6 正妃となる女
冷たい闇夜には月が明るく輝いていた。
燭台の蝋燭が向かい合う二人の輪郭を濃く照らし出している。ギルバートがじっとラシェルを見つめても、彼女も視線を外さずに彼を見ていた。
「……お前がそこまで自分の父を嫌う理由はなんだ……?」
「民が苦しんでいます。父では駄目です」
ふわふわと温かいものが急にひんやりとした冷たいものに変化するような不思議なこの感覚。
世の中の綺麗な部分しか知らないはずの大公の娘が何を知っているのだろうか。
「何故そこまで民に心を寄せるんだ?」
この国では女性は政に参与しない。世の貴族女性は自分を如何に美しく着飾る事に執心しているのが当たり前で、それこそがより良い嫁ぎ先を自分にも生家にも齎すべき彼女らの仕事でもある。それが、ラシェルは十六という若さでこうも民の生活を慮ろうとする。
「人はみな、出来得る限り幸せになるべきでしょう? その手助けをするのが為政者なのではありません?」
幼顔が凛と告げる。こういう考え方をする女性を、いや、人物を、ギルバートは他に知らない。
「……お前は何がしたいんだ?」
「私に出来ることはありません。ただ私はこの国を人に優しい国にしたいと思っているだけ」
不可思議な、そんな言葉が当てはまる女。
ただ望むだけしか出来ないと本人ですら言うのに、どうしてこんなにも潔癖に言葉を告げることができるのか。
「何故、それを俺に言う?」
「貴方が王になるべき人だからです」
きっぱりとした言い方に背中がぞくりとした。
ああ、また落とされた。
ギルバートはこの女が欲しい。彼女の全てを自分のものにしたい。なぜかどうしても手に入れて傍に置いておきたいと渇望してしまう。
虜になるとはこういう事だ。
けれどただ、国と民を預かる者として支配者の領分を侵させる事だけは絶対にさせないが。
ギルバートは甘く綺麗な笑みをラシェルに向けた。
「……兄の事は好きだと言っていたな」
「はい。二番目の兄ルシフェルです。長兄は父と同じで駄目です」
南部大公の嫡子とされている長男。確かにあれも大公と同じく悪徳と言える種類だ。次男はどうだっただろうか。たしかラシェルと同母の男のはずで、あまり大公には気に入られておらず、南地域圏の中でも貧民地区の知事になっていると聞いたか。
「分かった。お前の二番目の兄と会ってみよう」
「何の為にですか?」
「次期大公候補としての選定だ」
「本当に? 考えて下さるのですか?」
「決定じゃないぞ。本来世襲問題など口出し出来んことだ」
「はい」
「……本当に必要なら裏から手を回すことになる」
「はい」
またあの満足気な笑みだ。“裏から”の意味をわかっているのだろうか。
それにしても、自分は何故ラシェルの言葉にここまで肩入れするのか。
だが、そもそも、ラシェルの父がユークの大公である限り、彼女を正妃とすることに反発の声が上がることは必至だ。
そこでギルバートは自分の内なる声に自分ながら驚いた。
ギルバートはラシェルを愛していることは自覚した。
そしてそれは既に彼女を正妃にすると決めつける域に達していたらしい。
ふっと自嘲する。ならばもうそうするしかないではないか。
正妃は四人の公女の中から選ばなければならない決まりがある。この国の王と王太子はその他にも側室を持つことが許されている。だから正妃以上に愛する側室がいるということも当たり前の事だった。ギルバートも自分がそうなるのだろうと思っていた。まだラシェルの姉が妃候補だった頃の四人の婚約者の中に、特に気に入る女は居なかった。だからいずれ自分も側室として好いた女を召すだろうと思っていたのだ。
だが、もういい。愛する女は四人の妃の中にいた。
愛する女性が正妃であれば、色々と煩わしい事が減るのも確かで。女同士の醜い権力争いの種が一つ減り、それぞれの女を擁立する貴族達の派閥争いも少なくなる。
一番の懸念としてラシェル自身のことがあるが、例えラシェルが毒婦だろうが、ギルバートが反対にこちらに落とし込めばいいだけだ。
まずは効率的に身体だけでも落としてしまえばいい。幸いラシェルは房事の手管については無知に等しい。快楽を教え込みギルバート以外の男では駄目だと思わせてしまえばいい。夜に訪ねてくることの意味をそれしかないと分かるように、またそれを欲する女になるように。挨拶だけの関係では物足りないと覚えさせなければならない。そして、なによりも、己に縛り付け決して仇なすことのないように。それは彼女を愛するギルバートを満足させることにもなる。
何よりも、この少女を自分の手で女に変えたい。
