悪魔の煽惑
その国には、世界を救った巫女が居る。
かつてない災厄が降りかかり、大陸中の人口を半分に減らした。それは疫病の前兆でしかなく、そのままいけば、間違いなく人間を絶滅させるものだった。
人々は惑い恐れた。そして等しく救いを求めた。
彩の巫女、その人に。
しかし無情にも、人々が思うような救いは訪れなかった。巫女はその大きな災厄を祓うため、命を捧げた。
その身命を賭して、人間の絶滅を防いだ。自らのすべてを捧げ、人々を救ったのだ。
人々は巫女に涙しながら、感謝を、信仰を捧げた。信仰の象徴そのものになった巫女を崇拝した。
巫女の献身に報いるためにも、国同士が手を取り合い、和平の道を選んだ。
永久的に巫女の安置された礼拝堂には手を出さないこと。また、それを守る国には決して戦禍を起こさないこと。ひいては大陸で戦争をしないこと。
巫女の齎した平穏を壊してはならない。それが全国を共通しての認識であり、巫女を崇拝する人々の願いでもある。
……というのが、大陸で知らぬ者は居ないほど、広く知られた巫女の話。
なんとまぁ、美談に仕立て上げられたものである。
俺は巫女を知っている。アレはそんな、奥ゆかしい性格の女ではない。もっとこう……そう、剛毅な女だ。
自分の願いのために、大陸中の人間を半分にするような、欲しいもののために手を伸ばすことを躊躇わないような、そんな女。
俺が名付けを依頼しても頑として受けない、そんな女。……そろそろ承諾してくれても良いのではないかと思う。
この世界の人間は、誰一人として知らない。気づくこともない。
まさか自分たちの縋っている巫女その人こそが、人々の命を摘み取った原因だということに。
それが、巫女の契約した悪魔を魔王にするための贄だったということに。
あの女が巫女などという聖なるものではなく、悪魔と契約した邪悪な存在だということに。
もしかしたら、気づくまではいかずとも、違和感を抱くものは居るかもしれない。けれど、勘づけば最後、そいつは文字通り消されてしまうのだろう。
巫女を手放すまいと抱え込んだ、あの恐ろしい魔王に。
俺は魔王だった。契約に縛られ、自由に出歩くこともできない、哀れな魔王だった。
しかし訪れた巫女と、あの悪魔によって、俺は魔王でなくなった。契約者を消してくれたことで、自由の身となった。
その点に関しては、感謝しなくもないのだが。いかんせん、その後が酷かった。
巫女に名付けをしてもらおうと、話をする時間すら与えられず、何やら急く巫女の一言により、非住居地域に飛ばされた。
見渡す限りの砂、灼熱の大地。人間ならば、一呼吸するだけで臓腑を焼くような熱気。
人間はおろか、生き物すら見当たらない。草すら生えぬ不毛の地。
よくもまぁ、こんなところへ。
巫女の一言は恐らく、あの部屋を出て欲しいというものだったはず。それをどう解釈して、人にとってのみならず、悪魔にとっても活動に限界があるような場所へ飛ばしたのか。
あの悪魔……いや、今はもう魔王だな。巫女に対しての執着が強すぎないか? いくら契約者とは言えど……あんなに執心するものだろうか。
あの巫女、いいにおいがした。
俺だってあの巫女に名付けられれば、今以上に強くなるはずだ。そうすればまた魔王になることだって……あの巫女を手に入れることだって。
あの魔王は、それを察知していたのかもしれない。俺が、あいつの獲物に手を伸ばすことを。あいつの獲物を食い散らかす可能性を。
なんにせよ、今はここからどうにかして、巫女たちの居る場所へ戻ることが先決だ。
「……さて、どうしたものかな」
人間どころか生き物すら希少である場所で、悪魔が力を得ようと思えば、それは過酷なものである。
願いを叶えることによってのみ力を得るモノ。悪魔。
それはつまり、対象が居なければ、なんの力も得ることができないのである。
だからこそ、非居住地に飛ばされたんだろうが。本当に、悪魔らしい。
億劫ながらも、一歩踏み出す。ずぶりと砂に沈む足が、まとわりつく砂塵が、どうしようもなく不快だった。
「見つけたぞ! 巫女!!」
巫女を見つけてからのことは、正直思い出したくない。巫女は何やら色だけでなく、その存在そのものが造り変わっていた。
アレはもう、巫女ではない。いや、初めから巫女などという神聖なものではなかったのだが。
よりによって、魔王の花嫁とは。本人は理解しているのだろうか? 人外の域に踏み込む意味を。見知った人間たちを、見送ることしかない存在となったことを。
俺の要求はこいつらに拒絶されたので、他から手を回そうと画策したところで、男に組み敷かれてしまった。
断っておくが、俺は男に組み敷かれて喜ぶ趣味などない。不本意だ。
「あたしはあんたを知らない」
巫女……いや、女の言葉に確信した。俺を組み伏せている男が、契約の対価に何を求めたのかを。
それがどれほど無慈悲で残忍で、女にとって惨いことなのか。この女はもう、それを知ることは、ないのだ。
その後も何やら女に声をかけられたが、もはや耳を通り過ぎていく。
哀れな女。愚かな女。不憫な女。そのどれもが、この女を形容するに相応しい。
けれど間違いなく、並外れて幸運な女。
女を見る男の目を見ればわかる。この男がどれほど、この女に執着しているのか。確実に自分以外を排除しようと動くだろうし、実際に動いた結果が、コレだ。
何がそんなに良かったのやら。力の強い処女は病みつきになると聞くが、それか? それとも、自分の色に染まる女に征服欲を満たされたか?
