子犬な殿下が勝手にざまあ始めちゃったんですけど
「リリシュ=シュローテッド! そなたとは婚約破棄……を、する、かもしれない!!」
断言せんのかい。
思わず心中でツッコミを入れてしまう、名指しされた当人である私は成り上がりの男爵令嬢。
元々は商家だったんだけれど、父が一代で財を築き上げて、爵位をもらうまでに至った。
で、子犬のようにきゃんきゃん吠えているのは、第二王子であるレトリー殿下。
真っ白でさらっとした髪に、青みがかった黒の瞳はまんまるで、十八歳にしてはかわいらしい顔立ち。
幼い頃に縁あって、十四歳の時に第二王子付きの侍女として王宮に上がることになったのだけれど、子犬のように懐かれてしまい、少々特殊な事情もあって婚約に至った。
んだけれど。
それも今目の前で婚約破棄されようとしていた。
身に覚えがない罪を着せられ、卒業式後のダンスパーティの最中にこれから断罪されるところ。
告発者は、レトリーの隣でプルプルと震えて見せる公爵令嬢のヴィクトリア。
演技が下手なので、その震え方が寒いのを我慢してるようにしか見えないんだけど、誰も肩にストールをかけてあげるなんてことはしない。誰も巻き込まれたくないからだ。
あと、どうでもいいことだけど真っ赤な髪をふわふわにカールさせているのがあんまり似合ってない。
たぶんゆるふわ系を目指したんだけろうけれど、彼女のつり目とインパクトの強すぎる赤毛でほぼ印象が決まってしまう。そして中身も印象通り、主張の強い人。
そんなことはみんな知っているのに、プルプル小動物演技をする意味があるのか心底疑問。
まあ、なんでこんなことになっているかは大体わかっている。
彼女は、幼い頃に決められていたレトリーの元婚約者で、私を憎んでいるから。
だけど両家合意の元婚約が解消されたのは、ヴィクトリアの外聞が悪く、王子妃として不適格だとみなされたから。
彼女は幼い頃から気に入らない子に意地悪をしつくしてきた。
公爵はヴィクトリアにほとほと手を焼いて修道院にでも入れようとしたのだけれど、どこからも断られたという異色の経歴を持つ。
その後、私とレトリーとの婚約が決まり、当然ヴィクトリアは激怒した。
そこから怒涛の嫌がらせが始まった。
彼女は心底から慕われることはなくとも、腐っても公爵令嬢だし、私を気に入らない令嬢はたくさんいたから仲間ができたらしい。
そんな取り巻きと底意地の悪いヴィクトリアの総力戦に耐えに耐えて、やっとこの学園も卒業できると思ったら、彼女はレトリー殿下に、自分がしてきた嫌がらせを全て私がしたことと置き換えて告発したのだ。
で、今がここ。
もうこれ以上はヴィクトリアに付き合うのはしんどいなと思っていたので、断罪でも婚約破棄でも、もうどうにでもなれと待ち構えていたのだけれど、レトリー殿下の様子はどこかおかしかった。
さっさと巷で流行中の「婚約破棄をする!」というお決まりのパターンを始めればいいのに。『する、かもしれない』、って何?
