4 風変りな女
―――殿下、私の相手はしなくともいいですよ―――
寝台の上、解かれるのを待つような薄い寝間着姿で、ラシェルはにっこりと妃の務めを放棄すると言った。
初夜の新妻、しかも王子の妃が己の意志だけで言っていい言葉ではない。なのにラシェルは咎められるなどとは全く思っていないようで、寧ろ、ギルバートを気遣ってのことだと言いたげだ。
それともそれは演技で抱かれたくない理由でもあるのか。
「他に好きな男でもいるのか?」
「好きな男の人? あえて言うのならば兄が好きですけれど?」
ギルバートが不機嫌に訊ねてもラシェルは首を傾げて見せる。この言い方ではこの好きも恋愛の好きではないだろう。
「俺に抱かれるのが嫌か?」
「いいえ? 結婚とはそういうものなのでしょう? 殿下がお望みならどうぞ?」
「随分とあっさりしているな……他の男としたことがあるのか?」
「え? 殿下の妻には純潔でないとなれないと聞いていますが?」
「つまり俺に抱かれてもいいんだな?」
「ええ。だって私は名目上殿下の妻なのでしょう?」
これも大公の企みなのか。次女とは正反対の三女を急に妃に差し出して、ギルバートの気を引こうとしているのではないか。
これがギルバートを陥れる手管だとすれば大したものだ。寵を欲しないなど、反って関心を引く。
事実ギルバートは焦れていた。初見でギルバートの方は彼女に興味を持ったのに、ラシェルは全くなかったようだ。好意があるから抱かれてもいいのではない。夫だから抱かれてもいいと言う。夫であれば誰にでもこうなのかとギルバートは苛ついていた。
「……俺のことをどう思う?」
「素敵な人だと思います。綺麗です」
綺麗というのは男に対する褒め言葉なのかと思うが、まあいい。
「夫になった方が殿下で良かったです。私、殿下が好きです」
さらりとそんな言葉が発せられた。どういう意味だ。この好きはどういう好きなのか。関心が無いわけではないのか。
「……好き?」
「ええ。好きです」
「三日前に会ったばかりだが?」
「でも、好きです。いけませんか?」
「……それはユーク大公にそう言えと言われたのか?」
「え? ……あ!! 違いました! 父には「『愛しています』と言って殿下のしたいように為すが儘になっていろ」と言われていたんでした! “愛しています”!」
………馬鹿正直過ぎる。
「……好きというのはお前の意思か?」
「はい。好きです。兄に殿下ならば大丈夫だと言われてはいましたが、それでもどんな人に嫁がされるのかと不安でした。でも実際に殿下の姿を見てほっとしました」
ギルバートは怪訝な顔をする。ラシェルの笑顔はこうまで無邪気に微笑むことが出来るのかと思うほどの屈託のなさ。初めて顔を見た時の笑みもこうだった。人を疑うことを知らないのかという感じだが、どうやら彼女の見解では、ギルバートは何故か彼女の信頼に足る人物だったらしい。
好きだと微笑む姿に演技はない。そう思えた。否、そう信じたかったのかもしれない。
「お前、可愛いな」
「顔は亡くなった母似だそうです」
「ああ、うん……顔自体も可愛いが……」
「顔だけでもお気に召したようで良かったです」
「……好きだというわりに寵愛は欲しくないというのは何故だ?」
「だって殿下の寵愛が深いということは正妃になる確率が高いんですよね? そうなると結果的に私の実家が権力を持つんです。つまり父がますます権力を握るんです。だから嫌なんです」
「父が権力を握るのが嫌なのか?」
「はい。私は父が嫌いです」
「何故?」
「嫌な人だから」
自分の父に対して平気でそんなことを言う。普通は自分の生家を悪く言ったりはしない。逆に生家の繁栄を望み、そうなるよう動くものだろう。
「父は治者として適していません。このままではユーク大公家はいつか領地の民に裏切られるか、王家に反旗を翻すかのどちらかでしょう」