どちらにせよ、俺には興味のないことであるし、知る必要もないことだ。
「ローワン」
女の呼びかけに、男が応える。俺の扱いが雑なのは、なんでだ? もう少し丁重に扱ってくれても構わないが?
おかげで無様な声を上げることになってしまった。まったく不本意だ。
そのまま女の元へ去ると思っていた男が、再び俺の頭を鷲づかみしながら、耳元へ囁いた。
「巫女を取り戻したくはないかと、王妃を使嗾しろ。恐らく、すぐには頷かないが、そうだな……あと三十年も経てば、あの女の孫らが欲しがることだろう。そうなれば、配下の件、考えなくもない」
俺は反論せず、壊れた玩具のように首肯した。この男が何を目論んでいるかなど、俺にはどうでも良い。
ただ、配下になれるかもしれないという言葉に、言われた通りの行動をするしかない。
不安要素としては、考えなくもない、などという、随分とふわっとした言葉しか引き出せなかったことか。
あれこれと思案する俺を放置して、男と女が雑踏へ消えていく。女が俺を振り返ろうとするのをしっかり妨害する男は、徹底しすぎている。心が狭すぎないか?
二人の気配が完全に遠ざかるのを確認して、俺も立ち上がる。はぁ、すっかり汚れてしまった、この裏路地、思ったより汚いな。いや、裏路地だから汚いのか。
「さて。では、動くとするか」
許可と指示をもらったのだ、何に遠慮することなく、存分に悪魔として働かせてもらうだけである。
巫女の安置された礼拝堂で、王妃が祈りを捧げている。ご立派なことだ。
「……妹の犠牲で成り立つ平穏は、幸福か?」
俺の言葉に、王妃が弾かれたように立ち上がってこちらを睨めつける。
なるほど、あの女の姉とかいうだけあって、見目は悪くない。というか、率直に言うと俺はこちらの方が好ましく思う。主に体つきが。
「何者です、無礼な」
「これは失礼しました、王妃殿下。何を祈っておられたのです? 和平? 幸福? それとも、懺悔?」
最後の言葉に、王妃の顔が歪む。あぁ、図星を指してしまったようだ。
「……おまえに、何がわかる」
「わかりませんとも、さっぱりね。妹の犠牲なくして得られなかった平穏に縋るだけの気持ちなど」
「知ったふうな口を!」
ぶつけられる激情に、背筋が震える。この女もなかなかに力が強いのだろう。あの女ほどではないが、良いモノを持っている。
事実、この女は後悔しているのだろう。悲嘆しているのだろう。悔悟しているのだろう。
だからこうして、懺悔している。届きもしない祈りを捧げている。
こんな抜け殻に祈ったところで、誰も聞き届けやしないのに!
