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『幼馴染のあの子が離婚したから、うちで面倒を見る』と言った夫へ――合鍵と離婚届不受理申出の控えを残して、私は築浅マンションを解約した

掲載日:2026/09/15

『幼馴染のあの子が離婚したから、うちで面倒を見る』と言った夫へ――私は仕事部屋を取り戻さず、マンションごと解約しました


「里奈が離婚して、実家にも戻れないらしい。部屋を借りる金が貯まるまで、うちで面倒を見ることにしたから」


 平日の夜九時、残業を終えた澪がスーパーの袋を提げて帰宅すると、夫の孝弘はソファに寝そべって缶ビールを飲んでいた。ローテーブルには空になった弁当容器が置かれ、剥がした蓋の裏で茶色いソースが乾いている。澪は冷蔵庫へ入れかけた鯖の南蛮漬けを持ったまま、孝弘の横顔を見た。


「うちで面倒を見るって、どういうこと?」


「そのままの意味だよ。客間が空いているだろ。しばらく住まわせる」


「客間ではなく、私の仕事部屋よ。週に三日は、そこで在宅勤務をしているでしょう」


「デスク一つしか置いてないじゃないか。寝る場所くらい作れるだろ」


 デスク一つと言われた部屋には、会社のパソコン、資料棚、複合機が置かれている。澪が家賃も生活費も半分ずつ負担し、仕事を続けるために整えた場所だった。孝弘は自分が使わない部屋を、誰も使っていない部屋だと思っているらしい。


「この家へ誰かを住まわせるなら、先に私へ相談するのが普通ではないの?」


「里奈は小さい頃から妹みたいなものなんだ。離婚したばかりで身寄りもないのに、見捨てられるわけがないだろ」


「いつまで住ませるの?」


「傷ついている人間に、いつ出ていくんだなんて聞けるかよ」


「家賃と光熱費は誰が負担するの?」


「困っている人から金を取るのか? 澪は昔から、そういうところが冷たいよな」


 孝弘は最後まで、澪の質問には一つも答えなかった。誰が食事を作り、誰が洗濯をし、誰が増えた水道光熱費を払うのかと尋ねるたび、「家族同然」「お互いさま」「冷たい」という言葉で押し返した。澪は冷蔵庫の扉を閉め、二人分買ってきた南蛮漬けを一つだけ取り出した。


「私は同意しない。里奈さんをこの家へ住まわせないで」


「はいはい。今日は疲れているんだろ。温かいものでも食べて、落ち着いてから話そう」


 孝弘はそう言いながら、電子レンジを使うために立ち上がろうともしなかった。澪が帰るまでに炊飯器の予約を入れることも、味噌汁を温めることもない。澪は南蛮漬けを温めずに食べ、冷えた鯖の身と酸味の強い玉葱を何度も噛んだ。


「あなたは、もう夕飯を食べたのね」


「里奈と駅前で食べてきた。離婚したばかりで一人にできないだろ」


「そう」


「自分の分を買ってきているなら問題ないだろ。何を怒っているんだよ」


 向かいでは孝弘が動画を見て笑っていた。澪は冷えた鯖を飲み込み、空になった容器の蓋を閉めた。結婚してから三年、孝弘の帰りを待って冷めた料理を温め直した夜は数え切れなかったが、自分のために用意した夕飯まで冷たく食べる必要はないはずだった。


 翌週の土曜日、午前十時にインターホンが鳴った。澪が洗濯物を畳んでいる間に孝弘が玄関を開けると、廊下からキャスターの転がる硬い音が近づいてきた。大きなスーツケースを二つ引いた里奈が、薄桃色のブラウスの袖を揺らしながら立っていた。


