Lily
彼は玄関のドアを慣れた手つきで開ける。
せまいけど、とか、きたないけどごめんね、とかそんなことを一切言わなかったから、そんなところが素敵だと思った。
わたしは彼のあとを遠慮がちについて行き、彼に気付かれないように少しだけ部屋を見渡した。
コンクリートで塗り固められたような壁と床で、物はほとんど置かれていない。きれいに整頓された、というか使われていないであろうキッチンの向こう側には、テレビが何も言わずにひっそりと佇んでいて、その前に黒い革の大きなヴィンテージソファが置かれていた。
その横にリビングと同じくらいの広さの部屋があり、仕切りは一切無く、そこには一人で寝るには大きすぎるベッドと、違う種類のギターが3本並んで置かれているだけだった。
彼は無造作にジャケットをソファに投げ捨て、キッチンでタバコに火をつけた。
私がお水を一杯もらってもいい?と聞くと、グラスを出して冷蔵庫からミネラルウォーターをついでくれた。キッチン台の上には、タバコの吸殻でいっぱいになった灰皿だけが置かれていた。
「ごめんなさい」
彼はタバコをくわえたまま、私の顔を見て不思議そうな顔をした。深夜一時の部屋の中は、月明かりで薄暗かった。
「…本当は知ってたの」
私は彼の顔を直視できず、下を向いて話し始めた。
「あなたの作った歌も…あなたの、ことも」
彼がどんな顔をしてるのか、予想がつかない。怒っているだろうか。まだ理解できてはいないだろうか。
仕事の帰りに偶然立ち寄ったバーで1人で飲んでいたあなたを見つけて、私はとても動揺した。あなたに出会えるなんて夢のようだった。
朝も、昼も、夜も、仕事中も、眠る前にも。いつもあなたの歌を聴いて、頭の中で何度もその声を再生して、夢に出てくることを祈って、その度に私はあなたのことを愛しくて焦がれてしょうがなくなるのだ。わたしにとっては1人の歌手ではない。
あなたのすべてが、わたしを揺るがせた。テレビ越しでも。イヤホンを通してさえも。
運命だと思った。偶然出逢えたから。
「わたし、嘘をついた」
声が震えた。あなたは何も言わない。
「あなたの曲を好きなファンとしてじゃなくて、女性として わたしのことを見てほしかったから」
だから、知らないフリをして、あなたの側に座り、震える心を必死に抑えて、声を掛けた。
「…ごめんなさい」
もう一度私は謝って、おそるおそる彼の顔を除いた。
「一番好きな曲は?」
穏やかにも、少し冷たくも聞こえる声で彼は言った。
顔はタバコの煙でよく見えなかった。
「………Lily」
私が答えたのと同時くらいに彼は私の手を引いてベッドの側まで行き、座って、と少し乱暴に言った。
私は月の光に艶めいた白いベッドの上に腰掛けた。
彼は並べてあった中で真ん中のギターを手に取り私の横に座って、ほんの少しチューニングして、その音を鳴らし始めた。
それはいつもイヤホン越しに聞いていた、始まりの音だった。
そして私の一番好きなその曲を、彼は私だけしかいない空間で、静かに響かせ初めた。
彼の声が、反響する。
ふたりきりの、部屋の中で。
それが現実なのかさえ分からなくなってきた。
私は泣いていた。悲しいわけではない。嬉しいとかそんな単純な動機でもない。ただあなたと肩を並べて、この闇に覆われた部屋の中で、あなたの声と柔らかなギターの音だけが響いていることが、ちっぽけで計り知れない奇跡のようで、寂しくて、愛しくて、なみだが止まらなかった。自分でもわからなかった。
「…なんで泣いてんの」
全てを歌い終えた彼はギターを弾き終える前に手を止め、私に問いかけた。
「…わからない」
「今日初めて会った時、この曲を作ったときのイメージにぴったりだと思ったんだ、不思議だな」
そう言った彼はすこし照れ臭そうに笑って、私の涙を拭ってくれた。
初めて触れる彼の右手は、少し硬くて、ゴツゴツしていて、それでも細くて柔らかな温もりだった。
「嘘の代償に俺はきみをここで抱きたいと思ってるけど、どう思う?」
そう言った彼の顔は見上げても月明かりの所為でちゃんと見えなかった。
私は彼の頬に手を添わせて顔を近付けた。
私の思惑に気付いてか、或は初めからそうするつもりだったのか、彼は唇を寄せて触れるだけのキスをした。