「巫女を取り戻したくは、ないか」
慈しむような表情を作り、ことさら優しい声をかける。王妃は目を瞠った。
「な、にを……」
「こんな石にいつまでも閉じ込めておいて、良いのか」
薄ぼんやりと輪郭の光る巫女は、まさに神秘的で信仰の象徴として申し分ない。
しかしその実態はただの抜け殻で、残り滓のような力しか持っていない。見掛け倒しだ。
「妹を、その腕に抱きしめたくは、ないか」
じっと王妃の瞳を覗き込んで語りかければ、その瞳がぐらぐらと揺れているのがわかる。
「そんな、ことが……」
「できるとも。俺に、願えば」
俺から目をそらし、巫女を見つめて王妃が思索する。その目は、妹を見る姉の目だ。
「もちろん、ただではない。対価はもらうとも」
「……どんな」
こちらを一瞥もせず、巫女を見つめたままの王妃が問う。その目には、妹を取り戻したいという思いが色濃く表れている。
「この巫女を、くれ。そうすればやり直すチャンスをやる」
なるべく平坦な声を出したつもりだが、どうも弾んでしまったようだ。王妃が信じられないとでも言うような顔でこちらを睨む。
「リリーを? なぜ? それは私に返してくれるとは言わない」
「いいや、おまえは取り戻す。やり直した時間で、妹を。それならこれは、手放しても構わないだろ?」
「……………」
「それに、やり直したら、おまえももっと自由な生き方ができるかもしれない。今以上に楽に、妹と笑える人生を送れる。それに比べれば、これを手放すくらい、わけないだろ?」
「お断りします」
「だから、……は?」
「お断りしますと言いました。どんな形であれ、リリーはリリー。あなたに渡すわけにいきません」
きっぱりと、毅然として俺の要求を突っぱねる姿は、なるほどあの女にそっくりだ。いや、逆か。あの女が、この女に似ているのか。
「……妹を取り戻せなくとも、構わないと?」
「妹を取り戻す対価に妹を引き渡すなんて、本末転倒だと思わない?」
「……残念だ」
「自分の持つ以上を求めるのは、身を滅ぼすと学んだところなのよ」
くしゃりと顔を歪める王妃はなるほど、妹の喪失によって大いなる学びを得ていたらしい。
「眺める分には構わないけど、欲しがらないでね。私の妹」
最後に盛大なる釘刺しまで食らって、初回の誘いはこうして終わった。
俺はその後も、礼拝堂へ足を運んだ。気まぐれに、しかし確実に。王妃が誘いを忘れることのないように、俺の存在を忘れることのないように。
顔を合わせるたびに嫌な顔をされたが、構わない。俺は俺の役割を果たすだけだ。
あの男が言った通り、王妃が頷くことはなかった。唯一手応えがあったのは初回のみで、あとは沼に杭。
何年経っても、どれだけ誘っても、王妃が頷くことはない。ぴしゃりと撥ね付ける様は、俺の要望を撥ね付けたあの女を彷彿とさせた。
しかし俺が焦ることは無かった。なぜなら、あの男が言っていたからだ。王妃が頷かずとも……。
「ほんとう? このひとをあげたら、かえしてくれる?」
あどけない声が俺に問いかける。その顔はまさに石に閉じ込められた巫女そっくりで、血縁者であることをまざまざと表している。
もっとも、閉じ込められた巫女の瞳は青とヘーゼルだが、この少女の瞳はヘーゼル一色だ。瞳の色を除けば、この少女は鎮座する巫女にそっくりだった。
「あぁ、本当だとも。だから、これを手放せるか?」
優しく、穏やかに声をかければ、少女は顔を曇らせて言葉を紡ぐ。
「おばあさま、さみしそうなの。みこさまは、おばあさまのいもうとなのですって。わたしはみこさまにそっくりだから、とてもかわいがってくださるのだけど。たったふたりのしまいなのに、はなればなれは、かわいそうよ。このひとは、」
「マーガレット!!」
ばたんと荒々しく礼拝堂の扉が開き、あの頃に比べると年老いた王妃が駆け寄ってくる。しかし、もう遅い。
「このひとは、あげる」
ずっと待っていた一言に、口端が上がるのを堪えきれない。
「は、ははは!」
突然笑いだした俺に驚いたらしい少女が目を瞬いているが、気にしていられない。あぁ、ついに引き出した。
「人間が、巫女を手放した!!」
少女に駆け寄った王妃が少女を抱きしめながら、困惑したように俺と少女を見比べている。
「マーガレット、どういうこと?」
「おばあさま、わたし、あのひとにぬけがら? の、みこさまを、あげるって、いいました。そしたら、おばあさまは、やりなおすことができて、みこさまといっしょにいられます」
少女の言葉に、王妃の顔が絶望に染まる。
「なんてこと……なんてことなの。マーガレット、あなた、なんてことを」
「もう遅い、アマリリス」
空間が歪み、あの男の気配が強まる。女はどうしたのか。きっとどこかに繋いでいるんだろうけど。
