転生料理人ルシリアは至高の一皿を夢見る
プロローグ:灰色の記憶、瑠璃色の夜明け
厨房は、硝煙ならぬ湯気と油の匂いが絶えず立ち込める、硝子張りの戦場だった。鋭い金属音が飛び交い、シェフのフランス語の鋭い指示が響き渡る。秒単位で緻密な調理が繰り広げられるその場所は、日本のガストロノミー界で頂点を目指す者たちが集う、ミシュラン三つ星の栄誉を至上命題とするフレンチレストラン。
若き料理人、水野 桜は、その極限状態の中で、鬼才と畏怖される師匠・藤堂の峻烈な指導に、必死で食らいついていた。
「料理は心だ! 技術なぞ、心を伝えるための道具に過ぎん! その道具に振り回されるな、桜!」
師匠の言葉は、鋭利な刃のように桜の未熟な胸を抉り、同時に、暗闇を照らす確かな道標ともなった。
国内最大級の料理コンクールが間近に迫っていた。桜は文字通り寝食を忘れ、来る日も来る日も試作に没頭していた。コンクールのテーマは「記憶に残る一皿」。彼女が全身全霊を傾けていたのは、幼い日に祖母・咲子が作ってくれた、あの素朴で滋味深い野菜スープ。それを、前世――いや、この人生で培ってきた最高の技術と感性で、現代フレンチとして再構築すること。そして、今は認知症が進み、愛情を注いでくれた孫娘の顔さえおぼろげになってしまった祖母に、どうしても届けたかったのだ。
『おばあちゃんの料理は、人を幸せにする魔法みたいね』
幼い日の自分が、そう言って無邪気に笑った顔を覚えている。祖母の温かい笑顔と、あの言葉を、もう一度だけでいいから引き出したい。最高の料理で、閉ざされた記憶の扉を、ほんの一瞬でも開くことができたなら。それは、単なる料理人としての矜持を超えた、孫娘としての切なる、切なる願いだった。
ライバルであり、唯一無二の戦友でもあった同僚の健吾と、互いに火花を散らし、時に励まし合いながら、迎えたコンクール前夜。厨房には、蓄積された極度の疲労と、それを凌駕するほどの、異様な高揚感が満ち満ちていた。あと少し。あと少しで、桜の料理人人生を賭けた一皿が完成するはずだった。
だが、運命の糸は、あまりにも唐突に、そして残酷なまでに無慈悲に断ち切られた。
連日の徹夜による疲労の蓄積か、あるいは一瞬の気の緩みだったのか。熱気に浮かされた思考の中、手元が狂った。沸騰したコンソメの鍋が傾き、灼熱の液体が容赦なく桜の身体に降り注いだのか。あるいは、極度の疲労でふらついた足元が滑り、鋭利な包丁が予期せぬ軌道を描いたのか……もう、定かではなかった。
ただ、急速に意識が白濁し、世界が音と色彩を失い、遠のいていく感覚だけが、恐ろしいほどリアルだった。
薄れゆく意識のスクリーンに、次々と走馬灯のように映し出されるのは、慈愛に満ちた祖母の笑顔、厳しさの奥に深い期待を秘めていた師匠の眼差し、悔しさと友情がない交ぜになった健吾の複雑な顔……。
「ごめんなさい……まだ、作りたかった……食べたかった……届けたかった……おばあちゃんに……」
料理への尽きせぬ渇望と、果たせなかった約束への深い無念だけが、桜の魂に、まるで焦げ付くように、強く、強く刻み込まれた。
次に意識の浮上を感じた時、桜は自分が自分でないという、根源的な恐怖に襲われた。
そこは見慣れた厨房ではなく、豪奢だがどこか冷たい空気が漂う、大きな天蓋付きのベッドの上だった。自分の手は驚くほど小さく、繊細で、まるで精巧な陶器のようだった。恐る恐る銀の手鏡を覗き込むと、そこに映っていたのは、陽光を閉じ込めたかのような金色の絹糸の髪と、夜空の深さを宿したような瑠璃色の瞳を持つ、見知らぬ絶世の美少女。
周囲に控える侍女たちは、その少女を敬意と、そしてどこか憐憫の入り混じった複雑な声音で「ルシリア様」と呼んだ。
言葉も通じない。文化も違う。何もかもが理解を超えた、全くの異世界。
ここはどこ? 私は誰?
激しい混乱と、正気を失いそうなほどの孤独感の中、自分が隣国の、しかも忘れられかけた王女として転生したという、あまりにも荒唐無稽な事実を、ルシリア――かつての桜は、長い時間をかけて、受け入れていくしかなかった。
第一章:毒の城、母の祈りと逃亡の夜
しかし、王女としての生活は、物語で語られるような華やかで幸福なものでは到底なかった。それは、美しく飾られた金の籠、あるいは巧妙に隠された冷たい牢獄に等しかった。
父である国王アルベールは、かつての覇気も情熱も失い、政務の重圧と、複雑な後継者問題に疲れ果てていた。ルシリアとその母である王妃セレスティナには、もはや無関心に近い、冷淡な態度を示すだけだった。
実質的な権力は、野心的な正妃イザボーとその息子、冷徹で計算高いクロード第一王子に完全に掌握されていた。彼らは、元踊り子という低い出自を持つとされるセレスティナと、その娘であるルシリアを公然と蔑み、その存在を宮廷から抹消しようと、水面下で様々な策謀を巡らせていた。
病弱で、常に宮廷の廷臣たちの悪意と陰口に晒され続けた母セレスティナは、心身ともに深く衰弱しきっていた。だが、娘にだけは、最後の力を振り絞るかのように、必死の形相で囁き続けた。
「気を付けて、私の可愛いルシリア。決して気を許してはなりません……この城は、蜜を塗った刃、美しい毒蛇が潜む巣なのですから」
母の言葉は、決して誇張ではなかった。ルシリアの食事には常に毒見役がつき、周囲には見えない悪意と監視の目が光っている。ルシリアは常に張り詰めた空気の中で、いつ降りかかるとも知れない危険に怯えながら、息を潜めて生きていた。前世で料理に注いだ情熱など、今は思い出す余裕すらなく、ただ生き延びることだけが全てだった。
やがて、母セレスティナの病状は誰の目にも明らかなほど悪化し、正妃派の陰謀は、もはや隠されることもなく牙を剥き始めた。母は、自らの命が残り僅かであることを静かに悟り、せめて娘だけでもこの毒の城から逃し、自由な世界で生きてほしいと、切に願った。
古くから母に仕え、絶対の忠誠を誓う老騎士ゴドフリー。母は、彼にルシリアの未来の全てを託すことを決意する。
別れの夜。衰弱しきった細い手で、母は家宝である古代魔法が付与されたという、瑠璃色の宝石が嵌め込まれた守護のペンダントを、ルシリアの首にかけた。宝石は、まるで母の魂の光を宿したかのように、淡く、温かい光を放っている。
「強く生きなさい、ルシリア。私の光、私の希望……どんな苦難の中にあっても、決してあなたの心の中にある太陽を失わないで……」
涙で滲む母の最期の顔を、幼い胸に深く、深く刻み込み、ルシリアはゴドフリーの逞しい腕に抱かれた。城の秘密通路を、息を殺して進む。冷たい石壁を伝う湿気が、まるで未来の厳しさを暗示しているかのようだ。
瑠璃色の月が、まるで逃亡者たちの行く末を見守るかのように、静かに地上を照らしていた。追手の気配に怯えながら、質素な馬車は王都の石畳を後にする。もう二度と、振り返らない。愛した母の最後の願いを胸に、灰色の過去に決別し、何としてでも生き抜くことを、ルシリアは幼い胸に強く、強く誓った。
それは、想像を絶するほど過酷な逃亡の旅の始まりだった。険しい山越え、飢えと寒さとの絶え間ない戦い、容赦なく襲い来る盗賊との遭遇。ゴドフリーは、何度も傷つきながらも、その老練な剣技とサバイバルの知恵で、必死にルシリアを守り抜いた。彼はルシリアに、火の起こし方、食べられる野草の見分け方、危険な獣から身を守る術など、生き抜くための様々な知識と術を授けた。彼の広く、幾多の戦いの傷跡が刻まれた背中だけが、絶望的な状況の中で、幼いルシリアにとって唯一の温もりであり、揺るぎない盾だった。
第二章:辺境の風、魂の再生と七色の温もり
幾多の困難を乗り越え、長い苦難の旅の果てに、ルシリアとゴドフリーがようやく辿り着いたのは、王国の北端に位置するグライフシュタイン辺境伯領だった。厳しい自然の中に、まるで大地から直接生え出たかのように聳え立つグライフシュタイン城。その石造りの城壁は、長年の風雪と、幾度もの戦いの歴史をその身に深く刻み込み、質実剛健ながらも揺るぎない威厳を漂わせていた。
領主である辺境伯ジークフリートは、伝説の熊をも彷彿とさせる、威圧的なほどの巨躯の持ち主だった。戦場では鬼神と恐れられる彼だったが、その鋭い鷲のような眼差しは、多くを語らずとも、ルシリアが背負ってきたものの重さと、彼女の瞳の奥に宿る深い悲しみを、静かに理解しているようだった。
「ここでは誰もがお前の過去を詮索せん。王都のしがらみも、隣国の因縁も、この北の厳しい風が吹き飛ばしてくれるだろう。ただ、己の足で立ち、強く生きろ。それだけでいい」
彼の妻であり、辺境伯夫人であるエルヴィラは、かつて高名な治癒師であったという、穏やかで聡明な女性だった。彼女は、ルシリアの瞳の奥に潜む深い悲しみと、容易には解けない警戒心を見抜き、まるで本当の母親のように、温かく、そして細やかな愛情で包み込んでくれた。城内は、王宮のような華美な装飾こそないものの、隅々まで手入れが行き届き、大きな暖炉には常に温かい火が燃え、厳しい外気とは裏腹な、確かな生活の温もりが満ちていた。
辺境伯家には、ルシリアより少し年上の、まるで辺境の風そのもののように快活で、太陽のような少年がいた。辺境伯家の次男、シルヴァンだ。
深い森の中で、ゴドフリーに教わった薬草を探していたルシリアが偶然出会った彼は、泥まみれの顔に太陽のように屈託のない笑顔を浮かべ、警戒心で固まっていたルシリアに臆することなく、人懐っこく話しかけてきた。
「よう! 君、見たことない顔だな。もしかして迷子か? 大丈夫、ここは俺の庭みたいなもんだからさ、城まで案内してやるよ!」
彼の裏表のない明るさと、少し強引だが根は優しい気遣いに、ルシリアの凍てついていた心は、戸惑いながらも、ゆっくりと、しかし確実に溶かされていった。シルヴァンは彼女を連れ出し、辺境の雄大な自然の素晴らしさを次々と教えた。秘密の滝壺のきらめき、古の精霊が宿ると言い伝えられる巨木の森の荘厳さ、夜空を埋め尽くし、まるで手が届きそうに輝く満天の星々の美しさ。それは、息苦しい王宮の、手入れされすぎた庭園では決して知ることのできなかった、世界の広さと、生きていることの本来の輝きだった。
しかし、長旅と心労、そして幼い頃からの栄養不足は、ルシリアの小さな身体を限界まで蝕んでいた。エルヴィラ夫人は、自身の治癒師としての深い知識と経験、そして母としての温かい愛情を注ぎ込み、ルシリアのために特別なスープを作ってくれた。
大きな鉄鍋の中では、七種類以上の、地元で採れた滋養豊かな野菜(鮮やかなルビー色のビーツ、深いエメラルド色の葉物野菜、太陽のようなトパーズ色のカボチャ、大地の香りが凝縮された根菜など)が、ことことと音を立てて煮込まれている。そこへ、乾燥させて旨味を凝縮した森の茸、燻製にした力強い味わいの熊肉が加えられ、さらに心を落ち着かせ、身体を芯から温めるという、エルヴィラ秘伝のハーブ(カモミール、リンデン、エルダーフラワー、そして辺境特有の希少な薬草)が、惜しげもなく投入された。
エルヴィラは、何時間もかけてじっくりと煮込んだスープの鍋に、静かに手をかざし、古くから伝わる癒しの祈りを囁く。すると、スープの表面に温かい光の粒子がふわりと浮かび上がり、溶け込んでいくのが見えた。それが、辺境伯家に代々伝わるという「七色の恵みスープ」だった。
琥珀色の澄んだ液体の中に、宝石さながらの色とりどりの野菜が美しく散りばめられ、立ち上る湯気は、複雑でありながらどこまでも優しく、魂を包み込むようなハーブの香りを放っていた。ルシリアは、差し出された木製のスプーンを、恐る恐る手に取った。王宮での毒殺の恐怖が、まだ心の奥底に影を落としている。しかし、エルヴィラの慈愛に満ちた瞳と、隣で心配そうに見守るシルヴァンの真剣な眼差しが、彼女の背中をそっと押してくれた。
意を決して、一口含む。
まず舌に広がったのは、様々な食材から丁寧に溶け出した、深く滋味深い旨味。そして、体の芯からじんわりと、しかし力強く温かさが広がっていく。それは単なる物理的な熱さではなく、長年心と体に溜め込んできた、冷たく重い澱のようなものが、ゆっくりと、優しく溶かされていくような、不思議な感覚だった。
前世の記憶の中でも、そしてこの過酷な異世界に来てからも、一度として味わったことのない、深い慈愛と生命力に満ちた味。
気づけば、ルシリアの瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ出ていた。それは悲しみの涙ではなかった。初めて「安全で、心のこもった温かい料理」を口にした感動、そして「生きている」という、忘れかけていた確かな実感からくる、魂の奥底からの喜びの涙だった。
エルヴィラは何も言わずに、優しくルシリアの背中をさすり、そばにいたシルヴァンは、驚きながらも、力づけるように、そっと彼女の冷たい手を握ってくれた。
「美味しい……温かい……生きてて、よかった……」
か細い声で呟かれたその言葉は、ルシリアにとって、文字通り魂の再生の儀式の始まりとなった。この一杯のスープが、彼女の閉ざされた心と、料理への情熱を、再び呼び覚ますきっかけとなるのだった。
第三章:魂の誓約、料理への再燃
数年の歳月が流れ、ルシリアは辺境伯領の厳しいながらも温かい生活に、すっかり溶け込んでいた。エルヴィラの元で薬草学や治癒の知識を学び、辺境の自然の中で身体も心も健やかに成長した。そして、シルヴァンとの絆は、兄妹のようであり、親友のようであり、そしてそれ以上の、言葉では言い表せないほど深く、かけがえのないものになっていた。
星が降るような美しい夜、二人が「秘密の場所」と呼んでいる、精霊が宿ると言い伝えられる大樹の下で、ルシリアは意を決した。今まで誰にも話したことのない、心の奥底に秘めていた全てを、シルヴァンに打ち明けることを。
自分が全く違う世界から来たこと。前世では「桜」という名の料理人だったこと。志半ばで命を落とした無念。そして、祖母への叶わなかった想い。王宮での出来事、母との別れ。
荒唐無稽とも思える告白に、シルヴァンは驚きに目を見開いた。しかし、彼はルシリアの瑠璃色の瞳の奥にある、揺るぎない真実の輝きと、彼女が纏うようになった不思議なオーラ――転生者の魂が放つ特別な光――を感じ取っていた。彼は、ルシリアの言葉を一つ一つ、静かに、真剣に受け止めた。そして、全てを聞き終えると、力強く、ルシリアの全てを受け入れる言葉を告げた。
「君がどんな過去を持っていようと、君がどこの世界から来ようと、俺にとっては大切なルシィだ。それだけは、絶対に変わらない。君が二つの生を生きてきたなら、俺は二つの生分の君を、全部まとめて愛するだけだ。君の夢は、これからは俺の夢でもある。俺が絶対に、君を守る」
その真摯な言葉が交わされた瞬間、まるで呼応するかのように、大樹の枝葉が祝福するようにざわめき、夜空の星々が一層強く輝いた気がした。二人の間には、目には見えない強い光の糸――魂のレベルで永遠に結ばれるという、古代の誓約――が、確かに結ばれたのを、ルシリアは魂で感じ取った。それは、これから待ち受けるであろう更なる試練に立ち向かうための、揺るぎない礎となる、尊い誓いだった。
