7 アンジュ
その庭は薔薇を中心にではあるが、草花や樹木を組み込んで造られており、自然風景の美しさを楽しめる。
バラの花がその高い芳香を漂わす中、ラシェルは一人の男性へと駆け寄り抱き着いた。
「お兄様!」
「やあ、ラシェル。元気だったかい?」
ラシェルが抱き着いた男は、彼女の兄であるルシフェルで、彼は飛び込んできた妹を胸で受け止め微笑んだ。
「はい。でも、塔の中は退屈です」
「それは決まりだから仕方がないよ。あと六ヶ月の我慢だ。でも殿下がこうして連れ出してくれていると聞いているよ。殿下とは仲良くできているかな?」
「はい。ちょっと意地悪なところもありますけれど、とても優しい方ですよ。金の獅子がいるんです」
「そうか。彼は変わらずに王なんだね」
「ラシェル」
兄が無邪気に微笑む妹の金の髪の頭に手をぽんと置いたところで、よく通る声が妹の名を呼ぶ。声のほうに顔を向ければ、そこには灰金髪に大変希少な紫瞳の優美と形容できる青年、この国の王太子の姿があった。
「あ、ギ、じゃなくて、殿下!」
ラシェルはギルバートの声と姿を認め、走り寄るとその腕に絡みつく。ギルバートもその姿に甘い笑みを返して、頭を垂れているルシフェルに向き直った。
「初めまして。ルシフェル殿。顔を上げてくれ」
「お初にお目にかかります。ユーク大公が次子ルシフェルです。どうぞ呼び捨てで」
「では、ルシフェル。貴公はラシェルの信頼する兄。堅苦しいのはやめよう。色々訊きたいことがある」
夫と兄が儀礼的な挨拶を終えたところで、ラシェルはギルバートの腕を引いた。
「殿下、込み入ったお話ですか?」
「ん、ああ、そうだな。暫く兄上を借りる。庭でも散歩しているか?」
「はい!」
控えていた侍女二人に、もう歩き出しているラシェルに付いて行けと頤使し、ギルバートは庭の臨めるテーブルへとルシフェルを誘った。
すぐにお茶の用意がされ、給仕の者が下がると、ギルバートはルシフェルへと笑みを向けた。
「ラシェルは外が好きだな?」
「はい。幼少期は母の生家のある田舎で育ちましたので」
「ああ、それで野原に行きたがるのか」
「感受性が豊かな子なので自然を好みます」
「感受性、か」
その人の為人を象徴する動物が見えるのも感受性と言うのだろうか。この兄はラシェルの能力を知っているのだろうか。
そんなことを考えていると、今度はルシフェルがにこりと人好きのする笑みをギルバートに向けた。
「雨が降りそうではなく『降る』と分かるのですよ」
そう言って、意味を含んだようにラシェルと同じ色の緑の瞳が微笑む。
どうやら知っていて、隠すつもりもないようだ。
彼の方もギルバートが既に知っていると分かっていての話し方をしてくる。
ルシフェルは、器量もよく、物腰の柔らかい好感の持てる風体だが、侮れない聡明さを感じさせる。簡単に操れるような感じも、人の言いなりになるような者でもなさそうだ。
「では、今日は降らないということだな。外で会することに、異論どころか大いに乗り気だった」
「はは。そうですね。そもそもこの庭はラシェルの好みにあっていますから否はないでしょう。……殿下は随分と妹に懐かれましたね」
「……懐く? ラシェルは割りとこういう感じではないか?」
ギルバートは、話の転換に、飲んでいたお茶のカップをテーブルに置いた。ルシフェルは反対にカップを手に取ると、お茶を口にする。
「ええ。ラシェルは無垢に育てましたのでそう見えますが、人を見極めるので本心から甘えるのは珍しいのですよ」
「……見極める、とはラシェルの力のことか?」
「そうです。ですからラシェルは自分にとって善人と見なした人にしか心を許しません」
あっさりと認める。やはりラシェルの能力のことを隠すつもりは全くないようだ。
「話の本題を分かっているようだな」
「ええ、勿論。こういった話以外に王太子殿下が大公の次子を呼ぶことはないでしょう」
まっすぐにこちらを見て確信するように微笑むこの姿。彼はまさにラシェルの兄だ。
