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第45話 邂逅

 未明。死んだように静止していた肉体が覚醒した。


 少年はあらん限りの勢いでベッドから飛び起き、床に伏せる。

 無用の心配だった。なぜなら肉体が危機に晒されていたなら、少年は仮想世界にダイブしているうちに意識が断絶している。しかしながら、理屈を理解していても、少年は本能的に周囲を警戒せずにはいられなかった。


 真っ暗な室内は、ひっそりと静まり返っている。カーテンに手をかけるが、すぐにかぶりを振って手を放す。そして携帯端末の薄明かりで身辺を照らしながら、ジャージに着替えて玄関扉に手をかける。


 こそこそと家を出る様は、さながら空き巣のようだった。とても家主とは思えぬ不審な挙動だったが、実際彼はこのアパートの契約者ではない。


 戸籍を持たぬ彼のため、組織ヘルヘイムは裏社会のネットワークを通じて調達した名義を貸し与えた。無論彼への手助けなどではなく、必要が生じた場合に組織がいつでも彼を消せるよう、情報を紐付けするために。

 しかも事態はさらに混沌としている。なぜならアパートを借りている名義人は、実際には組織が貸与したそれですらない。


 彼の上官が他の誰かだったならば、肉体は既に始末されていたことだろう。

 だが元より組織を信頼していない彼女は、自身の私物として扱うドゥン達の情報にも細工を施していた。

 ベトゥは組織が貸し出した物件を別の用途で使用し、彼には別ルートで契約した物件をあてがったのである。

 つまるところ、名義は組織が知らない全くの第三者のものとなっている。


 彼女の判断が功を奏し、彼は差し当たりの逃亡時間を稼ぐことに成功していた。

 もっとも少年とて、その時間を無為なその場凌ぎに使うつもりはない。


 差し当たりの目的地――自宅から程近い、長い路地を目指して歩き出す。

 少年はそこでまず自動車を調達し、現在地から約十五キロ離れた第二十一区沿岸部の工場を目指すこととなる。工場の地下には、彼等の目的物――ベトゥの新しい肉体が眠っている。


『新しい〝肉〟に、私をダウンロードしてください』


 少年に託された特殊任務は、彼の想像を超越していた。


 人間の脳のデジタル化、及びそれに伴うアップロードにダウンロード。

 理論は五年前の時点で提唱されており、三十年以内に技術自体は完成し得ると目されていた。とはいえ、今日の時点でそれが成功したなどという公式発表はない。それ以前の問題として、倫理的制約から研究自体が厳重な法規制と行政管理を受けていた。


 もっとも、生体工学という分野は、往々にして実際の最先端と社会の認識が著しく乖離する。倫理的に多くの懸念が想定される手前、情報公開が厳重に制限されるためだ。共和国を蝕むAI―EHJ契約に係る多くの技術も、かつてはそうだった。世間では認知されておらずとも、技術そのものは人知れず完成に至っている可能性があった。


 何よりも、彼等の上官はベトゥリューガーという女だった。

 卓越した技術、ユグドラシル社とヘルヘイム双方に目を光らせる情報網、幾重にも保険をかけて危機を回避する処世術、そして生物としての絶対的強さを本能に感じさせるカリスマ。彼女ならば、世間一般基準での不可能の一つや二つ、踏み越えても不思議ではなかった。


 少年が道幅の狭い通りを歩いていると、背後から一台のセダンが迫る。

 夜間の自動車は無人走行車が九割以上を占める現代だが、運転席には人影があった。うだつの上がらなそうな、短髪の青年だった。

 どこにでもいそうな凡庸さだが、少年は彼の姿に確かな見覚えがあった。


 青年は車を停車させ、窓越しに親指で後部座席をクイと指す。少年は車両の背後から回り込んで青年の斜め後ろの席に乗り込んだ。


 スモークで外からは見えなかったが、社内には青年の他に二人、助手席と青年の真後ろに一人ずつ座っていた。現実世界であるのにオークと呼びたくなるような姿をした巨漢の男と、あまりにもこの場には相応しくない女子児童だった。


「まさか、こんな幼い子供だったとはね」


 車を発進させながら、青年が語りかけた。穏やかな表情だが、どこか卑屈さが覗いている。やはり、少年にとって面識のある人物に違いなかった。

 言葉は明らかに少年へ向けたものだったが、少年の隣に座る少女は彼以上にムッと唇を引き攣らせていた。


「声と見かけで判断するな。そういうアンタは、本当にまんまの姿なんだな、ケイン」


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