十年間お返事を待ち続けた文通相手は、私を捨てた婚約者の兄君でした~忘れられた文通箱が届けた本当の愛~
【お知らせ】
この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています
あらかじめご了承の上、お楽しみください
「君との婚約は、本日をもって破棄する」
シャンデリアの光が降り注ぐ大広間に、アルベルト・フォン・シュヴァルツェンの声が高らかに響いた。
私、エリーゼ・フォン・ヴェルナーは、百人を超える貴族たちの視線が一斉にこちらへ向けられるのを感じながら、静かに瞬きをした。
(ああ、とうとうこの日が来たのね)
驚きはなかった。むしろ、三年間の婚約期間で一度たりとも心を通わせたことのない殿方が、わざわざ夜会という華やかな舞台を選んだことに、妙な感心すら覚えていた。
「アルベルト様、急にどうなさったの?」
傍らに控えていた金髪の令嬢——ロゼッタ・メルヴィスが、翠緑の大きな瞳を潤ませてアルベルトの腕にすがりついた。まるで自分は何も知らなかったとでも言いたげな、見事な演技だった。
(知らないわけがないでしょう。その立ち位置、昨日のうちに打ち合わせたのかしら)
「ロゼッタ、君には言っていなかったね」
アルベルトは愛おしげに彼女の頬に触れた。私との三年間で一度もしたことのない仕草で。
「この女との婚約は、所詮は家の都合だった。心を通わせたことなど一度もない」
ざわめきが広がる。扇で口元を隠しながら囁き合う令嬢たち。眉をひそめる紳士たち。そして、憐れみと好奇心が入り混じった視線が、私の全身に突き刺さる。
「退屈な女だったよ、君は」
アルベルトは切れ長の琥珀色の瞳で私を見下ろした。その美貌には、隠そうともしない侮蔑が浮かんでいた。
「学問だの薬草だの、女のくせにつまらないことばかり。夜会で気の利いた会話もできない。傍にいて、ただ退屈だった」
(ええ、存じておりましたわ)
私は心の中で静かに答えた。
(貴方の心がここにないことくらい。けれど、貴方の知性に合わせるのは確かに退屈でしたわ。薬草の話をしても「女が学問など」、星座の話をしても「そんなことより今日の髪型は」。会話が成立しなかったのはどちらのせいかしら)
「何か言いたいことはあるか、エリーゼ」
アルベルトが挑発的に問う。きっと泣き崩れるか、許しを乞うか、あるいは醜く取り乱す私を期待しているのだろう。この夜会に集まった貴族たちの前で、私を徹底的に辱めるために。
私は静かに息を吸い、三年間で磨き上げた完璧な令嬢の微笑みを浮かべた。
「承知いたしました、アルベルト様」
深く、優雅に一礼する。亜麻色の髪がさらりと肩から流れ落ちた。
「三年間、お世話になりました。シュヴァルツェン公爵家の益々のご繁栄を、心よりお祈り申し上げます」
それだけ言って、私は踵を返した。
「……っ、待て」
背後でアルベルトの声が揺れた。予想外の反応に戸惑っているのだろう。泣いてすがりつく私を、皆の前で突き放す——そんな台本だったはずだ。
(残念でしたわね。私、貴方の筋書き通りに動く気はありませんの)
振り返らなかった。
大広間を横切る私の足音だけが、静まり返った空間に響く。誰も私を止めなかった。誰も私に声をかけなかった。
伯爵令嬢エリーゼは、その夜、社交界から静かに姿を消した。
◇◇◇
馬車の中で、ようやく私は息をついた。
窓の外を流れる街灯の明かりが、時折私の頬を照らしては消えていく。涙は出なかった。悔しさも、悲しさも、不思議なほど感じなかった。
ただ、胸の奥に小さな空洞があるような——そんな虚しさだけが残っていた。
「お嬢様」
向かいの席に座っていた侍女のマリアが、心配そうに私を見つめていた。栗色の髪をきっちりとまとめた彼女は、私が物心ついた頃から傍にいてくれた乳母だ。
「大丈夫よ、マリア」
「……大丈夫なものですか」
マリアの声が震えた。
「あのような場所で、あのような言われよう。お嬢様がどれほど——」
「本当に大丈夫」
私は小さく笑った。
「だって、嘘じゃなかったもの」
「嘘ではない?」
「心を通わせたことがない、というのは事実よ。退屈だったというのも、きっとそうなのでしょう。私、アルベルト様の心を掴む努力を、一度もしなかったわ」
できなかった、というのが正しいのかもしれない。
最初から、あの方の瞳には私が映っていなかったのだから。
