第十話「名前の重さ」
お読みいただきありがとうございます。
第10話、物語の大きな転換点です。
「処刑人さん」と「聖女」。
記号で呼び合ってきた二人が、初めて「名前」を交わします。
灰の隠れ里に来て、二週間が過ぎた。
俺はすっかり「里の癒し手」として定着していた。
朝から晩まで、怪我人や病人の手当てに追われる日々。
忙しいが、悪くない。
誰かに必要とされている。
その実感が、俺の心を少しずつ満たしていた。
【月夜】
その夜は、満月だった。
坑道の外に出ると、青白い月明かりが森を照らしている。
俺は岩に腰を下ろし、夜空を見上げた。
「……ここにいたの」
聖女の声がした。
「眠れないのか」
「少しだけ」
彼女は俺の隣に座った。
しばらく、二人で黙って月を見ていた。
「ねえ」
やがて、聖女が口を開いた。
「一つ、お願いがあるの」
「何だ」
「……名前を、教えてほしい」
俺は彼女を見た。
聖女は真っ直ぐに俺を見つめていた。
月明かりに照らされた銀髪が、淡く輝いている。
「前にも言っただろう。お前が自由になった時に――」
「分かってる」
聖女が俺の言葉を遮った。
「でも、もう待てないの」
【処刑人さん】
「私、ずっと『処刑人さん』って呼んできた」
聖女が膝を抱えた。
「最初は、それしか呼び方を知らなかったから。でも今は違う」
「……」
「あなたは処刑人じゃない。処刑人の『技術』を持ってるだけ。……でも、それを人を救うために使ってる」
彼女の声が、少し震えた。
「私を助けてくれた。ミラを助けてくれた。里の人たちを助けてくれた。……それなのに、私はまだあなたを『役割』で呼んでる」
聖女が俺を見た。
「それが、嫌なの」
俺は黙っていた。
名前。
俺の名前は、カイン・ヴェルデ。
処刑人一族の三男坊。
「出来損ない」と呼ばれ、家族からは「三男」としか呼ばれなかった。
名前で呼ばれた記憶は、ほとんどない。
「……俺の名前に、大した意味はない」
俺は呟いた。
「ヴェルデ家では、三男は三男だ。名前なんて、誰も使わない」
「でも、あるんでしょう?」
「……ある」
「なら、教えて」
聖女が俺の手を取った。
「私は、『処刑人さん』じゃなくて、『あなた』を知りたいの」
【カイン】
俺は長い間、黙っていた。
名前を教える。
それは、単なる情報の交換じゃない。
「処刑人の息子」という鎧を脱いで、一人の人間として向き合うということだ。
怖かった。
名前を知られることが。
本当の自分を見られることが。
でも。
彼女の目を見ていると、その恐怖が薄れていく。
「……カイン」
俺は口を開いた。
「俺の名前だ。カイン・ヴェルデ」
聖女の目が、大きく見開かれた。
「カイン……」
彼女が俺の名前を呼んだ。
不思議な感覚だった。
自分の名前が、こんなに温かく響くとは思わなかった。
「カイン」
聖女がもう一度、俺の名前を呼んだ。
「……いい名前ね」
「そうか?」
「ええ」
彼女が微笑んだ。
「あなたに、ぴったりだと思う」
【リーリア】
「……じゃあ、次は私の番ね」
聖女が姿勢を正した。
「私の名前は知ってるでしょう? 処刑の通達で」
「リーリア・アステル。……ああ、知ってる」
「違うの」
聖女が首を振った。
「あれは『聖女リーリア・アステル』。教会が付けた名前よ」
「……どういうことだ」
「『アステル』は聖女の称号なの。代々の聖女は、みんな『アステル』を名乗らされる」
俺は知らなかった。
「じゃあ、お前の本当の名前は」
「リーリア」
彼女が言った。
「ただの、リーリア。……それが、私の名前」
聖女が――いや、リーリアが、俺の手を握った。
「今、私があなたに教えたのは、『聖女』の名前じゃない。『私』の名前よ」
俺は彼女を見た。
月明かりに照らされた彼女の顔は、穏やかだった。
もう、震えていない。
もう、怯えていない。
「よろしくね、カイン」
彼女が手を差し出した。
俺はその手を握り返した。
「……ああ。よろしく、リーリア」
【二人の名前】
この瞬間、俺たちは変わった。
「処刑人」と「聖女」ではなくなった。
カインとリーリア。
ただの、二人の人間になった。
「……なんか、変な感じ」
リーリアが笑った。
「何がだ」
「名前で呼ばれるの、久しぶりだから」
「……俺もだ」
俺たちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「もう一回、呼んでいい?」
「……好きにしろ」
「カイン」
リーリアが俺の名前を呼んだ。
「カイン、カイン、カイン」
「……何回呼ぶんだ」
「だって、嬉しいんだもの」
彼女は本当に嬉しそうだった。
こんな顔をするのか、と思った。
牢獄で出会った時の、震える笑顔とは全然違う。
「……リーリア」
俺も、彼女の名前を呼んでみた。
「何?」
「いや、呼んでみただけだ」
リーリアが目を丸くして、それから笑った。
「……あなたも、嬉しいんでしょ」
「……さあな」
俺は目を逸らした。
でも、否定はしなかった。
【約束】
「ねえ、カイン」
リーリアが俺の隣に寄り添った。
「これからも、名前で呼んでいい?」
「……ああ」
「約束よ」
「何の約束だ」
「もう、『処刑人さん』とか『聖女』とか、呼ばないって約束」
リーリアが小指を差し出した。
「指切り、知ってる?」
「……子供かお前は」
「いいから」
俺はため息をついて、小指を絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら……」
「……何だ、その続き」
「知らないの? 嘘ついたら針千本飲ます、よ」
「物騒だな」
「でしょう?」
リーリアが笑った。
「だから、約束は絶対。……ね、カイン」
俺は小さく笑った。
「ああ、分かった。……リーリア」
月が雲に隠れ、一瞬だけ辺りが暗くなった。
その闇の中で、二人の影が一つに溶けていた。
【夜明け前】
俺たちは夜明けまで、二人で話していた。
他愛のない話。
里での出来事。
マルタ婆の小言。
子供たちの悪戯。
でも、その全てが違って聞こえた。
名前を知っているだけで、こんなに違うのか。
「……そろそろ戻るか」
空が白み始めた頃、俺は立ち上がった。
「うん」
リーリアも立ち上がる。
「ねえ、カイン」
「何だ」
「ありがとう」
「……何がだ」
「名前、教えてくれて」
俺は何も言えなかった。
ただ、彼女の頭をぽんと叩いた。
「……寝坊するなよ」
「しないわよ」
俺たちは並んで、坑道へと戻っていった。
空には、朝焼けが広がり始めていた。
新しい一日が始まる。
俺は――カインは、隣を歩く彼女を見た。
彼女は――リーリアは、穏やかに微笑んでいた。
それだけのことが、こんなにも眩しかった。
第10話、「名前」の回でした。
「処刑人さん」と「聖女」から、
「カイン」と「リーリア」へ。
たった一つの名前を交わすだけで、
二人の関係は大きく変わりました。
これからは地の文でも「カイン」「リーリア」と呼びます。
二人の物語は、ここから新たなステージへ。
「名前のシーン泣いた!」「二人の関係最高!」と思っていただけたら、
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