どう答えたら、と黙考していると、何も反応を返さない私にレトリーが痺れを切らした。
「こら! なんとか言ったらどうなんだ、リリシュ! 私は婚約破棄をする、かもしれないと言っているんだぞ! このままじゃ婚約破棄されちゃうんだぞ? いいのか!」
いいのか、と言われても。
まだ理由も聞いてないし、男爵家の私が良いも悪いも言える立場にないし。
うーん。
と、顎に手を当て考え込んでいると、「え、これでも無視?」と声がしぼみ、まるで子犬の耳がどんどん垂れていくようだった。
そこへ勝ち誇ったようにヴィクトリアが鼻をならす。
「リリシュ様はレトリー殿下に相応しくありませんわ。成り上がりの男爵令嬢ですし、いつもみすぼらしいお洋服をお召しになって、心根も卑しく、いつも陰鬱な表情で何を考えているかもよくわかりませんし、何より成り上がりの男爵令嬢ですから、殿下には相応しくありませんわ!」
同じこと二回言った。
とりあえず憎しみの程はわかった。
両家の平和的話し合いによってヴィクトリアとレトリーの婚約は解消されたわけだけど、彼女の「絶対解消したくない!」という意思だけは無視されたわけだから、気持ちはわからなくはない。
でも、私に当たられてもなあ。
周囲も、多少ヴィクトリアに同情的な目を向けている。
顔立ちは綺麗なのに、憎しみに歪んでしまっているし、同じ文句を二回言わないといけないくらいちょっと語彙に乏しくて、感情的に突き進んでしまうほど計画性のないお方だから。
でもヴィクトリアが言っていることは客観的事実としてはそれほど間違ってない。
だからレトリー、もういいよ、と思ってるんだけど、そうはいかなかった。
「ヴィクトリア嬢よ、黙れ! 今は私が話しているのだぞ。わきまえよ!」
さっきまで子犬みたいにおろおろしてたのに、ビシリと決めた。
ヴィクトリアがびくりと肩を揺らし一歩下がるのを見ると、レトリーは周囲を見回し、空気を改めた。
「卒業式を終えた祝いの場である今宵この時をかりるのは、この国の将来をも左右することだからだ。私の隣に立つのに相応しい人は誰なのか、皆にも見届け、証人となってもらいたい」
その言葉に、黙れと言われたばかりのヴィクトリアが「キタ!」とばかりに再びレトリーの隣に並び立った。
「そうですわ! 全部殿下にお話ししましたのよ。リリシュ様がわたくしにしたことを!」
「ああ、全て聞いた。リリシュとヴィクトリア嬢との間にあったことを、全て! 汚らしく汚らわしい、人として生きていくのが恥ずかしいくらいの所業をな!」
辺りがシーンとなる。
誰も声を発する者はいない。
ただヴィクトリアだけが勝ち誇ったように斜め下に私を見下ろしていた。見下げすぎてほとんど半目になってるけど見えてるのかな、あれ。
「では一つずつつまびらかにしていこう。まず一つ目。ヴィクトリア嬢の教科書を束ねる紐の代わりにヘビを巻いたそうだな!」
うげぇ、とみんなの顔が一斉に歪む。
私は実際の映像を見ているからより強烈だ。
ああ、思い出したらまた――うげぇ……。
「リリシュは幼い頃よりヘビが嫌いだ。今話題に出ただけでも、かわいい顔をあれほど歪めているくらいに。いやそれでもかわいいんだがな! そんなリリシュが嫌がらせにヘビを用いることは決してないと断言する。これはヴィクトリア嬢、そなたがしたことであるな?」
婚約破棄しかけてる私を二回くらいさりげなく「かわいい」と言ったことが気になるんだけど、レトリーはツンデレをはき違えてるのかな。
「な……、何をおっしゃるんですの、殿下! 何故わたくしがわたくしの教科書にヘビを巻かなければなりませんの」
「そしてそれをリリシュのせいにした。そうだな!」
全然ヴィクトリアの話を聞いていない。
「そして二つ目」
ほったらかしたまま、さらっと次へ行く。
「ヴィクトリア嬢の靴が紛失したと聞いた。ヴィクトリア嬢は、それを盗まれたと」
ヴィクトリアはレトリーの話の先を奪うようにかぶりぎみに「そうですわ!」と高らかな声を上げた。
