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 1.


 「まあ、また本食いが触手を動かして紙を食っていますわ」


 その雑言を口走ったお上品な形のくちびるの持ち主を取り巻いてくすりくすりと笑い声が起きる。顔立ちのひときわ整った汚い口を、取り巻いている者たちは崇拝しているらしい。確かにここでは雑言を浴びせられた少女は、場違いな存在であると自覚があった。この場は、正当な血統を持つ子女だけが入学できる由緒正しき全寮制の女学園である。彼女らは美しさを磨くために華道や芸事を極め、また房中術さえも授業が行われ、男をよろこばせる淑女になるべく存在する学園である。彼女らは勉学は特に推奨されないが、当然の教養は必要で、また教師のためだろうか、国家の厄介払いか、この国でもっとも蔵書を抱える図書館があった。国家は先進国たる顔を、諸外国にしなければならないので蔵書を揃えなくてはならない。だが新たに設備を整えるのを、軍部が支配する国家の中枢は嫌ったらしく、この女学園の図書館に揃えられている。場違いな少女がこの学園に入った目的は、その蔵書だった。だから日がな図書館に入り浸り、気に入った本はめったに学園の生徒は使わない貸借権を使い、寮に持って帰っては目を皿のようにして読みあさっていた。

 その行為を女が勉学などと、正統派の女学生たちは彼女を批判しているのである。読者諸君にはぴんと来ない文化背景であるが、田山花袋の布団あたりを参考にするのがよかろう、女性が文明の発展と知恵と旧式を行き来しなければならない事が分かる。だが本好きの少女がいる世界では、旧式だけがこの世界の規則となっていた。

 「ええ。女が勉強なんて、でしょう? でもとっても面白いのよ!きっとお読みになって」

 少女はいつも雑言に対して淑女らしくにっこりと微笑んで、まるで天真爛漫な口振りをする。だがその振る舞いは、淑女たれという女学園の規則だからそれに則っているだけであり、少女の微笑が仮面となって本心を隠していると、雑言の少女も気付いている。事態を大事にしないための、女同士の刃の交わし方である。男はその刃を見せびらかして時に互いを切りつけ合うらしいと聞いて、本好きの少女は面白そうだと思っていた。だが言葉には出さない。何故ならば彼女は淑女であるからだ。


 「あなたたち、そろそろお止めなさい。彼女が本を好きであっても、その本が誰かを傷付けることは無くてよ」

 そうしていると、寮長たる少女が止めに入る。寮長は王族の血を継ぐ者である。だからこそ、その容姿も振る舞いもすべてが一際美しい。光に透けるような白い肌、ほほには薔薇色が浮かんで、唇も瞳もまるで精巧に作られたように一分の狂いも無い。それだけでなく、その指先は天女のようにやわらかに動き、どこを取っても美少女であった。だから、取り巻きがいる雑言の彼女の美しさは霞んでしまうようで、それにひどく尊厳を傷付けられた顔で、雑言の少女はその場を少々乱暴に足音を立てて去っていった。取り巻きたちが慌てながら追い掛けていく。寮の談話室にあるソファーを陣取っていた本好きの少女は、寮長に恭しく頭を下げた。

 「いつも申し訳ありません、寮長」

 「構いませんわ、それより、あの方達の言葉で傷付いてはいなくて?」

 「お気遣い傷み入ります、私はなんともございませんので。それより寮長に、その、何か・・・ご迷惑はおかけしてませんか」

 「それこそ大丈夫よ」

 寮長は微笑む。

 美しいその姿は、宗教画にある天使そのものだ。本好きの少女の中では、寮長は聖母ではダメだった。聖母は子供を産んでいるし人間だ、寮長の美しさを人間で例えてしまうのはおこがましいとさえ考えている。当然ながら寮長は崇拝する者も多かった。だが本好きの少女は、美しさに溜息を吐くことはあるが、それでも本の文字の中にある自分の想像力を超えた”未知”の方に心を寄せていたので、崇拝とまではいかなかった。だがそれを本人の前には出さないようにしている。地上に降り立つ天使に対して、人間がする行いは膝を折って祈り、その身もこころも献身することだ。だから寮長に深々とお辞儀をし、本好きの少女は本を大層大事に抱えると、誰の目にも付かないようにと自室へと戻っていった。過去に借りた本を破られるなどの嫌がらせを受けた事があるのだ。その際も寮長が進言し、本好きの少女はお咎めなしになった。


