第三話 立ち上がるんだ、もう一度
「最近あの子来ないね」
ライブハウスでソンさんにそう言われ、私は固まる。アキちゃんのバンドが解散したことを、私はまだソンさんに言っていなかった。
「……どの子のことですか?」
「分かってるくせに。ていうか知ってる」
ソンさんはタバコを取り出した。私にも勧めてくるが断る。
「ま、才能はあった方だとは思うけど。でも才能あっても売れるわけでもない。散々やめてったさ」
ソンさんは私を見る。「お前もね」と言われている気がした。
「ここはそった奴らばっかりさ。若いのも年寄りも、自分なりに音楽やって、酒飲んでタバコ吸ってればいい。そった奴らの逃げ場なのさ」
今もステージでは中年男性がフォークソングを歌っている。挫折して、でも音楽から離れられなくて、武勇伝を若いミュージシャンに語って聞かす。そういう生き方もある。
「ソンさんもやってたんですか?」
「ちゃんと夢追ってちゃんと挫折した。でも音楽からは逃げられなかった。行きついたのがここさ。それで良いって思ってるよ、今は」
あんたもそうなんじゃないの? と暗に言われている気がした。
散々酔っ払ったあげく吐いて二日酔いになるように。飲まなきゃ良かったと後悔するが、飲まなきゃやってられないように。音楽無しでは生きてられない。
そんな中毒者たちが、このライブハウスに集っていた。私まで酔いそうで、その日のバイトは早退した。
寒風に身をさらしながら、青森市を彷徨う。駅から見える海も、中途半端に都会ぶった街も、遠くに見える山々も、なんだか全てが白けて見える。
東京にいた頃を思い出した。人の濁流の中、なんとか自分の存在を主張するべく抗っていた。あの街は時間のスピードが速かったから、とにかく必死だった。
親がいないのも、友達ができないのも、幸福になれないのも、何もかもうまくいかないのも、この世界のせいだから。この世界に押しつぶされて死ぬのだけは嫌だった。何者かになりたかった。音楽はそのための武器だった。
売れなくて情けなくて流した涙は、アスファルトに染みて、無残に踏みつぶされていった。
言葉にすれば、「夢を追って上京して挫折した」だけ。「情けなく故郷に帰ってきて惰性で生きてる」だけ。
海が見えた。山が見えた。広大すぎて泣けてきた。ざまぁみろと言われた気がした。お前はどこにも行けないと言われている気がした。
「……嫌だな」
誰に向けるでもなく言った。
「死にたくないな」
あの日のアキちゃんの叫びがこだまする。どうして私はあの時動けなかったんだろう。
海岸の隅っこに何かが見えた。漂流物だ。それが何かすぐに分かった。
「ああ……」
私のギターだった。
背後霊が囁いてくる。
────どうして生きてるの?
「ああああ……」
私はふらつきながらギターに近づく。すっかり錆びついて、弦を弾いてみるとすっかり歪んだ音になっていた。
「どうして……私は……」
私は、こっぴどく失敗した。信じられないくらいの挫折だ。でも、もう一度、立ち上がれていたら、変わっていたの? こんな空しさを抱えなかったかもしれないの?
