第一話 私はすっかりしらふで
浅虫の黄昏。橙色の光が陸奥湾の海に照っている。故郷の青森に帰ってきて丸一日が過ぎた。十一月を迎えた青森はすでに雪が降っていて、東京で五年過ごしてきたせいで身体が耐え切れず震えている。
「きれいだな……」
陽光が身体を塗りつぶしていく。震えが止まった気がした。背負ったギターケースを下ろし、海岸を進んでいく。足が冷たくなってきた。
施設の窓からずっとこの海を見てきた。この海の向こうに、私の望むものがきっとあるはずだ。それが何かは分からないけど、走り続けていれば答えがあるはずだ。きっと、きっと……。
そうして、私は結局帰ってきてしまった。あれほど嫌った故郷に。ここには何も無いはずなのに。いや、それこそ私にはふさわしいのかもしれない。全てを捨ててきた私に、何も無いここはお似合いの場所だ。
私には音楽しかないと、ずっと思ってきたはずなのに。抜け殻になった今の私は何なのだろう。
ざぶ、ざぶ、ざぶ。どんどん進んでいく。比例して冷たさが上がっていく。この海の向こうにあるはずだったのに。私の求めていたものが……。
「ちょっ、ちょっと!」
急に声を掛けられて、私は我に返る。振り返ると、顔を真っ青にした女の子が海岸に立っていた。
「何してるの!? もう十一月だよ!? 死んじゃうから!」
そう言われて、初めて身体が芯から冷え切ってることに気付いた。爪が青い。まだ呆けてる私を見て、女の子は「もう!」と言いながら海に入って行く。私の手を掴んで海岸に引き上げた。
「ほんとに何やってるの!? そんな薄着で! あなた、青森舐めてるでしょ!」
女の子はカイロを私に持たせ、マフラーとジャケットを私に着せた。
「あー、寒い! なんであたしこんな時期に海入ってるんだろ。とりあえず来て!」
有無を言わさず連れて行かれ、路傍に止めてあったバンに乗せられる。私のギターも一緒だ。
「大丈夫だった?」「うわ、ほんとに連れてきちゃったよ」「と、年上だ……」
私を連れてきた女の子と同世代っぽい女の子たちが私を見る。車内は暖房がガンガンに効いていて、少し温まった。
「早くライブハウス連れてかなきゃ! そこシャワールームあるから! ソンさん早く!」
ソンさんと呼ばれた運転席のお姉さんが「はいはい」と頷き、バンを走らせた。ここまで私は何も言葉を発せられなかった。口を挟む隙が無かった。
「あと五分くらいで着くから。全く、ほんとになんであんな馬鹿なこと……お姉さんまだ若いんだから早まっちゃダメだよ。全く……」
「ご、ごめんね」
ため息を吐きながら説教してくる女の子に対して、私はただ謝ることしかできなかった。
「これからあたしたちライブあるから、話はその後ね。とりあえずあったまって」
「う、うん。どうも、ご丁寧に……」
法定速度を無視したバンによって、私たちはあっという間に目的地に着いた。青森市に入ったらしい。
「お姉さん、ギター持ってるってことは、音楽やってるんでしょ?」
下車するとき、女の子に尋ねられる。私は曖昧に頷いた。
「じゃあ、あたしたちのライブ見てってよ! うちすごいよ!」
満面の笑みで言いながら、女の子たちは駆け出していった。
「厄介なのに捕まったね」
運転席を降りたソンさんが言う。三十代くらいのお姉さんだった。
「は、はぁ……」
「出身は?」
「……横浜町です」
「やっぱりね。見たことあるもん。むつの方で弾き語りして結構有名だった」
身体が強張った。ソンさんはタバコに火を付けた。
「吸う?」
「えっと……」
「喫煙者だべな? 指が黄色くなってら」
私はおずおず手を出した。ライターとタバコが握られる。
「東京さ行ったって聞いたけど」
「…………」
答えず、白煙を吐き出した。ソンさんも何も言わずタバコを踏みつぶす。
「せっかくだからシャワー貸してあげる。ライブも見てきな。ドリンク代+五百円」
「……お金、無いです」
「貸しといてやる」
シャワーを浴びてシャツに着替えると(あの女の子たちのグッズを購入した。それも貸しだ)、ちょうど彼女たちがステージに立っていた。キャパ五十人くらいのライブハウスが満員だ。
「夢はきっと叶うんですかね」
スポットライトに照らされながら、真ん中でマイクを握っているのは私を連れてきたあの子だ。
「きっと叶うって言った人は夢が叶ってるから言えるんですよ。あたしたちには、もっとふさわしい歌があると思います。夢を追っているあたしたちにしか歌えない歌があると思います」
私の背後で、出番を終えたらしい男三人組のバンドがくすくす笑った。彼女はそれを見る。私と目が合って、微笑んだ。
「良いんです、笑われても」
スティックがリズムを刻み、バンドが音楽を奏でる。ライブハウスが揺れた。
彼女たちの歌はブルーハーツとスキャンダルとサイサイをごちゃまぜにして白湯を入れたような音楽だった。リズムは所々崩れて、ボーカルは時々声が裏返る。それでもなぜか見ていられた。
