チョコと、キス
バレンタインからちょうど10日が経ちましたね。
10進数なら繰り上がりますよ!
というわけでバレンタインのお話です。
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甘さ:★★★★☆
苦さ:★★☆☆☆
長さ:★★★☆☆
絡み:★☆☆☆☆
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バレンタインを思い出しながら読んで頂けると幸いです。
「先輩、チョコ欲しいですか?」
「……何の話よ」
「バレンタインですよ、バ・レ・ン・タ・イ・ン」
一言ずつ区切って言ってみせると、先輩は眉をしかめて眼鏡の奥で目を細くする。
「なんで私が貰う側なのか聞いてるのだけど」
「あげたいからです」
すかさず答えた。先輩は目を丸くして、それから興味無さそうにふっと視線を逸らす。それが気に入らなくて、膨れっ面をして腕を組んだ。
「チョコ、欲しくないんですか?」
「えぇ」
「なっ……」
絶句。
何も言えなくなった私にちらりと一度だけ目を向けた先輩は、そのまま数学の参考書と向かい合う。頭が良いのに地元の大学へ進学するという先輩は、きっともう勉強しなくても大丈夫なのだろう、ノートを取る様子も線を引く様子も無くて、視線はやる気無さそうに数字の上を回るだけ。
回復、気を取り直して、ショックで開いていた口を閉じ、もう一度膨れっ面をしてみせた。
「もう、本当にチョコいらないんですか?」
「えぇ」
「くっ……」
「私、甘い物苦手」
もう一度参考書から目を上げて意地悪に微笑んで見せた先輩。その言葉に、私は目を輝かせる。
「勿論知ってます! 苦くしますよ、ビターチョコ! 大人なほろ苦さです!」
「貴方の苦い、は甘いのよ」
「うっ……」
確かに、先輩と味覚は合わないようだ。でも先輩が美味しく食べてるものを一緒に食べたいと思うし、ちょっとは甘くしないと食べられない。……いや、あれでも精一杯苦くしたつもりだったんだけど。言葉につまった私に、参考書をパタンと閉じた先輩が、にっこりと笑って見せた。
「キスの甘さなら、大歓迎だけど?」
「うへっ? けけ、結構です!」
眼鏡の奥で色っぽく目を細める先輩に、慌てて手を振って顔を逸らせる。頬が真っ赤だ。絶対。
「……ファーストキスは悪くなかったでしょ?」
今度は先輩の方が不満そうな声でそう言って、私の腕を掴んできた。びくっ、と大きく動揺してしまった私に、先輩も手を止めて、溜め息と一緒に手を放す。
「……チョコより欲しいわ」
「あ、え、あ、う、……あ、あは、あはは」
ものすごく変な言葉にならない声を洩らした私に、先輩が諦めたように笑った。
――――――
「失礼しました!」
「遅いから気を付けなさいよ。そんな薄着で良いの? 寒いでしょうに」
「大丈夫です! 歩くと暑いんです!」
「分かったわ、じゃあ帰ったらすぐお風呂に入んなさい。あ、後宿題もちゃんとやって来るのよ」
「うげっ」
「返事は?」
「うっ……はぁい」
満足そうに頷いた先輩にもう一度頭を下げて、心配そうに見守られる中を少しだけ居心地悪く歩いていく。先輩のお見送りはいつもおおげさだと思う。もう何度も先輩の家に来ているのに、いつもお母さんよりも色々心配してくれて、普段冷たい先輩なだけに、そこが嬉しかったりもするけど。
けど、鞄の中に入った、学校とは一切関係無い宿題を考えると、どうしても溜め息が漏れてしまう。先輩の教え方は丁寧で、先生よりも分かりやすいけど、宿題までは出さなくて良いと思う。基本問題だけじゃなくてちょっと考えないといけない応用もあって、結局遊ぶ時間もあんまり取れずに寝なくちゃいけなくなるのだ。
