第二話 うるさい背後霊
夢を見た。私が上京するときの夢だ。十五の時だったと思う。
あの頃の私は世界全てを恨んでいた。私が満たされないのも、自分の境遇への怒りも、全てこの世界が悪いと信じて疑わなかった。誰に対してか分からない「今に見てろ」を胸に刻んで高らかに歌っていた。
私の全てが音楽で、音楽の全てが私だった。私には音楽しかないと思っていた。
上京して、奨学金で通った学校もすぐに辞め、毎日ライブをした。それでも渇きは収まらず、この先に何か、音楽を貫いた故の答えがある気がした。
止まない雨は無い。そう心の底から信じていた。だから土砂降りの雨を進むことに躊躇は無かった。
地下でも場末でも路上でも、いろんな所を巡ってずっと歌っていた。がむしゃらに活動していたから、大手レーベルの人に見つけてもらえた。
「あと一曲二曲勝負できる曲があれば、なんとかできるかもしれない」
私はその言葉に縋った。これ以上無いチャンスだと思った。
週に一曲、これがノルマだった。ひたすら作る。歌う。作る。歌う。無い貯金も尽きたけれど、いつか私の音楽が認められたらいいな、という夢で辛うじて生き永らえていた。
気づいた時には私の身体と心はボロボロだった。一度ぬかるみに足を取られたら、起き上がることができなくなるくらいに。私は曲が作れなくなった。頭がおかしくなった。
そこで蹲ることしかできなくなった時、私は音楽に捨てられた。
「……ッ!」
目を覚ました。酷い夢だった。最悪な記憶だった。真っ暗な部屋の中、私は身体中の汗に気持ち悪さを感じながら起き上がる。あの日ギターを捨てたはずなのに、まだ私の背後霊は消えてくれない。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
私は押し入れからホームセンターで買った車の牽引ロープを取り出し、胸に抱いた。天井を睨みつける。これは逃げ道だ。非常事態が訪れた際の、いざというときの備えだった。
「怖くない……もう、怖くない……」
自分に言い聞かせる。いざとなったらこれで首をつってやるつもりだった。かつて抱いていた怒りが燃えカスになってまだ私の中でくすぶっている。私がそれを見て見ぬふりすると、背後霊が私の耳元で金切り声を上げるのだ。
────どうして生きてるの?
私はそれが聞こえなくなるまで耐えるしかない。やがて朝が来て、背後霊はいなくなる。カーテンを開けると、私を闇へ追いやるみたいな光が部屋に差した。
「どうしてだろうね」
誰に向けたわけでもなく、ただそう呟いた。
私はソンさんのライブハウスで働いていた。なんとかギリギリ生活できるだけの金を稼ぐ毎日だ。夢や希望に溢れるバンドマンたちを俯瞰してみるのは気持ちのいいものではなかったが、生きるためにはしょうがない。
アキちゃんたちのバンドも当然出演していた。あの日以来、アキちゃんとはロクに話していない。それでもいいと思った。どうでもいい。わざわざ足を引っ張るようなこともしない。売れるならどうぞご勝手に、という心境だった。
どうやらファンが多いようで、アキちゃんたちが出演する時にはライブハウスは満員御礼だった。アキちゃんは顔が良いし、ステージ映えするから当然だろう。県内のコンテストは楽勝らしい。
ある日ライブハウスの掃除をしていると、制服姿のアキちゃんバンドが飛び込んできた。
「東北大会まで進みました!」
大きなコンテストで入賞したらしい。東北大会で結果を残せば、全国大会へ行ける。さらにそこで結果を残せば、メジャーデビュー。夢への大きな一歩を踏み出した彼女たちは夢や希望に溢れていた。
私は「良かったね」と心にもない事を言った。
東北大会の会場は仙台だ。予定があるらしいソンさんに代わって、私がアキちゃんバンドをバンで送ることになった。
「マヒロさん」
「うん?」
会場のサンプラザホール前で、アキちゃんは私に言った。
「あたし、証明しますから。あたしはやれるって。あたしには音楽しか無いって」
やけに聞き馴染みのある言葉だった。
「がんばってね」
アキちゃんは応えず、震える手を隠しながら会場に入って行った。
贔屓目に見てもアキちゃんたちは良かった。満員の客も湧き、これまでに無いくらい良いステージだった。
それでも勝てなかった。優勝したのは、安っぽい世界平和を歌うイケメンたちのバンドだった。
コンテストが終わって、アキちゃんたちを迎えに行く。集合場所で口論が起こっていた。
「何!? これで満足ってこと!?」
アキちゃんの声だ。見てみると、アキちゃんがベースの子に掴みかかっている。