「では、回り諄いことは止めよう。人払いはしてある。ラシェルは大公を嫌い、君を好いている。君は父である大公をどう思う?」
「毒虫のような人物と思っています」
にっこり、きっぱりと。この兄弟は共にこういう性格なのか。しかし、この兄は妹のように純真だけでないのは明白。どう計る。
「さて、どう取ったものかな」
「私ではなく、ラシェルを信じていただければいいですよ」
「……そうか。まあ、探っているだけでは話が進まないのでな。訊きたいことを訊いていこうか。大公はラシェルの能力の事を?」
「知りません。知っているのは私と今は亡き私共の母だけです」
「……何故、と訊いても?」
「殿下の思うままです。父に悪用されるからです。適当な理由をつけ……まあ、大公も自分をあからさまに嫌うラシェルを疎んじてはいましたから簡単でしたが、母の生家で育てたのは父から隠す為なのですよ」
自然の中で伸び伸びと、けれど父の目が届かぬように隠され育てられた姫。ラシェルは、我知らず囚われの姫君か。
そして隠していたのは、目の前にいる―――この男だ。
「では、俺の妃となったのは君にとっては虚を衝かれたというところか」
「いえ、……ラシェルが殿下の妃になるよう仕向けたのは私です」
二人の間を風に乗った花の芳香が流れる。
ルシフェルの返答にギルバートは彼を静かに見据える。ルシフェルの言葉に驚かない訳ではないが、これだけのことを告げたのだからその先も話す気があるのだろうと、ただ黙った。ルシフェルもそれを真っ直ぐに受け止めた。
「不可解、ですよね。順を追ってお話ししましょう」
一息吐くようにそう言って、ルシフェルは少しだけ居住まいを正した。
「まず、最重要なことを先に。私とラシェルは大公の血を継いでいません。大公はこれを知りません。これを聞いてなお私と話を致しますか?」
これはとんでもない告白だ。
これが明らかにされれば、この兄妹は断罪される。それほどの秘密の話。
大公にこの事実を故意に隠しているということは、疑りを深くすれば大公への逆心ありととれ、それは王家への逆心にも繋げられる。
今まさに、太子に 大公と血の繋がりのない、つまり妃になってはならない娘を娶らせた逆賊者と、ギルバートが彼らを捕らえることも可能なのだ。
それをこうもあっさりと告げるとは。
やはり、食えない男だ。
ギルバートがこの話を呑み込むほどに大公を厭い、ラシェルをもう手離す気がないと分かっていてそう訊いてきているのだ。
風にのって少し遠くからラシェルの笑い声が聞こえる。ギルバートはそれが合図のようにルシフェルに笑みを向けた。
「ああ、しよう。どういうことだ?」
僅かにルシフェルが安堵した様子が窺えた。安堵する様が演技だとすれば、もっと分かりやすくするもので、彼の所作は慧眼力のないものには分からない程度のものだった。さすがに彼も緊張していたのだと思えば、少しは信用してもいいかという気になる。
「ご存知の通り、もともとユーク大公家は育ち方以上に悪辣な血が濃いのです。それを少しでも薄くしようとしたのが我々の母です。私とラシェルは大公の色に似た男性との子です」
「賢い母だな」
「そう言って頂けて幸いです。殿下はソルシエールという一族をご存じで?」
「ユークの魔女と言われていた一族か?」
ソルシエール、ユークの魔女。
人に害悪をもたらす妖術には関わらない、寧ろそれから守る呪法を授けてくれる白魔女と言われ「占い師兼病気治し」が本業とされている一族。
ただ、前ユーク大公に疎まれ、迫害され土地を追われ、命を奪われた者も多いと言う。
「はい。母はその神官筋の者です。母は美しい女性でした。それに目を付けられ、これ以上一族を減らされたくなければ妾になれと脅されて大公の側室になりました」
「あの男ならやりそうだな」
「はい。母はそれならばいっそ大公家そのものの血を清めてしまおうとしたのです。大公に従順な振りをして巧妙に私達を孕み、産み育てました。数年前に病死しましたが。私は母の意志を継いでその後のことを。そうして、ラシェルを殿下の妃になるよう謀ったのです」
「……ラシェルはそれを?」