 本好きの少女は授業はきちんと受け、淑女たれとなるべきこの学校の成績は中の上だ。知恵があるからといって、教師に楯突くこともない。ただ本が好きで、その学んだ内容を紙に写して自分だけの知識の結晶を作る事に注力を注いでいるだけである。大層な変わり者であった。女性特有の、集団に属していることへの安心感と責任感がまったく欠如しているので、孤独を好む彼女が不満や不服の捌け口にされるのは、本を読んでいてなんとなく理解出来た。だからますます、この世の事を教えてくれる本に彼女は夢中になり、他の生徒を解剖するかのような目で見る事に周囲は遠ざかった。それが通り過ぎる通行人程度なら良かったのだが、全寮制の学園では異端をきわめて排除し、同じでなければならないという強迫性が育まれる。本好きの少女は孤立をものともしないが、それで寮長の迷惑に繋がるのであれば友人くらい作ってもいいと考えていた。

 寮長とは友人にはならない。彼女は天使であるから、私と同じ目線になることなど望めないのだ。それに寮長と友人であれば、後ろ盾を作ったとみなされて、より集団行動を好む彼女らの尊厳を踏みにじることになるだろう。だから本好きの少女は、本日も無事である本にこっそりと口づけをして、もう一度胸に抱きしめた。それが彼女の恋人であるかのように。子供特有の最大限の性欲が発散されるまで抱きしめると、落ち着いた彼女は、ベッド脇に本を置いて眠りに就くのだった。


 この学園には教師である若い男性を好き合う以外にあまりに娯楽が少ない。楽器を演奏したり、花を活け、赤子のおくるみを縫って、ベッドの上のマナーを学ぶ。その繰り返しで型どおりの淑女が出て、学校を出ればどこかの良家に嫁いでいく。天使の寮長も誰かに嫁いでいってしまうのだろうか、とふと授業中に本好きの少女は気付いてしまった。誰とも分からない男に、天使が汚される。当たり前である人生の通過点を思い描くと、本好きの少女は少しだけ心の泉が汚されたような気がしてしまった。

 こういう時は本を読むに限るので、授業を片方の耳で聞きながらも次読む本のタイトルを思い出していた。本好きの少女は、生まれつき本に関して特殊な能力を持っていた。本棚を一目見ただけで記憶出来るのだ。だからこの棚の三番目の列のここまで読んだ、次のタイトルはこうだと思い出せる。だがこの世界では今一つ発揮されない特殊能力である。淑女は本棚を覚える必要などないのだから。


 「それは一体、なにを書き写しておられるの?」

 入学してから真っ先に天使に話しかけられた記憶を、片方の頭で思い出す。片方は授業を聞いているが、片方は時間旅行によって過去へと戻っていた。片方の頭は鮮明に、脚色さえして少女を入学当初に五感を連れて行った。だから授業を聞く頭は感覚が鈍くなって、その頭と繋がっている手の先に感覚はない。もう片方の頭の手は、記憶の中で羊皮紙に書き写している。

 「結晶です。雪の」

 「あら、雪というのはそんな形をしているのね。私知らなかった」

 天使は、知らないことは惜しげもなく知らないと言える人だった。そして興味を持ってくれる人だった。その慈悲と慈愛は天から降り注ぐ陽光そのもので、本好きの少女に優しかった。その天使はその時、自分と同い年だったはずだ。そして当然のように若くして寮長に任命された。本好きの少女の頭の奥底でちりっとした違和感がある。だが瞬きをすると治った。目が疲れただけだったので、少女は時間旅行を終えて授業を受けることにした。

 「寮長も、どこかの王族の方とご結婚なさるんですね」

 この寮を出たら大抵の淑女はそうする。本好きの少女は相変わらず談話室の片隅で読書に勤しんでいて、その彼女に近寄ってきた天使にそう告げてしまった。少しの嫉妬心のような羨みのようなものが混じった声音は、どこか濁っている。自分の鼓膜にもそう聞こえたので、天使に気を遣わせたと思って本好きの少女は顔を上げた。天使は笑ってくれている。

 「ええ、そうね。そういうものだもの」

 「申し訳ありません。どこか遠くに行かれるのが、少し、さびしく思ってしまいました。無礼をお許しください」

 「構わないわ。気になさらないで」

 「ありがとうございます」

 本好きの少女は頭を下げ、上げようとした時に視界に入ったものにぎょっとした。談話室の窓から入り込む月光に照らされて、天使の影が床へ伸びている。その影が何故か見慣れた伸びきった人間の姿ではなく、角や翼がある異形に見えたのだ。だから思わず床を凝視してしまった。そしておそるおそる顔を上げる。天使がそこにいた。だがいつの間にか、その肌はそのままだった、だがその背からは黒い翼が生えて人ならざる二本の角がまるで押し合いへし合いするように絡まっていて、左右の頭に一つずつ生えている。天使が悪魔になっていた。

