散歩
期待しないでください
午前7時、私は目覚めた。毎朝同じ時間に目を覚ますのは、体内時計が確立されているからだろう。布団から這い出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水を浴びるとぼやけていた視界は、はっきりとしたものになる。服を着替えてポケットに財布を詰め込むと、私は散歩へと出かけた。
季節は春だが、外は寒く体を震えさせる。朝の寒さもあるのだが、私が薄着をしているせいだろう。灰色のスウェットパンツに薄地の黒い長袖一枚だ。上に羽織る物がないわけではない。道中で身体が暖まり脱ぐことになるからだ。荷物になると分かっているので、最初から着ないことにしている。
青空を見上げながら坂を降る。平坦な道を歩き国道にある横断歩道を渡って橋を通る。橋下に流れる川の音色は心に安らぎを与えるが、自動車信号が青になると車の音が混ざり不協和音となる。
川の氾濫を防ぐための天端の道を歩いていると、紺色の制服を着た学生達が自転車に乗り私の横をり過ぎていった。学生が着ていた制服は近くにある高校のものだ。懐かしさを感じながら、石段を降り川岸を歩く。川岸に生えている雑草は衣替えなのか、青々としたものがちらほら見える。川が奏でる音に耳を傾けながら歩いていると、いつの間にか川岸の終点にたどり着いた。天端に上る階段が近くにあるのでそちらに足を向けた。
階段を上がるとそこには住宅街が広がっていた。色とりどりの家に目を泳がせながら、生活道路を歩いていると腹が鳴る。朝ご飯を食べてない事を思い出し、近くに店がないか見渡す。すると、マンションの下にある古びた喫茶店を見つける。看板は錆びていて窓は曇っている。大抵の人は敬遠するだろうが、私は気になって喫茶店へと入った。
中は外と比べて綺麗で、しゃれたランプが天井に掛かっている。レトロな雰囲気の店内に本棚があり小説が並べられていた。店内にいる客は私だけで、カウンターにいた老人の店主が「いらっしゃいませ」といって出迎えてくれる。窓辺の椅子に座ると、店主がメニューを持って来た。一通り目を通した後、トーストとコーヒーのセットを頼む。店主は一礼し、メニューを回収して奥の厨房へと去って行った。
窓は曇っていて外の景色が霞んで見える。綺麗ではないが霞んで見える景色は、にじみ絵のようで面白い。長らく眺めていると、店主がコーヒーとトーストを運んできた。「ごゆっくりどうぞ」と言って店主はカウンターに戻っていった。
コーヒーの豊潤な香りとトーストの香ばしい匂いに食欲をそそられる。熱々のトーストを手に取り口に含むと、ふんわりとした触感が口に広がる。バターと焼けたパンの単純な組み合わせなはずなのに、舌を唸らせてくれる。トーストを食べ終えると、湯気が立ち上がるコーヒーを口に含む。酸味と苦みのバランスが良い。コーヒーの味わいに浸っていると、先ほどの本棚を思い出す。
備え付けのお絞りで手を拭くと、本棚へ向かった。本棚には数多くの小説が並べられていた。名を知っている小説があったが、私はそれを選ばない。聞いたこともない小説を取り椅子に腰かけた。
何ともない日常を描いたストーリーそのはずなのに、いつの間にかその世界に飲み込まれていた。気が付くと、最後のページになっていた。本を閉じ僅かに残っているコーヒーを口に含む。未だに小説の世界に飲み込まれていたが、苦いコーヒーによって現実に引き戻された。本を元の位置に戻し、店主に金を払って店を出た。
外に出ると曇った窓を眺めていたせいか、景色は一層輝いて見えた。通って来た道を戻り、再び川べりを再び歩いていると、緩やかに流れる川で、子供達が遊んでいた。純粋で無垢な笑顔と透き通るような淡い声は、自身の中の穢れを浄化してくれる天使のような存在と思えた。
最後まで見てくださった方ありがとうございます。