「お嬢様の静かなお優しさが分からない方々こそ、お気の毒ですわ」
マリアがきっぱりと言い放った。
「あの殿方は、お嬢様の本当の価値を何もご存じない。薬草園で夜更けまで研究なさるお姿も、領民の子供たちに文字を教えていらしたことも、何も」
「マリア」
「いいえ、言わせてくださいまし。私は十五年、お嬢様をお傍で見てまいりました。お嬢様は、あのような方にはもったいないお方です」
温かい言葉が、少しだけ胸の空洞を埋めてくれた。
「ありがとう」
私は窓の外に目を向けた。
「……でも、これからどうしましょうね」
婚約破棄された伯爵令嬢。社交界での立場は地に落ちた。実家に戻っても、父は私を厄介者として扱うだろう。再婚の当てもない。
(それでも)
不思議と、心は凪いでいた。
(これで、あの人の顔色を窺う日々は終わるのね)
三年間、ずっと何かが足りなかった。アルベルト様といても、夜会で微笑んでいても、私の心はいつも別の場所を向いていた。
——L。
幼い頃から続く、顔も名前も知らない文通相手。
その人に手紙を書いているときだけ、私は本当の自分でいられた。
(そういえば、最近は返事が来なくなったわね)
十年前から続いた文通。けれどここ数年、私からの手紙に返事が届くことはなくなっていた。きっとあの方も、いつしか私のことを忘れてしまったのだろう。
窓に映る自分の顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
◇◇◇
実家であるヴェルナー伯爵邸に戻った翌日から、私は荷造りに追われていた。
「離れの部屋を使え、とのことです」
父からの伝言は、それだけだった。顔を合わせることすらなかった。
(まあ、予想通りね)
婚約破棄された娘を恥と思っているのだろう。母が亡くなってから、父と心を通わせた記憶などほとんどない。
「お嬢様、これは……」
マリアが埃まみれの木箱を抱えてきた。使用人たちが屋根裏から運び出してきたものらしい。
「屋根裏の奥から見つかりまして。お嬢様宛の古い箱だと」
「私宛?」
受け取った木箱には、見覚えのある紋様が刻まれていた。
蔦と薔薇を組み合わせた、幼い頃の私が考えた模様。
「これ……文通箱」
思わず声が漏れた。
幼い頃、「誰か」と手紙をやり取りするために作った箱。窓辺に置いておくと、いつの間にか返事が届いていた。魔法のような、不思議な箱。
「なぜこんなところに……」
蓋を開けると、中には手紙の束が入っていた。
(これ、全部——)
便箋に見覚えがあった。流れるような筆跡。品の良い蝋封。
Lからの手紙だ。
「届けられていなかったの……?」
手紙を一通ずつ確認していく。日付を見ると、ここ数年のものばかりだった。私が返事が来ないと思っていた期間——その間も、ずっと手紙は届いていたのだ。
誰かが、この箱を屋根裏に隠していた。
(誰が——いいえ、今はそんなことどうでもいい)
震える手で、一番新しい日付の手紙を開いた。
『親愛なる友へ
また、返事が届きませんでした。
もう一年以上になります。
君に何かあったのではないかと、毎日気が気ではありません。けれど、君の名前も顔も知らない私には、確かめる術がない。
それでも、書き続けることをやめられないのです。
君の手紙を読み返すことが、私の生きる理由でした。熱に浮かされる夜も、医者に匙を投げられた時も、君が教えてくれた薬草の調合法だけが、私を繋ぎ止めてくれた。
君に会いたい。
ずっと返事を待っている——L』
視界が滲んだ。
「Lさん……」
十年間、私の手紙を待ち続けてくれていた人。私が忘れられたと思っていた間も、ずっと。
封筒の裏を見て、私は凍りついた。
蝋封に押された紋章。双頭の獅子と剣を組み合わせた、この国で最も高貴な家紋。
「シュヴァルツェン公爵家……」
同じ紋章を、私は三年間見続けてきた。婚約者だったアルベルトの家の紋章。
けれど、これには微かな違いがあった。紋章の下に刻まれた小さな印——それは、嫡男だけが使用を許される特別な証だった。
「そんな……」
シュヴァルツェン公爵家の嫡男。
アルベルトではない。
ならば——
「レオンハルト様……」
病弱を理由に廃嫡された、公爵家の長男。社交界に姿を見せず、どこかの別邸で療養生活を送っていると噂される「幻の嫡男」。
その人が、Lだったの?