「澪さん、本当にすみません。孝ちゃんが、澪も大歓迎しているって言ってくれたから、甘えちゃいました」


「私は反対したはずよ」


「あれ、そうなの? でも孝ちゃん、夫婦だから最後には分かってくれるって。私たち、小さい頃から何でも分け合ってきた仲なんです」


 里奈は困ったように笑ったが、スーツケースの取っ手から手を離そうとはしなかった。孝弘は澪の横を通り抜け、荷物を仕事部屋へ運び込んだ。デスクの横に一つ、資料棚の前にもう一つ置かれ、引き出しを開ける隙間まで塞がれた。


「澪、意地を張るなよ。里奈には行くところがないんだぞ」


「ビジネスホテル、短期賃貸、自治体の女性相談窓口。本当に行くところがないなら、相談できる場所はいくつもあるわ」


「ほらね、孝ちゃん。澪さんって頭はいいけど、ちょっと怖い。弱っている人にも正論を言うんだね」


 里奈はそう言いながら、孝弘のシャツの袖を指先でつまんだ。孝弘はその手を振り払うどころか、彼女を隠すように一歩前へ出た。澪は二人の距離を見たあと、自分のデスクの上へ置かれた化粧ポーチへ目を移した。


「今日中に別の宿泊先を探して。私はあなたがここで生活することを認めません」


「出ていかなくていい。俺が住んでいいと言ったんだ」


「この部屋の契約者は私よ」


「夫婦なんだから、俺にも決める権利があるだろ。家賃の半分を払っているんだぞ」


「分かった。あなたの考えは記録しておく」


 澪はスマートフォンの録音を止め、画面に日時を表示させた。里奈が何か言いかけたが、孝弘が「脅すつもりか」と大声を出したため、澪は返事をしなかった。怒鳴り声より、日時と事実のほうが後まで残る。


 昼を過ぎると、台所から甘い醤油の匂いが漂ってきた。里奈は冷蔵庫にあった牛肉と野菜を断りなく使い、鍋いっぱいの肉じゃがを作っていた。その牛肉は、澪が日曜に作り置きする弁当のおかずへ使うつもりで買ったものだった。


「やっぱりこれだよ。母さんの肉じゃがと同じ味だ」


「孝ちゃん、昔から人参を大きくすると食べなかったよね。澪さんは、孝ちゃんの好みを知らなかったの?」


「私は、孝弘のお母さんではないから」


「そんな意味で言ったんじゃないのに。女同士の付き合いより、幼馴染の絆のほうが深いってことかな」


 里奈がくすくす笑うと、孝弘も口元を緩めた。鍋の中では、澪が買った牛肉とジャガイモが煮崩れ、表面に灰色の泡が浮いている。二人は澪の分の皿を用意せず、並んで味見を続けた。


「里奈の料理を食べれば、澪も機嫌を直すだろ」


「私の夕飯は、自分で用意するわ」


「また意地を張って。温かいうちに食べろよ」


「いらない。あなたたちが作ったものだからではなく、私が食べようと思って買ったものを、断りなく使って作った料理だから」


 孝弘は、食べ物くらいで細かいと言った。澪は冷蔵庫から残っていた豆腐を出し、冷たいまま小皿へ移した。醤油をかけた豆腐を食べながら、自分の家で温かい夕飯を食べることさえ、誰かの許可を必要とするのかと考えた。


 その夜、澪は仕事用のノートパソコン、着替え、通帳、身分証明書を鞄へ入れた。会社の書類はスーツケースに塞がれて取り出せなかったため、スマートフォンで部屋の状態を撮影した。孝弘と里奈はテレビを見ており、澪が玄関で靴を履いても振り向かなかった。


「どこへ行くんだよ」


「今夜はホテルに泊まるわ」


「大げさだな。明日になれば落ち着くだろ」


「明日の朝までに、里奈さんを別の場所へ移して」


「無理に決まっているだろ。夕飯だって作ってくれたのに」


「それなら、冷めないうちに二人で食べて」


 ホテルの部屋は狭かったが、机の上には何も置かれていなかった。澪は電気ケトルで湯を沸かし、紙コップへほうじ茶を注いだ。湯気が頬へ触れ、炒った茶葉の香りが乾いた室内へ広がった。