「わたくしのお気に入りの靴でしたのよ。リリシュ様、早く返してくださいな! どうせ貧しいあなたが今度のパーティにでも履こうとしているのでしょうけれども、見苦しい真似はおやめなさい! さすがに今日それを履いて来るような恥知らずではなかったことは安堵いたしましたけれども」
ヴィクトリアは私を見下ろすためにものすごいのけぞっていたので、私からは紙一枚分くらいしか目が開いているようには見えない。ほとんど白目だな。
「だが健気にも幼い頃より父の手伝いに駆け回っていたリリシュの鍛え抜かれた健脚は、ヴィクトリア嬢の貧弱な足に合わせて作られた子供靴のような小さなものは履けぬ」
「まああ野蛮ですものねええ。そうですわよね華奢なわたくしの靴など履けませんわよねええ! きっと、売ってお金に換えようとなさったのね!」
「そういった店に聞き込みをしたところ、件の靴と特徴が一致する靴を引き取ってほしいと持ち掛けた者があったとの証言があった」
「ほら、やっぱり!」
鬼の首を取ったように、ヴィクトリアは笑って睨めつけた。
「持ち込んだのは年若いフットマンだったそうだ。シュローテッド家にはフットマンをおいていない」
「あ」
元々一人で何でもやっていた父には不要だし、見栄のためにお金をかけたりはしない主義なので。
すみません、ヴィクトリア嬢。
「足と汗の匂いで異臭を放っていたそうなのだが、無理矢理押し付けられ迷惑をこうむったとのことで、店主がそのフットマンのことをよく覚えていた。このあたりでは珍しい南部訛りだったそうで、ヴィクトリア嬢が重用しかわいがっているフットマンと外見的特徴も一致した。よって、ヴィクトリア嬢の自作自演だったことがわかった。そして三つ目」
ヴィクトリアの顔が一気に青ざめ、それからぐあっと真っ赤になるのが見えた。
「ちょ、ちょま、ちょっとお待ちになってください! わたくしは決してそんなフットマンごときと懇ろな仲になってなど」
ヴィクトリアの弁解は例のごとく黙殺され、レトリーはさくさく進む。
「先日、ヴィクトリア嬢を貶める内容の怪文書がばら撒かれたとのことだが、流麗なさも貴族令嬢らしい字だった。それも私が幼い頃に文通していた時から見ているリリシュの実用に重きを置いた読み誤りにくい簡潔で正確な字とは似ても似つかない。よってこれも――」
「違いますわ! さすがにそれはわたくしの指示ではありません! 完全な濡れ衣ですわ」
まあ、確かにそうだろう。
私も友人に押し付けられて読んでみたけれど、ものすごくリアルに詳細にヴィクトリアのこれまでの所業がつづられていて、あれをばら撒かれて困るのはヴィクトリア自身に他ならないから。
たぶん単純に関係者による告発文だろうなあ。
「と、今ヴィクトリア嬢が述べたように、一つ目と二つ目はヴィクトリア嬢の指示によるものとのことだ」
「あ」
本当かわいそう。
もう少し普段から頭を使っていれば、こんな醜態はさらさずに済んだだろうに。
っていうか、いつの間にか『ざまあ』されてるのって、私じゃなくてヴィクトリアじゃん。
じゃあさっきの婚約破棄未遂発言は何だったのかと聞きたい。
レトリーは、ばっ! と腕を広げ耳目を集める。
「今日この場にて卑劣なる者の悪行を知らしめ、断罪し、追放すべきだと私に進言したのは他ならぬヴィクトリア嬢だ。私もみなの時間を奪ってしまうこと、めでたい場を汚してしまうことを憂慮し拒んでいたのだが、ここで悪の芽を摘まなければ今後の国の将来にも関わると言われ、腹を決めたのだ」
すごい。完全なるブーメランだったわね、ヴィクトリア。
「このようなわけで、今宵この場限りでヴィクトリア嬢と我が王家は縁を絶つことを決めた。勿論公爵家とは今後も変わらず国のために共に協力していくことは変わらない。国王と公爵も全て了承済みだ」
それはまた思い切った手を取ったものだ。
いつも子犬みたいにきゃんきゃんと私にまとわりついていたレトリーがそこまでしたとは。
ヴィクトリアにしつこく言い寄られて、よほど腹に据えかねたのだろうなあ。
ていうことで結論が出たけど、やっぱり私への断罪じゃなくてヴィクトリアへの断罪だったわね。