「教えてはいません。あの子の純真さを損ないたくはないので。ただあの子は何と言いますか、善となることならば受け入れてしまうところがあるので、知っていてもなんという事もないのかもしれません。父と血が繋がっていないと知れば寧ろ喜ぶかも知れませんね」
確かに裏から手を回すと言っても平然としていた。必要悪は彼女にとっては些事ということか。
「ラシェルも母君も随分と善に潔癖のようだな」
「そこに私も加えていただきたいのですが。私だとて、抵抗する術のない領民が苦しむ姿には胸が痛みます。それがソルシエールの本分なのかもしれません」
「君は心根は潔癖のようだが、色々腹に抱えるものがありそうだ」
「公称は大公の次子として、そしてソルシエールの生き残りとして、抱えているものは殿下と同じものです。背負うものがある立場に生まれた以上は殿下もお分かりでしょう。ソルシエールは白魔女と言っても魔法を使えるわけではなく、簡単に言うと呪いと調薬が出来るだけの存在です。ですが、稀にラシェルのような不思議な力を持った者が生まれるそうです。母がラシェルはソルシエールの中では“アンジュ”と言われる、天の使いとして人間界に遣わされ、神の心を人間に、人間の願いを神に伝える存在だと言っていました。それが真のことならば、ラシェルは神の望む世界を造ろうと知らずにしているのかもしれません。それ故の冷酷とも言える純真さと言えます。だからこそ、あの子の為にも殿下の傍に置くのが一番だと私は判断しました」
本当にそういった存在があるならば、そしてそれがラシェルなら、全ての事に納得がいく気がする。
善は善。悪は悪。ラシェルはそれを我知らず見抜いて善に仕えようとしているのだろう。
「大公よりは王子の方がまし。隠した妹を簡単に王子妃として差し出す意図はそれか」
「ラシェル自身が殿下のお気に召すかを量ることは出来かねましたが、それでも、あの子の純真さは権力者にとっては眩しいものです。傍に置きたいと思ってしまう。況してラシェルの能力を知れば、愛ではなくとも大切にはして下さるでしょう」
「十分打算できているではないか」
「ラシェルが貴方を認めたからです」
皮肉交じりの言葉に、ルシフェルはさらりと不思議な言葉を返してきた。
ギルバートがラシェルと初めて出会ったのは、入内のその日だ。なのに、なぜ以前からラシェルに認められていたような言い方をするのか。
「このままではラシェルは父にただの女として駒に使われるだけ。先程申し上げたようにあの子に見合う場は本物の王の許。殿下が十歳頃でしょうか。ラシェルももう覚えてはいませんが、一度ユークにいらした時にラシェルにこっそり拝顔させたのですよ。ラシェルは殿下を綺麗だと言った。ラシェルは自分に害を与えようとする人物を綺麗だと思うわけがない。殿下を王として認めたのです。ですから、それで決まりです」
彼女のあの能力と屈託のない純真さ、アンジュという存在。それを信じればルシフェルの言うことは全て頷ける。
そして、ギルバートに課せられたものも……。
ざあっと風が強く吹き、花弁を舞い上げた。また、ラシェルの楽しそうな笑い声が聞こえる。
ひらりと一枚の小さな花弁がギルバートの手にしていたカップの中に舞い落ちた。
ギルバートは小さく微笑むと、その花弁ごとお茶を飲み込んだ。
「俺は随分と重いものを背負わされているのだな。……ルシフェル、君は何を望む?」
「私はラシェルの守り人であり、ユークの改革者。ただし、平和主義者なので泰平を望んでいます」
「改革者でありながら平和主義とはよくぞ言う。信じていいのか?」
「では、そこにユーク大公への報復を加えれば納得いただけますか?」
「そうだな。余程信憑性がある」
「では、更に加えて、私はラシェルに好かれていると自負しています。そして彼女に選ばれた殿下を信じます。我が主?」
二人は真っ直ぐに互いの澄んだ瞳を捉え言葉を交わす。
「いいだろう。次期大公は貴殿だ。以後俺に協力してくれ」
「御意」
話は合意を得、立ち上がるギルバートにルシフェルは頭を垂れた。