その魂の誓いを支えに、ルシリアの中に眠っていた料理への情熱が、抑えきれない奔流となって再び燃え上がった。「七色の恵みスープ」で魂が再生し、シルヴァンとの絆で未来への希望を見出した今、彼女は再び料理を通して自分を表現したい、人を幸せにしたいと強く願うようになったのだ。
辺境伯家の広大で活気のある厨房は、彼女にとって新たな舞台となった。最初は、領主の客人である美しい少女が気まぐれに料理を始めた、と訝しげに見ていた無骨な料理長や料理人たちも、すぐに彼女の持つ並外れた才能に気づかされた。
ルシリアは、まるで前世を取り戻したかのように、生き生きと躍動し始めた。前世で培ったフレンチの精緻な知識と技術を、辺境の豊かで力強い食材と大胆に組み合わせる。時には、エルヴィラから教わった薬草学の知識や、独学で読み解き始めていた古代魔法の断片的な知識を応用しながら、驚くほど洗練され、かつ独創的な、新しい味の料理を次々と生み出していった。
それは、王宮の形式ばった料理とも、辺境の素朴な料理とも違う、全く新しいスタイルの料理だった。素材の持ち味を最大限に引き出し、食べる者の心と体に優しく働きかけるような、不思議な力が宿っているように感じられた。
彼女の圧倒的な才能と、料理に対する真摯でひたむきな姿勢に、厨房の誰もが完全に脱帽し、いつしか敬意を込めて「ルシリア先生」と呼び、教えを請うほどになっていた。
そして、シルヴァンはルシリアが作る料理の、世界で最初の、そして最高の賞賛者だった。彼は毎回、子供のように目を輝かせて彼女の料理を平らげ、「ルシィの料理はやっぱり魔法みたいだ! こんなに美味しいもの、食べたことない! 世界一だよ!」と心からの賛辞を惜しみなく送った。その言葉と、太陽のような屈託のない笑顔こそが、ルシリアにとって最高の喜びであり、どんな困難にも立ち向かえる、尽きることのないモチベーションの源泉となった。
しかし、比較的平穏だった辺境での日々は、永遠には続かなかった。王都で、ルシリアの生存と出自を探る不穏な動きが活発化しているとの情報が、彼女を陰ながら見守っていた後見人、テオドール大公よりもたらされたのだ。辺境伯と大公は協議の末、ルシリアの安全を最優先し、再び彼女の身分を偽装し、王都にある遠縁の、今は没落している男爵家に養女として預け、王立アカデミーに入学させることが最善であると判断した。アカデミーには王国の有力者の子弟が集まるため、敵も多いが、同時に大公の目が届きやすく、公の場で彼女を守る盾にもなりうるという、複雑な判断だった。
シルヴァンとの再びの別れは、以前にも増して辛く、胸が張り裂ける思いだったが、二人の魂はもはや決して離れることはなかった。
「必ず迎えに行く。どんな手を使っても。それまで、君の料理の腕をさらに磨いて、俺を驚かせる準備をして待っていてくれ。君が最高の料理人になる瞬間を、俺は一番近くで見届けたいんだ」
「ええ、待ってるわ、シルヴァン。必ず。あなたのために、そして私自身の夢のために、世界一の料理を作るから。あなたも、立派な騎士になって、私を守ってね」
涙で見送る辺境伯一家の温かい眼差しと、エルヴィラから贈られた特製の守護のハーブのお守りを胸に、再び忠実な老騎士ゴドフリーに守られながら、ルシリアは「男爵令嬢ルシリア・フォン・エルクローネ」という新たな仮面をつけ、複雑な思いを抱えて王都へと旅立った。それは、避けることのできない、更なる試練と、そして運命の歯車が大きく動き出すことの始まりを予感させていた。
第四章:王都の喧騒、アカデミーの洗礼
王都への帰還は、辺境への逃亡とは全く異なる種類の重圧をルシリアにもたらした。かつて闇に紛れ、息を潜めて通ったはずの石畳の道を、今度は「男爵令嬢」という、借り物ではあるが公の身分を纏い、護衛付きの(辺境伯家が用意してくれた質素ながらも堅牢な)馬車で進む。その事実に、ルシリアは逃れようのない運命の皮肉と、予測不可能な人生の転変を感じずにはいられなかった。ほんの数年前、自分はこの道のどこかで、追手の刃に倒れ、あるいは飢えと絶望の中で朽ち果てていても、何ら不思議ではなかったのだ。
王都に到着し、まず身を寄せたのは、養父母となる男爵夫妻の邸宅だった。貴族街とはいえ、その中心からは少し離れた、ひっそりとした一角に佇む、古く、小さな館。往時の栄華を偲ばせるものはなく、華やかさとは無縁だったが、隅々まで丁寧に手入れが施されており、こぢんまりとした庭には、見栄えはしないながらも可憐な花々が健気に咲いていた。
夫妻は、ルシリアの到着を、まるで本当の娘の帰りを待つかのように、心から温かく迎えてくれた。養父となる男爵は、かつて宮廷に仕える碩学であったが、複雑な政争の渦に巻き込まれ、不本意ながら閑職に追いやられたという過去を持つ人物だった。世事に疎いというか、浮世離れしたところはあるが、その物腰は穏やかで、知的な紳士だった。養母は、心根は優しいものの、少し気弱で控えめな女性で、ルシリアのことを案じ、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
彼らは、ルシリアが背負う複雑な事情(もちろん、王女であるという本当の身分は伏せられている。だが、辺境伯と大公という、王国でも屈指の実力者の庇護下にある、特別な事情を抱えた少女であること)を理解しており、彼女がこれから王立アカデミーに入学し、貴族社会という複雑怪奇な世界で生きていくための手助けを、惜しみなく申し出てくれた。ルシリアは、この心優しい夫妻の存在に深く感謝しつつも、彼らにこれ以上の迷惑をかけまいと、常に気を配り、感情を表に出しすぎないように努めながら、新しい生活を始めた。辺境の雄大な自然の中で、のびのびと過ごした日々の後では、王都の洗練されているが故の窮屈な空気と、貴族社会の目に見えない無数のルールやしがらみに、再び息が詰まるような思いがすることも少なくなかった。
そして、運命の日、王立アカデミーへの入学の日がやってきた。壮麗な彫刻が施された巨大な門構え、長い歴史とその権威を感じさせる荘厳な石造りの校舎、最新の魔法技術が導入された輝くばかりの設備。そこは、疑いなく王国の未来を担う若きエリートたちが集う、最高の学び舎であった。しかし同時に、そこは貴族社会の複雑な力学が凝縮された縮図でもあった。生まれ持った家柄、連綿と続く派閥の対立、そして圧倒的な財力の差…そういったものが、生徒たちの間に目には見えない、しかし厳然とした壁を作り上げ、繊細で、時には残酷な人間関係の網を張り巡らせていた。
「男爵令嬢ルシリア・フォン・エルクローネ」。この肩書は、アカデミーという特殊な空間において、極めて異質で、不安定な存在だった。没落したとはいえ貴族の端くれでありながら、その育ちは北の辺境。後ろ盾には王国でも屈指の実力者であるテオドール大公がついているというのに、本人の出自に関する詳細は曖昧なまま。その上、彼女が時折見せる、同年代の少女らしからぬ落ち着き払った態度や、全てを見透かすかのような深い瑠璃色の瞳は、周囲の生徒たちにとって、抗いがたい好奇心を掻き立てると同時に、得体の知れないものへのやっかみや警戒心をも抱かせる格好の原因となった。
特に、アカデミー内で大きな派閥を形成する有力貴族の子女たち、その中でも中心的な存在である侯爵令嬢のコルネリアとその取り巻きグループは、入学初日からルシリアに対してあからさまな敵意を剥き出しにしてきた。コルネリアは、人形のように整った容姿と、侯爵家という高い家柄を鼻にかける、典型的なプライドの高いお嬢様だったが、その内実は伴っていなかった。自分より家柄の低い者や、自分より注目を集める存在を許すことができず、特にルシリアが、自分も密かに憧憬の念を抱くテオドール大公の後見を受けているという事実が、彼女の歪んだ競争心を激しく刺激した。コルネリアは、ルシリアが大公に取り入って成り上がろうとしている卑しい存在だと一方的に決めつけ、事あるごとに嫌味を言い、無視をし、時にはわざとらしい噂を流布するなどして、ルシリアを孤立させようと画策した。
(……やれやれ、始まったわね。王都の洗礼、といったところかしら)
ルシリアは、内心深いため息をついた。ある程度は予想していたこととはいえ、実際に悪意に晒されるのは、やはり気分の良いものではない。辺境でのびのびと過ごした、あの太陽の下の日々が、遠い、手の届かない夢のように思えた。しかし、ここで怯んでいては、母の願いも、シルヴァンとの約束も、そして自分自身の夢も、全てが水泡に帰してしまう。
ルシリアは、コルネリアたちの幼稚な挑発を、表面上は冷静に受け流した。波風を立てず、目立たないように努めながらも、決して卑屈な態度を取ることはなかった。彼女のその毅然とした、どこか超然とした態度は、かえってコルネリアの癇に障る結果となったが、同時に、一部の思慮深く、公正な目を持つ生徒たちからは、密かな注目と、ある種の敬意を集めることにも繋がっていった。
そんな息苦しいアカデミー生活の中で、ルシリアにとって唯一無二の聖域、そして心の拠り所となったのが、その壮大で、迷宮のように広大な図書館だった。そこには、王国の歴史はもちろん、古今東西の貴重な書物が、天井まで届く書架にぎっしりと収められており、特に料理に関する文献の充実ぶりは、ルシリアを驚かせ、そして歓喜させた。宮廷料理の秘伝書、地方の郷土料理の記録、薬草学と結びついた料理法、そして、彼女が最も心を惹かれた、失われた古代魔法文明に関する記述。ルシリアは、授業の合間や放課後、許される限りの時間をこの図書館で過ごし、貪るように知識を吸収していった。それは、前世の料理人としての探求心を再び満たしてくれる、至福の時間だった。
そして、ある雨の日、彼女は図書館の奥深く、普段は厳重に管理され、特別な許可がなければ立ち入ることのできない禁断の書庫で、運命的な一冊の本と出会う。それは、古ぼけた羊皮紙で綴られ、見たこともない奇妙な古代文字で記された書物だった。埃を払い、震える手でページを捲ると、そこに描かれていたのは、単なる調理法ではなかった。食材が秘める根源的な生命エネルギー(エーテル)の存在、そのエーテルを引き出し、魔法の力と組み合わせることで、料理に驚異的な効果…時には治癒や強化、あるいは精神への影響さえもたらすという、「魔法料理」の深遠な理論と、その実践法が記されていたのだ。
(これだ…! 私が求めていたものは、これかもしれない…!)
ルシリアは、全身に電流が走るような、激しい衝撃と興奮に包まれた。前世で培った料理の知識と技術、この世界で目覚め始めた自身の微かな魔法の素養、そして辺境で出会った、生命力に満ち溢れた力強い食材たち。それら全てを融合させ、かつてない料理を生み出すことができるかもしれない。自分の料理を、単なる美味しい食べ物という次元を超えた、人の心と魂に働きかける、真の「魔法」へと昇華させることができるかもしれない!
古代語で記されたその難解極まりない書物を解読することは、想像を絶する困難を伴ったが、ルシリアは寝る間も惜しんで、その深遠な知識の海へと没頭していった。それは、彼女にとって新たな目標であり、この息苦しく、時に敵意に満ちたアカデミー生活を乗り切り、未来を切り拓くための、大きく、そして確かな希望の光となった。
そんな研究と試行錯誤の日々を送っていたある晴れた日の午後、アカデミーの広大な中庭を散策していたルシリアの耳に、どこか懐かしい旋律が微かに届いた。それは、複雑な技巧を凝らした宮廷音楽とは違う、辺境の風を感じさせるような、素朴で、力強く、そして少し物悲しい笛の音色。辺境でシルヴァンが、星空の下で時折口ずさんでいた、あのメロディーだった。
音のする方へと導かれるように歩を進めると、中庭の奥、大きな木陰のベンチに、見慣れた燃えるような赤毛の青年が一人、静かに笛を吹いていた。シルヴァンだった。彼もまた、約束通り、アカデミーに入学していたのだ。
「シルヴァン!」
思わず、喜びの声を上げて駆け寄ると、シルヴァンは笛の音を止め、驚いたように顔を上げた。そして、ルシリアの姿を認めると、たちまち太陽のような満面の笑みを浮かべた。
「ルシィ! やっぱり来てたんだな! 元気そうじゃないか!」
数ヶ月ぶりの再会。最後に会った時よりも、シルヴァンは背が伸び、肩幅も広がり、辺境の少年から精悍な青年へと成長していた。だが、その人懐っこい笑顔と、真っ直ぐな瞳は、少しも変わっていなかった。ルシリアの胸に、じわりと温かいものが込み上げてくる。王都に来てからの孤独感や不安が、彼の笑顔ひとつで、ふっと軽くなるような気がした。
「元気だったか? 王都の生活はどうだ? 意地悪なやつにいじめられたりしてないだろうな?」矢継ぎ早に、しかし心からの心配を込めて尋ねてくるシルヴァンに、ルシリアは嬉しさと安堵で胸がいっぱいになりながら、苦笑して答えた。「なんとかやってるわ。あなたこそ、アカデミーはどう? ちゃんと授業に出てるの?」
「まあまあだな。騎士科の訓練は正直キツイけど、面白いやつもいるし、それなりにやってるさ。でも、やっぱり俺には辺境の森の方が性に合ってるかな」シルヴァンは肩をすくめ、悪戯っぽく笑った。「それより、ルシィ、腹減ってないか? 実は、アカデミーのカフェテリア、結構美味いって評判なんだぜ。特に今日、なんかスペシャルメニューがあるらしいんだ。一緒に行かないか?」
その気取らない誘いに、ルシリアは迷わず、そして心からの笑顔で頷いた。シルヴァンがいる。彼がそばにいてくれる。それだけで、この息苦しく感じていた王都も、アカデミーも、少しだけ色鮮やかに、そして希望に満ちて輝いて見えるような気がした。二人は並んで、賑わうカフェテリアへと向かった。それは、これから始まる波乱に満ちたアカデミー生活の中で、ルシリアにとって何物にも代えがたい、かけがえのない支えとなる、運命の再会の瞬間だった。
第五章:カフェテリアの波乱、試される絆
アカデミーのカフェテリアは、昼休みの喧騒に満ちていた。様々な家紋が刺繍された豪奢な制服を纏った生徒たちが、思い思いのテーブルで華やかな会話を繰り広げながら、あるいは書物を片手に黙々と、昼食の時間を過ごしている。活気はあるものの、そこには明らかに、家柄や派閥による見えない、しかし厳然とした序列と線引きが存在する空間でもあった。ルシリアは、その独特の空気に少し気後れを感じたが、隣を歩くシルヴァンの、辺境育ちらしい物怖じしない堂々とした態度に励まされるように、自然と背筋が伸びた。
「さてと、腹が減っては戦はできぬ、だっけな? 何にするかな?」シルヴァンは、壁に掛けられた大きな黒板に書かれた本日のメニューを、興味深そうに見上げながら言った。「定番の騎士科ランチもボリューム満点でいいけど……おっ、ルシィ、あれ見てみろよ! なんか特別美味そうじゃないか?」
彼が指差したのは、メニューボードの隅に、少し控えめながらも特別なインクで書かれた文字だった。「本日のスペシャル:辺境直送! 滋養たっぷり『七色の恵みスープ』、焼きたて黒パン付き」。
(七色の恵みスープ……! まさか、ここで……?)