私は床に座り込んだまま、手紙を胸に抱きしめた。
十年間、私が全てを打ち明けてきた相手。学問への情熱も、孤独な日々のことも、いつか誰かに認めてもらいたいという願いも。
全部、全部、あの人に届いていた。
そして、あの人もまた——
私の薬草の知識で、命を繋いでいた。
「お嬢様……?」
マリアの心配そうな声が聞こえたけれど、答えることができなかった。
涙が止まらなかった。
婚約破棄の夜会では一滴も流れなかった涙が、今になって溢れて止まらない。
悲しいのではない。
嬉しいのだ。
(私を待っていてくれた人がいた)
(私の言葉を、宝物のように大切にしてくれた人がいた)
窓の外では、朝日が昇り始めていた。
新しい一日の始まり——そして、きっと、新しい物語の始まり。
私は涙を拭い、便箋とペンを取り出した。
十年越しの返事を、書かなければ。
◇◇◇
王都から馬車で半日ほどの距離にある、シュヴァルツェン公爵家の別邸。
深い森に囲まれたその屋敷で、レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンは窓辺に座り、一通の便箋を眺めていた。
『アルベルト・フォン・シュヴァルツェン様と、エリーゼ・フォン・ヴェルナー嬢の婚約破棄が発表されました——』
社交界の出来事を伝える報せ。普段なら目を通すこともない類のものだった。
けれど、その名前が目に飛び込んできた瞬間、レオンハルトの心臓は大きく跳ねた。
「エリーゼ……」
その名を口にするのは、何年ぶりだろう。
銀灰色の髪が風に揺れる。深い紺碧の瞳が、窓の外の森を見つめながら、遠い記憶を辿っていた。
あれは十年前のことだった。
熱に浮かされ、医者たちが首を横に振る中、レオンハルトは死を待つだけの日々を送っていた。まだ十五歳。公爵家の嫡男として生まれながら、病弱な体は何の役にも立たない。
父は私を見る度に溜息をつき、母は泣いてばかりいた。弟のアルベルトだけが健康に育ち、いつしか「次期当主」として扱われるようになった。
存在を忘れられていく感覚。それは、死ぬことよりも恐ろしかった。
そんなある日——
風に乗って、一通の手紙が窓から舞い込んできた。
『誰かに届きますように
私は今日、お庭でカモミールを摘みました。お母様が「眠れない夜に効くのよ」と教えてくれたお花です。
誰かに読んでもらえたら嬉しいな。
あなたは、どんな人ですか?
——名前はまだ内緒』
幼い字で綴られた、たわいもない手紙。
けれどレオンハルトは、その手紙を読んで初めて——生まれて初めて、誰かと繋がっている気がした。
「カモミール、か」
返事を書いた。熱で震える手で、必死に。
それから十年。
顔も名前も知らない相手との文通は、レオンハルトの生きる理由になった。
彼女が教えてくれた薬草の知識。様々な症状に効く調合法。医者が匙を投げた病に、それらは確かに効いた。
少しずつ、少しずつ、体は回復していった。
「君のおかげで、私は生きている」
何度、そう手紙に書いただろう。
けれど、三年前から返事が来なくなった。
何度手紙を送っても、返事は届かない。彼女に何かあったのか。それとも、私のことを忘れてしまったのか。
確かめる術はなかった。彼女の名前も、住所も知らない。魔法のような文通箱だけが繋がりだった。
それでも、書き続けた。
返事が来ないと分かっていても。
「エリーゼ・フォン・ヴェルナー」
レオンハルトは報せの紙を握りしめた。
婚約破棄。弟に捨てられた令嬢。
——伯爵令嬢。
文通相手の彼女は、伯爵家の令嬢だと手紙に書いていた。病弱で外出できない幼少期を過ごしたとも。薬草や植物学が好きで、いつか誰かの役に立ちたいとも。
「まさか……」
心臓が早鐘を打つ。
弟の婚約者。三年間、すぐ近くにいたはずの人。
「あの子だったのか」
十年間、手紙だけで繋がっていた相手。顔も知らない、けれど誰よりも深く心を通わせた人。
それが、弟に「退屈な女」と蔑まれ、公衆の面前で婚約を破棄された、あの令嬢だった。
「……アルベルト」
低い声が漏れた。
弟への怒りではない。それよりも深い、静かな激情が胸の奥で燃えていた。
彼女の価値を、何も分かっていない。
彼女の知識が、どれほど尊いものか。彼女の言葉が、どれほど温かいものか。彼女の存在が、どれほど——
「会わなければ」
レオンハルトは立ち上がった。
三年間、病が癒えてからも社交界には戻らなかった。廃嫡された身で表に出る理由がなかったからだ。
けれど今は違う。
「彼女に、会いに行く」
窓の外では、春の風が森を揺らしていた。
十年越しの想いを胸に、隠者は静かに動き出した。
◇◇◇
ヴェルナー伯爵邸の離れで暮らすようになって、一週間が経っていた。
「お嬢様、お客様がお見えです」
マリアの言葉に、私は首を傾げた。
「客? 私に?」
婚約破棄された令嬢を訪ねてくる人間など、いるはずがない。社交界での私は既に「過去の人」だ。
「それが……シュヴァルツェン公爵家の方だと」
心臓が跳ねた。
(まさか、アルベルト様が謝罪に?)