足音が聞こえる。こっちに近づいてくる。
「やっぱりここにいました」
振り返るとアキちゃんがいた。片方の頬にガーゼを張った痛々しい姿で、こけた顔で笑った。
「……アキちゃん」
「マヒロさん、元気でしたか?」
憑き物が落ちたような声音だった。
「あたし、音楽辞めます」
「親とも散々話して、バンドのことも全部バレて、それで辞めました」
「やっぱり無理だったんだって。あの日コンテストで優勝できなかったのはそういうことなんだって」
「元から持ってる人しかできないことなんだって。あたしなんかが手を伸ばしたところで届きっこないってことが分かったんです」
「だから、あたし音楽辞めます」
台本を読んでいるような白々しさだった。
アキちゃんは私のギターに目を落とす。
「それ……もうボロボロですね。それじゃあ弾けないですね」
「音楽やりたいんじゃないの」
私の口が勝手にしゃべり出した。心臓がどくどく鳴って、身体が震える。
「もう……そんなの忘れました。あたしが考えなしのバカだったんです」
「忘れられるの?」
「親へのくだらない反抗だったんです。もう大人になるべきでした」
「くだらないなんて言えるの?」
次々と零れ落ちてくる私の言葉たちに、アキちゃんはいら立ったように目を細めた。
「なんなんですか、さっきから。あたしの勝手じゃないですか。音楽辞めるのも」
「じゃあなんでそんなことを私に言いに来たの」
「それは……マヒロさんにはお世話になったから」
「たった一か月しか付き合ってない。それにほとんど話さなかった」
私は立ち上がる。アキちゃんと対峙した。
「どうして? どうして諦めるの?」
私は彼女を見つめた。
「どうして諦められるの?」
私には分からなかった。諦めきれない人たちばかりを見てきて、私自身も「音楽を捨ててよかった」と思いたいのに。
「私は諦めきれないで、死にきれないで、どうしたら分からないのに!」
アキちゃんの肩を掴む。押されてアキちゃんは後ずさった。
「マヒロさん、肩、痛い」
「苦しいんだよ、私は。毎日。惰性で生きてるだけで、でも……」
私の唯一の希望だったあの牽引ロープは、もう役割を果たしてくれなくなった。
「もう、嫌な思いはしたくない……否定されたくない……」
情けなかった。自分より三つも下の女の子にこんな醜態晒して。
「でも、目を背けようとすると、もう一人の私が『どうして生きてるの?』って言ってくるんだよ!」
アキちゃんは目を逸らした。それでも私は続ける。
「どうして諦められるの? そんなことできるはずが無いのに!」
私が私でないようだった。ずっと見ないようにしてきたはずなのに。
「……あ、あたしは」
震えた声が返ってくる。
「あたしは、マヒロさんと、違う」
私は否定した。
「違わない」
「こんな理不尽を許していいの?」
「ただ負けて、無理だったってそれだけで言えるの?」
「自分が否定されたみたいで辛くないの?」
「やっぱりダメなんだなって、嘲笑われてもいいの?」
「そんなこと許せるの?」
それらは、アキちゃんへ言っているようで、自分に向かって言っている言葉たちだった。
「私は……私は……」
東京がフラッシュバックする。悔しさも辛さも苦しさも,失望も後悔も挫折も、嫌で嫌で仕方なかった。こんなはずじゃない、今に見てろ、そう繰り返しながら生きていた。楽しいはず無かった。きつかった。何度も何度も打ちのめされ、押しつぶされてきた。
ずっと、ずっと土砂降りの雨の中走っていた。いつか止むはずと信じて。
傷だらけの身体に、雨曝しは堪えた。
「それでも……!」
止むはずの無い雨の中をもう一度走ることができたら。
私はギターを拾い上げた。波にさらわれ、弦が錆びて、歪んだ音しか出ないガラクタだ。それを構えた。
「────────」
私は歌った。悔しさに塗れた時に作った曲だ。私の怒りと希望が満ちた曲だ。それでも進まなきゃいけないという曲だ。アキちゃんと、自分と、自分の道をいつまでも阻もうとする憎たらしくて美しい海に向かって歌った。
準備ができていない喉からは酷い歌声しか出なくて、ボロボロのギターからは汚い音しか出なかった。でも、だからこそ、一生懸命歌った。これが今の私にはお似合いだから。
アキちゃんはいつのまにか泣いていた。跪いて両手で顔を覆い泣いていた。
歌い終わると同時に弦が切れた。手が攣って、爪が割れている。本当に酷い。見てられない。だからこそ、始まりにはふさわしいと思った。
「私、もう一度やってみる」
ついに言った。心が軽くなった気がした。海は依然として動かないけれど、それでもいいと思った。これはただの八つ当たりだから。
「今度は後悔しないように。生きるために、音楽をやる」
アキちゃんは喘ぐように私を仰ぎ見た。アキちゃんに問う。
────どうして生きてるの?