ルシリアの心臓が、とくん、と期待と驚きで大きく跳ねた。辺境伯領で、エルヴィラ夫人が心を込めて作ってくれた、あの思い出のスープ。彼女の魂を再生させてくれた、特別な一杯。それが、こんな王都のアカデミーで提供されているなんて、夢にも思わなかった。しかも「辺境直送」「スペシャル」と銘打たれている。一体どんな味がするのだろうか。他のきらびやかなメニューなど、もはやルシリアの目には全く入らなかった。
「私、あれにするわ。絶対に」ルシリアは、食い気味に即答した。
「お、やっぱりな! 俺もそれにしようと思ってたんだ。気が合うじゃないか!」シルヴァンも、悪戯っぽく片目をつむり、にやりと笑った。
二人は、少し長くなった列に並び、順番を待って注文を済ませた。受け取ったトレーの上には、大きな白い陶器の器になみなみと注がれた、温かいスープが湯気を立てている。ルシリアは、その器を落とさないように慎重に運びながら、窓際の陽光が差し込む、比較的落ち着いたテーブルへと向かった。席に着き、改めてスープの器を、期待と少しの緊張感を込めて見つめる。見た目は、エルヴィラ夫人が作ってくれたものと驚くほどよく似ていた。澄んだ琥珀色のスープの中に、赤、緑、黄色、橙…色とりどりの野菜が、宝石のように美しく浮かんでいる。そして、ふわりと立ち上る香り。それは紛れもなく、辺境の森を思わせる、懐かしいハーブの香りだった。
「さあ、熱いうちに食おうぜ!」シルヴァンの快活な声で我に返り、ルシリアは銀のスプーンを手に取った。まずは一口、丁寧にスープをすくい、ゆっくりと口に運ぶ。
(……ああ……美味しい……!)
舌の上に広がったのは、滋味深い野菜本来の甘み、乾燥させた茸と燻製肉から溶け出したであろう複雑で豊かな旨味、そして鼻腔を優しくくすぐる、幾種類ものハーブが織りなす芳醇な香り。それは、間違いなく、あの忘れられない辺境の味、「七色の恵みスープ」そのものだった。もちろん、エルヴィラ夫人がルシリアのためだけに作ってくれた一杯とは、材料の配合やハーブの種類が少し違うのかもしれない。アカデミーの厨房で、大勢のために作られたそれは、より洗練され、多くの人の口に合うように調整されているのだろう。それでも、そのスープの根底に流れる温かさ、食べた者の心と身体を芯から優しく満たし、力づけてくれるような、あの不思議な力は、確かに同じだった。
一口、また一口と、スープを静かに味わうごとに、辺境伯領での日々が、まるで昨日のことのように鮮やかに蘇る。エルヴィラ夫人の慈愛に満ちた笑顔、シルヴァンの屈託のない笑い声、厳しいけれどどこまでも美しい大自然の風景……。胸がいっぱいになり、目頭がじんと熱くなるのを、ルシリアは懸命にこらえた。ここで泣くわけにはいかない。
「…どうしたんだよ、ルシィ? もしかして、口に合わなかったか?」心配そうにシルヴァンが、大きな体を屈めてルシリアの顔を覗き込んできた。彼の青い瞳には、純粋な気遣いの色が浮かんでいる。
「ううん、違うの。違うのよ、シルヴァン」ルシリアは慌てて首を横に振った。「あまりにも美味しくて……そして、あまりにも懐かしくて……涙が出そうになっただけ。このスープ、本当に、あなたのお母様が作ってくれたものと、とてもよく似ているわ」
「へえ、そうなのか? 正直、俺はもう、母さんのスープの味なんて、はっきりとは憶えてないんだけどな」シルヴァンは少し照れたように、赤毛の頭を掻いた。「でも、これがめちゃくちゃ美味いのは確かだ! これが毎日食えるんだったら、アカデミーもそんなに悪くないかもな!」
彼はそう言うと、付け合わせの香ばしい焼きたての黒パンを、大胆にスープに浸し、実に満足そうに頬張った。その気取らない、美味しそうに食べる姿を見ていると、ルシリアの心も自然と和み、つられて笑顔がこぼれた。
しかし、そんな二人の穏やかで幸せな時間は、まるで計算されたかのように、突然の闖入者によって無残に打ち砕かれた。
「あらあら、どなたかと思えば、噂の辺境帰り、しがない男爵令嬢様ではありませんか。そのような庶民的なスープを、カフェテリアの真ん中で、さも美味しそうにはしたなく啜っていらっしゃるなんて……」
甲高く、耳障りで、そしてあからさまな悪意に満ちた声。ルシリアが顔を上げると、そこには予想通り、侯爵令嬢コルネリアが、数人の取り巻き令嬢を引き連れて、仁王立ちになっていた。彼女は、ルシリアとシルヴァン、そしてテーブルの上の素朴なスープを、まるで汚物でも見るかのように、値踏みするように見下している。その美しい顔立ちは、歪んだ優越感と、隠しきれない嫉妬の色で醜く歪んでいた。
(……やっぱり、来たわね。疫病神みたい)
ルシリアは内心深いため息をついた。この侯爵令嬢は、どうやらルシリアを目の敵にし、その評判を貶めることに執念を燃やしているらしい。厄介なことこの上ない。しかし、今はシルヴァンもいる。彼にまで不快な思いをさせたくはないし、何より、この大切なスープを味わう時間を邪魔されたくない。ルシリアは、感情を抑え、努めて冷静に、しかし貴族令嬢としての礼儀は忘れずに、顔を上げた。
「コルネリア様、ごきげんよう。何か、わたくしたちにご用でしょうか?」
「御用ですって? まさか。あなたのような、どこの馬の骨とも知れない方に、このわたくしが用などあるはずがありませんわ」コルネリアは、手にした扇で芝居がかったように口元を隠し、取り巻きたちとクスクスと笑い合った。「ただ、あまりにもアカデミーの、いえ、我が国の貴族全体の品位を損なうような、嘆かわしい光景が目に飛び込んできたものですから、忠告して差し上げようと思っただけですのよ」
「ねえ、皆様? 貴族たるもの、公の場での食事の作法というものが、当然ございますでしょう? まるで飢えた獣のように、がっつくなんて……ましてや、ここは栄えある王立アカデミーのカフェテリアですのにねえ」
取り巻きの令嬢たちも、それに合わせて「本当ですわ」「お里が知れますわね」などと嘲笑の声を上げる。シルヴァンの眉が、ぴくりと険しく動いたのを、ルシリアは見逃さなかった。彼の我慢も、そろそろ限界に近いのかもしれない。
ルシリアは、銀のスプーンを静かにテーブルに置くと、背筋を伸ばし、真っ直ぐにコルネリアの瞳を見据えた。その瑠璃色の瞳には、もはや怯えや戸惑いの色はなく、静かだが確固たる意志の光が宿っていた。「コルネリア様。わたくしは、今、この素晴らしいスープを、心を込めて、感謝と共に味わっているだけですわ。それが、どのようにアカデミーの、あるいは貴族の品位を損なうというのでしょう? むしろ、食事ができることへの感謝も忘れ、他者の喜びを嘲笑うことこそ、品位に欠ける振る舞いではないでしょうか」
「あら、素晴らしいスープですって? よくおっしゃるわ。こんな、得体の知れない雑多な野菜を、ただごった煮にしただけの、見るからに貧相なものを?」コルネリアは、わざとらしく眉をひそめ、最大限の侮蔑を込めて言い放った。「やはり、教育もろくに受けられない辺境でお育ちになると、味覚まで野蛮で庶民的になってしまわれるのね。本当にお可哀想に。テオドール大公閣下も、なぜこのような方を……」
その言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、ルシリアの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。自分の出自や境遇を貶されるのは、もう慣れた。我慢できる。だが、このスープを、エルヴィラ夫人の温かい想いが込められた、自分の魂を救ってくれたこの料理を、これ以上侮辱することは断じて許せない。前世から続く料理人としての誇りと、辺境で受けた深い恩への感謝が、彼女の中で熱い怒りの炎となって燃え上がった。
「コルネリア様」ルシリアの声は、先ほどとは打って変わって、低く、静かだが、氷のような鋭さを帯びていた。「料理とは、単に空腹を満たすためだけの行為ではありません。それは、大地が生み出した食材への敬意、作り手の持つ技術と経験、そして何よりも、食べる人への温かい心が一つになって初めて完成する、神聖な芸術であり、人と人とを繋ぐコミュニケーションですわ。この『七色の恵みスープ』には、厳しい辺境の地が育んだ豊かな恵みと、それを作ってくださった方の深い愛情と祈りが、確かに込められています。その尊い価値を理解しようともせず、『庶民的』だの『貧相』だのと、浅はかな言葉で侮辱なさるのは、食そのものへの冒涜であり、ひいては、人の心という最も大切なものを踏み躙る行為ではありませんか?」
一気に言い切ったルシリアの言葉には、彼女の料理への哲学と、揺るぎない信念が込められていた。その気迫に、さすがのコルネリアも一瞬怯んだように見えた。周囲で固唾を飲んで成り行きを見守っていた他の生徒たちからも、驚きと、そして一部からは共感を示すような、小さなどよめきが起こる。
「な…何を偉そうに…! たかが男爵令嬢の、しかも養女ふぜいが、この私に説教するつもり!?」コルネリアは屈辱に顔を真っ赤にして、金切り声を上げようとした。だが、その時、今まで黙ってルシリアの言葉を聞いていたシルヴァンが、ゆっくりと、しかし確かな威圧感を伴って立ち上がったのだ。
彼の表情から、いつもの快活な笑顔は完全に消え失せていた。その代わりに彼の青い瞳に宿っていたのは、辺境の厳しい自然の中で、獲物を狙う狼のように鍛えられた者の持つ、静かだが底知れない、燃えるような怒りの色だった。
「……もう一度言ってみろ、コルネリア嬢」シルヴァンの低い声が、一瞬にしてカフェテリアの喧騒を切り裂き、絶対的な静寂をもたらした。「ルシィの言葉が聞こえなかったのか? いや、それ以前に、このスープへの……いや、人の心に対するその侮辱的な言葉、聞き捨てならんな」
彼の全身から放たれる、まるで野生の獣が纏うかのような鋭く、研ぎ澄まされた気迫に、コルネリアとその取り巻きたちは完全に気圧され、恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。シルヴァンは、ゆっくりと、しかし一歩ずつコルネリアに詰め寄りながら、静かに、だが全ての言葉に絶対的な意志を込めて続けた。「二度と、我々の前にその汚れた口を開くな。そして、ルシィを傷つけるような真似は、言葉であろうと、視線であろうと、一切許さん。さもなくば、このシルヴァン・フォン・グライフシュタインが、我が辺境伯家の誇りと名誉にかけて、貴様ら全員に、相応の報いというものを、骨の髄まで思い知らせることになるだろう」
その言葉は、もはや単なる脅しではなかった。王国の北の守りを一手に担う、辺境伯家の次期当主候補が発する、絶対的な宣言。その言葉の裏にある、揺るぎない力と覚悟。それを理解できないほど、コルネリアも、そして周囲の貴族の子弟たちも、愚かではなかった。コルネリアは、屈辱と恐怖に顔を歪ませながらも、もはや一言も言い返すことができず、震える足で、取り巻きたちと共に、逃げるようにその場を足早に去っていった。
後に残されたのは、水を打ったような静寂に包まれたカフェテリアと、驚きと畏敬の念をもってルシリアとシルヴァンを見つめる、大勢の生徒たちの視線だった。シルヴァンは、ふう、と深く息を一つ吐くと、まるで何事もなかったかのように、再び自分の席に着き、少し冷めてしまったスープを黙々と口に運び始めた。
「……ごめんな、ルシィ。せっかくの美味いスープだったのに、あんなくだらん奴らのせいで、台無しにしちまったな」
「ううん……」ルシリアは、まだドキドキと高鳴っている心臓を抑えながら、シルヴァンを見つめた。「ありがとう、シルヴァン。また、助けてくれて」彼の意外なほどの迫力と、自分を全力で守ってくれたことへの深い感謝で、胸がいっぱいだった。言葉にならない想いが込み上げてくる。
「当然のことをしたまでだ」シルヴァンはぶっきらぼうに言うと、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔に戻った。「さあ、ぐずぐずしてないで、冷めないうちに食おうぜ! やっぱりこのスープ、何度食っても最高に美味いな!」
その日から、王立アカデミー内でのルシリアを見る目は、明らかに変わった。コルネリア派からのあからさまな嫌がらせは影を潜め、代わりに彼女に向けられるのは、畏敬の念、あるいは遠巻きの好奇心となった。そして何より、辺境伯家の次期当主候補シルヴァンが、彼女のただならぬ関係にある、強力な守護者であることが、アカデミー中の知るところとなったのだ。それは、ルシリアにとって大きな心の支えとなると同時に、彼女の存在をさらに謎めかせ、新たな波紋を呼ぶ、重要なきっかけともなるのだった。
第六章:古代の叡智、エーテルの輝き
カフェテリアでの一件は、アカデミー内で瞬く間に大きな話題となり、様々な憶測と共に広まっていった。辺境帰りの謎めいた男爵令嬢ルシリア。有力侯爵令嬢コルネリアとの鮮烈な対立。そして、突如として現れ、圧倒的な存在感でルシリアを擁護した辺境伯家の次期当主候補シルヴァン。生徒たちの間では、「ルシリアとシルヴァンはただの幼馴染ではないのでは?」「辺境伯家は、なぜ出自不明の男爵令嬢をそこまで特別扱いするのか?」「ルシリアは、何か特別な力や秘密を持っているのではないか?」といった噂が、尽きることなく囁かれ続けた。
ルシリア自身は、そうした周囲の好奇や憶測の視線を、もはや意に介することはなかった。彼女は淡々と、しかし確固たる意志を持って、アカデミーでの日々を送っていた。貴族社会の複雑なルールや人間関係に辟易しながらも、知識を吸収できる授業には真剣に取り組み、放課後は図書館の奥深くで古代魔法料理書の解読に没頭した。そして、時折シルヴァンと会い、他愛ない会話を交わしたり、時には一緒に厨房に立って新しい料理の試作をしたりする時間が、彼女にとって何よりの安らぎであり、活力の源となっていた。シルヴァンもまた、騎士科での厳しい訓練に励み、友人たちと過ごす一方で、常にルシリアの様子を気にかけ、彼女が少しでも困った素振りを見せれば、どこからともなく現れて、さりげなく、しかし確実に手を差し伸べてくれた。二人の間には、周囲がどんなレッテルを貼ろうとも揺らぐことのない、幼馴染以上、恋人未満、しかし誰よりも深い信頼と、魂レベルでの強い絆で結ばれた、特別な空気が確かに流れていた。
そんなある日、ルシリアに思いがけない人物からの呼び出しがあった。後見人であるテオドール大公からの、正式な召喚状だった。彼が自らアカデミーを訪れることは極めて稀であり、その突然の呼び出しに、ルシリアは一抹の緊張感を覚えながら、指定された貴賓用の応接室へと向かった。扉の前で深呼吸を一つし、心を落ち着けてから、静かにノックをする。
「入りたまえ」
中から聞こえてきたのは、低く、落ち着いた、しかしどこか人を寄せ付けない響きを持つ声だった。ルシリアが扉を開けて中に入ると、そこにはテオドール大公が一人、大きな窓の外に広がるアカデミーの庭園を眺めながら、背を向けて立っていた。彼はルシリアの母方の遠縁にあたり、王国でも屈指の権力と影響力を持つ実力者であり、同時に、その真意を決して見せない謎多き人物として、宮廷の間でも畏敬と警戒の念を集めている存在だった。年齢は四十代半ばほどだろうか。完璧に仕立てられた上質な衣服に身を包み、整った知的な顔立ちには銀縁の眼鏡がかけられている。その優雅な佇まいの中には、鋭い刃のような冷徹さと、全てを見透かすかのような深い洞察力が秘められているように感じられた。彼はルシリアの入室の気配に気づくと、ゆっくりとこちらに振り返り、その薄い唇に、計算されたかのような微かな微笑みを浮かべた。
「やあ、ルシリア嬢。息災だったかな? しばらくだったね」
「はい、大公閣下のおかげをもちまして、恙無く過ごしております」ルシリアは、アカデミーで習得した完璧な淑女の礼を取り、落ち着いた声で答えた。この男の前では、決して動揺を見せてはならない。本能的にそう感じていた。
「ふむ。アカデミーの生活にも、ようやく慣れてきた頃かね? 何か困ったことはないか? 例えば……例のやかましい侯爵令嬢あたりが、君に何か無礼なちょっかいを出してきているのではないかね?」大公は、まるでカフェテリアでの出来事をすぐそばで見ていたかのような口ぶりで、さらりと尋ねてきた。
「……閣下には、全てお見通しでいらっしゃいますのね」ルシリアは内心の驚きを隠し、平静を装って答えた。「ですが、ご心配には及びません。シルヴァン……いえ、辺境伯家のシルヴァン様が、何かと気にかけてくださいますので、大事には至っておりません」
「ほう、シルヴァン殿がか」大公は、興味深そうに片方の眉を上げた。「辺境伯のところの、あの赤毛の次男坊か……なるほど、なかなか骨のある、面白い若者だと聞き及んでいる。彼がいれば、確かに、多少の厄介事は避けられるかもしれんな」彼の口調には、シルヴァンへの評価と共に、何か別の含みがあるようにも感じられた。
大公はルシリアに、部屋の中央に置かれた豪奢なソファを勧め、自身もその向かいにゆったりと腰を下ろした。そして、従者が恭しく差し出した紅茶に口をつけるでもなく、テーブルの上に置かれていた小さな、しかし上質なベルベットの包みを、音もなくルシリアの方へ滑らせた。
「これは、君へのささやかな贈り物だ。まあ、開けてみたまえ」
ルシリアは、一瞬戸惑いながらも、礼を述べて包みを受け取り、ゆっくりとリボンを解いた。中から現れたのは、予想していた宝飾品やドレスなどではなく、古びた金属でできた、見たこともないような不思議な形状の道具だった。それは、外科医が使うメスのようでもあり、繊細な彫刻刀のようでもあり、あるいは儀式に使う祭具のようにも見えた。長さは短剣ほどで、柄の部分は手にしっくりと馴染むように曲線を描き、刃とも呼べないような薄く鋭利な先端部分には、肉眼では判読できないほど微細な、古代文字とも文様ともつかないものがびっしりと刻まれている。そして、道具全体が、まるで生きているかのように、ごくごく淡い、青みがかった光を放っているようにも見えた。
「これは……一体……?」
「古代魔法文明時代の遺物だ。おそらくは、調理……それも、極めて特殊な調理、あるいは儀式に使われていたものだろう」大公は、こともなげに説明を続けた。「仮に『エーテル・カッター』とでも呼んでおこうか。これには、物質の根源たるエーテル……いわば生命エネルギーそのものを、対象を物理的に傷つけることなく切り分け、あるいは活性化させる、稀有な力が宿っているらしい」
ルシリアは息をのんだ。エーテル・カッター! 古代魔法料理書の中に、その名と、断片的な記述があった。食材の持つエーテルを自在に操り、その潜在能力を最大限に引き出すことで、料理に奇跡的な効果…治癒、強化、精神感応などを付与することができるという、伝説の魔法道具。それが、今、自分の目の前に…?
