第23話 美しい国
重苦しい鉛色の空の下、少年は自転車を漕いでいた。
時刻は午後二時。紫外線を極度に苦手とする彼にとって、普段は屋外に出ない時間帯である。
自転車が寂れたアーケード商店街へと乗り入れる。通行人は片手で数えられるほどで、回るチェーンの音がはっきりと聞こえる程に閑散としていた。この国の人口は五十年以上も前から減少の一途である。そのうえ平日の昼下がりともなれば、当然だった。
程なくして目的地である中古雑貨店へ辿り着く。かつて全国に店舗を拡大したこの大手チェーンも、現在では都内の三店舗のみにまで縮小していた。そのうちの一つである。
店内には、みすぼらしい恰好の男女が疎らにうろついていた。ほとんどが高齢者だった。もっとも、今やこの国の過半数が高齢者なのだから当然ではあるが。
少年は本棚を物色し、小説を手に取る。そしてそのまま、じっくりと読み込んでいく。
中古本の立ち読み。直接的金銭コストは一円たりとも発生しない、無料の娯楽。違法ではないが、さりとて店には歓迎されないマナー違反の迷惑行為。それが極度の貧困生活を送る彼に許された、数少ない娯楽の一つだった。
電子書籍やネット配信の台頭。エンターテイメント全体の多様化。その他様々な要因により、紙媒体の書籍はとうに骨董品のような扱いとなっていた。仮想世界が現れる以前ですらそうだったが、当時はまだ供給サイドだけの問題だった。
ところが二〇三八年現在の共和国においては、それだけにとどまらない。需要サイドの根本的変革という、人類史上類を見ない変化が起こった。無駄を求める低俗なヒト自体が激減したため、漫画やゲームといった娯楽自体が今や求められなくなっていた。
なぜならこの国のヒトのうち、劣等種である人間は二割程度しかいない。圧倒的多数は既に、優生種たるエインヘリャルへと進化を遂げた。そして彼等は、無駄を必要としない。
少年は三時間程かけてようやく一冊の本を読み終え、元の棚へと戻した。そして大きく伸びをし、両腕の筋肉を撫で解す。表情はぐったりとしていた。元より虚弱体質なうえに、姿勢を固定しての立ち作業なのだから無理もない。体の節々の挙動を確認してから、店を後にした。
外を出ても、依然として空は明るかった。湿気の多い不快な蒸し暑さの中、少年と同年代の子供達が制服姿で外を出歩いている。しかしながら、彼等と少年には多くの相違があった。
身の安全、生活の保障、戸籍、所属、友人、家族、その他基本的人権にまつわるあれこれ。少年は全てが欠乏状態にあり、彼等は全てを当然のものとして持っている。だが一目で分かる最大の違いは、もっと別にあった。
彼等は皆、頭髪を剃っていた。
無論、共和国人の体質は前世紀から特に変わっていない。頭髪は生えるものとして生まれてくるし、若年で脱毛症に罹患する者は少ない。つまるところ、彼等は後天的にそうしていた。
文明が発展した現代において、体毛に機能的価値はない。多くの現代人の美意識という観点から考えれば、似合う者はかなり限られる。だが徹底して無駄を排したエインヘリャル達にとっては、そもそも似合う似合わないなどという尺度自体が意味を持たない。考慮すべきはその管理コストのみだった。
日々の洗浄や散髪による時間コストから、日常生活において身体にかかる余分な重量まで。いかな要素を切り取れども、非効率でしかない。ゆえに彼等は、すべからく頭髪を剃毛していた。
今日の共和国において、劣等人種たる一般人と優生人種たるエインヘリャルは、実質的にこの頭髪の有無によって見分けられていた。もっともこの違いとて、表面化した最も顕著な差異に過ぎない。本質はその行動原理であり思考回路であり、さらに言えばそれらを定義づける物理的因子――すなわち脳に埋め込まれたチップの有無こそが最大の違いである。
――交代人格埋込手術。