 翌朝、澪は賃貸借契約書を確認してから管理会社へ連絡した。契約者は澪一人で、孝弘は同居人として届け出ている。新たな居住者を加えるには契約者からの申請と貸主の承諾が必要だった。


「契約者の佐伯澪です。私が反対しているにもかかわらず、同居人である夫が第三者を住まわせました。解約に必要な手続きを教えてください」


「第三者の居住は承認されていません。ご契約者様が解約される場合は、一か月前までに通知が必要です」


「では、翌月末で解約します」


 担当者は一度黙り、本当に解約するのかと聞き返した。澪は、はい、と答えた。仕事部屋から里奈を追い出しても、孝弘が妻の意思を自分より軽いものとして扱った事実は残る。


 その日の午後、澪は弁護士の相談を受けた。録音、メッセージ、家計の記録、賃貸借契約書を机へ並べると、弁護士は一枚ずつ確認した。不貞の証拠はないため事実以上のことを主張せず、婚姻生活を続けられなくなった経緯を記録するよう勧められた。


「家具や家電は、結婚後に購入したものですか」


「はい。費用は二人で出しました」


「勝手に売らず、一覧を作りましょう。ご自身の婚姻前からの財産と仕事道具だけを先に分け、退去期限と今後の連絡方法は、こちらから書面で通知します」


「分かりました。お願いします」


「ご主人が離婚届を勝手に提出する可能性はありますか」


「低いと思います。ただ、里奈さんと結婚するために早く別れてやる、というメッセージは届いています」


「念のため、不受理申出をしておくとよいでしょう」


 区役所の窓口で手続きを終えると、澪は受理された申出の控えをクリアファイルへ入れた。薄い紙一枚だったが、自分の知らないところで自分の戸籍を動かされないためのものだった。帰り道では風に金木犀の香りが混じり、商店街の総菜店から揚げたてのコロッケの匂いが漂っていた。


 澪はコロッケを一つ買い、店先のベンチで食べた。衣は歯を立てると音を立て、中のジャガイモから白い湯気が出た。誰かが帰ってくるまで待たずに食べると、コロッケはこんなに熱かったのかと思った。


 一週間後、孝弘のもとへ弁護士名義の通知書が届いた。マンションは翌月末で解約されるため、期日までに転居して鍵を返却すること、今後の連絡は代理人を通すことが記されている。澪のスマートフォンには、通知を読んだ孝弘からのメッセージが次々と届いた。


『里奈を追い出せと管理会社から言われた』

『お前が余計な連絡をしたからだ』

『大げさにするな』

『謝れば戻ってきてもいい』

『二人分の部屋を借りる金なんてない』


 里奈からも長い文章が届いた。自分は離婚したばかりの被害者であり、幼馴染に助けてもらっただけなのに、澪が嫉妬して騒いでいると書かれていた。最後の一文は、『孝ちゃんは私が守ります』だった。


「それなら、最後まで守ってあげればいいわ」


 澪はスマートフォンを伏せ、温かいうちに鮭の塩焼きを食べた。短期賃貸の台所は一口コンロだったが、大根おろしも味噌汁も自分の分だけなら十分に作れる。換気扇の低い音の下で、焼けた皮がぱりっと砕けた。


 退去日の三週間前、孝弘が弁護士事務所へ電話をかけてきた。五分だけ澪と話したいと繰り返したため、澪は弁護士の同席と録音を条件に応じた。指定された時刻に電話をかけると、呼び出し音が一度鳴っただけで孝弘が出た。


「澪、お前、本気で解約したのか。俺はどこへ行けばいいんだよ」


「自分で住居を探して。里奈さんにも同じことを伝えて」


「二人分の初期費用なんて払えない。里奈はまだ仕事も決まっていないんだぞ」


「私は、里奈さんを扶養すると約束していないわ」


「夫婦だろ。俺が困っているのに何とも思わないのか?」


「私が困っていると言ったとき、あなたは何と言った?」


 受話器の向こうで、孝弘の息が止まった。澪は膝の上に置いた手を開き、爪が食い込んでいないことを確かめた。机の向こうでは、弁護士が続けてよいというように小さくうなずいた。


