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もし、私のそばに来るなら、どうかずっといて!  作者: 八爺
第二章 光と影のあいだで
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第一章 海の色を描く少女

春の潮風が、まだ冷たさを残していた。

放課後の美術室、窓の外には淡い海の色。

私はただ、その色をキャンバスに映していただけ。

そこへ、見慣れない制服の少年が現れた。

「…何を描いてるの?」

振り向いた瞬間、時間が少しだけ止まった気がした。

あの日から、私の世界は静かに、そして確かに揺れ始めた。

第一章 海の色を描く少女


 春の潮風には、まだ冬の冷たさが残っている。校舎の窓から差し込む午後の光はやわらかく、廊下を歩くたびに、かすかな海の匂いが鼻をくすぐった。ここは海沿いの町で、生まれた時からこの匂いと共に暮らしてきた私は、海の色を描くことが何よりも好きだった。


 放課後、美術室には私ひとりしかいなかった。クラスメイトたちは部活に行ったり、帰宅したり。静まりかえった部屋の中で、窓を開け放つと、少し強い風がカーテンを揺らす。その向こう、校庭を、そして町並みを越えて、遠くに海が見える。冬と春の境目のせいか、海はまだ深く冷たい青に沈んでいた。


 私はイーゼルに立てかけたキャンバスに向かい、細い筆を手に取った。筆先が絵の具をすくい、青に白を少し混ぜる。微妙な色の変化を確かめながら、静かに筆を動かす。キャンバスの上で波が形になっていく瞬間が、いつだって私を安心させた。


 心臓が、時々、規則を忘れたように脈打つのを感じながらも、私は筆を止めなかった。小さい頃からの持病。体育はいつも見学、走ることもできない。誰かに知られるのが嫌で、友達にも詳しく話したことはない。だからこうして、美術室で静かに絵を描く時間が、私にとっていちばん落ち着く瞬間だった。


 「……何を描いてるの?」


 不意に背後から声がして、私は肩をびくりとふるわせた。振り向くと、見慣れない制服の、小さな笑みを浮かべた少年が立っていた。少し乱れた前髪が光に透けて、茶色く見える。制服は同じ学校のものだけれど、私のクラスにはいない顔。いや、今日の朝、職員室前で担任と話していた姿を、ぼんやりと見た気がする。


 「あ……転校生、さん?」


 「うん。藤原翔太。今日からこの学校に通うことになったんだ。」


 彼は窓の外に目をやってから、私のキャンバスに視線を戻した。「きれいな海だね。本物みたいだ。」


 褒められることに慣れていない私は、思わず視線を落とした。「……ありがとう。」


 「美術部?」と彼は訊く。


 「違う。ただ、放課後にここで描くのが好きなだけ。」


 そう答えると、翔太は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに穏やかに笑った。「いいな。俺、美術は苦手かもしれないけど、見るのは好き。なんか、落ち着く。」


 その言葉に、ほんのわずか胸が温かくなった。


 翔太は窓際に近づき、外を見ながら「この町、海が近くていいね。前に住んでたところは内陸だったから、潮の匂いもこんな風に感じたことなかったんだ」と呟いた。


 「……潮風は、春になっても冷たいけどね。」私はつい、そう返してしまう。


 彼は笑った。「でも、それも含めて好きになりそうだな。」


 数分間、私たちは特に会話もなく、美術室の静けさと海の音に耳を傾けた。遠くから聞こえるのは、波が砂浜をさらう音、そしてかすかなカモメの声。


 やがて翔太がふいに口を開いた。「ねえ、この後少しだけ、海まで案内してくれない? まだ場所もよくわからなくてさ。」


 私は筆を置き、迷った。家に帰る時間を少し遅らせれば、身体に負担になることもある。それでも――不思議と断れなかった。「……いいよ。」


---


 美術室を出て、校庭を抜け、住宅街を歩く。夕暮れが近づく空は、うっすらと桃色に染まっていた。翔太は歩調を合わせ、時折笑顔で話しかけてくれる。


 「このあたりって、なんか懐かしい感じがするな。古い商店や路地が多くて。」


 「観光客は駅前しか行かないけど、路地に入ると昭和のままみたいな場所も多いよ。」


 そんな他愛ない会話をしているうちに、視界の先に海が広がった。夕日を反射してきらめく水面。潮の匂いが強くなり、風が頬に触れる。


 「わあ……」翔太は思わず声を上げた。「本当に、すぐそこなんだな。」


 波打ち際まで降りていくと、砂はまだ冷たく、足元が少し沈む。私はこの感覚が昔から好きだった。翔太は靴を脱ぎ、裸足で水際まで入る。「冷たいっ……けど気持ちいい!」


 私は笑ってしまった。「そんなに入ったら風邪ひくよ。」


 「大丈夫、大丈夫。」


 夕暮れの光が翔太の横顔を照らし、その表情はどこまでも無邪気だった。胸の奥が、不意にぎゅっと締めつけられる。――この瞬間が、ずっと続けばいいのに。そんなことを思った。


---


 帰り道、翔太がふいに言った。「今日、話せてよかった。これからも……少しずつ、この町と君のこと、知っていけたらいいな。」


 私は一瞬、返事に詰まった。心のどこかで、そんな約束をしてはいけないと感じていたから。私には未来が保証されていない。それでも……「うん」と小さく答えてしまった。

 その瞬間から、私の世界は静かに、そして確かに揺れ始めたのだ。


---


(第一章・了)

白くかすむ海の向こうに、春はもう近いはずだった。

波の音に混じって、君の笑い声がまだ聞こえる気がする。

もし、君が私のそばに来るなら、どうかずっといて。

そう願ったあの日の私に、今なら答えられる。

——ごめんね、先に約束を破ったのは、私の方だったね。

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