いいえ、あの方にそんな殊勝な心はない。
「どなたか、お名前は」
「レオンハルト様、と」
息が止まった。
「……お通しして」
声が震えているのが自分でも分かった。
離れの応接間に現れたのは、銀灰色の髪と紺碧の瞳を持つ青年だった。
(美しい、人)
第一印象はそれだった。
病弱だと聞いていた通り、肌は青白い。けれどその儚さが、かえって神秘的な美しさを際立たせていた。弟のアルベルトとは対照的な、静謐な佇まい。
「突然の訪問を、お許しください」
彼は穏やかな声で言った。
「レオンハルト・フォン・シュヴァルツェンと申します。弟の非礼を詫びに参りました」
「いいえ、お気遣いなく」
私は努めて冷静に答えた。けれど、心臓は激しく脈打っていた。
この人が、L。
十年間、手紙を交わし続けた相手。私の言葉を、宝物のように大切にしてくれた人。
「詫び、ということでしたら、必要ございません。婚約破棄は双方の合意の上でしたから」
嘘だ。一方的に破棄されただけだ。けれど、今さらそれを言っても仕方がない。
「……そうですか」
レオンハルト様は静かに微笑んだ。
「では、一つだけ質問をしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう」
「貴女は——」
紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。
「カモミールを摘むのは、いつもお庭の東側でしたか」
心臓が止まった。
「っ……」
「眠れない夜には、カモミールにラベンダーを少し混ぜると良い、と。私に教えてくださいましたね」
声が出なかった。
それは——十年前、私が最初の手紙に書いた内容だった。
「熱が下がらない時は、エルダーフラワーとリンデンの煎じ茶。ただし、採取するのは朝露が乾いた直後が最適」
彼は一字一句違わず、私の手紙の内容を暗唱していた。
「咳が止まらない夜には、タイムとセージの蒸気を吸い込む。その時、蜂蜜を一匙加えると喉に優しい」
「やめて……」
「春の憂鬱には、レモンバームの葉を日に干したものを枕元に。香りが心を落ち着かせる——」
「やめて、ください」
私は両手で顔を覆った。
涙が溢れていた。
「どうして……全部、覚えているの……」
「当然です」
彼の声が近づいてきた。
「貴女の手紙は、私の命を繋いでくれた。一文字たりとも忘れられるはずがない」
顔を上げると、レオンハルト様が目の前に跪いていた。
「十年間、ずっと会いたかった」
紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。そこには、これまで見たことのない熱が宿っていた。
「返事が来なくなって、諦めかけていた。けれど、諦められなかった。貴女の名前も顔も知らないのに、貴女のことばかり考えていた」
「レオンハルト様……」
「名前を」
彼は私の手を取った。
「名前を呼んでください。十年間、ずっと聞きたかった」
「……レオン」
手紙では、いつもそう呼んでいた。「親愛なるレオンへ」と。
「エリーゼ」
彼も、私の名を呼んだ。
「ずっと、待っていた」
十年分の想いが、涙と一緒に溢れ出した。
私たちは、ようやく出会えたのだ。
十年間、手紙だけで繋がっていた二人が——初めて、同じ場所で、同じ時間を過ごしている。
「……私も」
声が震えた。
「私も、会いたかった。貴方に、会いたかった」
嘘じゃない。
アルベルト様といる時も、夜会で微笑んでいる時も、私の心はいつも別の場所を向いていた。
名前も顔も知らない、「L」のことを。
その人が、今、目の前にいる。
「これからは、毎日会える」
レオンが微笑んだ。
不器用で、少し照れたような笑顔。
「手紙だけじゃなく、声で伝えられる。表情で伝えられる。触れて、伝えられる」
私の手を握る力が、少しだけ強くなった。
「十年分、取り戻させてください」
窓から差し込む陽光が、銀灰色の髪を輝かせていた。
私は涙を拭い、頷いた。
「……はい」