「なぜ、このような貴重なものを、わたくしに……?」
「ふふ、簡単なことさ。君がこれを必要としている、唯一無二の使い手になる可能性を秘めている、と私が判断したからだ」大公は、その謎めいた笑みを深めた。「君の料理の才能は、単なる技術の域を超えている。辺境伯領で、君が生み出した料理のいくつかは、私の耳にも届いているよ。それは、まさに魔法と呼ぶにふさわしいものだったとね。その類稀なる才能を、さらに開花させ、高みへと到達してほしい。そう願っての、ささやかな投資、というわけさ」
それは、後見人としての純粋な期待と激励のようにも聞こえた。しかし同時に、ルシリアの未知なる能力を試し、あるいは自らの壮大な計画の駒として利用しようとしているのではないか、という疑念も拭えなかった。この男の真意は、依然として深い霧の中に隠されている。
「ただし」大公は、紅茶のカップを手に取り、その表面に映る自分の顔を見つめながら、静かに言葉を続けた。「その力は、使い方を誤れば、容易に破滅をもたらす危険なものにもなりうる。エーテルを過剰に活性化させれば、それは滋養ではなく猛毒となり、人の精神を蝕む狂気ともなりかねん。心して扱うがいい、ルシリア嬢。君が手にしたその力は、光にも闇にもなりうる、諸刃の剣だ。その力を、どのように振るうか。それは、ひとえに、君自身の魂の在り方にかかっている」
その言葉は、単なる忠告ではなく、重い宿命の宣告のようにルシリアの胸に深く響いた。前世で、ただ純粋に料理の力で人を幸せにしたいと願った自分。その想いは、今この瞬間も変わらない。だが、この世界で手にした魔法という新たな力は、前世の料理技術とは比較にならないほど強大で、そして計り知れないほどの危険な可能性も秘めているのかもしれない。自分は、この力に飲み込まれることなく、正しく使いこなすことができるのだろうか……?
「……肝に銘じます、大公閣下。この力を、決して私利私欲のためには使いません。人々を幸せにするために、正しく使うことを誓います」ルシリアは、古代の調理器具『エーテル・カッター』を、まるで祈るように両手でしっかりと握りしめ、深く頭を下げた。
「よろしい。その言葉、覚えておこう」大公は満足げに頷くと、すっと立ち上がった。「さて、私の用件はこれだけだ。長居は無用だろう。ああ、そうだ。近々、このアカデミーで大きな催しがあると聞いている。たしか、創立記念祭だったかな? そこで、君の『魔法料理』とやらを、ぜひとも披露してもらいたいものだ。多くの者が注目しているだろうからね。楽しみにしているよ、ルシリア嬢」
そう言い残し、大公は音もなく、まるで影のように静かに応接室を出ていった。
一人残された応接室で、ルシリアはしばらくの間、手の中の『エーテル・カッター』を呆然と見つめていた。それは、ただの金属製の道具ではない。古代の叡智、未知なる魔法の力、そして大きな可能性と、計り知れない危険性。大公は、なぜこれを自分に託したのか? 彼の真の目的は何なのか? そして、自分はこれから、この力をどう使うべきなのか?
疑問は尽きることなく、頭の中を渦巻いていた。だが、それと同時に、ルシリアの心の中には、新たな挑戦への、抑えきれないほどの意欲がふつふつと湧き上がっていた。創立記念祭。そこで、自分の料理を披露する。前世から受け継いだ知識と技術、この世界で目覚めた魔法の力、辺境で学んだ自然と食材への敬意、そして、このエーテル・カッターという未知の力。それら全てを融合させて、最高の料理を創り上げたい。人々を驚かせ、感動させ、そして幸せにしたい。それは、彼女の魂の奥底から湧き上がる、料理人としての純粋で根源的な欲求だった。
ルシリアは、エーテル・カッターを、まるで大切な宝物のように、ドレスの内ポケットにそっとしまい込んだ。そして、深呼吸を一つして、応接室を後にした。足取りは、部屋に入る前よりも、不思議と少しだけ軽くなっていた。進むべき道が、完全に見えたわけではない。しかし、目指すべき星が、夜空に一つ、確かに輝き始めたような気がしたからだ。その道が、いばらの道であろうとも、険しい山道であろうとも、一歩ずつ、自分の信じる料理の道を追求していくしかない。ルシリアは、改めて強く心に誓うのだった。もちろん、その道のりには、きっとあの太陽のような笑顔を浮かべた、赤毛の青年が、いつも隣にいてくれるだろう、と信じながら。
第七章:陰謀の影、友情の光
テオドール大公との会見は、ルシリアの心に大きな波紋を残した。エーテル・カッターという未知の力を手にした興奮と、それを使いこなすことへの責任感、そして大公の真意に対する拭いきれない疑念。様々な感情が渦巻く中で、しかし彼女の目標は明確になった。来るべき創立記念祭の料理コンテストで、自身の持てる全てを注ぎ込んだ「魔法料理」を披露し、その力を人々に示すこと。それは、単なる自己満足ではなく、料理人としての自分の存在意義を、この世界で改めて証明するための戦いでもあった。
しかし、その決意を阻むかのように、アカデミー内でのルシリアへの風当たりは、大公との接触が噂されるにつれて、さらに強まっていった。コルネリアとその取り巻きたちは、もはや嫉妬心を隠そうともせず、より巧妙かつ陰湿な方法でルシリアを追い詰めようとしてきたのだ。
ルシリアが図書館で古代魔法料理書の解読に没頭していると、いつの間にか重要なページが破り取られている。厨房で試作した繊細なソースが、何者かによって塩辛く味付けされてしまう。アカデミー内の薬草園で、ルシリアが特別に栽培していた希少なハーブが一晩のうちに根こそぎ引き抜かれる。廊下ですれ違いざまに、わざとインクをドレスに引っかけられる。持ち物が隠されたり、悪意ある落書きをされたりするのは、もはや日常茶飯事だった。さらには、「ルシリアは怪しげな魔法を使って人を操ろうとしている」「彼女の料理には毒が入っている」といった、根も葉もない悪質な噂が、生徒たちの間に流布され始めた。
(……本当に、手が込んでいるというか、執念深いというか……)
ルシリアは、度重なる嫌がらせに内心うんざりしながらも、決して感情的にはならなかった。怒りや悲しみに心を支配されれば、それこそ相手の思う壺だ。彼女は、一つ一つの妨害に冷静に対処し、時には機転を利かせて切り抜けた。破られたページは、驚異的な記憶力で内容を復元し、後に出会う友人たちの助けも借りて別の資料から補完した。味を変えられたソースは、逆にそれを活かす新たなレシピを即興で考案し、周囲を驚かせた。荒らされた薬草園は、これも友人となった薬草学に詳しい少女と共に、より強靭な品種を選んで一から育て直した。汚されたドレスは、習得し始めていた簡単な生活魔法できれいに修復し、何事もなかったかのように毅然と振る舞った。
彼女のその冷静で、決して屈しない態度は、コルネリアたちをさらに苛立たせたが、同時に、ルシリアを支持する者たちの輪を広げることにも繋がった。偶然、薬草園で出会った、植物と会話できるという不思議な力を持つ内気な伯爵令嬢アリア。図書館で、古代文字の解読に苦戦しているルシリアに、さりげなくヒントを与えてくれた、魔法工学に異常な情熱を燃やす変わり者の子爵子息レオン。そして、アカデミーの厨房を取り仕切る、いかつい顔だが料理への愛は本物の料理長。彼らは、ルシリアの才能と人柄、そして料理に対する真摯な姿勢に惹かれ、それぞれの形で彼女を支え、友人となっていった。
「ルシリア様の使うハーブは、どれも古くから薬効が認められているものばかりですわ。怪しげなものなど一つもありません! 私が保証します!」アリアは、持ち前の知識で、ルシリアへの誤解を解こうと懸命に説明してくれた。
「エーテル・カッターだって!? すごいじゃないか! まさに古代の叡智! 君ならきっと使いこなせるさ! 何か解析で手伝えることがあったら、いつでも言ってくれ!」レオンは、目を輝かせて技術的な協力を申し出てくれた。
料理長は、コルネリア派からの見えない圧力にも屈せず、ルシリアに最高の環境を提供し続けた。「嬢ちゃん、気にするな。本物の才能ってのはな、どんな逆風にも負けねえもんだ。わしが保証する! 好きに厨房を使え!」
彼らの温かい友情と支援は、ルシリアにとって何物にも代えがたい力となった。「一人じゃない」。そう思えることが、彼女の心を強く支えていた。
もちろん、最大の支えはシルヴァンだった。彼は、ルシリアが受けている嫌がらせの詳細を知るたびに、怒りに燃え、今にもコルネリアたちの元へ殴り込みに行きそうな勢いだったが、ルシリアは必死で彼を宥めた。「大丈夫よ、シルヴァン。あなたの手を汚す必要はないわ。それに、私だって、やられっぱなしでいるつもりはないから」
シルヴァンは、ルシリアの強い瞳を見て、渋々ながらも納得したが、彼女の身辺警護はますます強化した。騎士科の友人たちにも協力を頼み、ルシリアに不審な人物が近づかないか、常に気を配っていた。そして、彼は独自に調査を進めていた、妨害工作の背後関係についても、徐々に核心に近づきつつあった。どうやら、コルネリアの行動は、単なる個人的な嫉妬心だけではないらしい。彼女の父親である侯爵、あるいはさらにその上の、王国内の保守派貴族たちが、テオドール大公の庇護下にあるルシリアの存在を快く思わず、彼女を失脚させることで大公の影響力を削ごうとしている可能性があるのだ。そして、その動きには、ルシリアの故国である隣国の、現体制派のスパイが関与している可能性さえ浮上していた。
「……ルシィ、やっぱり状況は思ったより複雑かもしれない」ある夜、シルヴァンは真剣な表情でルシリアに告げた。「これは、単なるアカデミー内のいじめじゃない。もっと大きな、政治的な陰謀が絡んでいる可能性がある。十分に気をつけろ。そして、絶対に俺から離れるな」
その言葉に、ルシリアは静かに頷いた。自分でも、最近、見慣れない人物からの、刺すような視線を感じることが増えていたからだ。王都は、アカデミーは、やはり危険な場所なのだ。しかし、もはや逃げることはできない。自分は、この渦中で戦い、生き抜かなければならないのだ。
そんな緊迫した状況の中でも、ルシリアは創立記念祭の料理コンテストへの準備を着々と進めていた。古代魔法料理書の解読は佳境に入り、エーテル・カッターの扱いも、もはや自分の手足のように自在になりつつあった。この古代の道具は、ルシリアの微かな魔力と共鳴し、食材の持つ潜在的なエネルギー…甘み、香り、旨味、そして時には薬効さえも、驚くほど増幅させることができた。ただし、その力はあまりにも強大で、一瞬の油断や感情の乱れが、全てを台無しにしてしまう危険性も孕んでいた。まさに、使い手の精神力が試される道具だった。ルシリアは、前世で培った極限の集中力と、この世界で得た魔法の制御能力を駆使し、来る日も来る日も、エーテル・カッターとの繊細な対話を続けた。失敗と成功を繰り返しながら、彼女は確実にその力を自分のものにしていった。
そして、コンテストで披露する料理、「プリズム・ガトー ~七色の未来を乗せて~」のレシピも、ついに完成した。それは、七色の層を持つ、見た目にも美しいケーキ。それぞれの層には、異なるフルーツやハーブ、そして魔法が付与されており、味や食感だけでなく、食べた者の感情…喜び、勇気、癒し、調和、革新、感謝、そして未来への希望…を呼び覚ます効果を狙った、まさに「魔法料理」の集大成とも言えるものだった。これを完璧に作り上げることができれば、きっと多くの人々の心を動かすことができるはずだ。
ルシリアの心は、近づく決戦の日に向けて、かつてないほどの緊張感と、それを上回る高揚感に満たされていた。料理人としての魂が、最高の舞台を前にして燃え上がっていたのだ。
一方、コルネリア派の動きも、記念祭が近づくにつれて、さらに露骨になっていた。彼らは、ルシリアがコンテストで特別な調理器具…あの「精霊の火」を再現するという、レオンと協力して開発中の試作魔法オーブン…を使用することを知り、それを阻止するための最終手段を画策していた。それは、コンテスト当日に、そのオーブンを物理的に破壊するという、最も卑劣で直接的な妨害工作だった。彼らは、もはや手段を選んでいなかった。ルシリアを完全に叩き潰し、その才能の芽を摘み取ることだけが、彼らの目的となっていた。
創立記念祭の開幕が、刻一刻と近づいていた。華やかな祝祭の雰囲気の裏側で、見えない陰謀と、それに立ち向かう若き料理人の不屈の闘志が、静かに火花を散らしていた。それは、ルシリアにとって、そして彼女を取り巻く全ての人々にとって、避けることのできない、運命の試練の始まりとなるのだった。彼女の料理は、希望の光となるのか、それとも…? 物語の歯車は、否応なくクライマックスへと回り始めていた。
第八章:奇跡の炎、プリズム・ガトー
王立アカデミー創立記念祭の初日。その日は、抜けるような青空が広がる、絶好の祝祭日和となった。アカデミーの校舎は、色とりどりの旗や花々で美しく飾り付けられ、朝から多くの生徒たちや招待客で賑わいを見せていた。優雅な音楽が流れ、あちこちで魔法を使った華やかなパフォーマンスが繰り広げられ、会場全体が祝祭特有の、浮き立つような高揚感と期待感に包まれていた。