「眩しいな……」
私のつぶやきはバンドの轟音にかき消された。ここはすごい狭いはずなのに、なぜか私だけが遠くからこの景色を見ている気がした。
「あ、お姉さん!」
どうやら彼女らのバンドはトリだったらしい。客がすっかりいなくなったライブハウスで、あの子が私を見て一目散に駆けてくる。
「うちのバンドのシャツ着てくれてる! ありがとうございます!」
彼女はあの男三人組がいた場所を見る。
「あいつら、あたしのMC笑ったくせに曲聞いたら悔しそうな顔してたでしょ! ざまぁみろ!」
女の子は満面の笑みで「どうでした?」と聞いてくる。
「……良かったよ。とても」
「だべ? やったー!」
女の子はぴょんぴょん飛び跳ねる。感情表現がオーバーな子だ。
「いいもの見せてくれてありがとう。えっと……」
「アキです! 雨宮アキ! お姉さんは?」
「豊川マヒロです」
「マヒロさん! えへへ、よろしく!」
手を握られてぶんぶん振られる。
「マヒロぉ」
カウンターのソンさんから声を掛けられる。
「あんたに貸した千八百円だけどね。ライブ出演一発でチャラにしてあげるよ」
「えっ!」
私より先にアキが目を輝かせる。
「……本気ですか?」
「まさか踏み倒す気じゃないでしょうね」
私は目を逸らした。
「アキ。この子ね、昔むつで弾き語りすちゃーのよ?」
「まじで!? 聞きたい! 聞きたいなぁ!」
離れたところで私たちを見ているアキのバンドメンバーからも期待のまなざしを感じる。私はため息を吐いた。
「……分かりました。いつですか」
「明日ね。ここ、毎週土日やってるから」
その日は結局ライブハウスに泊まった。
「出番は真ん中らへんにしてあげたから。ここじゃ無名のあんたなんて誰も聞いちゃいないだろうけど、まぁパパっと終わらしてきな」
「言い方……」
でも、その方が楽だ。さっさとノルマの三曲を終わらせよう。
私の番が来た。ギターを持ってステージに立つ。観客の半分くらいが酒を飲んだり話をしていたりで、こっちを見ていない。
私は息を深く吸い、吐いた。板の上なんて久しぶりだ。テンションが変になって、高揚感が出てくる。酩酊みたいだ。
「歌います」
それだけ言ってギターを構えた。チューニングを終えて、弦を指に置く。何を歌おうか考えていなかったから、てきとうに東京時代で一番ウケた歌にした。メジャーデビュー一発目もこれだった。
歌い始めて、見向きもしなかった人が手を止めた。視線が突き刺さる。スポットライトが熱い。弦を弾く指が痛い。しばらく使っていなかった喉が灼ける。それでも歌がとめどなく溢れてくる。
いつしか私は目が見えなくなったみたいに真っ暗になった。世界に私一人しかいないようだった。私は私に向かって歌っていた。暗夜行路でも、走っていれば答えが見つかると思った。土砂降りの中を進んでも、止まない雨は無いはずだから。
バツン! 弦が切れて、私は現実に戻った。手が切れて、血が滴っている。キーンという耳鳴りの中、私はしらふに戻った。
「ありがとうございました」
一曲しか歌っていないのに、私はステージを後にした。
ライブハウスの中は妙な空気だった。後出番のバンドはやりづらそうにしている。私は早く終わらないかな、なんて思いながら酒を飲んでいた。
「マヒロさん!」
客をかき分け、アキが来た。
「す、ステージ見ました!」
アキは頬を上気させ、目を潤ませながら私を見ている。
「すごかったです……」
私はそれを聞いても、ああそうか、しか思わなかった。
「ありがとね」
そう返して、私は瓶ビールを飲み干した。
「弾き語りなのに、なんか音が厚くて……いや、弾き語りだからこそ、マヒロさんが等身大でぶつかってきて……なんていうか……ごめんなさい、語彙力が無くて。作詞してるのにおかしいな……とにかくすごいよかったです!」
「そう? アキちゃんが良かったなら、良かった」
「どうしてそんな上手いんですか?」
「上手い……のかな」
私は自嘲気味に笑った。
「年月重ねてれば、ああなるよ」
ソンさんは一曲しか歌ってないにもかかわらず、借金をチャラにしてくれた。私はライブハウスを後にした。もう歌いたくないな、と思った。
そんなことを思っても金がないので、私はやむなく路上ライブで路銀を稼いでいた。一日中弾いていればそこそこ稼げるものだ。安い牛丼屋で食べ、ネカフェに行ってシャワーを浴びて寝る。私は辛うじて生きていた。
ある日、駅前で弾き語っているとアキちゃんを見た。上品な制服を着て、お嬢様っぽい女の子たちと歩いている。バンドメンバーとは違う子たちだ。あの子学生だったのか、と今更ながら思った。
アキちゃんは私を見て一瞬顔をほころばせたが、すぐに目線を逸らして友達との話を再開した。私はまぁいいや、とライブを続ける。