これは、終わりではない。
本当の物語の、始まりだ。
◇◇◇
「十年前のこと、覚えていますか」
レオンが穏やかに語り始めた。
応接間のソファに並んで座り、私たちは初めて——手紙ではなく、言葉で過去を共有していた。
「私は十五歳でした。熱が下がらず、医者たちは首を横に振るばかり。父上は私を見る度に溜息をつき、母上は泣いてばかりいた」
「……辛かったでしょう」
「ええ。死ぬことより、存在を忘れられていく感覚の方が恐ろしかった」
レオンは窓の外を見つめた。
「そんな時、一通の手紙が窓から舞い込んできたのです」
私は息を呑んだ。
「あれは——」
「『誰かに届きますように』と書かれた手紙。カモミールのことが書いてあった」
「ええ、覚えています」
幼い私が、何の気なしに窓から放った手紙。誰かに届くはずがないと思っていた。それでも、誰かと繋がりたかったのだ。病弱で外に出られない、孤独な子供だった私は。
「風に乗って、貴方の元へ届いたの?」
「ええ。奇跡としか言いようがない」
レオンが微笑んだ。
「私たちの屋敷は遠く離れていたはずなのに。けれど、確かに届いた。それが、私の人生を変えたのです」
「貴女の薬草の知識は、本当に私を救ってくれた」
レオンは私の手を取ったまま、静かに語った。
「医者が匙を投げた病に、貴女が教えてくれた調合法を試してみたのです。カモミールとラベンダーの煎じ茶。エルダーフラワーの蒸気浴。タイムとセージの吸入」
「効いたの……?」
「ええ。少しずつ、少しずつ、熱が下がっていきました。咳が収まり、夜眠れるようになり——」
「……私」
私は信じられない思いで彼を見つめた。
「ただの趣味だったの。お母様が教えてくれた知識を、誰かに話したかっただけ。まさか、それが」
「命を救ったのです」
レオンの紺碧の瞳が、深い感謝と、それ以上の感情を湛えていた。
「貴女は自分の価値を知らない。弟も、社交界も、誰も貴女の真価を見ようとしなかった」
「レオン……」
「けれど私は知っている。貴女の知識がどれほど尊いか。貴女の言葉がどれほど温かいか。貴女が——どれほど素晴らしい人間か」
涙が頬を伝った。
アルベルト様に「退屈な女」と言われた夜、一滴も流れなかった涙。けれど今、レオンの言葉で、私は泣いていた。
「ありがとう……」
初めてだった。
私の知識を、私の言葉を、こんなに真っ直ぐに認めてくれる人は。
「礼を言うのは私の方です」
レオンが静かに立ち上がった。
「今日は長居しすぎました。また、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
私は慌てて立ち上がり——足がもつれて、よろめいた。
「っ——」
レオンの腕が、私を支えた。
「……大丈夫ですか」
「え、ええ、すみません」
近い。
銀灰色の髪が私の頬をかすめる距離。紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしている。
「本当に」
レオンが小さく呟いた。
「……本当に、会えたのですね」
「レオン?」
「夢ではない。貴女は確かにここにいる。私の腕の中に」
彼の声が、かすかに震えていた。
「十年間、夢に見た。貴女に会う夢を。けれど目が覚める度に、隣には誰もいなかった」
「……私も」
同じだった。
何度、Lに会う夢を見ただろう。顔も知らないはずなのに、夢の中では確かに誰かがいた。けれど目が覚めると、温もりだけが残っていた。
「これからは」
レオンが私を抱きしめた。
「夢から覚めても、貴女がいる」
「……ええ」
私も、彼の背に手を回した。
「ここにいます。ずっと」
レオンが帰った後、私は窓辺に座り、古い文通箱を膝に乗せていた。
マリアがお茶を運んできた。
「お嬢様、良いお方ですね」
「……ええ」
「最初にお顔を拝見した時から分かりましたわ。この方は、お嬢様の本当の価値を分かってくださる方だと」
私は微笑んだ。
「マリアには敵わないわね」