本当に何で冒頭で私と婚約破棄するって言ったんだろう。
私が一人首を傾げていると、「殿下あぁぁ! 違うんです、嵌められたんです、全部リリシュが悪くて私はただ殿下に振り向いていただきたくて」と足に縋りついていたヴィクトリアを払いのけたレトリーが、つかつかとこちらにやってきた。
「リリシュ。何故ここまで来ても何も言わない?」
いえ、そんな隙がなかったんですって。
「私たちは婚約者だ。それなのにリリシュは、私を頼ろうとはしない。あの者からあくどい仕打ちを受けていても、泣き言一つ言ってくれない。それで本当に婚約者と言えるのだろうか。――私はそれほど頼りないだろうか」
先程まで凛々しく断罪していた男と同一人物とは思えないほど、眉を下げ、子犬のように私を見つめてくる。
私はため息を一つ吐き、やっと一言「いいえ」と返した。
「ヴィクトリア様が仰っていたように、私は男爵家の娘です。そのことでただでさえ殿下の手を煩わせてしまっているのに、これ以上私のせいでご心労を増やしたくはなかったのです。今後も同様なことが起きる度に殿下を煩わせてしまうのであれば、殿下が仰る通りに従うべきと考えたのです」
私がしおらしくそう言うと、レトリーは細く長い息を「ふうぅーーっ」と吐ききった後にがばりと顔を上げて言った。
「そうだろうな! リリシュならそう言う気はしていた! 『嫌です』とは言わないと思っていた! だから『かも』にしておいたのだ、ふー危なかったー、婚約破棄されるところだった」
いや完全に立場逆なんですけど。
自分で言い出しておいて、命拾いしたみたいに言わないでほしい。
「では何故あのようなことを?」
「ダドリーが、押して駄目なら引いてみろって言うから! 巷で婚約破棄小説というものが流行っていると聞いたところ、ちょうど処理しなければならぬ案件があったからな。それに乗っかった。劇的なロマンス効果により、リリシュが『婚約破棄なんていや!』『レトリー大好き! 愛してる!』って言ってくれるかと思って」
殿下、それは逆効果というものですよ。側近のダドリーに罪はありません。
実情をよく知りもしないで、しかも私の性格も考えずに取り入れようとするからそうなるのです。
私が公衆の面前でそんなこと言うわけないことは百も承知じゃないですか。
「最近の流行りは『婚約破棄』と言われたら嬉々として承諾して新しい人生を始めるものなのですよ。そうしてほしいのかと思いました」
ため息を堪えて返せば、レトリーは眉を寄せて心底理解できないという顔をした。
「えー? 何それ、歪んでない? 私は王道のロマンス物が読みたい。だからそんなのは嫌だ、婚約破棄するかもしれないなど嘘だ、嘘! 絶対にそんなことはない、ありえない! リリシュが泣いて嫌がっても朝から晩まで説得する覚悟はある」
重いな。
「私との婚約は殿下にとってデメリットしかありませんよ。これまでもたくさんいらぬ苦労をされてきたじゃないですか」
婚約まで漕ぎつけるのも大変だったはずだ。
私がそう言えば、レトリーは雨に濡れた子犬のように、ぷるぷると激しく首を振った。
「だって好きなんだもん! リリシュがいいんだもん! 他の女なんて考えられない。髪の毛一筋すら触れたくもない」
私に愛を垂れるレトリーの背後では、ヴィクトリアがほとんど白目を剥いていた。
なんか、いつまでも『ざまあ』が終わらないな。
レトリーはさらにずずいと私に詰め寄ってきた。
「リリシュとのことにおいて、煩わしいことなど何もない。邪魔な者は私が排除する。今のようにこの世にただ一人愛するリリシュを守るためなら、王にも神にも犬にもなろう」
あ、神はさすがに嫌かな。
できれば王も面倒だからなってほしくない。第二王子だし。
犬は間に合ってる。
私は迫りくるレトリーをどうにか落ち着けようと冷静に言葉を返した。
「殿下は私が幼い頃お助けしたことに報いようとしてくださっているのだと思いますが、そのようなことはもう忘れていただいてかまわないんですよ。たまたま私がそこに通りかかっただけで、他の方でも同じようにしたと思いますから」