しばらくして私が帰り支度をしていた時、「マヒロさん!」と声がかかる。
「お久しぶりです!」
制服を着たアキちゃんだった。
「さっき通りがかった時無視しちゃってごめんなさい。あたし、学校の子にバンドやってるって隠してて……」
「いいよ、気にしてない」
「これからご飯行きませんか? マヒロさんが良かったら……」
「いいよ。奢ろうか?」
アキちゃんは一瞬目を見開いたが、ハッと我に返り「い、いえ! 大丈夫です!」と言った。
意気揚々と連れて行かれたのは駅に近いところにあるファミレスだった。仲には学生が多くいたが、アキの制服を見て物珍しそうにちらちら見ている。
「あんまり学校の子たちと来ないんで、ここなら大丈夫なんですよ」
と、アキちゃんは美味しそうにハンバーグを頬張っている。
「おいしい。久しぶりに牛丼以外を食べた」
「え? ……マヒロさん、あの日からどうしてたんですか?」
私の生活ぶりを言うと、アキちゃんは目を据わらせた。
「それ身体壊さないですか?」
「壊すだろうね」
「ダメじゃないですか!」
「そうかな……」
「そうですよ!」
アキちゃんは「もう……」とぷりぷりしながらライスを口に入れる。
「あの、ソンさんが昔むつで弾き語りしてたって言ってたじゃないですか。むつには帰らないんですか?」
「むつが故郷ってわけじゃないよ。横浜町で育った」
「じゃあ、横浜町に帰らないんですか?」
「帰る場所が無いよ」
「親とか……」
「親いないから。施設育ち」
露骨にしまった、という顔をされる。私はなんだか居心地が悪くなった。
「気にしないで。親の顔も知らないから」
「そ、そうなんですネ……」
沈黙。アキちゃんは冷や汗をだらだら流しながらスープを飲んでいる。やっぱり感情がすぐ表に出る子だ。
「施設にいた頃、ずっと海を見てたんだよね」
いたたまれなくなって、私は慣れない自分語りを始めた。
「陸奥湾の傍にあった施設だったから。だから、青森に帰ってきたら、一番に海を見たくなったの」
「だから、あんなところに……」
「きれいだったな、海。鳥肌が立った」
アキちゃんは急に立ち上がった。
「行きましょう、海!」
青森駅の目の前にある海に来る。ちょうど黄昏時で、真っ赤な太陽が水平線に沈もうとしていた。
「……きれいですね」
今初めて知ったみたいな声で、アキちゃんが言った。
「あたし、ここ嫌いなんです」
私はアキちゃんを見る。太陽の色に染まったアキちゃんは、苦々しそうに歯噛んでいた。
「田舎で、あたしが心躍る所が何も無い。早く東京に出たいんです」
「……そうなんだ」
アキちゃんは海の向こうを指さした。
「海が広すぎるんです。ここから出たってどうせ無駄だ、迷うだけだって言われてる気がして嫌なんです」
アキちゃんは私たちを囲う山々を見た。
「あれがあたしの行く手を阻んでるみたいに見えるんです。今に見てろって、思うんです」
アキちゃんは私に向き直った。
「ソンさんが、マヒロさんは東京でメジャーデビューしたって言ってました。どうやってできたんですか?」
私は縋るような視線を感じた。きっとこの子は答えを求めてるんだろう。自分の道が正しいと信じたいんだろう。
「アキちゃんは、音楽で食っていきたいの?」
「もちろんです!」
「どうして?」
「どうしてって……好きなことでお金が稼げるなんて幸せじゃないですか」
「やることは一つに絞るべきだよ。稼ぎたいならもっと安定して稼げる職業がある。音楽ってのは食えないものだよ」
「……甲本ヒロトみたいなこと言うんですね。バンドやった時点で夢は叶ってる、ですか?」
アキちゃんは吐き捨てるように言った。「バレたか」と私は言う。
「私は音楽で食えなかった人間だから。アキちゃんはこうはならない方がいいよ」
「そんなことないです! この前のライブはすごかったし、メジャーデビューだってしてる! マヒロさんは実力があったんです!」
「実力があるのと売れるは違うよ」
「なんなんですか!」
声が海に響いた。
「さっきからマヒロさん、誰かが言ったようなセリフばっか! そんなのいくらでも聞いてきましたよ! それでもあたしはやるんです! 証明してやるんです!」
「何を?」
「自分の力を! あたしには音楽しか無いんです!」
いつしかアキちゃんは泣いていた。歯を食いしばって唸っている。
「……いいんじゃない、それで。成功した人もいるよ」
「なんですか、そんな言い方……っ! 結局マヒロさんも音楽やってるじゃないですか! 青森にまで帰ってきて!」
「そうだね……」
私はギターケースの重さを感じた。まだ私に後悔を嘆く背後霊のようだった。
だから私はそれを海に放り投げた。
「なっ……!」
アキちゃんは思わず手を伸ばす。しかしケースはさらにその先を行き、静かな音を立て沈んでいった。
「もう、音楽はやらないよ」
捨てられた私が、ようやく復讐できた気がした。