離別 10
それから数時間後。
レポートはかなり捗ったが、今日中に終わらせることは出来なさそうな雰囲気になり、彬は疲労も蓄積されてきて苛立ちを覚えてきた頃。
叉夜が、再び彬の部屋の扉をノックする。
「真唯佳様が、まだお戻りにならないのですが……」
彬は、声をかけられたものの、レポートの内容からうまく頭を切り替えることができず、一瞬何を言われているのか理解できないまま時計を見やる。
午後6時を回っていた。
いつの間にこんな時間に、という考え半分と、もう半分は——
「なんでもっと早く教えてくれないんだ」と、詰問調で彬は彼女に返事をする。
同時に、そういえば真唯佳は昼前から出かけていたことをやっと思い出す。
「申し訳ありません」と落胆した声で叉夜が答え、状況の詳細を話し出した。
「ご本人が、お一人で大丈夫と言われましても、やはり心配だったので、まだ明るい時間に、夕食の買い出しのついでに駅周辺を見てみたのですが、お姿は発見できず。
また、博物館にも問い合わせてみたのですが、特にトラブルはなかったようです。館内放送もお願いしたのですが……。
もう閉館なので、この時間は誰もいらっしゃらないとのことです。」
自分がレポートに掛かりっきりなのを気にして、叉夜だけでやれるだけのことをやってから相談に来たのか。
これまで彼女が一人で外出することがなかったので、真唯佳に携帯電話を持たせておらず、こちらから彼女に連絡をすることができない。
「もう少しだけ、待ってみようか」と、彬は返事をする。
彼女の帰宅がこんなに遅くなるなんて珍しいことで、心配は心配なのだが、同時に彬は少し怒りも感じた。
彼は課題を切り上げて軽く夕食も済ませたが、何を食べたか、ましてやどんな味だったかも覚えていない。
時計の針が容赦無くどんどん進む。
心配が不安へ。最悪の事態を想定するべきか。
座っていると彼の椅子は微かな震えと共鳴し、未知の不安が彼を包み込む。
彼女が帰宅しないまま時間が過ぎ、不安から焦りへ変わり、警察に連絡しようかと思い始めている。
ただ、大騒ぎにはしたくない。
そう逡巡していたが。
天気予報通り、雨も降り出してきた。
日中は天気が良かったので、おそらく彼女は傘を持って出かけていない。
雨に濡れて寒さで震えているであろう真唯佳を想像した時、これ以上待てないので次の手を打とうと彬は決心をし、立ち上がったその時だった。
玄関で物音がする。
パタパタと様子を見に行った叉夜が、声をあげる。
「真唯佳様……!」
そこには、泣き出しそうな顔で、寒さと疲労で小刻みに震えている真唯佳が立っていた。
全身濡れている彼女をみて、タオルをお持ちします!と言ってその場を去る叉夜。
「……遅くなって、ごめんなさい」
「今までどこにいたの?一体何をしていた!?」
か細い声で謝る真唯佳に対し、彬は、無事に帰ってきたと安心した瞬間、怒りが込み上げてきて、思わず声を荒げてしまう。
真唯佳は怒りの声が向けられると、全身から恐怖がにじみ出ていた。
彼女の心臓は荒く鼓動し、口からは詫びの言葉がつまり、小さく縮こまった身体は罪の重さに圧し潰されたように震えていた。
「あの……博物館から帰りのバスに慌てて乗ったら間違えてしまって……
しばらく気づかなくて、焦って降りたら財布をバスの中に忘れて……
歩いて帰ってきたのだけど、途中道に迷っちゃって……」
「小学生が困っていたり、助けを求めたら、周りの大人から携帯電話を借りれるか電話代くらい出してもらえるだろ。どうして一言連絡を入れないんだ!」
厳しい口調で思わずそう突っ込みながら、同時に、彼女にそれを求めるのは酷なのは、彬も分かっていた。
困って動揺している時に知らない人に声をかけるような勇気は、まだ彼女は持ち合わせていない。
分かっているのに、つい責めてしまった。
疲れ切っている上に彬に叱責されて落ち込んでいる彼女の表情をみて、言いすぎてしまったと彼は自己嫌悪に陥る。
ただ、込み上げた気持ちの昂りを、彬はそう簡単に納められなかった。
そこに叉夜が戻ってくる。
「体が冷えてるだろうから、早く風呂に入って食事をして」
これ以上、感情を撒き散らすという醜態を晒したくないので、彼女に背を向けてそう冷たく言い放ち、彬は自室へと戻っていった。
部屋に戻ってから、彬は自分の行動を振り返り最悪な気分になる。
いつも取り乱さない自分が、感情的になったり怒ったり、不安になったり泣きそうなほど安堵したり。
なぜ、こんなに感情が揺さぶられたのだ。精神鍛錬が足らないのか、それとも。
それは気付きたくない感情だった。
まさか真唯佳が、いつの間にか自分にとって掛け替えの無い存在になっているのか。
そんなバカな、幼馴染とはいえ私的な感情ではなく、任務と割り切ってここにきたというのに。
まだ若い彬は、帰りが遅くなった真唯佳のことで、なぜこんなに心揺さぶられるか自覚がない。
その理由を求めて、彼女との初めての出会いまで記憶を遡る。
――――――――――
彼女と初めて出会ったのは王宮の庭。
幼い頃、ジュリアンの母親は第二王妃と姉妹なので、よく王宮に面会に行っていた。
自分と歳が近いパトリックと遊ばせるために、彼はよく母親のに同行させられた。
その影響で、学院に入学する前くらいの年頃になると、一人でパトリックを訪ねていた。
そんなある日。
王宮の中庭で、パトリックとジュリアンがいつも通り二人で遊んでいると、1人で歩いていた2−3歳の少女を見かける。
パトリックが、「おいマディラ!」と名前を呼ぶと、少女は恥ずかしがって近くの白い建物の中に逃げていってしまう。
「ちぇ、今日も逃げられたな……あいつ、異母妹だけどすっごく人見知りが激しくて。いつもあんなんだから気にしないで。」
そんなことが度々あった。
庭で何度か彼女を見かけても、決して二人に近づいてこない。
彼女は、遠くの方からパトリックとジュリアンを見つめるので、二人のことは気にはなっているようだが、一緒に遊ぼうと声をかけると逃げてしまうのだ。
だがある日。
パトリックとの約束の時間に合わせて彼は訪問したが、家庭教師の指導が長引いているので、少し待つように言われた。
なので、いつも遊んでいる中庭の木にもたれ掛かり、ジュリアンは読書をしていた。
ふと気づくと、そばにマディラが立っていた。
彼女と目が合うと、おずおずと手に持っていた小さい紫色の花を、ジュリアンに差し出す。
「これを……僕に?」
そう聞くと、マディラは俯きながら遠くの花畑を指差す。
どうやら、自分のためにそこから一本取ってきてくれたらしい。
「綺麗だね。ありがとう」
にっこりとして、ジュリアンがそれを受け取ると、彼女は恥ずかしそうに微笑むや否や、ばぁーっと駆け出して、いつも彼女が日中過ごしている白い建物の中に消えていった。
その姿がなんだか愛くるしくて、ジュリアンの心が和んだが、その時は想像しなかった。
それが、ニーベルで見かけた彼女の最後の姿になるということを。