幼い頃、迷子になっていた子犬を保護したことがある。
雨に濡れてぶるぶると震えていたから、胸に抱えて帰って風呂に入れ、タオルで体を拭いてやり、一緒の布団で寝た。
両親にも許可をもらって、新しい家族に迎えるつもりだった。
「誰も助けてくれなかったからこそ、リリシュの優しさが身に染みたのは確かだが、恩返しをしたいわけじゃないんだ」
だけど、その子犬は家族の元へと帰っていった。私の家で一緒に暮らすことはできなかった。
「目の前に消えそうな命があったからしたまでのことです。優しさなんて大層なものではありません。みなが当たり前に持っているものですよ」
二年後に再会したときは、もう子犬ではなかった。
「そうではないことはさっきのアレを見ればわかるだろう? 強い者に縋り、弱き者を踏みつぶし、その上に立ち生きていく者もいるのだ。そんな者を王子妃とすれば、王宮内で諍いが起きるのは必至。第二王子として兄を支えていく覚悟の私の邪魔にしかならない」
アレが何を指すかはわかっているけど、我を失ってへたり込んでいるソレを殿下は振り返りもしない。
「だが過去のことだけでリリシュを好きだと言っているわけじゃない。信頼できる者をとそなたを侍女に望み、それからずっと近くにいた。媚びることもなく、平静のまま私の欠点を指摘し、正し、そして時折笑ったときのその笑顔の愛らしさ。そんなものを毎日見ていたら好きになるに決まっている」
「殿下。それは単なる本能では?」
拾った子犬が飼い主に懐くのと同じように。
ずっとそうなんじゃないかと思っていた。いつか聞かなければと思っていた。
だって殿下は――。
物思いから醒めて見上げれば、レトリーはショックを受けたように立ち尽くしていた。
しまった。
こんなところで話すべきことではなかった。
何とフォローすればいいのかわからずにいるうちに、レトリーの目はみるみるうちに潤みだした。
「あの、殿下、落ち着いてくださいね? こんなところで涙を流しては――」
「わかっている! わかっているが、リリシュが冷たいし、わたしの愛を疑ったりするし、それにいくら私がこんなだからって、本能で懐いているだけだなんて――」
今にも涙が零れそうに盛り上がっていた。
まずい。
どうにか止めようと手を伸ばした先でレトリーの目から、涙がもりっと盛り上がり、零れ落ちた。
その瞬間、私の手の先にいたレトリーの体がぼひゅんっ、と白い霧に包まれる。
「キャッ」
「何事だ?」
「レトリー殿下!」
周囲がざわめく中、ふぁさりと服の落ちる音と共に霧が晴れ、子犬が現れた。
いや、子犬じゃない。小型犬。もふもふの真っ白なマルチーズだ。
「わふ。わふわふん」
あーあ。やってしまった。
「レトリー! あぁぁ、もう、泣いちゃダメって言ってるでしょ!? 泣いたらわんちゃんになっちゃうんだから、堪えなきゃダメだって!」
「わふ! わふわふ!」
周囲は呆然としていた。
うん。そりゃそうだよね。
この国の王家は、代々涙が出ると犬になる。
これはいつかの代の国王が、『王たるもの、人前で涙を見せてはならん! 泣くくらいであれば犬畜生に成り代わった方がましじゃ!』と言って、こうなったらしい。
魔法だと聞いたけど、末裔たちにとってみたらほとんど呪いに近いと思う。
当然泣くなって言ったって赤ちゃんの時に泣くのは当たり前で、生まれてすぐに犬に姿を変えちゃうもんだから、秘密にしたくてもできず、国民も知る公然の事実となっている。
けど、実際に見たことがある人が少ないから、伝説とか昔話みたいになっているところもあったし、頭でわかっているのと目の前で見せられるのは別。
ヴィクトリアだけでなく、その場にいた人みんなが呆然としてしまったので、私は素早くレトリーと服を胸に抱くと、ぺこりと淑女の礼をした。
「それではみなさま、お時間をいただいてしまい申し訳ありませんでした。私とレトリー殿下の婚約については今後十分に話し合いますので、みなさまどうかこの後はお気兼ねなくパーティを楽しまれますよう」