「十五年、お傍にいれば分かりますわ」
マリアも微笑んで、部屋を出て行った。
私は文通箱から、一通の手紙を取り出した。
十年前、最初に届いた返事。レオンからの、最初の手紙。
『誰かへ
君の手紙が届いた。
どうやって届いたのか分からない。けれど、確かに届いた。
僕は今、病気で寝ているところ。毎日退屈で、誰とも話せなくて、少し寂しかった。
君はカモミールが好きなの? 僕は見たことがない。今度、絵を描いて送ってくれたら嬉しいな。
——名前はまだ内緒。だから、Lと呼んで』
幼い字で綴られた、たわいもない返事。
けれど、これが全ての始まりだった。
十年後の今日——私たちは、ようやく出会えた。
「L」
私は手紙を胸に抱きしめた。
貴方に会えて、良かった。
窓の外では、夕日が沈みかけていた。
オレンジ色の光が、古い文通箱を優しく照らしている。
これは、終わりではない。
十年越しの物語が、ようやく——本当の姿を見せ始めたのだ。
◇◇◇
それから一ヶ月が経った。
レオンは何度も私を訪ねてくれた。時には薬草園を一緒に歩き、時には書斎で本を読み合い、時には何も言わず、ただ同じ空間で過ごした。
手紙だけで繋がっていた十年間とは違う、新しい関係が少しずつ築かれていく。
「エリーゼ、この花は何という名前ですか」
「それはエキナセア。免疫を高める効果があるの。風邪の引き始めに煎じて飲むと良いわ」
「なるほど。貴女の知識は本当に尽きませんね」
「からかわないで」
「からかってなどいませんよ。心から感嘆しているのです」
レオンの穏やかな笑顔を見る度に、胸が温かくなる。
アルベルト様といた三年間では、一度も感じたことのない感覚だった。
その日、思いがけない知らせが届いた。
「シュヴァルツェン公爵家で醜聞ですって」
マリアが社交界の噂話を持ってきた。
「アルベルト様の愛人——ロゼッタ・メルヴィス嬢の本性が暴かれたそうです」
「本性?」
「ええ。あの方、最初から公爵家の財産目当てだったらしいのです。没落しかけた男爵家を救うために、アルベルト様に取り入ったと」
私は眉を上げた。
(まあ、予想通りね)
あの大きな翠緑の瞳の奥に、計算高い光が宿っているのは、最初から気づいていた。けれど、アルベルト様には見えなかったのだろう。見たくなかったのかもしれない。
「それだけではありません。あの方、アルベルト様の名で方々に借金をしていたそうです。宝石、ドレス、馬車——すべて公爵家の信用で」
「……それは大変ね」
他人事のように言ったのは、本当に他人事だったからだ。
もう私には関係のない世界。
「公爵家は大変な窮地に立たされているとか。ハインリヒ公爵様もご立腹で——」
マリアの言葉が、不意に途切れた。
「お嬢様、また客人です」
別の使用人が駆け込んできた。
「シュヴァルツェン公爵家から——アルベルト様が」
心臓が、一瞬だけ跳ねた。
応接間に現れたアルベルトは、一ヶ月前とは別人のようだった。
艶のあった黒髪は乱れ、切れ長の琥珀色の瞳には焦りが浮かんでいる。傲慢に輝いていた美貌は、今や疲労と後悔に蝕まれていた。
「エリーゼ」
彼は私の名を呼んだ。一ヶ月前、夜会で「退屈な女」と蔑んだその口で。
「……久しぶりですね、アルベルト様」
私は冷静に椅子を勧めた。
「お座りください」
「エリーゼ、聞いてくれ」
アルベルトは座ることもせず、私に詰め寄ってきた。
「ロゼッタに騙されていたんだ。あの女は——最初から金目当てで——」
「存じております」
私は彼の言葉を遮った。
「噂は聞いておりますわ。大変でしたね」
「他人事のように言うな!」
アルベルトが声を荒げた。
「君を捨てたのは間違いだった。認める。だから——」
「だから?」
「復縁してくれ」
私は瞬きをした。
「……何を仰っているの」
「君しかいないんだ、エリーゼ。伯爵家の財力、君の知性、全てが必要なんだ。公爵家を救えるのは君だけだ」
(ああ、この人は)
私は心の中で溜息をついた。
(何も変わっていないのね)