「私ら、よくやったよ。それでこの結果なら受け入れるしかないでしょ」
「あんなバンドのどこが良いのよ!」
「優勝したからあれが良いんじゃないの」
「初めての東北大会だったのに! あたしたちには時間が無いんじゃないの!?」
「そりゃ、高校卒業までに道ができればいいとは言ってたけどさぁ……」
アキちゃんは歯を食いしばりながら涙を流している。いつか見たあの表情だった。
「じゃあなんでもっと本気で悔しがらないの!? どうして当然だよみたいな顔できるの!? あたしたちはこんなところで終わるバンドじゃない!」
「別にこれから先、いくらでも時間はあるんだし────」
「そんな悠長なこと言ってるから勝てないんだよッ!!」
絶叫。ベースの子は冷めたようにアキちゃんの手を離させる。
「あっそ。じゃあもういいよ」
彼女はベースを担ぎ直し、歩き出す。
「ま、待って。まだ話は終わってない」
「あんたはそうでも私は終わった。あんたの残り時間をうちらにも強要しないで。あんたみたいなお嬢様とは違うから」
そう言い捨て、彼女は去ってしまった。ドラムの子は彼女を追ってしまい、ギターの子はおろおろアキちゃんと彼女らを交互に見ている。
「……マヒロさん」
私の存在に気付いたアキちゃんが涙をぐしぐし拭った。
「どうするの?」
「……帰ります」
アキちゃんは拳を真っ白になるまで握りながら、そう言った。
海に行きませんか。アキちゃんに誘われ、私たちはいつか出会った浅虫に来た。もうすっかり夜だった。海岸で体育座りするアキちゃんに、私はどう声をかけたらいいか分からなかったから黙っていた。
「……バンド、解散することになりました。あたしには付いてけないって言われて……」
しばらく経った後、ポツリと彼女は呟く。
「いいの?」
聞くと、「いいわけ無いでしょ……」と返してくる。
「もうやだ……どうして上手くいかないの……」
すすり泣く声。波のさざめき。交互に交わっていく。全部が遠くに聞こえた。
「あたしには時間が無いのに……」
「どうして時間が無いの?」
「……うち、親が金持ちなんです。バンドなんて馬鹿がやるものだって、反対されてて……バンドやってること親に隠して、結果出して何も言わせられなくして出てってやろうって思って……」
「よく隠してこれたね」
「あたしボーカルだけだから楽器弾かないし、親が家にいないことも多いから……」
「東京の大学行ったら?」
「地元の大学行けってうるさくて……自分で受験費用と入学金用意するなんてできっこ無いし……」
すすり泣きがやがて嗚咽に変わる。風が一陣吹いたが、それを隠すことは無く、さらに克明にさせた。
「もうやだ……消えたい……自分で自分の環境も変えられないあたしが嫌い……大っ嫌い……何者にもなれないのが怖い……あたしには音楽しか無いのに……」
アキちゃんは涙に濡れた目で私を見上げる。
「あの時……海に入って行くマヒロさんが、羨ましかったです。誰にも止められず、自由に選択できるマヒロさんが……。ずるい! って思って、だからあたし、呼び止めて……」
私は何も言えなかった。自由だったのだろうか、あの時の私は。私は今も背後霊に縛られている。
────どうして生きてるの?
囁き声が聞こえた。私はまだその答えを見つけられずにいた。
「うわああああ!」
大きな声がしたと思ったら、アキちゃんは立ち上がり海へ駆け出していた。
「アキちゃん!?」
私は手を伸ばした。しかしあの日のギターを掴めなかったように、アキちゃんはずっと遠くを走っている。彼女は海の中を構わず進んだ。太ももまで浸かったところで、膝をついた。
「うっ……うううっ……」
アキちゃんは自らを抱きしめながら、海の向こうへ泣き叫んだ。
「ばかぁあああああああ!!」
そして彼女は海へ倒れ込んだ。
「アキちゃん、ダメだよ。もう十二月だし、死んじゃうよ」
私は海へ入って行き、彼女を引き上げる。水がアキちゃんから滴り、涙かどうか分からなかった。アキちゃんは私を睨みつける。
「離して! もうここで死んでやる!」
「ここで死んでも意味ないよ」
「音楽やれなきゃ生きてても仕方ないんですよ!」
「そんなことないよ」
「あなたに何が分かるんですか!?」
乱暴に腕を引き離される。
「簡単にギターを捨てちゃうくらい音楽に向き合ってないくせに! 東京から青森に逃げてきたくせに! そんなあなたがあたしに何を言えるんですか!」
向き合ってない。逃げた。容赦ない言葉が私に突き刺さる。そうだ、その通りだ。