そして、彼女の慕うその次兄の適性を見極め、自分にとって差しさわりのない、または手を組めそうな手合なら大公に据える。
そうやって傍から見てもギルバートや国にとって絶対の無害の女とその一族にしてしまえばいいのだ。
「そうなれば……ラシェル。お前が正妃だ」
「正妃? 決定するのは一年後では?」
一年も必要ない。
「次兄が大公となれば憂いはないのだろう。公表するのは一年後だが、決定は今でいい。お前が正妃だ。異論はないな?」
「他の妃も大切にしてくださると約束してくださいますか?」
「何故そこまで他の妃に気を遣う?」
「もう迎えてしまえば受け入れるしかありません。それに皆さん心根の良い方ですよ」
「お前は顔を見たのも一度なのに心根など何故分かる?」
「ん……えーと、分かるんです」
「………」
この時は何を言っているのか分からなかったが、それは後にラシェルの特異な能力と知ることになる。
「……分かった。出来うる限りでしよう。それでいいな?」
「……父は正妃になればどの妃よりも権力を持てると言っていました。だから、権力を与えても問題のない女性を選ぶか、または権力を与えたいほどに惚れ込んだ女かだと。殿下にとって正妃とは何ですか?」
「どちらかと訊かれ答えるのならば、お前は後者だ。お前は俺が王に相応しい者だと断言できるのだろう。権力を与え惚れ込む価値のある女だ」
ああ、そういうことだ。
ラシェルは統治者としてギルバートを迷いなく認めている。その真っ直ぐ過ぎるともいえる確信が、何故かとても心強くギルバートを支えるのだ。
「そういうことを言うのでしたら、殿下」
「なんだ」
「私の処に居るときは私のことだけを考えて下さいね」
屈託なく微笑んで無邪気に紡がれたのは執着の言葉。ラファエルの口元も満足げに上向いた。
「先にそれを言え。決まりだな?」
「はい。殿下」
「俺の名を知っているか?」
「ギルバート殿下」
「ギルバート、だ」
「ギルバート」
「もう一度」
「ギルバート」
嬉しそうな顔で紡がれた言葉に満足しその唇を塞いだ。
*****
最初の夜と同じように警戒心のかけらもなく身を預け、ラシェルはギルバートの腕の中で眠っている。
あれから三ヶ月、ギルバートはラシェルに執心こそしていたが、真に心を許しているわけではない。
ラシェルが父を忌避しているのは確かのようだ。
ギルバートのラシェルへの執心が傍目にも見えるようになり、ユーク大公はラシェルに日毎何かしらの品を送ってくるようになった。だが、ラシェルはそれを紐解こうとせず、売れるものがあればお金に換えてくださいと言い放つ。婚姻後一年は父母ですら面会が出来ず(特別な事情があっても王太子も同席となる)、手紙や贈り物しか許されていない。ラシェルは父からの手紙にすら目を通すことがなく、また当然返事を書いたこともなかった。手紙や品物にも検閲が入るが見る限りでは暗号等の遣り取りもない。大公は娘の真意と動向が分からず、さぞかしもどかしい思いでいることだろう。
こうまでしいているところを見れば、ラシェルは大公の傀儡ではないと思うのだが。
「ともかく、兄と会ってからだな」
数日後にはラシェルの次兄に会うことになっている。
彼の者がどのような人物なのか。信ずるに足る者か、手懐けられる者か、又は操れるような者か。その何れかのような人物であれば問題はない。
貴族達のラシェルへの見解は、あの大公の娘であれば厳重な注意が必要で純真な様子も演技ではないのかと疑る一方で、夜会などで目にするラシェルの様子はあまりにも屈託がなくギルバートに心を寄せているように見え、疑うのも馬鹿馬鹿しいと思えてしまうというように、掴み切れないものとなっている。
ラシェルの言うことをそのまま信じていいのかギルバート自身が信じ切れていないというのに、ろくに彼女と接触のない貴族達に計れるわけがないのだが。
だが、皆が彼女を毒婦だと言い切れないのならば、今はそれでいい。あとはギルバートが信じさせられる女にすればいいだけだ。
思惑通りとでもいうのか、ラシェルはギルバートとの触れ合いを好んでいる。塔に訪れれば屈託のない笑顔を見せてギルバートの腕を引いて招き入れる。素直な性分も手伝ってか、身体全体で甘えるように身を寄せて、閨でも従順に身体を開いてギルバートを受け入れ、今では強請ってもくる。最中に焦らしてやれば、ギルバートの思う侭になる。
だが、もっともっとギルバートだけのものだと教え込み、身体だけでなくその心まで自分の色に染め上げてしまう必要がある。
なによりもギルバート自身がそれを望んでいるのだから。