財力。知性。全て、私自身ではなく、私の持ち物を見ている。
「公爵家を救うために、私と復縁したいと」
「そうだ」
「私を愛しているから、ではなく」
「……それは」
アルベルトが言葉に詰まった。
私は静かに立ち上がった。
「お断りいたします」
「っ——待て!」
「三年間、貴方の傍にいました」
私は彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「一度でも、私の話を聞いてくださいましたか。薬草のことを話せば『女が学問など』。星座の話をすれば『そんなことより髪型は』」
「そんな昔のことを——」
「昔ではありません。つい一ヶ月前まで続いていたことです」
私の声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「貴方が見なかった私を、見てくださる方がおります」
「何……?」
「私の知識を認め、私の言葉に耳を傾け、私という人間を大切にしてくださる方が」
アルベルトの顔色が変わった。
「誰だ。誰がいる」
「お教えする義理はございません」
私は扉に向かって歩き出した。
「お帰りください、アルベルト様。私にはもう、貴方にお渡しできるものはありません」
「待て! 僕を見てくれ、エリーゼ!」
彼が叫んだ。
けれど私は振り返らなかった。
一ヶ月前の夜会で、私がそうしたように。
「さようなら、アルベルト様」
扉が閉まる音が、静かに響いた。
廊下を歩いていると、マリアが駆け寄ってきた。
「お嬢様、大丈夫でしたか」
「ええ、大丈夫よ」
私は微笑んだ。
不思議と、心は凪いでいた。
一ヶ月前、婚約破棄を告げられた時と同じように。いいえ、あの時よりもずっと穏やかに。
「あの方は、最後まで私を見ていなかったわね」
「お嬢様……」
「でも、いいの」
私は窓の外を見た。
陽光が薬草園を照らしている。レオンと一緒に歩いた道が、キラキラと輝いていた。
「私を見てくれる人が、いるから」
十年間、手紙だけで繋がっていた人。
私の全てを知り、私の全てを愛してくれる人。
「マリア、レオン様にお手紙を出してちょうだい」
「はい、お嬢様。何とお書きになりますか」
私は少し考えて、微笑んだ。
「『今日も貴方に会いたい』と」
窓の外で、春の風が花びらを舞い上げていた。
◇◇◇
アルベルトが去ってから数日後——
私は再び、予期せぬ来客を迎えていた。
「ハインリヒ公爵様がお見えです」
マリアの報告に、私は思わず眉を上げた。
公爵本人が、婚約破棄した令嬢の元を訪れる。前代未聞のことだった。
応接間に現れたハインリヒ公爵は、噂通りの厳格な面持ちだった。白髪交じりの黒髪、険しい眉間。けれどその目には、疲労と——何か別の感情が宿っているように見えた。
「突然の訪問を許されよ、ヴェルナー嬢」
公爵は深々と頭を下げた。
「っ——」
私は驚いて立ち上がった。公爵が伯爵令嬢に頭を下げるなど、あり得ないことだ。
「公爵様、お顔を上げてください」
「いや」
公爵は顔を上げなかった。
「詫びねばならぬことがある。我が息子——アルベルトの非礼を」
「それは——」
「夜会での婚約破棄、その後の醜聞、そして先日の非礼な訪問。全て報告を受けている」
公爵がようやく顔を上げた。
「儂は息子たちの本質を、何も見ていなかった」
「公爵様……」
「レオンハルトを病弱だからと廃嫡し、アルベルトを甘やかして育てた。その結果がこれだ」
公爵の声が震えていた。
「レオンハルトは独力で病を克服し、アルベルトは愚かな女に騙されて家を傾けた。見るべきものを見ず、育てるべきを育てなかった儂の過ちだ」
私は黙って聞いていた。
「レオンハルトに爵位継承権を返還することにした」
「……え?」
「あの子こそが、公爵家を継ぐべき器だった。今更遅いかもしれぬが、せめて正すべきは正したい」
公爵が真っ直ぐに私を見た。
「そして——レオンハルトから聞いている。貴女との文通のこと。貴女の薬草知識があの子を救ったこと」
心臓が跳ねた。