でも、成績がとても酷かった私が先輩と同じ大学に行きたいと言った時から、先輩はそれまでの志望も変えて、私に勉強を教えるようになった。志望を変えた、という話を聞いて先輩の両親や先生に負けずに顔色を変えて止めようとした私だったけれど、「絶対に一緒になりたいのよ、私が」と言われて、頬を真っ赤にして黙ることしかできなかった。
もう一度振り返ると、先輩はまだこちらを見ている。目が合ってしまい、慌てて頭を下げて、足を少し早く動かした。
大好きで仕方のない先輩だけど、私とは違うところもある。ううん、違うとこだらけだ。
味の好み、頭の良さ、性格、身長……私はまだ伸び悩んでいて、先輩は平均よりも上、胸の大きさは似たり寄ったりだけど、服の好みも、曲の好みも、映画の好みも全然違う。先輩は受験シーズン前はよく本を読んでいたし、私は絵を描くのが上手いけど、先輩は少し下手だったりする。私は視力が2.0だし、誕生日も先輩が冬で私は夏だ。こういう違いは全部好きなんだけど、でも、一つだけ困ってしまうことがあって、それは……キスしたいか、したくないか。
もっと言うと……キスだけじゃなくて、その先も。
私は、えっと、したくない、わけじゃない、けど。でも、やっぱり躊躇してしまう。
先輩のことは大好きだけど、そういう行為をしたいかと聞かれると、素直に頷けない。勿論、女の子同士だから、というわけじゃない。最初の一歩が踏み出せないだけなんだろうとは思うけど、でも今の関係でも満足できるというか、してるというか。ファーストキスは、確かに悪くなかったけど、いきなりで、驚きの方が強かったし。あ、いや、嬉しかったんだけどね。
でも、やっぱり、要らないと思ってしまう。
ただ、好き、を言い合えるこの幸せな関係で、十分だって。
それは、先輩に触れられるのが怖い、それも、あるけれど。
それ以上に、私なんかが先輩を触るのが、嫌だから。
多分これを聞いたら、先輩は怒ると思う。「じゃあそんなあなたなんかを好きになった私なんかはどうなるのよ」と告白を断った時にそれはそれは怖い顔で言われたので、この場合はそんなあなたなんかにキスをした、になるのかな、なんて、ちょっとどうでも良いことを考えたりした。
先輩と私の家は一駅しか離れてなくて、帰り際に大通りを眺め歩くのが好きだ。人が多くて見てて楽しいし、何より歩くのが好きだから。
町はすっかりバレンタインムード。色んなお店にチョコが並んでいて、バレンタインの英語がぐにゃぐにゃと書かれている。……あれ英語なのかな? 分からないけど、とにかくあちこちに書かれていた。歩いている女の子たちはそれとなくチョコを眺めたり友達と笑い合いながら可愛いチョコを買い求めたりと色々で、男の子たちは当日になってそわそわするつもりなのか、イヤホンをして歩いたり関係無い話をしながら笑い合ったりと色々だ。とにかく、バレンタインムード。
先輩は、チョコが欲しくないわけじゃないと思う。こう言ってはなんだけど、私、先輩のことならよく分かってるつもりだ。だからチョコを渡せば喜ぶだろうし、それが手作りだったりしたら、頬を赤くして受け取ってくれるだろう。でも、先輩は同時に、チョコより欲しい物があるんだ、きっと。
カバーもされている、バレンタインの曲が流れてきた。その歌にキスを推されている気がして、ちょっと笑いが零れる。とっておきのシャレたチョコレート、か。少しだけ、そう言ってプレゼントしてみたい気もした。
音のする方を見ると、途端、目を疑う商品が飛び込んできた。
「……何これ」
思わず立ち止まって、並んでいる一つを手に取ってみる。
今の私を何も知らない人が見たら、何でもない口紅に随分目を丸くしてるな、と感じるだろう。けれど匂いは確かにチョコレートで、思わずもう一度宣伝文句を見た。『……今年のバレンタインは、カレにあま~い♡唇を贈りましょう! …』と少しおばさんくさい手書き文字でイチオシされてるそれは、口紅型のチョコレート。