そうして、逃げるようにさささっと退出すると、我が家の馬車に飛び乗った。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
「もう、泣くことないじゃないですか、殿下」
「わっふ!」
私の胸で応えたのは真っ白もふもふマルチーズ。
幼い頃に私が拾った子犬。が、成長した姿。あんまり変わってないけど。
当時の私はそれが王子だなんて知らなくて、ただ震えているのがかわいそうで連れて帰った。
でも起きたら自分と同じくらいの年の男の子になっていて、心底びっくりしたのを覚えている。
それから家族に事情を話して、レトリーは城から迎えが来て帰っていった。
「わふー、わふわふー」
前はきゃんきゃん鳴いていたんだけど、私に子犬扱いされることが耐えられないらしく、大型犬を気取って鳴いている。犬は犬だけど。
でもそんな内面は人であるときと変わらない。いつも子犬のように私にまとわりついてくるけど、人前ではなんとか凛々しい王子であろうと努力しているのを知っている。さっきみたいに、すぐにボロが出ちゃうけど。
「わふ! わふわふ!」
まん丸の目が涙に潤んでより一層えげつないほどにかわいらしい。
胸がきゅうぅぅんとなる。
ああ、たまらない。
「あああぁぁかわいい、大好きだよレトリー!」
もふもふマルチーズのレトリーに頬ずりすれば、私の頬は幸せ満面。
さっきからずっとこうしたくて堪らなかったのだ。
ああ、癒される。
さすが毎日産毛まで磨き上げられているだけのことはある。
「わふー! わふわふ、わふー!」
勿論何を言ってるのかはさっぱりわからない。
だって犬だから。
でもたぶん、「それを犬じゃないときに言ってくれ!」と思ってるんだろうな、とはあたりがつく。
人間レトリーに対して素直に言えないから、今言うんじゃないか。乙女心をちっともわかっていない。
さっきの話も途中だったし、真面目に話をしようとしたのだけれど、マルチーズじゃ喋れないし、私も真っ白もふもふレトリーを見てしまうと真面目に喋れないから、元に戻ってからにしよう。
「今日はひとまず我が家に帰りますからね。さっきお城にも連絡を頼んでおきました」
この姿で王城にいると国王に怒られるから、レトリーは城に帰れないのだ。
戻る時間は日によってまばらだけど、大体半日くらいかかる。
「わふぅん」
わかった、というように一声鳴くと、レトリーは大人しく私の腕に収まった。
・・・◆・・・◇・・・◆・・・
鳥の鳴き声と、頬を撫でる朝の風。
ふっと目を覚ませば、そこにはゆったりとした笑みを浮かべたレトリーの顔があった。
いつの間にか人の姿に戻っている。
「おはよう」
頬を撫でたのは風じゃなくてレトリーの笑った吐息だったらしい。
「殿下。セクハラですよ」
「何故だ。婚約者じゃないか」
「その通り。まだ結婚してません」
人の姿に戻ったまま、レトリーは一糸纏わぬ姿だった。布団から覗く素肌がなまめかしく、未婚の私には刺激が強すぎる。
「思い合ってるじゃないか!」
「結婚前に通じ合っていいのは心だけです」
「だから、何もしてないじゃないか。ただ寝顔を見ていただけだ。それくらい法に触れんだろう」
むう、と不満げに言うので、仕方なくそれ以上文句を言うのは諦める。
寝起きの息がものすごく臭くて恥ずかしいから、寝起きで顔を近づけるのはやめてとは言えないのが私の乙女心。
これが通じたら通じたで恥ずかしいので、どうしてもつっけんどんにしか返せない。
ちなみに殿下の息は寝起きでもクサくない。王子効果か、さっきまで犬だったからかはわからないけど。いや、犬だったのは関係ないか……。
「起きてたなら、服を着てください。ちゃんと持って来てありますから」
「リリシュを起こしてしまわぬようにとの優しさだ。だが、本音を言えばこんな無防備な寝顔など久しく拝んでいないのだから少しくらい堪能してもいいだろうとちょっと欲を出すうち動けなくなった。リリシュは寝返りもせず、寝言も言わぬ。生きているのかと思わず呼吸を確かめてしまった。寝息すらかわいかったぞ」
だからそれが一番嫌なんだって……。
――クサかったですか?