「私は、仕事部屋を奪われたくない、親しくない人と暮らしたくない、先に相談してほしかったと伝えた。あなたは一つも答えず、私を冷たい女だと言ったわね」


「里奈は知らない人じゃない。俺の幼馴染だ」


「あなたには幼馴染でも、私には親しい相手ではない。その区別さえ認めなかった人とは、もう暮らせない」


「だったら、里奈を追い出せば帰ってくるのか?」


「戻らない」


「なんでだよ。あいつを住まわせたことが問題なんだろ」


「違うわ。私が嫌だと言っても、あなたには関係なかったことが問題なの」


 孝弘は、里奈と自分は何もない、浮気ではないのだから離婚するほどではないと繰り返した。澪が失ったのは仕事部屋だけではなく、言葉を聞いてもらえるはずだという信頼だった。里奈を追い出せば元に戻ると思えるところに、この夫婦の答えがあった。


「浮気をしていなければ、妻の生活を勝手に差し出しても、結婚は続くと思っているの?」


「俺は困っている人を助けただけだ」


「あなたが差し出したのは、私の部屋と、私のお金と、私の労働よ。自分のものは何も差し出していない」


「家賃の半分は俺が払っていただろ」


「残りの半分を払っていた人間の同意は、いらないと思ったのね」


 孝弘は黙った。澪は机の上の時計を見て、五分が過ぎたことを告げた。今後は代理人を通して連絡するよう伝え、返事を待たずに電話を切った。


 その頃には、孝弘と里奈の間にも亀裂が入っていた。里奈は孝弘が二人で暮らす部屋を借りてくれると思っていたが、孝弘は里奈にも初期費用の半分を出すよう求めた。家族同然なのだから助けると言った孝弘と、傷ついた自分からお金を取るのかと言った里奈は、澪に向けていた言葉を互いに投げ合った。


 里奈は元夫へ連絡して荷物の一部を引き取ってもらい、自治体から紹介された女性向けの一時滞在施設へ移った。孝弘は会社から遠い古いワンルームを借りたが、敷金と引っ越し代で貯金の大半を使った。澪はその経過を弁護士から聞いただけで、二人へ連絡しなかった。


 退去日の前日、孝弘はようやく自分の荷物を運び出した。澪が管理会社の立ち会いのもとで室内へ入ると、リビングには飲み終えたペットボトルと、畳まれていない段ボール箱が残っていた。台所には肉じゃがを作った鍋が洗われないまま置かれ、蓋を開けると甘く淀んだ匂いが立ち上った。


「残置物は処分費用を精算します。鍵は全部そろっていますか」


 管理会社の担当者に尋ねられ、澪は自分が持っていた鍵を一本差し出した。孝弘から回収された鍵と照合され、二本が小さな金属製のトレーへ並べられた。里奈のスーツケースでついた床の傷も撮影し、退去費用の記録へ加えた。


 結婚後に二人で買った冷蔵庫や洗濯機は、査定額を出して財産分与の一覧へ載せた。孝弘が引き取る代わりに相当額を清算し、澪は婚姻前から使っていたデスク、本棚、パソコンだけを持ち出した。最後に仕事部屋の窓を閉めると、白い壁へ午後の日差しが四角く落ちた。


「三年間、お世話になりました」


 澪は玄関を出た。管理会社の担当者が施錠し、二本の鍵を持って廊下を歩いていく。仕事部屋だけを取り戻すのではなく、その部屋で自分の意思を踏みにじった人との暮らしごと終わらせたのだ。


 離婚調停では、孝弘が最後まで「善意で人助けをしただけだ」と主張した。けれど、澪が反対したあとも里奈を住まわせ、仕事部屋を使えなくし、費用や家事を負担させようとした記録は残っている。双方が離婚に合意し、預貯金と家具家電を清算し、今後は互いに連絡や訪問をしないという条項を入れて、三年間の婚姻は終わった。