何にも悪い事はしてないのに、周囲を確認してしまう。勿論、誰も気にしている人なんていない。でも、どきどきする。値段を確認。財布の中身を考えて、次に並ぶ味の種類を確認。
手を伸ばして、躊躇して、もう一度伸ばして。
チョコより欲しい。先輩はそう言った。私は、先輩と自分を比べて、自分勝手にキスを拒んでるだけ。ホントのホントは、キス、したい、んじゃないか。
手を伸ばそうとして、それから、頭の中に先輩の顔が浮かんだ。
先輩と、キスをしたい。そうだ、そう思っている。
でも、私なんかで、良いのだろうか。
……あぁ、また、私なんか、なんて考えてしまった。けれど一度考え出すと止まらない。私は、自分勝手に、キスを拒む。でも、先輩はといえば、私に合わせてくれている。キスをしたがらないなら、諦めてくれる。先輩はいつもそう。先輩の志望校が変わったのは私のせいだ。好みが全然違ってもいつも退屈しないで済むのは、先輩がかわりに退屈してくれているから。先輩を邪魔して、引っ張って、そんな、私なんかが――
――――――。
街はバレンタインムード。
先輩の顔が空に過って、慌てて顔を俯かせた。
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今日はバレンタイン。
学校が無い土曜日のバレンタインは、恋人たちにとっては嬉しくて、乙女たちにとっては少し苦しかっただろう。でも昨日の放課後に何人かが本命を持って駆け回ったって話を聞いたので、まぁ、やはりというか、イベントはイベントとして活用される物だ。
私は部屋を片付けながら、少しだけの期待を胸に、あの子が来るのを待っていた。
受験までもう少しだからといつも勉強道具を机に置いていた私だけど、センターの様子を見るにまぁ問題無いし、今日はムード満点にするつもりだったので、目に毒な物は全て片付けて、部屋をそれとなく可愛らしくしている。私の趣味かと尋ねられれば実はそうで、普段はクールぶっていたりもするけれど、出来ることならカワイイ方が良いし、その点を含めてもあの子とは正反対な点が多い。あの子は普段可愛い物を好きだったりするけれど、実際のところ部屋はさっぱりしてるし、メイクもあまり興味無いみたいだし、一度なんか、無地に無地の白いTシャツとスウェットパンツでうちまで来てたことがあって、その時は心底呆れて着せ替え大会を行ってしまった。本当に、気にしなさすぎだと思うのだけど。あの子は自己評価が低すぎるのだ。
その時のことを思い出して軽く溜め息を吐いていたら、玄関のチャイムが鳴った。
「失礼しま―す」
「いらっしゃい。 早かった、わ…ね………」
すっかり慣れたあの子の声。部屋を出て迎えると、思わず目を見開いてしまう。
「……先輩?」
「……う、ううん、何でも無いわ」
何てこと。早速前言を撤回しなければいけない様だ。一体何が有ったというのか、クリスマスにも地味なセーターに身を包んでいた彼女が、明るく温かみのあるオレンジ調にまとめて来ている。寒いんじゃないかと心配する程輪郭はスリムにまとまっているけれど、彼女の唇と笑顔を見るに防寒性能もバッチリらしい。
不思議そうにする彼女に慌てて首を振って、少し胸の高鳴りが大きくなったのを感じながらそのまま部屋へ迎え入れる。前を歩きながらも、突然に可愛さを増した彼女に向けてる部屋着が恥ずかしくて、心の中で過去の自分に小さく文句を言っていた。
「うわぁ……! 先輩の部屋、いつもと違いますね! 凄く可愛いです!!」
気のせいか、オレンジの香りが鼻をくすぐった。開いたドアを握ったまま、私を追い抜いて先に入ってしまったあの子に苦笑する。きょろきょろと部屋を見回している背中に、「バレンタインだから」と、それだけ返してから、もう一度口を開いた。