 「寮、長」

 「やっと気付いてくれましたのね」


 寮長がいつもの笑顔でにっこりと笑う。白い肌に薔薇色のほほ、透き通るプラチナブロンドの髪に、長いまつげに彩られたまあるい大きな茶色の瞳。どれも彼女であるものばかりのものがその顔の中にあって、それが彼女であると間違いなく自分に教えてくれる。それなのに人ならざる物が追加されていて、どうしてだか足が竦んで、恐怖にこころが押しつぶされている。本好きの少女は、あれほど本から得られる”未知”を楽しんでいたのに、いざ目の前に未知が現れるとどうしていいのか分からないでいる。未知との出会いを本を書き記した人間は、自分よりずっと剛胆なのだと今更ながらに自分との差に気付いた。一介の読者だった彼女は、いつの間にか自身が著者に近い存在だと錯覚するほどに大勢の著者の言葉を読み込んでいた。だからこその無知の傲慢さが、今粉々に砕け散っている。

 「な、んでですか」

 「そうですわね? あなたを見込んでみたのですわ。この世界ってつまらないでしょう?私みたいな悪魔は、本当に退屈で退屈で」

 にんまりと天使の顔で笑って、本好きの少女の顎を掴んで自分の方に向かせる。天使の瞳はいつも通りだったが、隠されることのない悪意の色が滲んでいた。


 「この子もそれを望んでいたようで、私がいただきましたの。とぉーってもいい子だったから、ホンキになっちゃって」

 「何を、するんですか・・・?」

 「そうね、手始めに。この学園を壊しにいきませんこと?」

 貴方なら言う事聞いてくれそうですものと天使だった悪魔が言う。悪魔の言葉をなんとかかみ砕くと、彼女はいつからか、望んで悪魔に身を差し出してしまったのだろうか。それが何時なのか、どうしてなのか、と本好きの彼女は興味を持った。本の海を歩く時と同じような好奇心と文字になった人間の感情を征服するあの心地良さが、淑女たらしめない欲求が彼女のこころを支配する。


 「さあ一緒に行きましょう? 行かないのなら、八つ裂きですけどね」

 「分かりました。・・・まだ。生きていたいので」

 「そういう物わかりがいい子だと知ってたわ。だって。ずっと貴方を見ていたんですもの、この子」

 天使が? あの誰にでも優しい天使が?

 本好きの少女のこころは、寮長という対象物にすっかり魅入られていた。悪魔への恐怖や興味を乗り越えるほどに。

 「じゃあ、これからよろしくお願いしますわね」

 天使か悪魔、どちらかが笑った。本好きの少女も少しひきつりながらだが、笑い返したのだった。きっとこれまでの知恵がこれからの私を救ってくれるのだろうと、少々の楽観と、この世界で女性に認められていない武器を必死の思いで抱きしめている。


(制服に初めて袖を通した日に・雪の結晶を・色彩のない街で・羊皮紙に書き写しました。



 2.


 「これは一体なんですの?」

 寮長のにこにことした問いに、本好きの少女は答えに窮したようだ。彼女の蓄えた知識をもってすれば、答えを持っていないというわけではない。ただ言葉が唐突に喉に詰まって、ひきつった顔と同時に喉が引き絞られた感覚になっていた。見えない巨大な手があって、自分はいつの間にか糸が通ったぬいぐるみ、口の端から出ていた糸を引っ張られ、生地がぎゅっと絞られたような感じ。こちらに尋ねた寮長のたなごころの中には、ガラス製の小さな砂時計が握られている。本好きの少女はようやく、喉から言葉を絞り出した。

 

 「すなどけい、ですが」

 「そうですの。何故人間は、時間をこんな入れ物に閉じこめたがるのかしらねえ」

 本好きの少女の耳に届いた寮長のことば何故か剣呑に聞こえ、彼女の天使らしからぬ言い方につい眉をひそめてしまう。本好きの私にとって、寮長は絶対的に利発な天使である。だが彼女は誰にも知られずに失われ、事もあろうに目前の黒い翼と角を生やした悪魔に取って代わってしまっていた。その秘密は今のところ誰にも知られていない。この本好きの少女以外には。だが彼女らがいる場は、二人以外の人間が大勢行き交っているというのに、悪魔の作用か何故か二人に注意を払う者はいない。まるで見えない透明な壁の中に閉じこめられたかのように、誰の注意も引かないというのは寂しいものだった。

 学園生活で苛められている本好きの少女にとって、静寂と完全に誰にも注目されないというのは平穏に繋がると信じていたはずだ。それなのにいざ目の前に人々が行き交うのを眺めるだけとなると、寂しくて寂しくて仕方がない。熱烈に苛めてきた若姫すら恋しくなるほどだ。決まってその不自然な静寂になる時、本好きの少女の横には悪魔がいる。