急に大人びた物言いをされ、ギルバートは顔に出さないまでも僅かに戸惑った。今までの子供っぽさが嘘のようにラシェルは落ち着いた雰囲気を纏っている。
「……そんなことを言っていいのか?」
生家が王家を裏切ろうとしているなど、とんでもない告発だ。何かあったとき自分だけが助かろうと告げているのか。だが、あの大公に知られ邪魔だと思われれば、実の娘であろうが秘密裡に始末されかねないことだろう。
けれどラシェルはまたにっこりと純真に笑う。
「私の憶測ですから」
憶測で済む発言ではないのだが。そういったギルバートの懸念をよそにラシェルは言葉を続けた。
「もともと殿下の妻になるはずであった姉はおそらく何か企てを仕込まれていたでしょう。私にはそういったことは無理だと思われたのか話もありませんでした。とにかく殿下の好きなようにさせて嫌われるなと言われました。今頃、新たな企みでもしているのでしょう」
「それを言ってしまっていいのか?」
「殿下はこの国の王となる人で私の夫です。私が仕えるべきは殿下でしょう」
言葉は忠誠の誓いのようなのに、不思議そうに訊ねるように言う仕草は首を傾げてひどく幼く見える。
まるで穢れを寄せ付けぬ聖女のようだ。
「それに殿下に嫌われれば父に背けます」
そう言って瞳を伏せ大人びた表情をする。父に背くことに罪悪感どころか名誉すら感じているようだ。
不思議な女だ。
この世の穢れなど知らないかのような引っ掛かりのない可愛らしさの中に、冷たいような蠱惑的な美しさが見え隠れする。
「それほど大公を嫌いか?」
「はい。どうしても好きにはなれません」
「……俺の事を好きだと言いながら俺に嫌われる事はどうでもいいのか?」
ギルバートの寵を得るよりも、父に権力が集中しない事の方が重要だと。その為にはいっそギルバートには嫌われたいとでも言うのか。苛つく思いを押さえつけ問えばラシェルは驚いたように口籠った。
「………」
「………どうした?」
「……嫌われるのは嫌です。兄のように時々お話くらい出来ないんですか?」
今度はその事については考えていなかったという顔。
色々と少し変わった娘のようだ。
「俺はお前の兄ではない。寵もない妃の元になど閨に用がなければ来ないのが普通だ」
「……そういうものですか。顔を合わせたときに挨拶くらいはしてもらえるんですか?」
「それはまあ、立場上、普通にな。だが、それでいいのか?」
「残念ですが……。でも、国を背負う人の邪魔になるものではありませんし……」
残念ですが、という言葉の通り表情は寂し気で、こちらが悪いことでも言ったような気になってしまう。
妙な女だ。妃というより、それでは家臣。この女は何がしたいのだ。
「……とりあえず、お前の言いたい事は分かった。ユーク大公にこれ以上の権は与えるなという事だな? もとよりそのつもりだ」
同意すれば、純真な笑顔を向けてきた。その表情のあまりの邪気のなさにこちらまで顔が綻んでしまう。
ラシェルの真意など今の段階で分かるわけがない。ユーク大公の事に関しては言われるまでもない事だが、今は(本心でもあるのだし)同意しておけばいい。
「それで、お前は俺のことが好きで、抱かれてもいいわけだな?」
「え? あ、はい?」
話は終わった。抱かれることに否がないのであれば初夜の習わしに戻るだけだ。
ギルバートがラシェルの小さな顎を掬えば、彼女は大きな瞳でギルバートを不思議そうに見上げてきた。
「殿下?」
「瞳を閉じろ」
「……するんですか?」
「ああ、したい」
「……私、急遽殿下の妻となることが決まったので夜の教育を受けていないんです。どうしたらいいのかよく分からないのですがいいですか?」
「……分かった。今夜は俺に抱きついていればいい。徐々に教えてやる」
「はい」
至近距離で視線が絡んだままでもちっとも動揺せずに淡々と言葉を交わし、ラシェルは漸くその瞳を閉じた。