「貴方の服装もいつもと違うわね。 すごく可愛いわ」
何気無く褒められただろうか。声が上擦って無ければ良いなと思いながらそう言うと、上擦りまくった声が返ってくる。
「っ、え、あ、えっ、……あ、ありがとうございますっ……あ…………あのっ、これ、わわ、私じゃなくて、その、えっと、私可愛い服持ってなくて、センスも無くて、て、店員さんが、選んでくれてっ、くれた、くれたんですよ!」
「……詳しいけど分かり辛い説明ね」
それにその情報は要らない。可愛い服をあの子が着ているということが重要なのだから、わざわざ店員があの子に似合う服を選んだ、それも私が気に入るくらいの服を選んだということを聞かせて嫉妬させることも無いだろうに。頬を赤くしたままの彼女はこっちをちらちらと見ながら、服をしきりに撫でている。
「うっ……ごめんなさい、その、…………この、服………、えっと、……………」
「しゃんとして、はっきりと言ってちょうだい」
「っ、そのっ……! …………私、ちゃ、ちゃんと……、可愛い、です、か……?」
「んなっ……!」
弾かれたように顔を逸らせる。
本当に、本当に、本当に! もっと考えて恥じらって欲しい! 可愛いのだから、それもいつもの数倍も可愛いのだから、そんな表情を見せられてはこちらの顔まで真っ赤になってしまうに決まってる! 今度こそは上擦った声を隠せないだろうと思いながら口を動かしたけれど、あの子に答えを返すことはできなかった。
「………や、やっぱり何でもないです! それより、こんなぬいぐるみも持ってたんですか、可愛い……!」
ほっとすることに、恥ずかしくなったのだろうか、あの子の方から話を逸らしてくれたのだ。正直ありがたく、小さく息を整えてから、「ふふ、そうでしょ」といつものように微笑んでみせた。
しばらくそうやって他愛もない話をしてたけど、どんな切っ掛けが有ったのか、いつの間にか二人共静かになっていた。秒針の鳴らない時計は静かで、いつもなら心地良いはずの二人の沈黙が、今日だけは息が詰まるようだ。溜め息を呑み込んでそっと彼女の方を窺えば、その手に握られた鞄は一つだけ。
……彼女のことだ、もしもチョコを用意しているなら、とびきり可愛い包装をして貰い、その上家に入ってくると同時に渡してきていただろう。あんなやり取りをしてて、今更サプライズも何も有った物では無い。けれど傍らに置かれているのは服に合わせたのか新調したらしい鞄で、可愛らしくも中身はそれほど入っていないことが鞄の薄さから見て取れた。勿論、まだ渡されていないだけで、あの子らしく甘いチョコが入っている可能性もあるのだけど。ただ、この前のやり取りが、私に僅かな……ううん、大きな期待を抱かせていた。だからこそ、何も言えなくて、気まずくて。
彼女の方は何も気にならないのか、それとも……私の望む理由から緊張しているのか、俯き加減で静かに座っている。ただ時間だけが過ぎていって、秒針の鳴らない時計も、痺れを切らして音を上げてしまうのではないかというくらいだ。他のことに考えを移しても直ぐにそこへ思考が持っていかれて、結局ぐるぐると彼女の言葉を待つだけになっている。
そんな沈黙を破ったのは、「ちょっと良いー?」と若干間延びした母の声とノックの音だった。
返事を待たずに開いた扉から、ふわりとした雰囲気の母が入ってくる。
「ほら、バレンタインだから、チョコ、どうぞー。 二人で食べてねー」
「あ……ありがとうございます!」
弾んだ声でお礼を言った彼女。母親は近所のケーキ屋で買ったのだろう、美味しそうなチョコケーキが二つ乗ったお膳をテーブルに置くと、そのままひらりとドアへ舞い戻る。
「じゃあ、ゆっくりねー」
「あ、ありがと」