「貴女は、我が家の恩人だ」
公爵が再び頭を下げた。
「謝罪と——感謝を伝えに参った」
公爵が帰った後、私は庭に出た。
春の風が、薬草園の香りを運んでくる。カモミール、ラベンダー、エルダーフラワー——十年前から育ててきた、私の宝物たち。
「エリーゼ」
聞き慣れた声がした。
振り返ると、レオンが立っていた。銀灰色の髪が風に揺れ、紺碧の瞳が陽光を受けて輝いている。
「公爵様から聞いたわ。爵位継承権、戻ったのね」
「ええ」
レオンが近づいてきた。
「けれど、今日来たのはそのためではありません」
「?」
「父上の謝罪より先に、伝えたいことがあった」
彼が私の前に跪いた。
——まるで、最初に会った日のように。
「レオン?」
「エリーゼ」
紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見上げた。
「十年間、ずっと想っていた。顔も名前も知らない貴女を、ずっと」
「……」
「貴女の言葉で私は生き延び、貴女の知識で私は救われた。貴女がいなければ、私は今ここにいない」
彼の声が、かすかに震えていた。
「謝罪ではなく、求婚をさせてほしい」
心臓が、激しく脈打った。
「十年越しの——求婚を」
レオンが私の手を取った。
「私と、共に歩んでくれませんか」
春の風が、私たちの間を吹き抜けた。
花びらが舞い、陽光がきらめく。まるで世界が祝福しているかのように。
私は涙を流していた。
嬉しくて、嬉しくて、言葉が出なかった。
「返事を——」
「はい」
声が震えた。
「はい、喜んで」
レオンが立ち上がり、私を抱きしめた。
「ありがとう。ありがとう、エリーゼ」
「私こそ……」
十年間、待っていてくれた人。私の全てを見て、私の全てを愛してくれる人。
ようやく、出会えた。
ようやく、結ばれた。
「これからは、手紙だけでなく」
レオンが耳元で囁いた。
「毎日、同じ屋根の下で言葉を交わせる」
「……ええ」
「毎日、貴女の顔を見て目覚められる」
「ええ」
「毎日——」
「レオン」
私は彼の言葉を遮り、微笑んだ。
「分かっているわ。だから——」
背伸びをして、彼の唇に触れた。
◇◇◇
夕暮れの薬草園で、私たちは並んで座っていた。
「文通箱は、どうしましょうか」
私が問うと、レオンは優しく微笑んだ。
「大切にしまっておきましょう。私たちの宝物として」
「……それも良いけれど」
私は彼の手を取った。
「これからも、時々手紙を書かない?」
「手紙を?」
「ええ。同じ屋敷にいても、言葉では伝えきれないことがあるでしょう。そんな時は——」
「文通箱に手紙を入れる」
レオンが笑った。
「貴女らしい提案だ」
「いけないかしら」
「いいえ。素晴らしい」
彼は私の額にキスを落とした。
「これからも、よろしくお願いします——親愛なる私の花へ」
それは、十年間の手紙でずっと使っていた呼びかけだった。
私は涙を堪えながら、微笑み返した。
「こちらこそ——親愛なるLへ」
◇◇◇
一年後——
公爵夫人となった私は、領地の薬草園を大きく広げ、領民たちに薬草の知識を教えていた。
「奥様、今日も大人気ですね」
マリアが笑いながら言う。
「皆さん、熱心に学んでくださるの。嬉しいわ」
「退屈な女」と蔑まれた知識が、今は多くの人の役に立っている。
そして——
「エリーゼ」
窓の外から、レオンの声がした。
「お茶の時間だよ。今日は特別なお菓子を用意した」
「今行くわ」
私は立ち上がり、ふと窓辺の棚を見た。
そこには、古い文通箱が置いてある。今でも時々、手紙を交わす私たちの宝物。
「幸せ?」
マリアが問う。
「ええ」
私は微笑んだ。
「とても」
十年間、手紙だけで繋がっていた二人。
今は同じ屋根の下で、毎日言葉を交わしている。
軽んじられた令嬢の真の価値が認められた物語——
これは、その始まりであり、幸せな結末。
けれど同時に、新しい物語の始まりでもある。
これからも私たちは、手紙を交わし続けるだろう。
親愛なる貴方へ——と。
【完】