人間がより高次の生物へ進化することを実現する、革新的医療技術である。ユグドラシル社の提供する仮想世界とこの技術の両輪こそ、共和国を戦後最悪の没落国家から世界初の仮想世界立国へと押し上げた立役者と言えよう。
元を辿ればそれは、精神疾患の治療のために開始された研究だった。
解離性同一性障害――俗に多重人格障害と呼ばれる症状であり、交代人格という本来の自我とは全く異なるペルソナを生み出す精神疾患である。原因は主に、恒常的激しいストレスとされる。世界中で症例が報告される一方で、そのメカニズムには不可解な点も非常に多かった。
医師や家族の関心を惹きたい患者の妄言か、さもなくばペテン師が用いるオカルト話か。学会はおろか一般人すら与太話と嘲笑する研究に、人生を賭して挑んだ一人の脳科学者がいた。
ジョセフ・シューマン――かつて合衆国のとある大学にて将来を嘱望された男は、輝かしい経歴も潤沢な予算も何もかもを捨て去り、臨床医としての生活に明け暮れた。解離性同一性障害達の発症統計を集めるだけでなく、自らが一人でも多くの患者と接触することで千を超える膨大なパラメータを生きた情報としてデータベース化した。そして解析を重ねること幾星霜、彼はついに交代人格が生み出される際の特有の脳波を突き止めるに至る。
彼の研究はなおも止まらない。なぜならば、解離性同一性障害のメカニズムの解明すらも、目的へと至る手段に過ぎなかった。
仕組みが理解できたならば、それを意図的に発生させることも可能――理屈としては一見妥当だが、二十一世紀前半程度の脳医学で実現するのは途方もなく難しい。不可能といっても過言ではない。そんな一般人でも容易に想像できる当たり前すらも乗り越え、彼はついに交代人格の誕生を誘発する技術を確立する。
それこそが交代人格埋込手術だった。
大脳に埋め込まれたチップは、極度のストレス状態に晒された人間のうちごく一握りのみが示す脳波形を意図的に発生させる。これにより、老若男女を問わずあらゆる被術者は交代人格を持てるようになった。
臨機応変な人格交代――ある種の積極的現実逃避による、ストレスの劇的軽減。
尊敬する父も愛した妻も重度の鬱病による自殺で失った悲劇の天才脳科学者の妄執は、精神医学に確かな革命をもたらした。
だが社会における実際の運用は、彼の想定とは随分とかけ離れたものとなった。
〈制約なき医師団〉、それがシューマンの研究に資金援助を行っていたパトロンの組織名である。
〝人類の発展のためあらゆる手段を尽くす〟という目的のもと、社会的しがらみから公にできない研究を秘密裏に進める合衆国政府直轄の研究機関であった。MBLはシューマンの交代人格研究以外にも、多くの研究を並行して進めていた。
体感時間の拡張、睡眠時の脳の活動の制御など、実際に一定の成功を収めたものもあれば、めぼしい成果が出ないまま中止になったプロジェクトもあった。いずれも被検体の重篤なリスクを伴う非人道的研究であり、安全の保証はどこにもなかった。だが合衆国には、抜き差しならぬ事情があった。
連邦に奪われた覇権の恢復。諸外国民にとっては理解しかねる感覚だったが、長らく世界の盟主として君臨してきた合衆国民にとって、二番手の地位は耐えがたき屈辱だった。とはいえ質実剛健な連邦に隙はなく、雪辱のためには形振り構っている余裕などなかった。
そしてMBLの研究が結実の兆しを見せ始めていたちょうどその頃、彗星のごとくユグドラシル社が現れた。
それらは窮地に立たされた超大国にとって、希望の光だった。
ユグドラシル社の仮想世界、MBLの研究成果、そして実質上の属国へと成り下がっていた同盟関係の没落国家。散らばっていたピースは、合衆国の新天地開拓という目的のため、最高の形で組み合わさることとなる。
負麦仮想世界特別誘致条約。難解な表現で綴られた条文は、八部八十九条にも及んだ。その内容はつまるところ、〝瀕死の没落国に莫大な資金援助を行う見返りとして、仮想世界を全世界に浸透させるために国家ごと実験台になれ〟というモノだった。