とは聞けない。
ぐうう……。
微妙に目が合わせられず逸らせば、レトリーは私の頬を捕まえた。
「まだ朝の挨拶を返してもらっていない」
「おはようございます、殿下」
「レトリーと呼べと言ってるだろう」
「人の目があるときにうっかり名前呼びしてるのが見咎められると面倒なので嫌です。結婚したら呼びます」
最初は不満げにしていたのに、結婚というワードが聞こえると「そうか?」と途端に喜色に変えた。
ちょろすぎる。
「殿下。昨日、わざとあの場で泣きましたね?」
昨夜家に帰ってきて、あのような騒ぎを起こしてしまって今後どうしよう、と考えて気が付いた。
案の定レトリーは、「うん」と悪びれずに答えた。
「みんなに現実を見てもらうには手っ取り早いだろう? もうリリシュが相応しくないなんて言う奴はきっといなくなるよ」
地位という旨味に目がくらんで見ないふりをしていた人たちも、思い知らされたことだろう。
普通は犬に変わってしまう夫なんて嫌だ。
親にしてみても、かわいい孫がそうなると考えれば嫌だろう。
そもそも私とレトリーの婚約を国王が認めた事情もそれと同じ。
これまでも地位のために結婚したものの、やはり夫や子が犬に変わってしまう現実が受け入れられず悲劇が起きる例が数多くあった。
だから犬に変わってしまうレトリーを受け入れられること、これが何よりも大事な条件だったのだ。
突発的に始まったかに見えた断罪劇は、レトリーが整えた舞台だったのだ。
「私に対する婚約破棄断罪未遂についても、私も一応は傷ついてるんですよ」
「え? 本当に? リリシュが?」
わくわくと嬉しそうに見る。全然反省してないな。
思わずむくれる。
「人の気持ちを弄ばないでください」
「だって、それはリリシュがいつまでも好きだって言ってくれないからだろう?」
それが簡単に言えてたらこんな捻くれた人間はやっていない。
むう、と口を閉じれば、隙あり、とレトリーがちゅっと音を立ててキスをした。
「殿下。相手の同意なく触れるのは犯罪です」
今最高に口がクサいところなんですから。小説の世界ではロマンがありますが、現実はこんなものなんですよ。
「だからなんで婚約者に犯罪とか言うんだよお~。キスくらいいいじゃないか! かわいい寝顔を襲わなかったことを褒めてほしいくらいなのに」
「もっと犯罪です、殿下」
「だったら結婚しよう」
そうしたらもう犯罪じゃないよね?
そう言ってレトリーはにこりと笑った。子犬のように。
「でも、私たちはまだ学生で――」
戸惑う私の口を、レトリーの人差し指が塞ぐ。
「昨日卒業しただろう」
そう言えばそうだった。
でも本当にいいんだろうか、私で。
婚約はレトリーとうちの父によってぐいぐいおし進められてしまったけど、私の迷いは断ち切れていない。
「だって、そうでもしないと信じないだろう? 私がリリシュをどれだけ好きか。昨日だって、私の愛を疑うようなことを言うなんて、あとどれだけ愛を囁けばわかってくれるの?」
だって、最初に会ったのが犬のレトリーだったから。普段も子犬みたいな懐き方だし……。
一度家族と見做したから懐いてるだけなんじゃないかって、思ってしまう。
「家族愛じゃないんだってわからせるには、実力行使しかないのかな」
そう言ってレトリーはかわいらしい顔を妖しく笑ませた。
え……、と固まる。
レトリーのこんな顔は初めて見た。
枕に頬杖をついていたレトリーは、そっと私の頬に手を伸ばした。
そう言えば同じ布団で寝ていたのだということを思い出す。
布団からレトリーの素肌がのぞき、私は思わずぱっと顔を逸らそうとした。その頬を追いかけて素早く捕らえる。
「レ……レトリー、待って」
「リリシュと家族になりたいのは確かだよ。だけど家族ならなんでもいいわけじゃない。こうして自由に触れて、自由にキスをする権利がほしい。なんでも頼ってもらえて、互いに支え合って、隣に並んで一緒に生きていける、そんな関係になりたいんだ」
いつまでも拾ってもらった子犬じゃないよ。
そう言ってレトリーは青みがかった黒い瞳で私の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「ねえ、リリシュ。好きだよ。商家の子でも男爵令嬢になっても変わらずひたむきに頑張っているところも、いつでも自分を見失わずにいる強さも、婚約破棄を言い渡されてショックでずっと何も言えずにいた、そんなかわいらしいところも、それを隠しちゃう素直じゃないところも」