 里奈との不貞を示す証拠はなかったため、澪は事実以上の慰謝料を求めなかった。その代わり、転居に伴う費用や別居中の生活費など、取り決められるものは一つずつ書面にした。孝弘は署名の最後まで口を尖らせていたが、澪は彼の機嫌を直すために条件を譲らなかった。


 新居は会社から三駅離れた、一LDKのオートロックマンションだった。以前より狭いが、防音性が高く、窓からは小さな公園の銀杏が見える。仕事用の一角にはデスクと資料棚を置き、引き出しの前には何も置かなかった。


 引っ越しを終えた夜、澪は近所のスーパーへ出かけた。精肉売り場の冷気が薄いカーディガンを通り抜け、腕に細かな鳥肌が立った。いつもなら孝弘が量を欲しがるため、安い豚こま肉の大きなパックを選ぶところだった。


 国産黒毛和牛のサーロインが、一枚二千五百円で並んでいた。白い脂が細く入り、パックを傾けると赤い肉の表面が照明を反射した。澪は値札を一度確かめ、それを買い物籠へ入れた。


「今日は、これにしよう」


 付け合わせのクレソンと小さなジャガイモ、粗挽き黒胡椒も買った。酒売り場では赤ワインのハーフボトルを選び、食後のために小さな焼きプリンを一つ加えた。誰かの好みに合わせて量を増やすのではなく、自分が温かいうちに食べ切れるものだけが籠に収まった。


 新居の台所は、一人で立つには十分な広さだった。ジャガイモを電子レンジで温めている間に肉を常温へ戻し、フライパンへ油を薄く引いた。肉を置いた瞬間、ジュウッという音が白い壁へ跳ね返り、牛脂と黒胡椒の香りが換気扇へ吸い込まれていった。


 表面に焼き色をつけて皿へ移し、クレソンとジャガイモを添えた。丸いテーブルには読みかけの本が一冊あるだけで、空き缶も脱ぎ捨てた靴下も置かれていない。澪はワイングラスへ少しだけ赤ワインを注ぎ、椅子へ腰を下ろした。


 ナイフを入れると、薄桃色の断面から透明な肉汁がにじんだ。ひと切れを口へ運ぶと、焼けた脂の甘さと黒胡椒の香りが舌に広がった。澪は急がずに噛んだが、肉が冷めるまで箸を止める必要はなかった。


 スマートフォンは静かなままだった。電源を切っているからではなく、孝弘から直接連絡が来ないよう書面で決めたからだ。窓の外から車の走る音がかすかに届き、冷蔵庫が短く唸ったあと、部屋にはナイフとフォークの音だけが残った。


 家賃も、食費も、これから一人で払っていく。熱を出した日や仕事で失敗した日には、誰かの声が欲しくなる夜もあるだろう。それでも、親切という名前で自分の部屋も金も労働も差し出させられる生活へ戻るつもりはなかった。


 最後のひと切れを食べ、澪はグラスに残ったワインを飲んだ。冷蔵庫には明日の朝食用のヨーグルトがあり、浴室には自分で選んだ柑橘の香りの石鹸がある。仕事部屋の扉を開けても、誰かのスーツケースに足をぶつけることはない。


「ごちそうさまでした。今日は、最後まで温かかった」


 澪は空になった皿を台所へ運び、ぬるま湯で脂を流した。洗ったグラスを伏せ、布巾で小さなテーブルを拭くと、白い天板が照明の下でつややかに光った。誰かから与えられた客間ではなく、ここにあるすべてが澪自身の生活だった。


 ベランダの向こうで、秋の風に銀杏の葉が揺れていた。澪はカーテンを閉め、玄関の鍵を確かめてから、自分だけが持つ鍵を棚の小皿へ置いた。カチリという小さな音とともに、もう夕飯を冷まさなくてよい夜が始まった。


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