 「お名前、教えてくれる?」

 「嫌です」

 本好きの少女に断られてしまったので、悪魔は黙ったまま彼女を静寂の中に閉じこめたことがある。まだ悪魔であると打ち明けて間もない時だ。静寂と誰にも認識されない沈黙に身を置いた人間は、次第に精神が耐えきれなくなることを悪魔は残酷にも知っている。だから透明な檻による幽閉を、悪魔たらしめる特異な能力で自分と二人きりにして閉じこめたのだが、本好きの少女は胸に分厚い本を抱えながらこちらを睨んできた。

 「根負けしませんからね。私」

 「どうしてそこまで嫌がられるの?」

 「悪魔に名前を取られたら、契約になっちゃうから。本に、そう書いてありました」

 「どこぞの誰かが書いた根拠のない噂話みたいな本と、目の前にいる悪魔と、貴方はどちらが正しいと思って?」

 「本です」

 本好きの少女は断言する。

 その頑強さに悪魔は思わず吹き出してしまって、その幽閉を止めて彼女を解放した。解放された彼女はどっと疲労感に襲われて、誰かのぬくもりを求めて無意味に寮を歩き回り、雑言でもいいから浴びたいと思っていた。そして雑言を浴びた時に顔を輝かせてしまうので、最近はいばらを口にする若姫も気味悪がって近寄らなくなっていた。悪循環であろうと本好きの少女は感づいている。平穏な学園生活の幕開けであるが、孤高になればなるほど悪魔との時間が増えてしまう。それが悪魔の狙いであり、本好きの少女を取り込む策であると彼女自身は仮定していた。だが今更に友人を作るのもむずかしく、毎日疲労しながらも本を読みふけって寮長を見ないようにするしかなかった。今日も談話室の片隅で本を読みふけっていると、寮長だけが暖炉の炎に照らされ、長い影を伸ばしながら近付いてきた。

 「あなた、変わった子だわ」

 「元から、分かっていた事ではないかと」

 「でも必要以上に私を嫌っている」

 「ここは悪魔を信じるな、という宗教国家ですので」

 「もう宗教よりも聖人よりも、軍人の方がお偉い国ですのにね」

 「それはもちろんそうです。だから、信じたけれど朝になると信じられなくなる。悪魔なんて存在せず、寮長が私をからかってくださってると思えば、耐えられたのに・・・!」

 「この翼と角を疑うんですのにね。私の誇りですのに」

 「目に見える物が真実とは限らない、そう結論つけた科学者の論文も読みましたわ。荒唐無稽だと学会には一蹴されてましたけれど、その論文、今の私には信じるに値すると思っています」

 「あらあら、世の中には埋もれた天才がいるのですね。それは大いに困ったものだわ。貴方の知識は面白いけれど、私の邪魔になるのは好みませんの」

 「邪魔に?」

 「でも貴方、その知識を私の為に使ってくださらなくて?」

 「今は少し、その思いが揺らいでいます」

 「そうですの。でしたら、もう少し乱暴な手に出てもよくってよ」

 「最低な」

 良家の子女らしくない言葉が思わず口を衝いて、本好きの少女ははっと口を押さえた。本の中の登場人物の乱暴な口調が、いつの間にか彼女の頭だけではなくこころにまで染みて真似してしまったのだ。こんな事を口走ったと分かれば、お父様に軽蔑されてしまう!

 思春期の少女らしく家族への恐れが真っ先に頭によぎり、表情も鬼気迫るものがあったのだろう、寮長はふふんと口の端を上げて笑った。

 「大変ですわねえ」

 他人事の口振りに、恐れが悪魔への苛立ちに変わった。

 「変に付け入ろうとしないで。わたし、私は本だけは読んでいますので、悪魔払いの方法も存じています」

 「だから大丈夫ですって。私の目的は貴方ではなく、このつまらない世界に向けてなんですの。そこで貴方が協力してくれたら、ね? この寮長の秘密を教えて差し上げますわ」

 肩肘張った本好きの少女を、悪魔はにこにことしてその緊張をほぐしていこうと試みた。だが完全に彼女の緊張が解けたわけではない。悪魔たらしめる力を使われてしまえば、自分などは即座に消し炭になるのではないかという”未知”への恐れが本好きの少女を固くさせている。その緊張感がどれだけ保て、そしていつ集団意識をこちらに向けてくれるのかが悪魔は楽しみで仕方ないようだ。そして寮長の兄の結婚式の日に、何故か本好きの少女はお茶会に呼び出され、砂時計を回している悪魔との会話に付き合っている。


