第32話 混乱
「はぁ⁉ 今度はさくりんが誘拐だぁ? いや、待って待ってホントごめんマジ意味が分かんないから。いやガチで」
佐久理を担当している板橋Pは、突如舞い込んできた緊急速報に膝から頽れた。
愛坂プロ一号館第一会議室。事務所総出の大規模な打ち合わせで使用される大部屋である。
滅多に使用されない開かずの間だが、今はあらゆる関係者を可能な限りかき集めての緊急会議が執り行われていているところだった。
そしてそれは、佐久理の誘拐という前代未聞の重大事件以外にも、喫緊の議題が既に一つ存在することを意味していた。
天井穂月の支持率五十パーセント超過、及び女神候補者としての強制選出。
ほんの数刻前に判明したその異常事態への対策討議こそが、この会合の主題だった。
彼等は既に、穂月の処遇に頭を抱えていた。その上側頭部から殴りつけるように彼等を襲った追撃が、佐久理の誘拐という穂月の候補者選出以上に不穏な知らせだった。
室内は慌ただしい喧騒に包まれている。彼女達への心配を皆が口にするが、事ここに及んではそれ以上の懸念すらも生じつつあった。
異常事態が立て続けに発生したという事実。それ自体への得体の知れぬ恐怖を、この場に集う者の多くがそれとなく感じていた。
「皆さん静粛に」
愛坂愛理威取締役――愛坂プロにおける実質的トップが、騒々しい室内を一喝する。白髪頭に深々と皺の刻まれた、壮年の女性だった。他のスタッフとは一線を画す確かな貫禄に、Pやアイドル達が一様に沈黙した。
やがて一人の少女がすっと立ち上がると、皆の視線が彼女に集まった。
「皆さん、私のことはこの際お気になさらないでください。最悪の場合でも、別のスレッドに移るだけですから。それよりも、さくりんの方がよほど深刻な状況です。取締役、誘拐とは一体どういうことですか?」
天井穂月――片方の騒動における中心人物にして、期せずして女神の候補者となってしまいスレッド追放の危機に瀕している大人気アイドル――が、張り詰めた表情で取締役をじっと見つめる。
「ああ、まずはコレを見てもらおう」
取締役はそう言うと、手元の用紙の上に携帯端末を翳した。一秒足らずで取締役の端末と映写器は同期され、スクリーンに映像が投影される。
「見てのとおりだ。愛坂プロに対して、犯行声明文が送りつけられた。要点は主に三つ。一つ、我々が要求に応じることで、佐久理の身柄の解放を約束する。二つ、応じなかった場合は佐久理の監禁を続行し、暴力を加える。そして三つ、要求の内容は、『明日正午、ブロード館にて愛坂プロが総力を挙げて最高のライブを披露すること』だ」
「最高のライブだぁ? 一体何すかそのよく分からない要求は」
堪らず声を上げる板橋Pの叫びは、スタッフ一同の代弁でもあった。皆が顔を見合わせては頷いている。
「真意は私も測りかねます。ですが、犯人もまたPLISMの住民であり、愛坂プロのファンであることには変わりないはずです。表現の手段はあまりに卑劣で稚拙ですが、彼もまたアイドルに懸ける思い自体には偽りがない。そう考えるのが自然な解釈ではないでしょうか?」
田中Pの提言に再び室内がざわめくが、否定する者は現れない。彼の主張もまた一理ある、そう皆が認めているらしかった。
「それじゃあ何か? さくりんを誘拐した犯人は、一応はウチの熱狂的なファンで、ピンチケだの干されだのなんて生ぬるい括りを遥かに超越したハイパーモンスターオタで、本人的には本当にただ神現場に立ち会いたいだけだと?」
「少なくとも、金品などが誘拐の目的ではないことは確かです」
「それはそうかもしれんけども。大体、このPRISMで誘拐なんてどうやんだよ。だってだぜ? ホレ」