「なんで……」
嗚咽の中から言葉が漏れる。
「もう……抵抗するのに疲れて……全部諦めたはずなのに……」
「諦められるの?」
もう一度聞く。アキちゃんは激しく首を振った。
「できるわけない! できるわけないけど……あたしにはもう……」
「今辞めたら、絶対に、後悔する」
「そんなこと分かってる……」
「ずっと後悔を抱えて生きていくことになる。どうして生きてるの? 背後霊が自分に囁いてくる。それでいいの?」
「よくない……」
「お父さんに連れて行かれる時、音楽がやりたいって言ったのは嘘だったの?」
アキちゃんは俯いた。涙が落ちて海岸に染みていく。
「嘘じゃない……!」
私は彼女の顔を上げさせた。
「なら、分かってるはずだよ」
アキちゃんは私の胸に飛び込んできた。その勢いで私は尻もちをつく。
「うわあああああああん!!」
やはり、さざ波は泣き声をかき消してはくれなかった。
「落ち着いた?」
「はい……」
ズビ、とアキちゃんは鼻を鳴らした。太陽が沈んでいく。もっと寒くなってきた。私たちは並んで地べたに座っていた。
「あたし、もう一度できるかな……」
「……わかんない」
こっ恥ずかしくて拗ねたような言い草になってしまった私に、アキちゃんは吹き出した。
「何それ。マヒロさんが焚きつけてきたくせに」
「焚きつけたわけじゃ……いや、そうだね。うん、そうかも」
「そうだよ。マヒロさんのせいであたしの人生狂っちゃった」
彼女は朗らかに「あーあ」と言った。
「責任取ってね」
「……なんの?」
「あたしと組んで」
私は目を剥いた。
「なんで」
「一回聞きましたよね、『あたしと組んで』って。もう歌わないからって断られたけど。もっかい音楽やるんですよね?」
「でもそれはアキちゃんが自棄になってたから言ったんじゃないの?」
「あたしはずっと本気ですよ」
アキちゃんは泣きはらした真っ赤な目で私を見た。
「売れるとか売れないとか、もうどうでもいいです。あたし、ムカつくんです。全部。だからあたしの八つ当たりに付き合ってください」
私の手が握られる。ひどく冷たい手だった。
「マヒロさんもムカついてるんでしょ。一緒に八つ当たりしましょうよ。ムカつく奴らぶっとばしましょうよ。あたしたち良いコンビになれそうじゃん」
私は伝えるべき言葉を迷いながら、口を開いた。
「……私、ずっと雨曝しだったんだよ。一人ぼっちで、理解者も居なかった」
アキちゃんは黙って先を促した。
「止まない雨は無いって、本気で思ってた。いつかこんな私にも光が差すって」
またもや思い出す。ずっと私に付き纏っている。
「ここに帰ってくるまでは、まだ希望を抱いてた」
上京するときの夜行バスで見た真っ暗な浅虫も、朝焼けの新宿の青さも、一人虚しく歩いた渋谷の雑音も、帰郷するときの寝台列車から見えた真っ白な八甲田山も。
「そんな希望が霞んじゃうくらい、ずっとずっと苦しかった。私にはそれだけだった」
そんなかつての絶望が残す死ぬまで消えない染みが、あったはずの綺麗な思い出にまで浸食して汚していった。
「止まない雨なんて無いよ。私はずっとびしょ濡れだった」
だから、そんな足を重くするだけの感傷なら、いっそ捨ててしまおう。
一人では荷が重いかもしれないから、彼女の手を握り返す。
「一緒に濡れてくれる?」
アキちゃんは笑った。
「あたしもずっと雨曝しでしたよ。これからは二人ぼっちですね」