 「本日は、お兄さまの結婚式のはずでは」

 「それはもう、悪魔の力ですわ」

 寮長が大輪の花を咲かせるように笑う。寮長は今までそんな笑い方をしなかったのに、悪魔がそうさせるのだろう。

 「砂時計は時を閉じこめる道具ですの」

 「それは時をはかる道具です」

 「それは、あなたがた人間が使うからです。道具の使い方を正しくすれば、時は簡単に戻ったり、その時をここに閉じこめたり出来るのよ」

 見せびらかすかのように、悪魔の細い指がつかんだ砂時計を本好きの少女は目にする。これを彼女が奪い取ったりしないかと悪魔は期待したが、彼女はすぐに目もくれなくなった。


 「これを使おうとするかと思いましたのに」

 「あなたが仰ったのでしょう。人間が使うから、正しい道具ではないと」

 「ふふふ、さすがに騙されませんわね。そこまで追いつめられてはいないか」

 「寮長の声で、変な言葉を口にしないでくださらない?」

 「あらごめん遊ばせ。ふふふ、許してね?」

 悪魔の言葉に、本好きの少女は口をきゅっと結んだ。見えない誰かに糸を引っ張られている訳ではない、少女自身が自分の糸を引いたのである。悪魔はその様が大層に面白く、愛らしく見えていた。


(お茶会で・兄の結婚式の日に・湧き出る砂を・くるくると回していました。)



 3.


 「ふふふふ、あはははは」

 大声を堪えてのか細い笑い声は、女性らしく慎ましやかだったのに、すぐに抑えきれずに感情を爆発させて男女間の差異が無い下品で巨大な笑い声になった。

 「へへ、へへへ。もう、笑わせないでほしいんだけど」

 「勝手に貴女が笑ったんでしょう」

 「うふふ」

 ようやく軽やかでなめらかに宙を駆けるような笑い声になった。その笑い声が好きとか嫌いという感情はないが、少女は笑う少女のその声だけ褒めていいと思っている。

 「そうにしたって、今でしか好機がないんだから仕方のないことだわ」

 「そうねえそうねえ。でも、そういうのって怒られるわよ」

 「今更、怒るも何も・・・」

 笑っていない少女は、呆れたような顔をした。そして腹を少し震わせている少女を冷静な目で見やる。


 「ねえ悪魔さん」

 「なによ、本食いさん」

 「私の子孫にもし私の本好きが遺伝しても、あなたはその子にちょっかいを掛けないでくださいまし」

 「出来ないわ!」

 悪魔と呼ばれた黒髪の少女は、高らかに宣言する。短髪は美しい烏羽色をして、瞳はぱっちりとして長いまつげに縁取られている漆黒のいろ、頬は磁器のように透き通り、薔薇色がその奥にほのかに色づいている。華奢な手足、すらりとした体型、約束された地位に名誉、この世のすべての憧れを煮詰めた少女であるが、本食いの少女にはその姿には同じ黒色の角と翼が生えている。悪魔である。伝聞にきくような典型的な悪魔のしるしである。悪魔の存在意義を問うには、本食いは自身が幼い少女であって世界の全てを知るには父や兄のようになれないと自負している。この国では、名家の子女は淑女たれ、知恵を最低限にしか持たず男を喜ばせ、いつまでも美しくあれ。その風習が絶えることのない国家において、本を愛するだけでは見聞が足りない。

 だが本食いは、目の前の悪魔の要求を少し叶えてやろうと思っている。それが危機をはらんでいようと、その危機すら冒険心に飲み込ませて大胆不敵な行動をしようと企てている。その大胆さを、悪魔は好ましく思っていた。

 「すてきなお嬢さん! 本食いさんの子孫が楽しみだわ。どんな子なのかしら」

 「頼むからやめてくださらない? おもちゃにするのは、私だけにして」

 「そうねえ、でもこの国がまだ変わらなかったら、わたしまた現れるわ。きっとよ。きっと現れるわ。そしてまた、他の人と手を組むわ」

 「そう。仕方ないわね。子孫に剛胆さが遺伝するのを願うばかりですわ。それで、決行なんですけれど」

 「今からよ! 面白いから貴女も見に来ると良いわ。それと私では触れない仕掛けが施されているでしょうから、貴女も付いてきて頂戴!」

 「そう仰ると思っていたのよ。きっと悪魔払いの研究だって、たくさんたくさん成されていたんでしょうね」

 「でもこの国は変わってしまったわ。宗教国家だからこそ予算を割いてわたくしたち、悪魔たちを遠ざけようとしていたのに、軍部が国の上層を支配してしまったから・・・そんな事だから、古びた研究施設が一つあるだけですわ。そこに向かいましょう?」