「あたしはマヒロさんと違って真剣なの! 音楽やれなきゃ意味無いの! マヒロさんはあたしの何が分かっててそんなこと言えるんですか!?」
息を荒げながら、何度も何度もアキちゃんは私を叩く。手は震えて力が無く、暴言を吐く唇は紫色だった。
「……何も、分からないよ」
殴打は止み、アキちゃんは私の胸に顔を埋めてきた。頭をぶつけて泣きじゃくる。
「アキちゃんのことも、私のことも、何も分からないよ」
冷たい海の中で、慟哭がただ残響していた。
「……お風呂、ありがとうございます」
私がなけなしの金で借りたボロアパートで、アキちゃんはシャワーを浴びていた。あのまま海の中にいたら本当に死んでしまうところだった。
私がシャワーを浴び終わっても、アキちゃんは部屋の隅でじっとしている。ここに来た時からずっとだ。
「帰らなくていいの?」
そう聞くと、アキちゃんはゆるく頭を振った。
「ここにいたいです」
「……そっか」
また沈黙が訪れた。
「もう、あきらめるべきなのかな」
アキちゃんがぼそりと言った。
「周りのみんなは勉強し始めてるし……でも……」
頭をかき乱す。
「他のバンドは?」
「あたしと同じくらいの気持ちでやってる人なんていないですよ……」
彼女は諦めたように笑った。頬がこけているように見えた。
「マヒロさん、曲作って。あたしできないから」
「……ごめん、もうやらないって決めてるんだ」
「ですよね。わかってた」
それから、アキちゃんは一言も発さなかった。
次の日も、その次の日も彼女は家に居続けた。亡霊のように何も話さず、何も食べず、ただぼうっとどこかを見つめていた。
バイトをしに街へ出ると、行方不明者の張り紙が張られていた。アキちゃんの写真だった。私はそれを彼女に言うことはできなかった。それを言ったところで、どうにもならないことは分かっていたからだ。
「食べて、アキちゃん」
私がおかゆを彼女の口元へ持っていく。しかしアキちゃんは生気を失った顔を横に振った。
「死んじゃうよ、それじゃあ」
「それでいいです」
聞き取れないくらいか細い声だった。彼女の手を握ると、すっかり冷たかった。あの日私を海から引き戻した時を思い出した。
その時、インターホンが鳴った。確認すると、見知らぬ中年の男女だった。あの子の両親だ。すぐに分かった。
「アキちゃん。親、来たよ」
瞬間、彼女の顔が引き攣った。
「いれないでください」
「でも」
「いいからっ!」
大声がドアの向こうにも聞こえたのか、外から彼女を呼ぶ声が聞こえる。ドアを強く叩かれた。出ないわけにはいかない。
「アキ!」
父親が真っ先に乗り込んでくる。私を押しのけ、アキちゃんを発見した。
「やめて! 来ないで!」
アキちゃんは叫ぶ。私の部屋にあるものを片っ端から投げつけた。おかゆがひっくり返り、父親のスーツにべちゃりとつく。
「あいつに何をされたんだ! 誘拐されたのか!?」
「そんなわけない! いい加減にしてください! 来ないで!」
父親がアキちゃんの手を取って無理矢理立たせる。アキちゃんは泣き喚きながら抵抗するが、ずるずる引き摺られていった。母親は私を睨んでいる。
「マヒロさん!」
アキちゃんが私を見る。
「マヒロさん、助けて!」
枯れた声で叫ぶ。
「音楽がやりたいの! 歌いたいの!」
けれど、私は動けなかった。
結局一歩もそこから踏み出せないまま、アキちゃんは連れて行かれてしまった。
その後私は警察に連行され、事情聴取を受けた。アキちゃんは自分の意思で私の家にとどまったのだが、そうだとしても私が親に連絡する義務を怠ったことで注意を受けた。
誰もいなくなった家に帰ってきて、私はすっかり疲れてしまった。ひっくり返ったおかゆの残骸が、床に散らばっている。
無音のはずなのに、いつまでもアキちゃんの叫びが聞こえる。
────マヒロさん、助けて!
────音楽がやりたいの! 歌いたいの!
泣きながら、私を見ていた。
「音楽がやりたい……」
どうして、そこまで音楽がやりたいのか、分からなかった。
どうして、音楽を奪われることに抵抗していたのか、分からなかった。
あんなのただ楽器弾いてステージ立って、無駄に矢面に立つだけじゃないか。
あの子はその痛みを知らないんだ。音楽に裏切られたことが無いから────
そこまで考えて、気付いた。
「音楽を裏切ったのは私の方だったのかな……」
背後霊が囁いてくる。
────どうして生きてるの?
私は物置から牽引ロープを引っ張り出し、首に巻いてみた。なぜだか楽になった気はしなかった




