第1話 招かれざる者
『ユーザー情報を認証できません。付属の取扱説明書の四ページ《ワルキューレの初期登録方法》の手順に従い、もう一度初めからやり直してください』
装着したVRヘッドセット〈ワルキューレ〉が、百一回目のエラー反応を示す。
「ああそうかよ! お前らも俺を拒むと⁉ そうなんだな!」
少年は独り、饐えた異臭の漂うマンションの一室で怨嗟の声を上げた。
ときは西暦二〇三八年。
情報通信技術は二十世紀後半より、目覚ましい発展を遂げてきた。技術革新の波は止まるところを知らず、第二次IT革命と称される二〇二五年の歴史的プレイクスルーを経て、人類は限りなく理想に近い『仮想世界』を手にした。
五感全ては端末によって自在に出力され、仮想世界における自身は現実世界におけるそれと全く違うことなく存在する。一方で現実の肉体への出力は遮断される。
生身の脳が発する電気信号はそのまま仮想世界での行動に反映され、現実世界での肉体は微動だにしない。リアリティに拘っただけの単なる娯楽でもなければ、医療用だの教育用だのとお堅い用途がついて回るでもない。
人間を取り巻く日常そのものとしての仮想世界が実現したのである。
二〇二〇年代よりフラワー合衆国に彗星のごとく現れた新興IT企業、ユグドラシル社。同社を率いるカリスマ経営者にして天才量子学者スティーブン=ゲッツは、細分化された分野毎にバラバラに進められていたVR研究を一つの端末に凝縮した。その粋が、少年が両手で抱えているこのワルキューレである。
開発から一般社会への普及まで、ゲッツは極めて大胆かつ強引な手法でもって、その全てを僅か十年弱でやってのけた。
ワルキューレの開発に成功したのも束の間、無謀とも思える量産計画を即座に始動させる。さらに生産と並行して、規格外の方法で予算の確保と端末の販路を確保した。政府に技術の有用性を説いて莫大な補助金を引き出し、政府は同盟関係にあるヤップ共和国に製品を売りつけるための協定を結んだのである。
既に滅亡が確定的だった戦後最悪の没落国家は、合衆国の提案にあっさりと同意した。世界初の仮想世界立国という栄誉ある肩書きを得て、国民の大多数が仮想世界を利用する環境を作り上げた。
二〇三八年の今日、共和国におけるワルキューレの普及率は国民の七割に及ぶ。
「なーにが何人をも歓迎する歓びの世界だよ……ふざけんな!」
あまりの惨めさに総身は震え、握りしめた両手に涙が零れ落ちる。
この少年もまた、仮想世界に魅せられた一人だった。
その発明以来、ワルキューレは幾度となく改良されてきた。そして三年前に一般消費者向け機の販売及び貸与が開始されてからというもの、製品の不具合は未だ報告されていない。
共和国政府は急速に法整備を進め、今では初期費用無料の永年ローンでワルキューレを購入できる。つまり、本人さえ望めば、誰もが仮想世界に没入できるというのが今日の状況だ。
だからこそ、彼は激怒した。
ローン契約による実機の購入に先立ち、彼は二週間の無料体験サービスを受けていた。しかし期間満了日となる今日に至ってなお、一秒たりとも仮想世界を体験できていない。これでは、購入も何もあったものではない。
「もう知らん! そうだ俺がおかしいんじゃねえ、このポンコツが不良品なんだ! なら――」
怒りに駆られるがまま、彼はワルキューレを壁に向けて振りかぶった。
現在彼の手元にある機体は、これで三機目になる。未だ異常報告のない機器を、不具合があると言って既に二度交換させた。
客観的に見て、どちらに非があるかは明らかだった。
非力なりに全身全霊を込め、彼がワルキューレをぶん投げようとした、まさにそのとき。枕元に置いてあった携帯端末が、けたたましい通知音を上げて振動する。
少年は腰を抜かしてワルキューレを取り落とした。音量はさほど大きくもなかったが、静寂に包まれた無人の部屋で臆病な彼を驚かせるには十分だった。
眉を顰めて携帯通信端末を覗き込むと、見覚えのないダイアログボックスが表示されていた。
《死ぬンゴ……助けてクレメンス……》
「は?」
理解不能な現象もさることながら、内容があまりにもふざけている。
もう笑うしかなかった。
現実社会でとことん地を這い、万人に門戸が開かれたはずの仮想世界にすらも拒まれ、さらには携帯端末にまでも小馬鹿にされる。
彼が笑っていたのは、あるいは彼自身だったのかもしれない。
「……ああ分かったよ。助けてやるよ、助けりゃいんだろ」
死んだ目で乾いた笑いを浮かべながら、投げやりに呟く。
メッセージの下には《助ける》と《助けない》という二つのボタンが表示されていた。常識的に考えれば、マルウェアか悪質な広告の類だろう。再起動するか、慎重を期すなら電源を落として解析業者にでも依頼を出すのが賢明だ。金があればの話だが。
今の彼でも、そのくらいのことは理解できただろう。
だが自暴自棄を極めていた少年は、あえてそれを選ばない。
自傷衝動に身を委ねた悪ふざけのように、《助ける》を押した。
その後しばらくは、同様の作業が続いた。
彼がボタンを押す度に別のダイアログが現れ、彼がまたそれに回答する繰り返しだった。発達したAIが単純労働の大半を担う現代では、会話が成立する人工知能とて特段珍しくない。だが、何者かが自分だけを見て自分との問答に興じてくれる、その感動は孤独な少年にとって得難きものだった。たとえ相手が、どうせ彼を陥れようとしているだけのウイルスであっても。
ソレが指示するがまま、彼は携帯端末をワルキューレに接続した。
そして、実に百二回目となるダイブを試みる。
果たして、ダイブは初めて成功した。