 「わたくし、見つかったら大目玉ね。それとも、お家を追い出されてしまうかも・・・」

 「悪魔の力でしたら、貴女ごときを守るのは容易でしてよ。信じなさい。わたくしを。悪魔を、ね」


 彼女が生来受けてきた教育では、脳髄にまで悪魔に堕落するなと染み込んでいて、脊髄反射で悪魔避けるべしと体が動く。その洗脳に近い教育を、本食いさんは一歩引いた目で見ていた。勉学は良く出来て、運動もよく出来た。だが本好きだけが彼女の欠点だ、本に彼女の愛嬌は吸われてしまったのだと陰口を叩かれるのは常だった。

 子女ばかりの学園に入学するまでは、上流階級の男どもによくそう囁かれた。だが彼らの悪口を吹き込んだのは、本食いさんを気に入らない上流階級の女達だった。この国では女は大した力を持たないというが、裏では男を操るぐらいの力は持っている。歴史にも妖女悪女がたぶらかして国家同士の戦争までに持ち込んだ例もある。だが女がもし男と同じだけの存在となった時、その際に女は何を思って自由の中を動くのだろう。本食いさんの読んだ本の中には、その答えは今のところ見当たらない。だからこそ、その籠の中の鳥である身分を嘆いて、変えるつもりが無いのだから悪魔などに付け入られるのだろうか。

 「さあ飛んでいくわ。目を閉じないでね、きっと美しい光景になるわ」

 悪魔に手を引かれ、本食いさんの体はふわりと浮いた。悪魔はこれまでに何度かこのような奇蹟を見せた事がある。そのたびに本食いさんは怯えるどころか、より高揚して身震いが脳天からつま先まで駆け抜けて、かっかかっかと頬を燃やすのだ。


 「光る星が中にあるの。それが大事な物なのよ」

 「よく分からないわね・・・星をどうして、人間が閉じこめるの?悪魔を避けるように」

 「分かっていないのね。悪魔は本来美しいものなのよ。だからその力を込めたものは、きらきら美しいものなの」

 「それは分かるけれど、でも。星は神様のものじゃなくって?」

 「おお!神のだなんて!それが神の傲慢さと人間の怠慢さなんだわ。この空を埋める星だって、みんな神様のだと思ってるでしょう? 神はね、月と太陽しか作っていないのよ。星はみんな悪魔が作ったの。真っ暗すぎて可哀想だから、悪魔が砕いて作ったのよ」

 「そんな」

 「さあさあ着いたわよ。もう聖夜だものね。きっと寂しい場所で、聖夜のためにみんな帰ったに違いないわ」

 興奮しているのは悪魔の方だと本食いさんは思った。いつも彼女は饒舌であるも、今日は何時にもまして饒舌だ。悪魔の働きと神の働きを語るとき、大抵悪魔は興奮気味になる。それが聞いて欲しくて溜まらない子供のようにも見えて、本食いさんは少し微笑ましく思ってしまっていた。

 「なあに」

 「いいえ。なんだか貴女が年下の子供に見えて、愛らしいなと思ってしまって」

 「まあ、憎たらしい子ね。敬意を払えない子は、ここで手を離してしまうわよ」

 「やめてください。お詫びしますから」

 「ふうん。まあいいですわ。見てちょうだい、明かりが付いてません。きっと好機ですわ」

 「好機ですわね」

 先ほど本食いさんが口にした言葉を悪魔が繰り返すので、本食いさんは笑ってしまった。悪魔も彼女と顔を見合わせて笑う。

 「行きましょう」

 「ええ。ここまで来たのですから、どこまでも」

 本食いさんの芯の通った声音に、悪魔は彼女を友人としてどこまでも愛している事に気付いた。彼女をいつまでもこの窮屈な世の中でつかの間に楽しませてあげたい、それが友人としての勤めだろう。見たことも無い景色を見に、二人は歩き出すのだ。


 研究所は見慣れない材質で出来ていて頑丈に見えた。学園生活では見たことのない光景である。本食いさんは興味深げにきょろきょろと見回すが、その手は悪魔の手をしっかりと握っていた。離れると途端に姿が現れて、ほかの人間に見えてしまうと事前に説明されていたためだ。

 「不思議な建物ですわ。息が詰まってしまいそう」

 「木とは違う材質ですからね。もうすぐです」

 研究所は月光で薄ぼんやりとしていたので、足下は暗闇だった。転ばぬように慎重に本食いさんは歩きたかったが、悪魔は勝手が分かるのかずんずんと進んでいく。そのせいか体が少しずつ離れてしまった。悪魔が振り返って早くと催促するのに、本食いさんは首を縦に振る。この国のノーのサインだ。

