「なぁんだ、びっくりした。てっきり、どこかで会った事があったのかと思った」
小さく息を吐き、古暮さんは胸を撫で下ろす。その時の表情は安堵そのものだ。どうやら感情がそのまま顔に出るらしい。
俺は少し悪戯をしてみたくなった。くるくると変わる彼女の表情が面白かったのだ。困らせるような事を言ってみたら、どんな顔をするのだろう。興味がある。
「いや、会った事・・・ある。・・・かもよ?」
最後の方は聞こえないように呟いた。そうすると彼女は、やばいというような顔をした。必死に思い出そうとしているのか、眉間に皺が寄っている。しばらくして
「お、ぼえて、ない・・・です」
言葉を細切れにして、申し訳なさそうに言った。俺の様子を窺うように上目遣いで。潤んだ双眸が頼りなげに揺れる。不意に心臓が高鳴り出した。それは、ありえないくらい速くて大きくて。百メートルを全力疾走したみたいに、酷く苦しい。頭にかぁーっと血が上る。
「・・・冗談だよ」
顔を背けて、そう言うのが精一杯だった。そんな俺に気付かなかったのか、古暮さんは明るい声で、よろしくね。と言った。
これが俺と夏実の出会い。何度も何度も反芻しては忘れまいとしている大切な思い出。きっと、夏実は忘れてしまっているだろう。
俺の前に舞い降りた天使は、とんでもない小悪魔だったのかもしれない。こいつのお陰で、これから現在に至るまでずっと、周りが見えないくらい振り回されているんだから。俺だけの天使で、だなんて無理かもしれないけど・・・一緒にいられる今だけは、そう思っていたい。たとえ二人を繋ぐ鎖が「友達」であったとしても、彼女の隣にいるのは俺なんだから。
開いたアルバムには、夏実の色んな表情とそれを見守る俺がいる。まだ幼さの抜け切らない顔、身体に合っていない制服。そして、通り過ぎてきた季節が胸の中に広がっていく。くすぐったいような、恥ずかしいような、言葉では表せない思い。懐かしさと共に、寂寥が心を掠めていった。