そして条約の締結に伴い、共和国では国家全体を激変させる一つの制度が導入された。
AI=EHJ契約。ワルキューレを遍く全国に普及させ、共和国民の仮想世界への移住を推し進めるための本丸である。
ユグドラシル社の研究に光明を見出した政府は、多額の設備投資を行うことで同社の研究を飛躍的に加速させ、世界に革命をもたらしつつあった。だが最大のネックとなったのがコストの問題だった。仮想世界がいくら素晴らしい発明であれ、一般市民には到底手出しできない贅沢品では普及など望むべくもない。
膨大なサーバーの管理に、各地のデータセンターの設置及び稼働。仮想世界の維持には、途方もない資金を要する。合衆国政府の融資にも限界があり、このうえ超高性能電子機器たるワルキューレの生産コストまでをも担うことは不可能だった。
使用者から金を巻き上げないことには運営が立ち行かないが、最低限の採算ラインですら高級外車並みの価格設定にならざるを得ない。
そこで交代人格埋込手術の施術、及び現実での肉体を永遠に交代人格へと明け渡すことを条件に、ワルキューレを半永久的貸与する制度としてAI=EHJ契約が考案された。
十年前の制度導入当初には、諸外国が両国を痛烈に批判した。
仮想世界を提供した合衆国は、時代錯誤な非人道的侵略行為だと糾弾された。契約を呑んだ共和国サイドは、国と国民を売った売国奴政権と抵抗もせず甘んじる奴隷国民からなる、救いようのない没落国家として嘲笑された。
だがそれも過去の話となりつつある。なぜならば、侵略行為の被害者たる共和国サイドが、今やそれを肯定的に受け入れていた。外交戦略として自ら行動を起こした政権は言うに及ばず、国民までもが仮想世界を救世主として歓迎していた。
当事者たる負麦両国が積極的に容認している以上、諸外国も露骨な内政干渉に踏み切ることもできない。連邦を中心に水面下での調査や破壊工作を行うのが限界だった。
それが今日における共和国及び国民と、仮想世界との関係だった。
夕方の街を闊歩する禿頭の若者達、彼等エインヘリャルは紛れもなく人間ではある。だが本来の人格が日中に覚醒することはない。交代人格が眠る約六時間を、体感時間にして三倍に拡張された幕間。それのみが彼等が真に覚醒するときであり、仮想世界のみが彼等の生きる世界だった。
「ゾンビ共が……忌々しい」
ゾンビ――それはかつて少年自身に向けられた蔑称だった。小学校時代のクラスメイト達は、特異体質により共和国人としては異常な蝋燭じみた乳白色の肌をそう揶揄した。
そうして彼を虐げた者達も、毎日のように公正公平な勝負をして彼を一方的にサンドバッグにした友達も、公園で彼を拾って死別した実の息子代わりに彼を愛した命の恩人であるパパも、皆仲良く仮想世界の住民となった。かつての恨みを込めるように、彼はエインヘリャル――特徴的な髪型以外は一見変わった点もない、ごく普通の人々――を、等しくゾンビと呼んだ。
遠くに見えるオフィス街の照明が、橙色の空でうっすらと輝く。
それらが消えるのはまだ随分と先の話だろう。なぜならば、エインヘリャルの肉体を現実で稼働させる交代人格は、一切の余暇や休息を必要としない。毎日日付が変わる頃合いまで労働をこなして帰宅し、最低限の身支度のみを済ませて就寝し、翌朝には労働を開始する。
三六五日一切の狂いなく、従順に労働をこなす。彼等がエインヘリャル――四六時中戦闘に明け暮れ、翌朝には何事もなく復活して戦闘を再開する戦士達たる所以だった。
深夜にまで及ぶ違法な長時間時間が完全に根絶された労働システム。政府は労働改革が生んだ黄金の果実として大いに称賛した。
「俺が死ぬのが先か、てめえらを皆殺しにするのが先か。――まあ、どうでもいい」
少年は道端に唾を吐き捨てると、自転車に跨って帰路に就いた。