 「怖いですわ。転ばないかしら」

 「闇の中は私たち悪魔の領分ですの。ですから転びませんわ」

 悪魔がきっぱりと言い切ったので、仕方なく本食いさんは大胆に歩き出すことにした。へっぴり腰だった体だが、悪魔の横に立って歩き出すと何も足に触れて来ない。闇の中には蛇や石、おそろしい異形の手が自分の足を狙っている気がしたのに、昼間となんら変わらない歩調で進むと、その不安や幻影は全て消え去って、ただの真っ暗な昼間であると思うようになった。悪魔に連れられ、階段を上がって最上階と思われる場所へ。一度も転ばずに済んだので、もう本食いさんは階段でも大胆に一つとばしで進んでいく。

 「気が急いておいでですね。そんなに急がなくてもよろしいじゃありませんか」

 「でも、闇を進めるのが楽しいので。昼間よりも痛快なこころもちが致します。だって何も私の足に触らないんですもの」

 「ですからそれは、悪魔の力ですわ。さあこの階にきっとあるはずです」

 階段を上りきった彼女らは、しんとした空間を見渡す。いくつかの部屋があるようだが、悪魔には彼女にしか見えない物を頼りに、ずんずんと一番近くにある部屋の扉を開けた。


 「まあ」

 本食いさんは感嘆する。部屋の中にはガラス張りの巨大な箱のようなものが設えられていて、その中にまばゆい星のようなものが、床から浮いて煌めいていた。

 「これが星ですの?」

 「そうです。これを封印しているのよ、人間は」

 悪魔が少しアンニュイじみて呟くので、本食いさんはあえて取り合わず、その箱の仕掛けを探っていた。

 「でもどうすればいいのかしら」

 「このボタンを、押して頂戴」

 「分かっているのに、どうしてご自分でなさらないの?」

 「このボタンには悪魔除けが施されているのよ」

 本食いさんはボタンを注視した。何の変哲もない、ボタンように見える。だが悪魔が言うことを疑うには、ここまで奇蹟を見過ぎているので本食いさんは疑わない。ボタンを良家の子女らしいほっそりとした指で押した。

 「そうそれでいいの」

 悪魔がにんまりと笑うのが分かる。だがその笑みは、箱から飛び出してきた星の目映さで真っ白になってしまった。光が目に突き刺すのではという恐怖に、遅いかもしれないが目をぎゅっと瞑る。だがそれ以上に光が瞼越しに刺さってくることはなかった。

 「終わりましてよ」

 「・・・わたくし、とんでもない事をしていませんわよね?」

 「どうかしら。悪魔の言うことを信じるのは愚かだと、貴女は習ってきたはずですわよ」

 悪魔は本食いさんのわずかな不安を払拭しなかった。ただにんまりと笑っている。星は、もう箱の中には無かった。もしここで大人が戻ってきたとしたら、このボタンに触れた自分が罪の対象になるのではないか。だからこそ、悪魔は自分にボタンを押させたのではないかと本食いさんは不安になってくる。だが握っている手が、自分とも相手ともつかない汗で湿っているのに気付いて、悪魔の顔も高揚しているのが見えると何故か安心した。

 「貴女も共犯ですからね」

 「そうね。そうですわ。共犯ですもの」

 うれしそうに悪魔が繰り返す。まるでこの冒険譚は、一夜の間に見た夢や幻覚であると思われるかもしれない。だがこの紙に書き記したのは私の身に起こった本当である。願わくば誰かの役に立つのではと、この紙を学園の中に隠しておきました。その紙を見つけたという事は、きっと貴女の隣には悪魔がいるのでしょう。親愛なる後輩へ、きっとこの紙は、いつか貴女の助けになりましょう。

 古ぼけた紙をぎゅっと握りながら、本好きの少女はごくりと唾を呑む。この紙を見つけてきた天使のような寮長、だが中身は悪魔は、中身に興味がないのか首を左右に振って、本好きの少女の顔をのぞき込もうとしていた。


 「ごらんあそばせ。私、きっといろんな事を貴女に教えることが出来てよ」

 本好きの少女に、本食いさんのような剛胆さは無い。大きな溜息を吐いて、その紙を大事に自分の胸元に抱えた。


(きらきらと光る星を・クリスマスに・研究所で・封印から解き放ちました。)



 4.


