練習1
彼女の一日は朝の水汲みから始まり、午前中の畑仕事、午後の機織り、夕方には母の夕食作りを手伝い、夜は弟達を寝かしつけ、自分もそのまま眠りにつく。
村の裕福な子供達の様に学校に行けない事に不満は無かったし、学ぶ事で何が変わるかも知らなかった。
自分が死ぬまで、いや死んだ後もこの山々と村は平和であり続け、この世界は変わりはしない。
先程までは彼女もそう信じていた。
「二の鐘が鳴る前には帰らないと……」
少女は今日使う分の水が入った桶を手に持ち家路につく。
早く林を抜けて家に戻り、両親の畑仕事を手伝わなくてはならない。
川と家の間に広がる林を抜けようとした時、大きな風切り音に振り返った彼女が見たのは巨大なドラゴンが飛んでくる姿だった。
巨大なドラゴンは恐怖に竦む少女を一瞥すると悠々と彼女が向かおうとした方向へ、彼女の村へと飛び去って行く。
ーーー嗤っていた。
そう、あのドラゴンは嗤っていたのだ。
少女の全身から怖気を伴う汗が噴き出し、口の中は一瞬で乾燥して吐き気がこみ上げた。
水の入った桶はとっくの昔に投げ捨てた、心臓は早鐘の様に拍動しているが、同時にそれを抑える様に恐怖が胸を締め上げる。
「お父さん……母さん……!」
必死に林の中を駆け抜ける。
川辺で水を汲んだのがもう何時間も前の様に感じる、村に近づくにつれ漂ってくる吐き気を催す煙の匂いと悲鳴と怒声がその存在を増してゆく。
もはや彼女はなにも考えられないまま自らの家へと体を走らせていた。
林を走り抜けた先に広がっていたのは、地獄のような光景だった。
幾つかの家は業火に包まれ、鎧に身を包んだ男達が家々から食料や金品を奪ってゆく。
村の人々は広場に集められ、縛られる事なくただ座り込みただ呆然としている。
「盗賊……?でも、なんで?」
異常だった、ついさっきまで悲鳴と怒声が響き渡っていた筈なのに。
不意に後ろから腕を掴まれ捻り上げられて少女は苦悶の声を上げた。
「卿!まだこんな女がいましたぜ!」
卿と呼ばれた騎士風の男はゆっくりと近づいてくる。
「あまり強くしてやるな、離して差し上げなさい……」
拘束を解かれた少女の前で騎士はまるで歌劇でも演じているかのような恭しい礼をとった。
「これはこれはお嬢さん、まさか貴女の様な目麗しい方にこの様なものを見せてしまうとは一生の不覚!」
「な…なんでこんなひどい事を!皆に何をしたの!?」
「これはまた……我々は火事になってしまったこの村から燃え落ちてしまう筈だった家財を譲り受けているだけなのですがね?なあお前達!」
騎士が大袈裟な動きを伴って周囲に呼び掛けると、その声に応するようにあちこちから下卑た笑い声や同意の声が上がり、広場の人々も薄い笑顔で此方を見ている。
理解も形容も出来ない恐怖が少女の心臓を掴む。
少女の服に付いた泥を払いながら騎士はまるで世間話をするように話を続ける。
「さて、君は何処から来たのかな?この村のご出身?他に来ているお友達は?」
『私が彼女を呼んだのだ』
まるで自分の頭の中で他人が考えているような奇妙な感覚が響き、ごう、と突風と共に地面が揺れる。
「これはドラゴン様!して、お呼びになられたとは?」
『この村の事を怪しむ者はいずれ出る故な、先に知らせておかねば』
「成る程」
騎士は直ぐに少女の腕を捻り上げ少女をドラゴンと面と向かわせ、目を開かせる。
「ヒィッ……い、嫌ぁ!」
燃えている家、不気味に笑う村の人々、アレはこのドラゴンの所為だったのか、なら次は、私は!?
必死にもがく少女の目にドラゴンの視線が突き刺さる。
『君に頼みたい事があるのだ、見ての通り村で火事が起きてしまってね、誰かの助けが必要なのだ。』
「助…け……」
ドラゴンの言葉が頭に響くと一際大きく体を強張らせた少女の体がゆっくりと弛緩してゆく。
『そうだ、人手…大工や医者等をこの辺りで一番大きな街で集めてきて欲しい、わかるな?』
「はい」
『なら、よし』
ドラゴンが視線を外すと同時に少女は再び大きく体を強張らせ……地面に崩れるように座り込んだ。
『明日にでも街に向かわせておけ』
「御意志のままに」
騎士はドラゴンに対し先程までとは違う正しい騎士が王にするような敬礼をとる。
しかしそれを一瞥もせずドラゴンは飛び上がる、自らの新しい住処へと。
「卿、あの娘はどうしますか」
ドラゴンが飛び去り、その姿が見えなくなってしばらくしてから少女を捕まえた兵士が耳打ちする。
「あの子の出発は明日だし、捕まえたのは君の手柄だ、彼女の旅支度をしてあげなさい、歩ける程度にな」
「ありがとうございます」
そう言うと男は少女の腕を掴んで立たせると手近な家へと入っていく。
少女は自分の腕を掴んだ腕を見、男を見上げる。
「すみません、私の村が火事になってしまったのですけれど……お兄さんの力が……」
少女が言い終わらぬ内に扉は閉まって二人は見えなくなった。
「さて…俺も探すかな?」
そう言うと騎士は広場へ向かって歩みを進めていく、日が沈んでもこの村の炎は消える事はなかった。