ルシリアもまた、養母が心を込めて用意してくれた、動きやすくも品格を損なわない淡いブルーのドレスを身にまとい、少し緊張した面持ちで会場を歩いていた。彼女の今日の最大の目的は、午後から開催される、記念祭の目玉イベントの一つである料理コンテストだ。会場となる大厨房は、この日のために王国中から集められた最新鋭の魔法調理設備がずらりと並び、すでに参加者や関係者たちの熱気でむせ返るようだった。
今年のコンテストのテーマは「未来への希望」。抽象的であるからこそ、参加者の創造性と料理哲学が真正面から問われる難題だ。参加者リストには、王国でも有数の有力貴族の子弟たちの名がずらりと並んでいた。彼らの多くは、お抱えの熟練料理人を助手に従え、家門に伝わる秘伝のレシピや、入手困難な最高級の食材を持ち込んで、この晴れ舞台に臨んでいた。その中にあって、没落したとはいえ男爵家の養女という身分で、しかも頼れるのは自分自身の腕と、数少ない友人たちのサポートだけというルシリアは、どうしたって異色の、そして注目を集めざるを得ない存在だった。好奇の視線、侮蔑の視線、やっかみの視線、そして中には、彼女の未知なる才能への期待を込めた視線も感じられた。
(……まあ、注目されるのは覚悟の上、よね。むしろ、見ていなさい。私の料理で、度肝を抜いてあげるんだから)
ルシリアは、周囲から注がれる様々な種類の視線を、意識的に無視するように努め、自分の持ち場として割り当てられた調理台へと、迷いのない足取りで向かった。そこには、彼女がこのコンテストのために特別に用意し、事前に設置を申請していた、特殊な魔法オーブンが鎮座しているはずだった。それは、古代魔法料理書に記されていた「精霊の火」の原理を応用し、食材の内部に存在する生命エネルギー(エーテル)を、損なうことなく最大限に活性化させ、かつてない風味と効果を引き出すための、いわば彼女の料理哲学の核であり、切り札とも言える調理器具だ。友人であるレオンの魔法工学の知識と技術を結集し、アカデミーの工房で何度も試行錯誤を重ねて、ようやく完成にこぎつけた、特別なオーブンだった。
しかし、割り当てられた調理台の前に立ったルシリアは、次の瞬間、自分の目を疑い、そして全身の血の気が引くのを感じた。そこに置かれていたのは、彼女が心血を注いで準備した魔法オーブンではなく、まるで悪意ある力によって叩き潰されたかのような、無残な金属の残骸だったのだ。繊細に組み上げられていたはずの魔法回路は、力任せに引きちぎられ、エネルギーを増幅し制御するための中核部品である特殊な水晶は、粉々に砕け散っていた。それは、事故などではありえない。明らかに、誰かが強い意志を持って、意図的に破壊したとしか考えられない惨状だった。
「そん……な……! どうして……!」
声にならない悲鳴が、ルシリアの喉から漏れた。これでは、計画していた料理…あの七色の層を持つ、魔法のケーキ「プリズム・ガトー」を作ることは絶対にできない。あのケーキの繊細な風味と、それぞれの層に込めるはずだった魔法効果は、この特別なオーブンによる、極めて精密な火加減とエーテルの制御があって初めて実現できるものだったのだ。コンテストの開始まで、あとわずか数時間しかない。今から代わりのオーブンを用意することなど、天地がひっくり返っても不可能だろう。
(やられた……! なんて卑劣な……!)
怒りと絶望で、目の前が真っ暗になりそうだった。コルネリアたちの仕業に違いない。彼女たちは、ルシリアがコンテストで特別な秘密兵器を用意していることを嗅ぎつけ、それを阻止するために、コンテストの当日、開始直前に物理的に破壊するという、最も卑劣で、そして効果的な手段を選んだのだ。周囲の参加者たちが、何事かとこちらを窺い、ひそひそと囁き合っているのが分かる。中には、明らかに満足げな、あるいは嘲笑するような表情を浮かべている者もいた。絶望感が、冷たく重い霧のようにルシリアの心を覆い尽くしていく。ここまで、どれだけの時間と労力を費やして準備してきたことか。シルヴァンや、アリアや、レオンや、料理長…応援してくれたみんなの期待に応えたかったのに。こんな形で、全てを諦めなければならないというのか……?
打ちひしがれ、その場に崩れ落ちそうになった、その瞬間。ふと、ルシリアの脳裏に、遠い前世の記憶が鮮やかに蘇った。厳しい修行時代、何度も挫けそうになった時に、師匠・藤堂が雷のような声で叩きつけてきた言葉。
『いいか、桜! 聞こえているか! 料理人はな、どんな逆境に立たされようとも、決して諦めるな! 最高の食材がなけりゃ、その辺の野草で最高の味を創り出せ! 最高の道具がなけりゃ、己の手と知恵で最高の仕事をするんだ! それがプロフェッショナルというものだ! 泣き言を並べている暇があったら、頭を使え! 手を動かせ! 道は必ず開ける!』
そうだ。諦めるのは、まだ早い。こんなところで、終わるわけにはいかない。
ルシリアは、震える膝に力を込め、ぐっと拳を握りしめた。確かに、最高の武器は失われた。しかし、自分にはまだ、失われていないものがある。前世から受け継いだ、誰にも奪うことのできない料理の知識と技術。この世界で目覚め、磨き上げてきた魔法の力。そして何よりも、どんな困難にも打ち勝とうとする、料理への揺るぎない情熱と、誇りがある。
「……大丈夫よ。まだ、手はあるわ」
ルシリアは、自分自身に強く言い聞かせるように、はっきりとした声で呟いた。その瞳には、先ほどまでの絶望の色は消え、代わりに燃えるような不屈の闘志が宿っていた。彼女はすぐさま思考を切り替え、行動を開始した。まず、事態を聞きつけて駆けつけてくれたレオンに、冷静に状況を説明し、破壊されたオーブンの残骸を徹底的に調べてもらう。修復は不可能だとしても、その構造や残された部品から、何か代わりになるヒントが見つかるかもしれない。次に、薬草学に詳しいアリアに頼んで、アカデミーの薬草園から、特定の強いエネルギーを秘めたハーブ…魔力を増幅させたり、安定させたりする効果のあるものを、可能な限り急いで集めてきてもらう。そして、ルシリア自身は、喧騒から離れた厨房の隅に向かい、床に座り込んで目を閉じ、精神を極限まで集中させた。
古代魔法料理書の、難解な記述の一節を思い出す。『精霊の火、あるいはそれに類する聖なる熱源なき時は、己が内に秘めし魔力を触媒とし、大地の恵みたる清浄なるハーブの力を借りて、擬似的なる聖火を練り上げ、これを以て調理すべし……』それは、書物の中でも特に高度で、危険なものとして記されていた魔法技術だった。術者の魔力と精神力を極限まで消耗させ、一歩間違えれば魔力が暴走し、術者自身が内部から焼き尽くされるか、あるいは周囲にも計り知れない被害を及ぼしかねない、禁呪に近い秘術。しかし、今のルシリアには、これしか道は残されていなかった。やるしかない。
「ルシィ! 大変だって聞いたぞ! オーブンが……!?」
そこへ、血相を変えたシルヴァンが、訓練用の軽装鎧もそのままに、息を切らして駆けつけてきた。調理台の上の無残な残骸を見て、彼の顔色が怒りと驚愕で変わる。「くそっ、あの女狐ども……! 絶対に許さねえ……!」
「シルヴァン……来てくれたのね」
「大丈夫か!? 怪我は!? 今からでも、何か代わりのオーブンを探して……!」
「ううん、大丈夫よ」ルシリアは、シルヴァンの言葉を遮るように、しかし力強く、そして穏やかな笑顔さえ浮かべて言った。「心配しないで。私、諦めないから。別の方法で、必ずプリズム・ガトーを作ってみせるわ」
彼女の瞳には、先ほどまでの絶望の影は微塵もなく、代わりに、どんな困難にも立ち向かうという、鋼のような決意と、不思議なほどの自信が燃えていた。シルヴァンは、そんなルシリアの姿に一瞬言葉を失い、驚いたように目を見開いたが、すぐにいつものように、ニッと歯を見せて力強く笑った。
「……そうか。そうこなくっちゃな! さすが俺が見込んだ女だ。よし、分かった。俺にできることがあったら、何でも言え! 壁が必要なら壁になるし、盾が必要なら盾になる!」
「ありがとう、シルヴァン。その気持ちだけで十分よ」ルシリアは心からの感謝を込めて微笑んだ。「でも、これは私自身の、料理人としての戦いだから。だから……ただ、見ていてくれるだけでいいわ。あなたがそばにいてくれるだけで、私は強くなれるから」
「ああ、分かった。任せとけ。特等席で、お前の最高の料理、しっかり見届けさせてもらうぜ!」シルヴァンは力強く頷いた。彼の存在が、ルシリアの心をどれほど勇気づけたことか。
レオンが、オーブンの残骸から回収できた、まだ使えそうな魔力伝導体や制御系の部品をいくつか持ってきてくれた。アリアも、息を切らせながら、籠いっぱいの、強いエネルギーを秘めたハーブを届けてくれた。「ルシリア様、これだけしか集められませんでしたが……!」
「ありがとう、レオン、アリア! これで十分よ!」
ルシリアは、仲間たちの協力に感謝しつつ、すぐさま床にチョークで複雑な魔法陣を描き始めた。それは古代魔法料理書にあった、エネルギー増幅と制御のための特殊な魔法陣だった。レオンが持ってきた部品を要所に配置し、アリアが集めてくれたハーブを粉末にして魔法陣の上に撒いていく。全ての準備が整うと、ルシリアは魔法陣の中央に静かに立ち、両手を胸の前で組んで深く息を吸い込んだ。集中力を、これまでの人生で経験したことのないレベルまで極限まで高め、体内の魔力を練り上げていく。額に玉のような汗が滲み、呼吸が徐々に荒くなっていくのが分かる。周囲の喧騒が完全に遠のき、自分の心臓の鼓動だけが、いやに大きく、そして力強く聞こえる。
(……いける!)
ルシリアは、練り上げた魔力を一気に解放し、古代の呪文を紡ぎ始めた。すると、床に描かれた魔法陣と、撒かれたハーブが、呼応するように淡い緑色の光を放ち始めた。周囲の空気中に漂う微細なエーテルが、まるで渦を巻くように魔法陣の中心へと引き寄せられ、凝縮されていく。そして、その凝縮されたエネルギーが臨界点に達した瞬間――魔法陣の中心から、まるで小さな太陽が生まれたかのように、眩いばかりの純白の光と、触れれば灼けつきそうなほどの高熱を放つ、擬似的な「精霊の火」が出現したのだ!
「す、すごい……! 本当にやった……!」レオンが、信じられないものを見るように息をのむ。シルヴァンも、アリアも、そして遠巻きに成り行きを見守っていた他の参加者たちや料理人たちも、その神々しくも恐ろしい光景に、ただただ言葉を失い、立ち尽くしていた。
「さあ、時間がないわ! 急がないと!」
ルシリアは、額の汗を拭う暇もなく、すぐさま調理に取り掛かった。擬似的な精霊の火は、本物の精霊の火ほどの安定性はない。常に自身の魔力を注ぎ込み、精神を集中させて、その揺らぎやすいエネルギーを繊細にコントロールし続けなければ、すぐに消えてしまうか、あるいは制御不能となって暴走してしまうだろう。それは、まるで細い糸の上を歩くような、極めて危険で困難な作業だった。しかし、今のルシリアの集中力は、もはや常人の域を超えていた。前世で培った経験と感覚、古代魔法の深遠な知識、そして何よりも「最高の料理を届けたい」「この逆境を乗り越えてみせる」という、燃えるような強い想いが、彼女を支え、突き動かしていた。
生地を練り、クリームを泡立て、色とりどりのフルーツを正確な大きさにカットし、エーテル・カッターでその内部に秘められた輝きとエネルギーを最大限に引き出す。そして、揺らめく擬似精霊の火の、微妙な温度とエーテルの流れを読み取りながら、一層一層、寸分の狂いもなく、丁寧に焼き上げていく。その一連の動作は、もはや単なる調理作業ではなく、神聖な儀式か、あるいは優雅な舞いを舞うように美しく、一切の迷いがなかった。厨房にいた誰もが、固唾を飲んで、彼女のその神がかり的な姿に魅入られていた。
コンテストの制限時間が、刻一刻と迫ってくる。ルシリアの額からは、滝のような汗が流れ落ち、魔力の過剰な消耗によって、立っているのがやっとというほどの目眩さえ感じ始めていた。だが、彼女の手は止まらない。止まるわけにはいかない。そして、ついに――制限時間終了を告げる鐘の音が鳴り響く、まさにその瞬間。
七色の層が、まるで虹そのもののように美しく重なり、全体が淡く、しかし確かに内側から光を放つ、芸術品としか言いようのないケーキ、「プリズム・ガトー ~七色の未来を乗せて~」が、奇跡のように完成したのだ。
完成と同時に、擬似精霊の火は、その役目を終えたかのように静かに揺らめき、そしてすうっと消え、床の魔法陣の光もまた、ゆっくりと消えていった。ルシリアは、ふらつきながらも、最後の力を振り絞って背筋を伸ばし、目の前に鎮座する、自らの魂の結晶とも言える作品を、誇らしげに見つめた。
(……できた……! やり遂げた……!)
