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『水面に映る光』

作者: 小川敦人

『水面に映る光』


室内プールの天井から差し込む光が水面に反射して、まばゆい光の模様を描いていた。

御影美保は車椅子に座りながら、その光景をじっと見つめていた。

妹の百合子も隣で同じように見入っている。姉妹の瞳に映る水面には、40年前の記憶が重なっていた。


「美保、百合子、今日から隆介おじさんに水泳を習うのよ」

母の安江の声が、まるで昨日のことのように蘇る。

当時、小学校4年生だった美保と2年生の百合子は、その言葉に戸惑いを隠せなかった。

下肢のマヒを抱える姉妹にとって、水泳というスポーツは遠い世界の出来事のように思えた。

「でも、お母さん...」と美保が小さな声で言いかけると、安江の表情が一段と厳しくなった。

「でもじゃありません。あなたたち、これから社会に出ていくのよ。障害があるからって、できないことを数えるんじゃなく、できることを増やしていかなきゃ」

安江の言葉は常に厳しかったが、その底には深い愛情が流れていた。

子供たちが将来、自立した生活を送れるようにという願いが、時には厳格な態度となって表れた。

「隆介さんなら大丈夫よ。厳しい先生かもしれないけど、誰よりも子供たちの可能性を信じてくれる人だから」

そう言ったのは、安江の従姉妹である三津子だった。

三津子の夫である隆介は、スポーツ少年団「ATACK」を率いて、多くの子供たちを泳げるように育て上げてきた。

初めて泳ぐ子供でも、2、3回の練習で15メートルは泳げるようになった。

プールサイドに立つ隆介の姿は、まるで別人のように厳しかった。

塩素の香りが漂う室内プールに、その声が響き渡る。普段の温厚な表情は消え、真剣なまなざしで子供たちを見つめていた。

「美保、百合子。水は誰も差別しない。水の中では、みんな平等なんだ」

その言葉は、姉妹の心に深く刻まれた。隆介は彼女たちの障害を特別視することなく、他の生徒たちと同じように接した。

それは時として厳しい指導となったが、その背後にある期待と信頼を、姉妹は確かに感じ取っていた。

キックがつかえないので、体位が保てない。そこで、呼吸が楽な背泳から指導した。

「とにかく、リラックスして浮くこと。そして上半身の筋肉を使えば、水の中を自由に移動できるぞ」

隆介の指導は、技術的な面だけでなく、精神面でも大きな影響を与えた。

水中では、車椅子なしで自由に動けることが、姉妹にとって新しい可能性の扉を開いた。

一旦、水中での解放感を味わった二人は水中の世界を楽しんだ。

それでも、練習は厳しく2時間はみっちり泳いだ。とくに、妹の百合子は体力がなく直ぐに泣き言を言った。

安江は毎日の練習に付き添い、娘たちの努力を見守った。

時には厳しく叱り、時には黙って応援し、決して甘やかすことはなかった。

それは、将来の自立した生活への準備だった。

「お母さんの厳しさは、私たちへの最高の愛情表現だったのね」と美保は今でも思う。

百合子もうなずいて「隆介おじさんも同じだったわ」と付け加えた。

あの夏から40年。姉妹は今、それぞれの道を歩んでいる。

美保も百合子も就労継続支援A型で就労をしている。就労者の中でリーダー的な役割を担っている。

二人とも、水泳を通じて学んだ「できない」を「できる」に変える勇気を、今も大切にしている。

室内プールの水面に映る光は、昔と変わらず美しく輝いていた。

塩素の香りと水音が響く空間で、その光は努力と愛情が織りなす希望の象徴のように見えた。


40年前、室内プールの掲示板に貼られた一枚のポスターが、御影姉妹の人生を大きく変えることになった。

「第12回全国障がい者水泳競技大会」

練習を始めて一年が経とうとしていた夏の終わり、美保と百合子は偶然そのポスターを見つけた。

出場資格には地区大会での3位以内入賞が必要だった。

「美保姉、私たち、出られるかな?」と百合子が不安げに尋ねた。

「挑戦してみない?」美保は妹の手を優しく握った。

その日の練習で、隆介に相談すると、彼は即座に賛成した。

「お前たちなら、きっとできる。今までの努力が報われる時が来たんだ」

安江は娘たちの決意を聞くと、いつも以上に厳しい練習メニューを組んでくれるよう隆介に頼んだ。

朝練も始まり、毎日が地獄のような特訓の日々となった。