あまりにも素早い登場と退場に慌ててお礼をいう頃には、パタンと扉が閉じられてしまった。嬉々としてチョコケーキの一つを私の側におき、もう一つを手に取って惚れ惚れと眺めた彼女は、一拍おいて歓声を上げた。
「すごく可愛いチョコケーキですね!! 先輩、食べましょう!」
「…そうね、もうこんな時間だし」
頷いて、フォークを手に取る。
チョコケーキは甘すぎることは無かったから、とても食べやすかった。彼女の方も「大人な味ですね!」と笑っていたから、うちの母親は丁度良いチョイスをしてきたことになる。
それがきっかけになってまた話も弾んだのだけれど、ケーキを食べ終わった時に、彼女がぽつりとこう漏らした。
「……私も、持ってきてるんですよ、チョコレート」
ずき、と。
「そ、う。 バレンタインだものね、嬉しいわ」
痛んだ胸。
押し隠しながら、自分を叱りながら、それでも確かに落ち込む私がいた。折角チョコを持ってきてくれたというのに、もっと喜んだ顔をしなくては。けれど唐突にもたらされた答えは、そして少なからず期待していた私は、嬉しさで笑顔を作るにはショックが大きすぎた。
かわりに僅かな自重も込めた笑みを作った私に、どうしてか少し表情を硬まらせた彼女が、静かに尋ね掛けてくる。
「私……可愛い、ですか」
「……え?」
また随分唐突な、そして意図の読めない問いに間抜けな声を洩らしてしまってから、彼女の目の真剣さに続く言葉を呑み込んだ。
瞳に僅かに怯えを滲ませて、それでもきっぱりと問い掛けてくる。
「私なんかで、良いんですか?」
………………私、なんか?
彼女は、今何と聞いてきた?
「……また、なの?」
深く、溜め息をついた。
まさか、まだそんなことを言っているのか。
身構えた割に拍子抜けする言葉で、全身から力が抜けてしまう。と同時に、怒りが沸いてきた。顔が険しくなるのを自覚すると、あの子も青褪める。
「まだ、そんなこと言ってるの?」
「あ、いえ、違くて」
「だからキスしたくないの? 相応しくないから? 私は見る目が無いって言いたいの?」
「いえっ、そんなまさ――」
「怒るわよっ!」
ひっ、と首を竦めさせる彼女に、指を突き付けた。
「私が好きになったの! 私がキスしたいの!」
全部私の都合。私の気持ち。それを分かってくれない彼女に、燻っていた不安が頭をもたげて。
本当に、彼女は、私を好きでいてくれてるのか……そんな思いに、言葉が口を突いて飛び出した。
「拒否したいなら私なんかじゃなくて、あなたなんかって言いなさ――」
「ッ言いません!!」
「――っ……」
本気の叫び声。
「そんなこと、絶対に言いませんッ……!」
顔を真っ赤にして言い切った彼女。
体を震わせて私を睨み付けて、それから――
泣き出しそうな笑顔になって、一つ、頷いた。
「……やっと、分かりました。 私なんかって………すごく失礼だったんですね」
震える声で、けれど嬉しそうに。その言葉に、胸が詰まったような心地になる。
私が彼女を思うように、彼女も私を思ってくれていた。
「……本当に、失礼よ。 貴方のことを悪く言うなら、例え貴方だって許さない」
「……はい、今まで、ごめんなさい」
頭を下げた彼女は、小さく目元を拭って、それから顔を上げて悪戯っぽい笑みを見せてきた。
「先輩、チョコ欲しいですか?」
その問い掛けに、小さく苦笑する。
「……私が欲しいのは………いえ、そうね、チョコも、大歓迎」
あの子からの、バレンタインチョコ。欲しいに決まってるじゃない。
嬉しそうに笑った彼女は、頬を染めながら続けた。
「それなら、プレゼントです。 ハッピーバレンタイン」
そう言って笑った彼女の手には、何も握られていない。不思議に思って彼女の顔を見ると。
っ――――
柔らかい感触。仄かに香ったオレンジ。視界は彼女に覆われて良く見えなくなって。