それは、絶望的な状況の中から、不屈の意志と仲間たちの支えによって生み出された、まさに奇跡の料理だった。コンテストの結果がどうであろうとも、もはや関係ない。ルシリアは、自分自身に、そして卑劣な妨害を仕掛けてきた者たちに、料理人としての誇りをもって打ち勝ったのだ。会場からは、いつの間にか、地鳴りのような、割れんばかりの拍手が沸き起こっていた。それは、彼女の不屈の闘志と、目の前で繰り広げられた奇跡への、そこにいた全ての人々からの、心からの称賛と感動の音だった。
第九章:魂に響く味、新たな伝説の始まり
料理コンテストの審査は、厳粛な雰囲気の中で進められた。並み居る有力貴族の子弟たちが、家門の威信と贅を尽くした料理を披露する中、ルシリアが提出した「プリズム・ガトー」は、その異質さと圧倒的な存在感で、審査員たちの注目を一身に集めていた。
審査員たちは、王国でも指折りの美食家や、高名な料理人、そして王族や大貴族の代表者たちで構成されていた。その中には、もちろんテオドール大公の姿もあった。彼らはまず、プリズム・ガトーの、まるで内側から虹色の光を放つかのような神秘的な美しさに目を見張り、そして、一切の欠点なく焼き上げられた完璧な技術に感嘆の声を漏らした。オーブンが破壊されたという絶望的な状況下で、これほどの完成度の作品が生み出されたという事実自体が、信じがたい奇跡だったのだ。
そして、いよいよ試食の時が来た。審査委員長を務める、白髪の威厳ある元宮廷料理長が、銀のナイフで慎重にケーキを切り分け、その一切れを口に運んだ。会場全体が息をのみ、その反応を見守る。彼の眉がわずかに上がり、そしてその目が驚きに見開かれた。他の審査員たちも、次々とケーキを口にし、一様に言葉を失い、あるいは陶然とした表情を浮かべた。
それは、単に甘美で美味しいという次元を遥かに超えた、未体験の味覚体験だった。七色の層は、それぞれが異なるフルーツやハーブ、スパイス、そして魔法のエッセンスによって、驚くほど複雑で、それでいて完璧に調和のとれた風味と食感を生み出していた。舌の上でとろけるような滑らかさ、弾けるような瑞々しさ、鼻腔をくすぐる芳醇な香り、そして後味に残る、心地よい爽やかさ。
だが、それだけではなかった。このケーキには、ルシリアが込めた「魔法」…エーテル・カッターと擬似精霊の火によって最大限に引き出された食材のエーテルが、確かに宿っていたのだ。食べた者の心に直接働きかけ、忘れかけていた純粋な喜び、困難に立ち向かう勇気、傷ついた心を癒す温もり、他者との調和を願う気持ち、新しいものを生み出す革新の閃き、そして未来への確かな希望といった、ポジティブな感情を優しく、しかし力強く呼び覚ます。それは、まさに「魂に響く料理」だった。
「……これは……」審査委員長が、ようやく絞り出した声は、深い感動で震えていた。「単なる菓子ではない……これは、芸術だ。いや、それ以上だ。食べる者の魂を揺さぶり、未来への光を灯す……まさに、魔法そのものだ……!」
その言葉は、会場全体に静かに、しかし重く響き渡った。もはや、結果を待つまでもない。誰もが、この若き料理人が成し遂げた偉業と、その料理が持つ圧倒的な力を認めざるを得なかった。
最終的なコンテストの結果は、多くの者の予想通り、政治的な力関係や家柄といった要素が複雑に絡み合ったものとなった。優勝の栄冠は、王国でも最大級の権勢を誇る公爵家の令嬢に与えられた。彼女の料理も、伝統的な技法に基づいた、非の打ち所のない素晴らしいものだったことは確かだ。
しかし、ルシリアには、優勝に勝るとも劣らない、特別な賞が授与されることとなった。「審査員特別賞・革新賞」。それは、前例のない困難な状況を乗り越え、既存の料理の概念を覆すような、革新的で、かつ人々の心に深く響く料理を創造した彼女の才能と、不屈の精神を最大限に称えるために、急遽設けられた名誉ある賞だった。
表彰台に立ったルシリアは、万雷の拍手と称賛の声に包まれた。彼女は、隣で誇らしげに微笑むシルヴァン、涙ぐみながら拍手を送るアリアとレオン、そして満足げに頷く料理長たちの顔を見渡し、深く、深く頭を下げた。一人では決して辿り着けなかった。支えてくれた仲間たち、信じてくれた人々への、言葉にできないほどの感謝の気持ちで、胸がいっぱいだった。
一方、会場の隅でその光景を見ていたコルネリアとその取り巻きたちは、もはや嫉妬や憎悪を通り越し、呆然自失といった表情を浮かべていた。彼らの卑劣な妨害計画は、完全に裏目に出た。ルシリアを貶めるどころか、彼女の名声を、アカデミーはおろか、王都中に轟かせる結果となってしまったのだ。特に、ルシリアが絶望的な状況下で、想像を絶する「魔法料理」を創り上げたという事実は、彼らにとって計り知れない衝撃と、ある種の恐怖さえ与えたに違いない。もはや、ルシリアを単なる「辺境帰りの生意気な男爵令嬢」として侮ることは、誰にもできなかった。彼女は、自分たちが到底理解できないほどの、底知れない力と可能性を秘めた存在なのだと、骨身に染みて思い知らされただろう。この一件により、学内におけるコルネリアの影響力は決定的に失墜し、彼女を支持していた者たちも、潮が引くように離れていった。
創立記念祭は、この料理コンテストを最大のハイライトとして、数日間にわたる華やかな日程を終えた。そして、ルシリアの名は、アカデミーの歴史に、そして王都の社交界に、鮮烈な印象と共に刻まれることとなった。「奇跡の料理人」「魔法料理の使い手」「辺境伯家が庇護する謎多き令嬢」「コルネリア侯爵令嬢を打ち負かした才媛」。様々なレッテルと憶測が飛び交い、彼女への注目度は、良くも悪くも、かつてないほど高まっていった。
しかし、ルシリア自身は、そうした周囲の喧騒や評価には、もはや心を動かされることはなかった。彼女は再び、アカデミーでの静かな日常へと戻っていった。図書館での古代魔法料理書の研究はさらに深まり、厨房での試作はより大胆に、そしてエーテル・カッターの扱いはますます洗練されていった。そして、シルヴァンや、アリア、レオンといった、心から信頼できる友人たちとの穏やかな時間を、何よりも大切にした。コンテストでの成功は、彼女に大きな自信を与えたと同時に、新たな課題と責任感ももたらしていた。古代魔法料理という未知の力。その可能性と、それに伴う危険性。それをどう制御し、どう社会に役立てていくのか。そして、高まる注目と、それに比例して濃くなるであろう影…見えない敵意や陰謀の中で、いかにして自分自身と大切な人々を守り、平穏な未来を築いていくのか。
記念祭の後、テオドール大公は、再びルシリアの前に姿を現した。彼は、コンテストでのルシリアの並外れた活躍を手放しで称賛しつつも、その理知的な瞳の奥には、以前にも増して深い、計算された光を宿していた。
「見事だったよ、ルシリア嬢。君の力は、私の予想を遥かに超えていたようだ。君は、まさに時代の寵児となる可能性を秘めている。だが、忘れるな。光が強ければ、影もまた濃くなるものだ。君の力を利用しようとする者、あるいはその力を恐れて潰そうとする者が、必ず現れるだろう。……これまで以上に、十分に用心するのだな。そして、困ったことがあれば、いつでも私を頼るがいい」
彼の言葉は、後見人としての温かい忠告のようでありながら、同時に、これからルシリアが巻き込まれていくであろう、より大きな渦…政治的な陰謀や権力闘争の存在を、暗に示唆しているようにも聞こえた。ルシリアは、改めて気を引き締めなければならないと、強く感じた。
シルヴァンもまた、ルシリアへの注目度が日に日に高まっていく状況に、喜びを感じつつも、それ以上に強い危機感を抱いていた。彼は、コンテストでのオーブン破壊事件の背後関係を、辺境伯家の情報網を駆使して執拗に調査し続けていたが、その結果、単なるコルネリア個人の暴走や、その父親である侯爵家の画策だけではない、もっと根深く、組織的な動きの確かな気配を掴んでいたのだ。それは、ルシリアの持つ王家の血、あるいは彼女が使いこなす古代魔法の力を狙う、王国内外の複数の勢力が関与している可能性を示唆していた。隣国のスパイ、王国内の保守派貴族、あるいは…それ以上の、まだ見えない敵。
「ルシィ、どうやら状況は俺たちが思っている以上に厄介だ」ある夜、シルヴァンは真剣な表情でルシリアに告げた。「これはもう、アカデミー内の問題じゃない。お前を狙っている奴らは、もっと大きな、危険な連中だ。卒業までの間、そして卒業してからも、絶対に俺から離れるな。何があっても、俺がお前を守る」
その言葉に、ルシリアは静かに頷いた。自分でも、最近、街中やアカデミー内で、見慣れない人物からの、明らかに悪意のこもった、刺すような視線を感じることが増えていたからだ。辺境伯領での、あの太陽の下での穏やかな日々は、もはや遠い過去のものとなりつつあった。王都は、アカデミーは、やはり美しい仮面の下に、危険な牙を隠し持つ場所なのだ。
しかし、ルシリアの心に、もはや以前のような怯えや絶望はなかった。彼女には、料理人として叶えたい、守るべき夢がある。心から信頼し、支え合える仲間がいる。そして何より、どんな時も自分の隣に立ち、共に未来を切り拓こうとしてくれる、愛するシルヴァンがいる。たとえこれから、どんな困難や陰謀が待ち受けていようとも、二人で力を合わせれば、きっと乗り越えていけるはずだ。そう信じられるだけの、強く、深く、そして温かい絆が、彼らの間には確かに存在していた。
アカデミーでの残りの時間は、表面上は卒業に向けた準備や、友人たちとの別れを惜しむ穏やかな日々として過ぎていった。だが、その水面下では、様々な勢力の思惑と陰謀が、まるで複雑な網のように蠢いていた。ルシリアは、来るべき未来を見据え、料理の研究にさらに没頭する一方で、シルヴァンや仲間たちと共に、迫りくるであろう危機への警戒と備えを怠らなかった。卒業の日、そしてその先に待つであろう未来は、決して平坦な道のりではないだろう。しかし、ルシリアの心は、もはや揺らぐことなく決まっていた。料理人として生きる。愛する人々と共に、困難を乗り越え、希望に満ちた未来を、この手で切り拓く。その決意は、彼女の魂の奥深くで燃え盛る、希望という名の青い炎のように、力強く、そして決して消えることはなかった。
第十章:夜会の告白、瑠璃色の真実
王立アカデミーの卒業が間近に迫り、王都全体がどこか浮き足立った雰囲気に包まれる中、その日はやってきた。王国中の注目が集まる、卒業記念の夜会。それは、長かったアカデミーでの学びの日々を終え、若き貴族たちが本格的に社交界へとデビューを飾る、最も華やかで重要な儀式の一つだった。今年は特に、王太子クロードとその婚約者の正式な発表も兼ねているとあって、王城の大広間には、国内外から錚々たる顔ぶれの王族や有力貴族が集い、きらびやかな衣装と眩いばかりの宝石の輝き、そして未来への期待と、水面下で繰り広げられるであろう権力闘争への野心が、複雑な綾をなして渦巻いていた。
ルシリアもまた、この特別な夜のために、養母が心を込めて仕立ててくれた、夜空の深さを思わせる、落ち着いた深い青色のシルクのドレスを身にまとっていた。華美な装飾は避けられていたが、上質な生地と洗練されたデザインが、彼女の持つ神秘的な美しさと、内に秘めた芯の強さを際立たせている。胸元には、母が最後に託してくれた守護のペンダントが、まるで彼女の決意を示すかのように、静かに、しかし確かな瑠璃色の光を放っていた。そして、その隣には、アカデミーの制服ではなく、辺境伯家の誇りを示す、黒地に金の鷲の刺繍が勇壮に施された正装の礼服を纏ったシルヴァンが、片時も離れずに寄り添っていた。彼は、いつもの快活で少しやんちゃな雰囲気とは違う、辺境伯家の次期当主候補としての揺るぎない威厳と落ち着きを漂わせていたが、ルシリアに向ける深い青色の瞳には、変わらぬ温かさと、守り抜くという強い意志が宿っていた。
「……言葉にならないくらい、綺麗だ、ルシィ」シルヴァンが、大勢の視線が集まる中でも構わず、少し照れたように、しかし心からの賞賛を込めて囁いた。
「あなたこそ、とても素敵よ、シルヴァン。辺境伯家の礼服、本当によく似合っているわ」ルシリアも、頬を微かに染めながら微笑み返した。二人の間には、この特別な夜にふさわしい、甘く、そしてどこか張り詰めたような、特別な緊張感を伴った空気が流れていた。彼らは知っていたのだ。この夜が、単なる祝宴ではないこと。そして、自分たちの運命を左右する、重要な転換点となるであろうことを。
華やかな音楽、軽やかなダンス、当たり障りのない社交辞令の応酬。夜会は、表面的には和やかに進行していた。しかし、その水面下では、様々な視線が交錯し、探るような会話が交わされていた。ルシリアとシルヴァンの存在は、やはり多くの注目を集めていた。特に、ルシリアの出自と能力、そして彼女を巡るテオドール大公と辺境伯家の動きは、多くの貴族たちにとって最大の関心事となっていた。
夜会が中盤に差し掛かり、会場の期待感が最高潮に達した、まさにその時。王太子クロードが、誇らしげに婚約者を伴って中央の壇上へと進み出ようとした、その瞬間だった。全ての音楽が止み、全ての会話が途切れ、会場全体が水を打ったように静まり返った。そして、その静寂を切り裂くように、甲高く、ヒステリックな声が響き渡った。
「お待ちくださいませ! そのような偽りの発表に、惑わされてはいけませんわ!」
声の主は、やはりコルネリアだった。彼女は、人々の驚きと戸惑いの視線を一身に浴びながら、群衆をかき分けて進み出てきた。以前にも増して豪華絢爛な、しかしどこか悪趣味なほど派手なドレスを身にまとい、その美しい顔は、抑えきれない嫉妬と憎悪、そして破滅的な決意によって歪み、狂気に近い異様な光を宿していた。彼女の手には、古びた羊皮紙の束が、まるで凶器のように固く握りしめられている。
「皆様、よくお聞きください! このルシリアという女! 没落男爵家の養女などと、その卑しい出自を偽っておりますが、その真の正体は……我が国と敵対する隣国の、王位を簒奪しようとした大罪人の娘! 反逆者の血を引く、忌まわしき存在なのですわ! その動かぬ証拠が、この手紙に!」
会場は、今度こそ完全な沈黙と、凍りついたような衝撃に包まれた。全ての視線が、糾弾するコルネリアと、糾弾されるルシリアに集中する。貴族たちの間に、驚愕、不信、戸惑い、そして隠しきれない好奇のどよめきが、さざ波のように広がっていく。コルネリアは、その反応に満足したかのように、勝ち誇った歪んだ笑みを浮かべ、握りしめた羊皮紙を高々と掲げた。それは、巧妙に偽造された署名や、真実の中に巧みに嘘を織り交ぜた記述によって、ルシリアの出自を決定的に貶め、反逆者の烙印を押すために用意された、悪意に満ちた偽りの証拠だった。彼女の背後にいる黒幕が、この夜会という最大の舞台で、ルシリアと、彼女を庇護する大公や辺境伯家を失脚させるために仕掛けた、最後の、そして最も汚い罠だった。
(……ついに、来たか。これが、彼らの狙いだったのね)
ルシリアは、全身に突き刺さるような視線を感じながらも、冷静に状況を受け止めていた。この瞬間が訪れることを、心のどこかで予期していたからだ。むしろ、これで全てが明らかになるのなら、望むところだ、とさえ思った。隣に立つシルヴァンの手が、抑えきれない怒りで微かに震えているのが、握りしめた手を通して痛いほど伝わってくる。