 仮面舞踏会は男女の出会いの場の一つでもある。この国ではそうだった。淑女はいつまでも美しくたれ、男を喜ばせる女であれ。かつて宗教国家であった筈のこの国の中枢は、いつの間にか軍部に支配されてしまって、その威光を取り戻す聖職者もいない。だから豪奢で色気たっぷりの仮面舞踏会などが平気で行われる。良家の子女は腰を極限まで細く見せ、胸元をはだける直前で留めたドレスを着用しているが、そのみだらさを恥じらうかのように仮面を付け、いつもよりも髪型をごてごてと盛り上げてまるで他人の振りをして理想の殿方を求めるのである。この行事は貴族の嗜みでもあるが、こんなに昔は風紀が乱れていなかったと、令嬢のからだをした悪魔は言うのだ。

 「そうなのですか」

 淡々と彼女の前に座っている本食いの少女は言う。コルセットの締め付けに窮屈そうにし、パニエによって足からかけ離れて膨らんだドレスの下では足をおっぴろげているだろうが、ドレスによって見えない。疲労の色が彼女の顔には見える。だが悪魔との会話となると途端に無表情になって汗も引いていくようだ。


 「どうして下着を着けてはならないのかしら」

 「どうしてって・・・聖書からの引用だそうですよ。女は下着を身に着けないのが本来だからって。・・・こういった都合の良い時は、聖書の嵩を借りるのですね」

 本食いはパーティが嫌いである。彼女が愛するのは本だけである。だから良家の子女らしくな呪詛めいたことを呟いた。

 「お嬢様、醜い本音が出ていてよ」

 「それは失礼いたしましたわ。わたくしの前におられる貴方は悪魔ですもの、つい口を滑らせてしまって」

 「そうねえ、そうね」

 悪魔が喜んだように言う。本食いが悪魔をこの場にいることを認めている言葉を口にすると、いつも悪魔ははしゃいでみせるのだった。

 「悪魔なら言っても構わないですわねぇ、でもね。私達はまだ婚礼の年齢に達していないでしょう? どうしてこんな舞踏会に呼ばれるのかしら」

 「きっと慣れるためでしょう。殿方は、この娘時代から顔を知っているんですって」

 「まあ」

 「下品な言い方をすれば、物色しているんだそうですわ。どこそこの令嬢の成長を楽しみにして、令嬢が妻になることを夢想して・・・」

 「大変に下品な物言いね」

 「今夜は余裕がありませんの」

 そう言う本食いの額には、汗が浮かび始めている。男のための仮面舞踏会、身を任せ、選り好みせずに抱かれる女、だがその男の悪い評判は、彼女達にだって口にする権利はあるので陰口を広めて、それで互いに男女というものの軋轢を生んで・・・。嫌であれば付いていかない、というのはこの国の女性には許されていない権利であって、どんな男でもある一定の権力と名声を持ち合わせれば選ばれることを拒めない。

 我が国は先進的だと威張る政権を担う男の頭は、中世よりも遡ってしまっているらしい。本食いは選ばれたくもないし、早く帰りたいのだ。だがそれでは兄や父の名折れになるので出来ないが、幸いにも悪魔がからだを持っている令嬢の、国家に深く根付いた貴族の令嬢の話し相手にと呼ばれているので休憩が出来る。

 この令嬢は、男どもに品定めされる運命には無い。選ばれなくていい特権を持っている身だ。何故なら、嫁ぎ先はとうの昔に決められているのだから。国家安定と権力争いと血を絶やさぬようにとの道具にされ、彼女は世をはかなんで悪魔へと変わってしまったのだろうか。こんな舞踏会に来ると、本食いは寮長の気持ちが少し分かる気がした。

 「冷たいものを口に入れてしまいですわね」

 「いいですわね。アイスクリン、という異国の食べ物があるのですが、庶民の食べ物のようですけれど本ではとっても美味しそうで」

 「すてきな提案ね! じゃあ作っておいてくださる?」

 「・・・どうやって?」

 「私の力で飛ばして差し上げるわ、変わり身だって用意してあげる。だから今から家に帰って、こっそり作って来てくださいな」

 悪魔の力とは際限がないのだろうか、と本食いは底知れぬ恐怖を覚えた。だがその恐怖の前に、自分は瞬きもせぬうちに我が家の厨房にいて、料理番や飯炊き女がお誂え向きに居ないのを確認すると、ため息を吐いた。

 「わがままな悪魔ですこと」

 「聞こえていますわよ」

 遠くにいるはずの悪魔の声が、耳元で囁いたのできっと本食いは虚空を睨む。

 「お持ちしますからくれぐれも。私の家の都合が悪くならないようにしてくださいまし」

 「かしこまりました」

 寮長はそんな風に言わないので、本食いはむっとした顔をしたが、頭の中にある本をぺらぺらとめくり始めた。本食いの彼女の頭の中には、一度読んだ本が綺麗に収納されている。無限に繋がる本棚が頭の中に一面埋まっていて、好きな本を取り出すことが出来る。彼女自身が特殊能力だと思っている特技だ。だがこの国の女性に生まれては、自慢にもならない特技だ。アイスクリンの材料を揃えてしまったが、いつもいる料理番が一向に現れない。それも悪魔の力か、とやれやれと本食いはため息を吐いた。


(新芽が芽吹くころ・仮面舞踏会で・アイスクリンを・美しく磨き上げました)

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