僅かな時間。けれど刻み込まれた感触。
照れたように笑う彼女。服装はオレンジなのに顔は真っ赤でまるで林檎のようで、けれどそう、私だって似たようなものだろう。
「お口に合ってたら、嬉しいです」
そう蚊の鳴くような声で続けた彼女に、今度は私から口付けた。
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――――あぁ、また、私なんか、なんて考えてしまった。けれど一度考え出すと止まらない。私は、自分勝手に、キスを拒む。でも、先輩はといえば、私に合わせてくれている。キスをしたがらないなら、諦めてくれる。先輩はいつもそう。先輩の志望校が変わったのは私のせいだ。好みが全然違ってもいつも退屈しないで済むのは、先輩がかわりに退屈してくれているから。先輩を邪魔して、引っ張って、そんな、私なんかが――
「こちらの商品、もう付き合ってるという方に人気なんですよ」
「――っひぇ!? うっ、あ、あああ! そうなんですかっ……!」
いきなり話しかけられて跳び上がった私は、顔を赤くして声を上ずらせながら振り返る。それでもにこにこと微笑みを崩さないお姉さん。化粧は薄くて、でも綺麗な人。栗色に染められたポニーテールの髪は緩くウェーブが掛かっていて、何か良い匂いがする。化粧にはあまり詳しくないから分からないけど、ここのお店の店員さんを務めるには十分な可愛さだ。
「皆さん、普段は恥ずかしくてキスさせてあげられないって人が多くて、バレンタインだから勇気を出して、と仰る方が多いんです」
「……普段、キスできない」
まさしく。お姉さんはちょっと悪戯っぽく微笑むと、口紅を示した。
「彼氏さんの好きそうな味は有りますか? これ、そのまま食べるとちょっと甘すぎるんですけど、塗ると仄かに香るくらいで、どれもオススメですよ。 色は付き辛いので普段のメイクには向かないんですけどね。 あ、でもこういうと、キスのために作られてるみたいですね」
そう言ってくすくす笑うお姉さんに、顔を赤くしてしまう。先輩の好きそうな味。仄かに香る、くらいなら、多分匂いで選んだ方が良いのだろうか。……って、い、いや、まだ私、先輩とキスするって決めたわけじゃないから! 面白い商品見つけたから、ちょっと買ってみるだけ、だけ!
先輩が好きそうな、好きな……。
並んだ商品を見つめる私を、お姉さんは優しく見守ってくれてる。先輩との思い出を探っていくと、すぐに思い当たるものがあった。すぐに出たのは良いけど、「あら、蜜柑の匂いね」と目を丸くした先輩も一緒に思い出して、頬まで真っ赤になってしまう。先輩がそう言ったのは、ファーストキスを奪われた時。それも、匂いがした理由はお洒落してたからなんてものじゃなくて、ただ単に、家で蜜柑を食べてきてたからという、恥ずかしくなる物。何個も蜜柑を食べてきていた私は情けなくて仕方なかったけど、先輩は笑って、「蜜柑は匂いだけなら一番好きなのよ」と言ってくれた。
「お! オレンジですか、良いですね!」
「はい、先輩の好きな匂いなんです」
お姉さんは笑顔で良いと言ってくれていたけど、選んだ瞬間少し驚いていた。そうだろう、だってオレンジのスティックだけ一番残ってたし、それにオレンジならわざわざこれじゃなくたって、他のでいくらでも代用できるはずだから。それでも思い出に後押しされた私は、そのチョコレートを手に取っていた。
先輩、喜んでくれると良いけれど。
街はバレンタインムード。
先輩の顔が空に過って、慌てて顔を俯かせた。
……物凄く恥ずかしい。こんなことで、バレンタイン当日は大丈夫なのだろうか。
イベントに合わせた更新が遅れるのは大問題ですが、これからはなるだけ当日に更新できるように頑張って参りますので、ゆったりと見てくださると嬉しいです。