コルネリアが、得意満面にその偽りの証拠を読み上げようとした、まさにその瞬間。シルヴァンが、静かに、しかしホール全体に響き渡る、揺るぎない威厳に満ちた声で彼女を制した。
「そこまでだ、コルネリア嬢。その茶番は、もう終わりにしろ」
彼は、ルシリアを守るようにその前に一歩進み出ると、集まった全ての王族、貴族たちを真っ直ぐに見据え、朗々と、しかし一言一言に重みを込めて宣言した。その声は、もはや単なる若者のものではなく、辺境伯家の次期当主候補として、そして愛する女性を守り抜こうとする男としての、絶対的な覚悟と決意に満ちていた。
「貴様の口にする、根も葉もない戯言に、我々はもはや耳を貸す必要はない。ルシリアの血が何色であろうと、彼女の魂の高潔さは、ここにいる誰よりも気高く、尊いものだ! そして、たとえ全世界が彼女を疑い、敵意を向けようとも、この私が、シルヴァン・フォン・グライフシュタインが、我が命と名誉の全てを懸けて、生涯彼女を守り抜く!」
シルヴァンは、そこで一度言葉を切り、会場の息をのむような静寂の中で、さらに力強く続けた。その言葉は、会場にいる全ての人々の度肝を抜く、衝撃的な告白だった。
「何故なら―― ルシリア・フォン・エルクローネは、この私、シルヴァン・フォン・グライフシュタインが、魂の奥底から愛し、永遠の絆で結ばれた、ただ一人の、かけがえのない婚約者だからだ!」
その言葉が持つ意味の大きさに、会場は再び水を打ったように静まり返った。辺境伯家の次期当主候補が、出自不明とされていた男爵令嬢と婚約? しかも、政略などではなく、「魂で結ばれた」とまで公言した。それは、貴族社会の常識を覆す、前代未聞の宣言だった。集まった貴族たちの視線は、最初の驚愕から、次第に困惑、そして深い納得と、一部からは畏敬の念が入り混じった複雑な色へと変わっていった。彼らは悟り始めていたのだ。この二人の関係が、単なる若者の情熱だけではない、もっと深く、そして重要な意味を持つものである可能性を。
シルヴァンの隣に、ルシリアもまた、静かに、しかし毅然と並び立った。彼女は、震える手で胸元の瑠璃色のペンダントを強く握りしめると、集まった全ての人々に向かって、凛とした、澄んだ声で語り始めた。その声は、決して大きくはなかったが、不思議なほどよく通り、聞く者の心を捉え、静まり返ったホールに響き渡った。
「わたくしは、かつて隣国の王女でした。しかし、政争の渦に巻き込まれ、全てを失い、故国を追われ、この地に流れ着きました」。彼女は、自らの封印してきた過去を、初めて公の場で、はっきりと認めたのだ。しかし、その表情には、もはや卑屈さや怯えの色は微塵もなかった。「ですが、わたくしは過去の亡霊に縛られて生きるつもりはありません。わたくしは今、料理人ルシリアとして、この国で、愛する人々、支えてくれる仲間たちと共に、生きています。そして、前世から続く、わたくしのたった一つの夢……食卓から、ささやかでも世界を少しでも温かく、幸せにすること。その夢を、この愛する人の隣で、わたくし自身のこの手で、必ず掴みたいのです」。
彼女の言葉には、王女として生まれ持った抗いがたい気品と、料理人としての揺るぎない情熱、そして困難を乗り越えて未来を切り拓こうとする、強くしなやかな意志が宿っていた。その真摯で、魂からの叫びとも言える想いは、打算や陰謀に満ちた貴族社会の空気の中で、多くの人々の心を打ち、会場には静かな、しかし深い感動がさざ波のように広がっていく。その時、まるで彼女の言葉と決意に応えるかのように、ルシリアの胸元で輝く母の形見のペンダントが、ひときわ強く、神秘的な瑠璃色の光を放ち始めた。
会場にいる誰もが、その不可思議で美しい光に息をのんだ、まさにその瞬間。一人の人物が、静かに、しかし絶対的な存在感を放ちながら、輪の中心へと歩みを進めた。ルシリアの後見人、テオドール大公だった。彼は、権威ある落ち着いた声で、集まった全ての人々に向けて、決定的な真実を告げた。その内容は、コルネリアの告発を根底から覆し、ルシリアの存在意義を全く新しい次元へと引き上げるものだった。
「シルヴァン殿、そしてルシリア嬢の言葉は、一点の曇りもない真実である。だが、諸君に伝えねばならぬ、さらに重要な事実がある」。大公は、驚愕と期待の入り混じった表情を浮かべる貴族たちをゆっくりと見渡し、重々しく、しかし明瞭に言葉を続けた。「ルシリア嬢の母、今は亡きセレスティナ妃は、巷で囁かれるような低い出自の者などでは断じてない。彼女こそは、隣国の、現体制が歴史から抹殺しようと躍起になっている、正当なる王位継承権を持つ、最後の血筋であったのだ。そして、今ルシリア嬢が身につけているその瑠璃色のペンダントこそ、古代より隣国王家に受け継がれてきた、王家の正統性を示す、唯一無二の聖遺物。すなわち、ルシリア嬢は、単なる亡国の王女などではない。彼女の中には、二つの国の血と、そして未来を繋ぐ、計り知れないほど大いなる可能性が秘められているのだ」。
大公の言葉は、会場に最後の、そして最大の衝撃を与えた。ルシリアは、反逆者の娘どころか、むしろ隣国の正統な王家の血を引く、極めて高貴で、重要な存在だったのだ。辺境伯家との婚約も、単なる個人的な結びつきという次元を超え、両国の未来をも左右しかねない、極めて重大な国家的な意味合いを持つものとなる。
「そして、辺境伯家とルシリア嬢との婚約は、我が国の国王陛下、そしてこの私、テオドール大公家が、正式に承認し、心から祝福するものであることを、この場を借りて、改めて宣言する!」
大公のその一言が、全ての状況を決定づけた。もはや、誰もルシリアの出自やシルヴァンとの関係に異を唱えることはできない。
コルネリアは、顔面蒼白となり、もはや立っていることもできず、その場にくずおれた。彼女の最後の、そして最大の賭けは、最悪の形で、自らの破滅を招く結果となったのだ。捏造された証拠は、大公の証言の前には何の効力も持たず、彼女のこれまでの悪行と、その背後で糸を引いていた者たちの陰湿な陰謀は、白日の下に晒されることとなるだろう。彼女を待つのは、貴族社会からの完全な追放と、厳しい断罪。その哀れで惨めな姿に、もはや同情を寄せる者は、会場には一人もいなかった。
会場の空気は、一瞬にして劇的に変わった。先ほどまでの疑念や好奇、悪意は跡形もなく消え去り、代わりにルシリアとシルヴァンに向けられるのは、驚嘆、称賛、そして畏敬の念が複雑に混じり合った、熱い視線だった。二人は、互いをしっかりと見つめ合い、そして固く、固く手を握り合った。多くの困難、幾多の試練を乗り越え、ついに掴んだ真実と、未来への揺るぎない絆。それは、これから始まる二人の新たな物語の、輝かしく、そして希望に満ちた序章となるのだった。きらびやかな夜会の喧騒の中で、二人の周りだけが、まるで運命のスポットライトを浴びたかのように、静かに、そして何よりも強く、美しく輝いていた。
第十一章:虹色のコンソメ、永遠の誓い
夜会の衝撃的な出来事は、王都の社交界はおろか、王国全体、さらには隣国にまで瞬く間に伝わり、大きな波紋を広げた。「忘れられた王女」ルシリアの劇的な登場、辺境伯家の次期当主候補シルヴァンとの「魂の誓約」による婚約、そしてそれを後押しするテオドール大公の存在。これらの事実は、単なるゴシップの域を超え、王国の政治勢力図や、隣国との微妙な関係性にも、無視できない影響を与え始めていた。ルシリアという存在は、否応なく、歴史の大きな渦の中心へと押し出されようとしていたのだ。
しかし、ルシリアとシルヴァン自身は、そうした周囲の喧騒や政治的な思惑からは意識的に距離を置き、アカデミーの卒業と、その先の二人で歩む未来に向けて、静かに、しかし着実に準備を進めていた。彼らにとって最も大切なのは、権力や名声ではなく、互いを支え合い、ささやかでも確かな幸せを築いていくことだったからだ。
卒業式は、アカデミーの荘厳な大講堂で、厳かな雰囲気の中で執り行われた。ルシリアは、学業成績優秀者として、また創立記念祭での料理コンテストにおける類稀なる功績を称えられ、多くの賞賛と祝福の言葉と共に、卒業証書を受け取った。その隣には、騎士科を首席で卒業するという栄誉に輝いたシルヴァンの、誇らしげで、少し照れたような笑顔があった。二人が並び立つ姿は、多くの生徒たちの憧憬と羨望の的となっていた。
式典の後、アカデミーの思い出深い中庭で、ルシリアとシルヴァンは、苦楽を共にした仲間たちとの別れを惜しんだ。薬草学の知識で何度も助けてくれたアリア、魔法工学の才能でルシリアの挑戦を支えてくれたレオン、そして、いつもルシリアの料理の腕を信じ、厨房を守ってくれた、いかつい顔だが心優しい料理長。彼らとの出会いがなければ、今の自分はなかっただろう。
「ルシリア様、シルヴァン様、ご卒業、本当におめでとうございます!」アリアは、別れを惜しむ涙で瞳を潤ませながらも、心からの祝福を送ってくれた。「王都を離れてしまわれるのは、本当に寂しいですけれど……お二人が辺境で、きっと素晴らしい未来を築かれることを、心から信じていますわ」
「ああ、まったくだ!」レオンも、力強く頷いた。「もし、辺境で何か困ったことがあったら、いつでも俺を呼んでくれよ! 俺の魔法工学の知識が役に立つなら、グリフォン便でも何でも使って、すぐに駆けつけるぜ!」
料理長は、ぶっきらぼうな口調の中に、深い親愛の情を込めて言った。「嬢ちゃん、シルヴァンの旦那。達者でな。嬢ちゃんの料理は、わしらに新しい世界ってもんを見せてくれた。大したもんだ。これからも、その腕で、たくさんの人間を幸せにしてやれよ。それが、お前にできる最高の魔法だ」
仲間たちの心からの温かい言葉の一つ一つが、ルシリアの胸に深く染み渡った。「ありがとう、みんな。あなたたちがいてくれたから、私は諦めずにここまで来られたわ。あなたたちの友情は、決して忘れない。いつか、必ず辺境に遊びに来てね。最高の料理を用意して待っているから」
シルヴァンも、仲間たち一人一人と固い握手を交わした。「本当に世話になったな。お前たちがいなかったら、どうなっていたことか。だが、これで終わりじゃない。また必ず会おう! 約束だ!」
そして、ルシリアは、王都での仮の住まいを提供し、本当の家族のように温かく接してくれた、養父母である男爵夫妻にも、心からの深い感謝を伝えた。彼らは、夜会での出来事の後、ルシリアの本当の身分を知ってもなお、少しも態度を変えることなく、変わらぬ愛情で彼女を見守り続けてくれたのだ。「いつでも、疲れた時には帰っていらっしゃい、ルシリア。たとえ短い間でも、ここはあなたのもう一つの大切な家なのだから」養母の優しい言葉に、ルシリアはこらえきれず、感謝の涙を流した。
全ての別れと挨拶を済ませ、ルシリアとシルヴァンは、数年前とは全く違う想いを胸に、再び北の辺境伯領へと旅立った。今度は、未来を誓い合った婚約者として、人生を共にするかけがえのないパートナーとして。揺れる馬車の中で、ルシリアは窓の外を流れる、見慣れたはずの景色を眺めていた。数年前、絶望と恐怖の中で通った道。しかし、今は隣に、誰よりも信頼し、愛するシルヴァンがいる。胸の中には、料理人としての確かな夢と、それを支えてくれる人々との温かい絆がある。見える景色は同じでも、彼女の世界は、もはや全く違う、希望に満ちた色彩を帯びて輝いていた。
辺境伯領は、未来の領主とその伴侶となるルシリアの帰還を、領民挙げて、まるで英雄を迎えるかのように熱狂的に歓迎した。グライフシュタイン城へと続く道には、色とりどりの旗がはためき、道の両脇には、厳しい自然の中で逞しく生きる領民たちが、笑顔で並び、歓声を上げていた。「ルシリア様、お帰りなさいませ!」「シルヴァン様、ご卒業おめでとうございます!」彼らにとって、ルシリアはもはや、どこからか来た素性の知れぬ客人ではない。困難を乗り越え、アカデミーでその才能を輝かせ、そして未来の領主候補シルヴァンの心を射止めた、辺境の希望の象徴、特別な存在となっていたのだ。
城門の前では、辺境伯夫妻が、我が子の帰還と、見違えるほど成長し、自信に満ちた輝きを放つルシリアの姿に、感無量の面持ちで出迎えた。エルヴィラ夫人は、ルシリアを母親のように固く抱きしめ、「お帰りなさい、ルシリア。よくぞ……本当によくぞ、ここまでご無事で……。あなたは、もう私たちの誇りですわ」と、喜びの涙を浮かべた。普段は感情を表に出さない厳格な辺境伯ジークフリートも、その口元には隠しきれない安堵と満足の笑みが浮かんでいた。「うむ。二人とも、見違えるほど立派になったな。頼もしい限りだ。これからは、この広大な辺境の未来を、お前たち若き力に託すことになるだろう。覚悟はよいな?」その言葉には、期待と共に、領主としての重い責任が込められていた。
その夜、城の大広間では、二人の帰還と卒業、そして正式な婚約を祝う、盛大で、しかし心のこもった温かい祝宴が開かれた。領地の主な人々や、城に仕える者たちが皆集い、喜びを分かち合った。しかし、ルシリアには、その祝宴の前に、どうしても自分の手で果たしたい、大切なことがあった。それは、これまでの長い間、自分を受け入れ、支え、守ってくれた辺境伯一家と、領地の人々、そして苦楽を共にしてきた城の使用人たち全てへの、心からの感謝の気持ちを込めて、最高の料理を振る舞うことだった。
数日間、ルシリアは厨房に籠もり、その準備に没頭した。辺境伯領が誇る、力強く新鮮な最高の食材…森が育んだ茸や木の実、清流が育てた川魚、大地を駆け巡ったジビエ、そして領民たちが丹精込めて育てた野菜や穀物…それらを集め、前世のフレンチの技術、アカデミーで深めた魔法料理の理論、そして何よりも、この地で受けた数えきれないほどの恩への深い感謝の気持ちを込めて、晩餐会のメニューを考案し、試作を重ねた。厨房の料理人たちも、今やルシリアを若き師と仰ぎ、まるで熟練のオーケストラの楽団員のように、彼女の指示の下、一糸乱れぬ連携で、彼女の創造的な料理作りを全力でサポートしてくれた。シルヴァンも、公務の合間を縫っては厨房に顔を出し、力仕事を手伝ったり、誰よりも熱心な味見役を務めたりして、ルシリアを励まし続けた。
そして、晩餐会の当日。城の大広間には、長いオーク材のテーブルがしつらえられ、壁には美しいタペストリーが飾られ、テーブルの上には磨かれた銀食器と、辺境の野の花々が飾られ、無数の蝋燭の温かい灯りが、集まった人々の期待に満ちた顔を優しく照らし出していた。やがて、厨房から次々と運ばれてくる料理の数々に、会場からは抑えきれない感嘆の声と、食欲をそそる香りに満たされた幸せなため息が上がった。
アミューズとして供されたのは、前世の師匠への敬意と挑戦状を込めた、一口サイズの繊細な驚きに満ちた一品。前菜は、辺境伯領の四季の移ろいとその恵みを、色鮮やかな野菜のテリーヌで見事に表現したもの。魚料理は、逃亡の旅で命を懸けてくれた今は亡き老騎士ゴドフリーへの深い感謝を込めて、彼が好きだったという川魚を、特別な燻製技術とハーブ、そしてエーテル・カッターを用いた繊細な調理法で仕上げた、忘れがたい一皿。肉料理は、厳格な中にも深い愛情を持つ辺境伯ジークフリートへの敬意と、そして遠い故国にいるであろう、今は顔も思い出せない実父への複雑な祈りを込めて、力強くも奥深い味わいの、辺境特産の猪肉を使ったジビエ料理。一皿一皿に、ルシリアのこれまでの人生と、彼女が出会った人々への様々な想いが、まるで美しい物語のように、繊細に、そして豊かに込められていた。