「犠牲の上に成り立つものを欲しがると、身を滅ぼすと学んだのでは?」
盛大なる皮肉をぶつけながら、魔王が現れた。以前会ったときより力を増しているのは、あの女の影響なのか。
「………ローワン? なぜ? あのとき死んだはず」
「せっかくおまえの記憶は奪わないでやったのに、こんな結末になるとは、残念だよ」
「おまえの? どういうこと? 誰の記憶を……リリー? リリーの記憶を奪ったの? ローワン、答えて、どうしてこんな、」
「さようなら、王妃殿下。契約通り、すべてオレが貰い受ける」
魔王がそう言った瞬間、祭壇に鎮座していた石が砕け散り、巫女の姿が掻き消えた。
「リリー! リリー!!」
祭壇へ駆け寄った王妃が、砕け散った石の欠片を掻き集めるが、そこにはもう、巫女は居ない。
「あ、あぁ……なんてこと……、リリー……だれ? 巫女さま……そう、巫女さまが消えてしまった……」
「おばあさま……おばあさま……ごめんなさい……わたしが、わたしがあげるなんていったから……」
「マーガレット。いいえ、私が巫女さまを取り戻したいと思っていたのも事実なのよ。あなたはそれを汲んでくれたに過ぎない。でも、なぜかしら。どうして取り戻したいと思っていたのか、思い出せないのよ……」
はらはらと涙が頬を伝う王妃も、少女も。王妃に妹が居たことも、それが巫女だったことも、覚えていない。
巫女の姿を覚えている人間も、次第にその記憶が霞んでいくことだろう。
少女が誰に似ているか、どうして王妃は少女を可愛がっていたのか。
もう、誰にもわからない。
信仰と和平の象徴だった巫女が消えて、大陸は荒れた。
忽然と姿を消した巫女と、砕け散った石。その場に居たはずの王妃と少女は、なぜかそのことを思い出せない。
覚えていないからだ。
巫女を信仰していた人々は王妃を責め、守りきれなかった国を責めた。また、他国もそれに便乗し、王妃を、国を責めた。
その結果として、大陸は未曾有の戦火に見舞われた。人々は諍い、争い、厭い、憎しみ、怨嗟した。
巫女を信仰できなくなったことを。信仰の象徴を失ったことを。和平の象徴を失くしたことを。
平穏を信じることができなかったことを。
大陸中に広がった戦火は苛烈を極め、かつての疫病に迫る勢いで人口を減らした。じわじわと大陸を蝕んだ戦禍により、国も人も半分以下になった。
人々は嘆いた。どうしてこんなことになったのかと。
傷ついた人を癒やす者が居た。戦へ出る人に加護を与える者が居た。動けない人の周りに結界を張る者が居た。
それは女で、常に大きな男に守られていた。
ひとたび力を使えばたちどころに人々の傷を、病を癒やし、加護を与えればその人は死ななかった。結界には悪しき意思を持ったものは立ち入れない。魔獣を祓う退魔も扱い、また魔獣により穢れた土地も浄化した。
女は可憐で儚い見目に反して、言葉遣いがよろしくなかったが、その所作は驚くほど洗練されていた。もしかすると、それなりの家の出身ではないかと窺われた。
それはかつて世界を救った巫女のようだった。人々は縋った。巫女になってほしいと。信仰の象徴になってほしいと。
しかし女は頑として頷かなかった。自分にできることをすれば、なんとかなるものだと受け流した。
女は一所に留まることなく、あちこちを巡ったが、巫女を祀っていた国にだけは、訪れることはなかった。
それは巫女を守りきれなかった罰のようでもあったし、もしかしたら女を追い出した国だったのかもしれない。
女は黒い髪に、珍しい瞳をしていた。紫にヘーゼルの混ざった色は、他で見たことのない色だった。
そんな女に付き従う男も黒い髪に、燃えるような真っ赤な瞳をしていた。
黒髪に珍しい瞳の二人組は、どこへ行っても目立った。
やがて戦火が落ち着くと、黒髪の二人組も見なくなった。まるで巫女が戦火を落ち着かせるために巡礼していたようだと人々は囁いた。
国も人も半分以下になった世界で、人々は今日も祈る。どんな姿をしていたか思い出せない巫女に。戦火を巡礼していた巫女のような女に。
まさかその女こそ、すべての元凶だとは、誰も知らぬまま。
こうして世界の半分が滅びて、人々は後悔しながらも同じことを繰り返しました。
人間はどうしようもなく愚鈍で愚劣で愚昧で、鈍馬でした。
やがて人間を見限った黒髪の巫女は姿を消して、二度とその姿を見せることはありませんでした。
人々は祈りを捧げましたが、奇跡が起こることも、巫女が現れることも、二度とありませんでした。
自分で何もしようとしない怠け者を救おうという優しい神も、巫女も、現れることはありませんでした。
世界は今日も、虚偽と枉惑と欺瞞で満ちている。
巫女の齎した平穏を守ることすらできず、争いを繰り返す。