全部、わかっていたのか。
「もしも本当にあのまま婚約破棄を言い渡していたら、平気そうに『わかりました』って請け負って、一人家に帰って泣いてたんだろう? そんなことがわかっていて、本当に私がそんなことをするわけがないだろう。嘘でもリリシュを泣かせることはしたくない。もっと信じてほしかったな」
あれは、しつこく私に意地悪を仕掛けてきていたヴィクトリアをこれ以上のさばらせないための一世一代の芝居だったことは、今はもう私にもわかっている。
それと、私が素直に助けを求めなかったから、ちょっと意地悪をしたんだってこともわかってる。今は、ね。
でもあの時すぐにはレトリーの意図がわからなくて、私が傷ついて何も言えなくなったのは本当だ。
雄弁だったのは心の中だけ。ショックを紛らわせるために心の中で喋り続けたのだ。
「……ズルイ」
「何が?」
レトリーは怪しく笑って、私の赤くなった頬を優しく撫でた。
そういう、わかってて訊き返すところがズルイって言ってるのよ。とは言わない。レトリーの思うツボだから。
いつのまにかレトリーは、ただの子犬じゃなくて大人の男になっていた。
恥ずかしさに耐え切れなくなり迫る体を押し戻そうとレトリーの素肌に触れ、逆にさらなる羞恥に襲われる。
つい、昔の癖で同じ布団で寝てしまったことを後悔する。
さらりとした素肌に触れてしまい、慌てて手を離したら逆にその手を掴まれた。
「今更自分が迂闊だったことに気が付いたの? リリシュは時々抜けてるよね。そこがかわいいんだけど」
レトリーのかわいらしいはずの顔が、もう大人の男にしか見えなくて困る。
逃げたい一心でなんとか頬を捕らえるレトリーの手から逃れ、顔を横向けると、そのまま顔を近づけたレトリーに耳を、はむっと甘噛みされた。
どこで覚えてきたそんなこと!!
こら!! そんな子に育てた覚えはありませんよ!
思わず現実逃避してしまう私を、レトリーは逃がさなかった。
「ねえ。リリシュと毎日こんな朝を迎えたいな。ずっと我慢してきたんだよ。まだ我慢しないとダメ? もっとわからせないと、信じてもらえない?」
迫りくるレトリーの顔に耐え切れず、思わず私は叫んだ。
「ううん、じゅうぶん! もう十分だから!」
「本当に? ちゃんと、人として好き? リリシュは、家族じゃなくて恋人としてちゃんと好きだと思ってくれてる?」
「好き! 犬だからじゃなくて、かわいいからじゃなくて、家族じゃなくて、もうずっと前からレトリーが好きだよ。好きだから言えなかっただけ!」
やっと言えたことに、自分でも何故かほっとした。
黙って聞いていたレトリーは、にこっと笑った。
いつもの子犬のような笑顔にほっとして私が力を緩めると、私の手を掴んだままだったレトリーはそのまま私を組み敷いた。
「! レト……!!」
名を呼びかけた私の口は、レトリーの柔らかな唇に塞がれた。
「! ……!!」
抵抗を試みた腕は、ベッドに縫い付けられてぴくりとも動かない。
だから仕方ないと、私は大人しくレトリーを受け入れた。
そのことがわかるとレトリーは私に覆い被さるようにして、好きなだけ貪った。
私が完全に脱力しきった頃、堪能しきったレトリーは満足そうに顔を離し、言った。
「好きだよ、リリシュ。だから結婚しようね。明日」
「へ?! 明日!?」
ぜいぜいと切れた息で問い返せば、にこりとした笑みが返ってきた。
「だって好きって言ってくれるのを待ってただけだから。大丈夫、結婚式やお披露目会は日を改めるし」
確かに言ったけど……。用意周到すぎる。
けれどにこにこと嬉しそうに笑うレトリーに、私は何も言えなくなってしまった。
「もう……。わかったわ」
どうせレトリーからは逃れられない。そう思ったから。
それに、昨日のことで思い知った。レトリーを失うのを誰より恐れているのは、私自身だから。
私の答えに、レトリーがくしゃりと笑った。子犬のようでもなく、妖しい笑みでもなく、心から嬉しそうに。
それを見て、私も自然と笑みが浮かんだ。
それが失敗だった。
「あ。リリシュが笑った」
レトリーは私よりももっと嬉しそうに笑い、それからもっと激しいキス攻めにあうこととなった。
まあ、もういいか。
「明日が楽しみだね」
そう言ってレトリーは、子犬のようにぺろりと唇を舐め上げた。