板橋Pが田中Pの頭頂部へボールペンの先端を叩き付ける。しかしペンは前髪を掠めるにとどめ、頭皮に到達することなく弾き返された。
「たかがペンで小突こうとしただけで、これだよ? PLISMでは誘拐はおろかちょっとした暴力すらNGなんだ。凶器を突き付けて誘拐なんてとても」
「どうやって誘拐したかは分かりません。でも、私やみんながさっきから何回も通話しようとしてるのに、さくりんとは連絡が取れなくなってます」
「少なくとも今朝の時点じゃ通話はできてたはずだよ? なんか物凄い体調悪いから今日の握手休みたいって通話あったから、お大事につって切ったし」
状況を整理すべく話し合っていると、端末で通話していた取締役が田中Pらのもとへ歩み寄ってきた。
「たった今捜索隊から連絡があった。緊急時マニュアルに従って開錠のうえ、佐久理の自宅を捜索したが、やはり本人はいなかったそうだ。見たところ、手がかりになりそうな情報も残されていないらしい」
「ったくよぉ。さくりんさぁ、一体どこ行っちゃったってんだよ。今朝はただの体調不良つってたじゃん……。なぁさくりん、あれなんだろ? 色々辛いことがあって、ちょっと疲れちゃって家出してるとかなんだろ? 昨日オイラがほっちゃんとの話し合いけしかけて、そんで逆に話が余計に拗れちまって。分かったよオイラが悪かったからさ……」
両の拳を握りしめて涙ぐむ男は、女を嗜好品のように語る軽薄な軟派男とは別人だった。
胸に去来する感情は、愛か親愛か?
自らが担当するアイドルに対するモノか、自らが愛する女に対するモノか?
傍目には分からないことも多い。だが何にせよ、彼が佐久理の身を心より案じ、痛切に無事を懇願していることだけは確かだった。
取締役は彼の姿を見て唇を噛み締めながらも、咳ばらいをし、
「それと、あまり気持ちが良いモノではないので憚られるが、正確な情報共有のために、一応これも見てもらおう」
再びスクリーンに映像を投影する。映し出されたのは一枚の写真――猿轡を嵌められ両手両足を拘束された一ツ木佐久理その人だった。
幸いにも見たところ外傷はないが、顔や全身から見て彼女であることは間違いない。背景は当然真っ白で、位置の手掛かりとなる情報は一切ない。彼女が何者かに誘拐された、その事実のみを静かに語っていた。
「勘弁してくれよ……」
板橋Pは力なく項垂れ、座っていた座椅子から床へ転げ落ちた。
「取締役。犯人の要求は、明日ブロード館で最高のライブをすること。それだけなんですね?」
「ああ、ひょっとすると要求を増やしてくるかもしれないが、現状は」
「なら、私達がするべきことは一つなんじゃありませんか?」
天井穂月が、決然と言い放つ。
一体どこからそれ程の蛮勇が湧いてくるのか? いかにも王道アイドル然とした肉体は華奢で、背中は驚くほど小さい。小型犬のような顔立ちは、愛らしいが脆く儚い印象を抱かせる。
だが彼女の小さな口から紡がれる言葉には、確かな力強さがあった。愛しき大切な人間が危機に晒されようとも、悲嘆に暮れる弱さは見せない。真っ向から困難を打破せんと決意を固めていた。自身も別種のリスクを負っていることなど、もはや眼中にないかのように。
「お強い人だ。ええ、おっしゃるとおりですとも。事件の詳細、犯人の目的、判然としないことは多い。ですが我々が最高のライブを披露すれば、佐久理さんは犯人の魔の手から解放される。ならば我々プロは、それを実現して見せるまででしょう!」
田中Pの言葉に同意するように、スタッフ達が穂月を取り囲んで集合する。場は対策会議というよりも決起集会の様相を呈しつつあった。
「ふっ。それでこそ本物のアイドルというモノよ。ええ、その役はただ役職が偉いだけのおばさんには務まらない。任せたわよ」
取締役はぼそりと呟き、そっと議長席から外れた。