しかし、誰一人として練習を休まなかった。美保も百合子も、限界を超えようと必死に泳ぎ続けた。

地区大会の朝を迎えた。会場には多くの選手が集まっていた。

母の安江は娘たちの肩をそっと抱き、「あとは楽しんでくるのよ」と声をかけた。

美保は背泳ぎ50メートル、百合子は25メートルに出場した。二人とも持てる力を出し切り、見事に3位以内に入賞。全国大会への切符を手にした。

その知らせを聞いた父、御影総一郎は驚いた。

彼は娘たちが障害を持って生まれたことを自分の責任のように感じ、プールには一度も顔を出さなかった。

仕事に没頭することで、現実から目を背けていたのかもしれない。

しかし、娘たちの全国大会出場という知らせは、彼の心に大きな変化をもたらした。

「俺も、行きたい」

総一郎のその一言に、家族全員が驚いた。

全国大会は調布市民プールで開催された。会場に着くと、総一郎は娘たちの姿を必死に探した。

準備運動をする二人を見つけると、思わず声をかけようとした。しかし、言葉が詰まった。

その時、百合子が父親に気付いた。

「お父さん!」

彼女の声に、美保も振り向いた。

総一郎は照れくさそうに二人に近づいた。

「がんばれよ」

たった一言だったが、その言葉には父親としての想いが込められていた。

レース直前、美保は父の姿を観客席に見つけた。普段はスーツ姿の父が、今日は娘たちの応援Tシャツを着ていた。

それは安江が密かに用意していたものだった。

「選手、位置について」

号砲が鳴る。美保は全身の力を振り絞って泳いだ。観客の声援が水中にこだまする。

そして、タッチ。5位入賞という結果だった。

百合子のレースでは、なんと7位入賞。二人とも入賞を果たした。

メダルを首にかけた娘たちを見て、総一郎は声を詰まらせた。

「すまなかった。今まで、ちゃんと見てやれなくて...」

美保は首を振った。

「いいの、お父さん。来てくれて、嬉しかった」

その言葉に素直な情感がほとばしる。

父はしばらく口を閉ざんだまま、わずかに顔を傾けて、何かを言おうとしても声にならない。

「私、自分にはわかってたの。お父さんなりに悩んでくれてたんだなって。だから大丈夫、私達、大丈夫だよ。私、今日ここで泳ぐのが、残りの人生の最初の一歩なんだから」

いつの間にか顔を上げられずにいたのは父だった。

「涙……涙なんかじゃないよ」

素っ気なく父が呟く。父の眼に光るものが流れた。

これまで言わなかった何かが漏れるのを抵抗するかのように、大きく深呼吸して微笑んだ。

そして、少しだけ声を振るわせながら言う。

「お父さん、いま一番幸せだ。私の子で。大好きな子で。こんなにも幸せなんだよ」

そのとき、水面の光が心にまで添っていくように、温かな光の絵を描いた。

帰り道、総一郎は娘たちを見つめて

「これからは、練習も見に行くよ」

その言葉に、安江は小さく微笑んだ。どんな形であれ、親の愛情は決して変わらない。

それは、障害があってもなくても、全ての親子に流れる普遍の真理なのだ。

その日以来、総一郎は仕事の合間を縫って、できる限り娘たちの練習を見に来るようになった。

時には隆介と話し込み、娘たちの成長を喜び合った。


ある日の夕暮れ、家族全員が再び室内プールに集まった。

美保も百合子も父の総一郎も、母の安江も、隆介も、そして多くの仲間たちも集まり、水面に映る光の模様に見入っていた。

その光は、まるで過去と現在を繋ぐ絆のように見えた。

総一郎はしみじみとした表情で娘たちに語りかけた。

「お前たちを見ていると、本当に誇りに思うよ。どんなに厳しい道でも、決して諦めずに歩んできたお前たちの姿を見ていると、親としての喜びを感じるんだ。」

美保は静かにうなずき、百合子も微笑んだ。彼女たちの心には、親の無条件の愛が深く根付いていた。

それは、どんな困難な状況でも支えとなり、前へ進む力を与えてくれた。

「お父さん、お母さん、ありがとう。私たちはこれからも、この愛を胸に、前を向いて生きていくよ。」美保はそう言って、静かに微笑んだ。

総一郎と安江は互いに見つめ合い、深くうなずいた。どんな形であれ、親が子供に無条件の愛を与えることが、最も大切なことだと再確認したのだった。

その日、水面に映る光は一段と輝きを増し、美しい模様を描いていた。その光景は、家族の絆と愛が永遠に続くことを象徴していた

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