そして、メインディッシュとして、満を持して供されたのは、ルシリアにとって魂の料理とも言える、あの「七色の恵みスープ」を、彼女が持つ全ての技術と魔法、そして全身全霊の魂を注ぎ込んで昇華させた、究極にして至高の一品だった。「虹色のコンソメ・ロワイヤル ~七色の恵みと魂の響き、永遠の誓いを乗せて~」。
完璧なまでに透き通った、深い黄金色のコンソメ。その液体は、まるでそれ自体が生命を持ち、内側から温かい光を発しているかのように、神々しく輝いていた。コンソメの中には、七色の野菜…赤、橙、黄、緑、青、藍、紫…それぞれが最も美味しく、そしてその効能が最大限に引き出されるよう、異なる調理法と魔法、そしてエーテル・カッターによる繊細な処理が施されて作られた、絹のように滑らかなフラン(※西洋風茶碗蒸し)が、まるで虹のかけらのように、美しく、そして調和をもって浮かんでいる。そして、スープの表面には、魔法によって凝縮され、精製された特別なハーブオイルが、まるで朝露のように、あるいは虹の雫のように、きらきらと七色の輝きを放っていた。
銀のスプーンで、そっとその奇跡の液体を一口すくって口に運ぶと、まず、信じられないほど深く、幾重にも重なり合った、それでいて完璧な調和を保った複雑な旨味が、舌の上に、そして魂にまで広がっていく。次に、温かい液体が喉を通り過ぎる時、それは単なる物理的な温かさではなく、魂の奥深くに直接語りかけるような、慈愛に満ちた、清らかなエネルギーとなって、全身の細胞の一つ一つに染み渡っていくのを感じる。食べた者は皆、言葉を失い、ただ静かに目を閉じ、その至福の味わいと感覚に身を委ねた。そして、気づけば、多くの者の目には、理由の分からない、しかし止めようのない温かい涙が静かに浮かんでいた。それは、悲しみの涙ではない。魂が浄化され、心の奥底に眠っていた最も大切な記憶や感情…喜び、感謝、愛、希望…が優しく呼び覚まされるような、深く、温かく、そしてこの上なく清らかな感動の涙だった。辺境伯夫妻は、言葉なく互いの手を固く握り合い、その目には深い感動の色が浮かんでいた。そしてシルヴァンは、愛おしさと、誇らしさと、言葉にできないほどの深い感情に満ちた瞳で、ただ真っ直ぐに、隣に座るルシリアを見つめていた。
デザートとして最後に供されたのは、ルシリアが前世で、どうしても祖母に食べさせたかった「記憶に残る一皿」を、現世で手に入れた最高の技術と魔法、そして深い愛情をもって再現し、さらに昇華させた、特別なケーキだった。それは、彼女自身の魂の救済であり、過去への完全なる決別と、輝かしい未来への希望を高らかに謳い上げる、甘美で、そして少しだけ切ない、祈りのような一皿となった。
全ての料理が供され終わると、しばしの静寂の後、会場は万雷の、そして鳴り止むことのない拍手に包まれた。ルシリアは、彼女を支えてくれた厨房の仲間たちと共に、集まった全ての人々に向けて、深く、深く頭を下げた。彼女の料理は、言葉を超えて、そこにいた全ての人々の心を、深く、温かく満たし、繋いだのだった。それは、彼女が料理人として目指してきた、そしてこれからも目指し続けるであろう、最高の瞬間であり、新たな始まりの瞬間でもあった。
晩餐会の深い感動と、人々の温かい祝福の余韻がまだ城内に満ちている、その夜。辺境の空には、まるでルシリアとシルヴァンの未来を祝福するかのように、王都では決して見ることのできない、息をのむほど美しく、そして無数の星々が、手の届きそうなほど近くに降るように輝いていた。シルヴァンは、そっとルシリアの手を取り、祝宴の喧騒から離れ、城壁の外、二人だけが知る特別な場所…初めてルシリアが心を開き、そして魂の誓約を交わした、あの精霊が宿ると言われる大樹の下へと、静かに誘った。
ひんやりとした清冽な夜気が肌を撫で、昼間の興奮を優しく冷ましてくれる。大樹の太い根元に二人で腰を下ろすと、周囲は深い静寂に包まれていた。聞こえるのは、風が木々の葉を揺らす、まるで囁きのような音と、遠くの森で鳴く夜梟の声、そして、隣に座る互いの、穏やかで規則正しい呼吸の音だけ。ルシリアは、シルヴァンの逞しくなった肩に、そっと自分の頭を預けた。彼の体温と、力強い鼓動が、心地よく、そして何よりも安心できる温もりとなって伝わってくる。
「……今日の料理、本当に、本当にすごかったな、ルシィ」しばしの静寂の後、シルヴァンが、感嘆の溜息と共に、静かに口を開いた。「食べた人みんな、言葉を失って、ただ泣いてたぞ。父ちゃんも母ちゃんも、あんな顔したの、初めて見た。あれは……ただの料理じゃない。魔法だ。いや、魔法以上だ」
「ありがとう、シルヴァン」ルシリアは顔を上げ、夜空の星々を映してきらめくシルヴァンの瞳を、愛おしさを込めて見つめた。「でも、あれは私一人の力じゃないわ。厨房のみんなが、私のわがままな要求に最後までついてきてくれたから。そして何より、あなたがいつも、どんな時も、私のそばで信じ、支え続けてくれたからよ」
「俺は、ただお前の料理を一番に食ってただけだ」シルヴァンは、少し照れたように視線を逸らし、赤毛の頭を掻いたが、すぐに真剣な、そして決意に満ちた表情でルシリアに向き直った。「なあ、ルシィ。俺は、お前がどこの誰であろうと、どんな過去を持っていようと、どんな不思議な力を持っていようと、そんなことはもう、どうだっていいんだ。俺はただ、お前という人間が、心の底から好きなんだ。お前の作る温かい料理も、時々見せる頑固なところも、料理のことになると夢中になるところも、そして、時折ふと見せる、遠い目をする寂しそうな横顔も……全部、全部含めて、お前が、ルシリアが、たまらなく好きなんだ。だから、これからもずっと、お前の人生の一番近くで、お前のことを見ていたい。支えたい。いや……どうか、俺に支えさせてほしい」
そして、シルヴァンは、まるで大切な宝物を取り出すかのように、懐から小さな、しかし上質な木で作られた箱を取り出した。そっと蓋を開けると、中には、辺境の夜空に輝く星々を集めて作ったかのような、古代の魔法が静かに息づく、シンプルながらも息をのむほど美しい銀の指輪が収められていた。それは、グライフシュタイン辺境伯家に、初代から代々受け継がれてきた、魂の誓約を交わすための、特別な、そして神聖な指輪だという。指輪は、月と星々の光を受けて、淡く、しかし力強い、清らかな輝きを放っていた。
シルヴァンは、その指輪を敬虔な手つきで手に取ると、ためらうことなく、ルシリアの前に片膝をついた。その姿は、いつもの快活で少しやんちゃな彼とは全く違う、真摯で、厳かで、そして生涯の愛を誓う騎士のような、神々しいまでの雰囲気を纏っていた。
「ルシィ、私の太陽、私の道しるべ、そして、私の魂の伴侶。君という奇跡に出会えたこの生に、俺は心からの感謝を捧げる。この指輪に、そしてこの辺境の星々に誓う。俺の生涯の全てを懸けて、君だけを愛し、どんな嵐からも、どんな闇からも、必ず君を守り抜き、そして……君の作る温かい料理を、この世界で一番幸せな顔をして、毎日食べ続けることを。だから、どうか……どうか、俺と結婚してくれないか」
その言葉は、どんな甘い囁きよりも、どんな美しい詩よりも、ルシリアの魂の最も深い場所に、温かく、そして力強く響いた。込み上げてくる熱い感情に、視界が涙で滲み、愛しいシルヴァンの顔がぼやけて見える。彼女は、震える声で、しかし人生で最も確かな響きをもって、答えた。
「……シルヴァン……私の光、私の帰る場所……私も、誓います。この指輪に、この星空に、そして私たちの魂に。あなたの隣で、この命ある限り、愛と感謝を込めた最高の料理を作り続けることを。あなたの妻として、あなたの魂の伴侶として、今この瞬間から、永遠に……」
シルヴァンは、感極まった表情でゆっくりと立ち上がると、その温かい手で、優しく指輪をルシリアの左手の薬指にはめた。指輪が、まるで吸い付くように彼女の指に収まった瞬間、二人の魂が完全に一つに溶け合ったような、温かく、そして力強い、光り輝くような感覚が全身を駆け巡った。まるでその誓いを祝福するかのように、夜空の星々が一層強く、瞬くように輝きを増し、二人が寄り添う精霊の大樹の無数の葉が、まるで喜びの歌を奏でるかのように、さわさわと優しく音を立てた。二人は、もはや言葉は必要なく、ただ互いを強く抱きしめ、辺境の満天の星空の下で、永遠の愛を誓う、深く、そして神聖な口づけを交わした。それは、二つの異なる世界、二つの数奇な人生を経て、ようやく結ばれた、奇跡の愛の、美しき成就の瞬間だった。
エピローグ:食卓は続く、愛と魔法と幸せの香りと共に
それから数年の歳月が、辺境の厳しいながらも豊かな自然の中で、穏やかに、そして豊かに流れていった。北の辺境伯領は、若き次期領主シルヴァンとその妻となったルシリアの、それぞれの類稀なる才能と、互いを深く理解し支え合う力によって、かつてないほどの活気と繁栄の時代を迎えていた。シルヴァンは、父である辺境伯ジークフリートの信頼と期待に応え、その天性のリーダーシップと公正さ、そして時には辺境育ちらしい大胆な発想をもって領地を治め、領民たちから絶大な信頼と深い敬愛を集める、賢明な領主へと成長していた。彼は、辺境の厳しい自然と共存するための知恵を尊重しつつも、王都のアカデミーで学んだ新しい知識や技術も積極的に取り入れ、農業の改良、交易路の整備、そして領民の生活水準の向上に、精力的に尽力していた。
一方、ルシリアは、辺境伯領の中心地に、領民たちが気軽に集える「太陽の食卓」という名の小さなレストラン兼料理教室を開いた。そこは、瞬く間に領民たちの憩いの場となり、美味しい料理だけでなく、ルシリアの温かい人柄と、彼女が教える実用的で栄養満点な家庭料理の知識を求めて、多くの人々が集まる、領地の心臓部のような存在となった。やがてその評判は、国境を越えて王都や隣国にまで届き、遠方からわざわざ彼女の料理を味わうために、あるいは彼女に教えを請うために訪れる客も絶えない、伝説的な場所となっていった。ルシリアの料理は、単に空腹を満たすだけでなく、食べた者の心身を深く癒し、時には傷ついた心を慰め、人生に迷う者に新たな一歩を踏み出す勇気を与え、さらには対立していた村同士を和解させるきっかけを作るほどの、不思議な「魔法」の力を持っていたからだ。「奇跡のレストラン」「魔法の食卓」…人々は、畏敬と親しみを込めて、いつしかそう呼ぶようになっていた。ルシリアはまた、料理教室を通じて、領民たちに食の大切さ、栄養バランスの知識、そして何よりも料理を作ること、食べることを楽しむ心を教え、辺境伯領全体の食文化の向上と、人々の健康に大きく貢献していた。彼女は、前世で果たせなかった「食で人を幸せにする」という大きな夢を、この愛する辺境の地で、想像していた以上の、遥かに豊かで素晴らしい形で、確かに実現していたのだ。
ある冬の日の夕暮れ時。外は、音もなく、柔らかな雪が降り積もり、厳しい辺境の世界を、一時だけ、優しく、清らかな白で包み込んでいる。グライフシュタイン城の一室、暖炉の火がパチパチと心地よい音を立てて燃え盛る、温かく居心地の良いダイニングルーム。そこには、世界で一番幸せそうな家族の姿があった。逞しく、そして領主としての威厳も備わってきたシルヴァン。穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを浮かべるルシリア。そして、二人の間に生まれた、愛らしい二人の子供たち――父親譲りの燃えるような赤毛と、好奇心旺盛な青い瞳を持つ、やんちゃ盛りの元気な男の子と、母親譲りの繊細な感性と、陽光を思わせる金色の髪を持つ、物静かで本が好きな女の子。
テーブルの中央には、大きな素朴な土鍋が置かれ、湯気を立てている。今日のメニューは、子供たちが雪が降る前に、裏の畑で一生懸命手伝って収穫した、色とりどりの冬野菜をたっぷり使った、特別な「七色の恵みスープ」。家族の楽しそうな笑い声が、暖炉の火の爆ぜる音と共に、温かい部屋の中に満ちている。
シルヴァンが、ふーふーと息を吹きかけながらスープを一口飲み、至福の表情で大きく息をついた。「んーっ、やっぱり、何度食べてもルシィのスープは世界一だなぁ。冷え切った身体に、この温かさが染み渡るぜ」
ルシリアは、愛おしそうにそんな夫の姿を見つめ、柔らかな微笑みを返した。「あなたが毎日、そう言って美味しいって食べてくれることが、私の最高の幸せなのよ、シルヴァン」
「おかわり!」男の子が、すでに空になったお皿を元気いっぱいに差し出す。「父ちゃんより先に、もっとちょうだい!」
「私も……いただきます」女の子も、小さな声で、しかしキラキラした瞳でお皿を差し出した。
食事が終わり、子供たちが暖炉の前で、父親に昔話の絵本を読んでもらっている間に、ルシリアは一人、窓辺に立ち、降りしきる雪を眺めていた。窓ガラスに映る自分の姿。胸元には、母が最後に託してくれた瑠璃色のペンダントが、そして左手の薬指には、シルヴァンが永遠の愛を誓ってくれた銀の指輪が、それぞれに確かな存在感と温もりをもって輝いている。前世での無念、王宮での孤独と恐怖、逃亡の旅で味わった苦難…それらはもはや、遠い過去の、しかし今の自分を形作るための、かけがえのない記憶となっていた。乗り越えてきた全ての経験が、彼女の魂をより深く、より豊かに、そして何よりも強く輝かせている。
(おばあちゃん、お母様、見ていてくれますか? 桜は……いいえ、ルシリアは、今、言葉にできないくらい、最高に幸せです……)
心の中で、今はもう会うことのできない、遠い世界の、そしてこの世界の、愛する人たちに、静かに語りかける。
「ルシィ、何してるんだ? 風邪ひくぞ」
背後から、シルヴァンの優しい声がした。彼は、いつの間にかルシリアの隣に立ち、その冷えた肩を、大きな温かい手でそっと抱き寄せた。窓の外の、どこまでも続く白銀の世界を、二人で静かに眺める。
「……ううん、なんでもないわ。ただ、本当に幸せだなって、改めて思っていただけよ」
「そうか」シルヴァンは、満足そうに深く頷くと、ルシリアの額に、愛しさを込めて優しくキスをした。「俺もだよ。お前と、可愛い子供たちと、こうして毎日、温かいスープを囲める。これ以上の幸せなんて、世界のどこを探したって、きっとありはしないさ」
ルシリアは、シルヴァンの逞しい胸に、安心しきって顔をうずめた。暖炉の燃える音、子供たちの無邪気な声、そしてすぐそばにある、愛する人の、揺るぎない確かな温もり。それらが、彼女の世界を、完璧なほどの幸福感で満たしていた。
彼女の作る料理が、これからも多くの人々を温め、癒し、幸せにしていくように、彼女自身の人生もまた、温かく、優しく、そして希望に満ちた光の中で、この先もずっと、どこまでも豊かに続いていくのだろう。そんな穏やかで、揺るぎない確信が、ルシリアの心を満たしていた。物語は、読者の心に、深く、温かく、そして忘れがたいほどの満ち足りた余韻を残して、静かに、そして永遠に続くであろう幸せな食卓の風景の中で、そっと幕を下ろすのだった。
【おわり】