2 籠の鳥
「殿下。ご機嫌麗しゅう」
休憩が終わり、ギルバートがラシェルを塔まで送っていく途中、一人の男性が声をかけてきた。にこやかに話しかけてくる男は国でも名家の当主で外交次官だ。
「ブレトン卿、今日はどうした? 登城は明日ではないのか?」
「いえ、ちょっと確認したい事がございまして。……失礼ですが、此方の美しい姫君が南レジオンの?」
「ああ、ラシェルだ」
王子妃になったとはいえ、ラシェルの顔は訳あって他の妃に比べてそれほど知られていない。
ブレトンは先日まで隣国に長期外交に出ていたので、夜会などで彼女を目にする機会もなかったのだ。ギルバートが連れている見知らぬ女性ということで、ユークの姫と当たりを付けたのだろう。
「ラシェル、彼はブレトン侯爵、外交次官だ」
「……はい。ラシェルです。ごきげんよう……」
ラシェルはギルバートの腕にぎゅっと捕まりその影に隠れるようにして挨拶した。
それは少し不可解な態度だった。王太子には初対面から飄々としていたのに、まるで怯えるように腕を掴む手に力を入れている。
「これはこれは。随分と内気で可愛らしい妃殿下ですな」
「……ああ、正直私も驚いたのだが、実際に、見ての通りの初な娘だ。父大公や姉姫とは似ていないだろう?」
そういうことが言いたいのだろうとギルバートが笑みを向ければ、ブレトンは苦笑した。
「だがこれが可愛くてな。私以外の男とは仲良くするなと言ってある。悪いな」
え?、とラシェルはギルバートの顔を見上げる。そんなことを言われたことは一度もない。ギルバートは、身分と地位ある者に満足に挨拶も出来ないラシェルの失礼とも取れる態度を庇ってくれているのだ。
「これはまた! ご執心と言うわけですな」
ブレトン卿は笑って、「この中年を男と見ていただけて光栄です」と頭を下げた。ラシェルは曖昧な笑みを浮かべる。その様子にブレトンはまた微笑ましいというように目を細める。ギルバートはそれを静かに見ていた。
暫くギルバートとブレトンは他愛もない話をした。そうしてブレトンと別れると、ラシェルがぽつりと言った。
「ギルバートは、あの人……信用しているんですか?」
「ん?……あー……あの通り気さくで仕事の出来る男だぞ」
「……怖い人ですよ」
「怖い?」
「中身は父と同じ……」
ラシェルの父は南地域圏、ユークを治める大公。その為人は私利私欲に囚われた独裁者と言っていい。ラシェルは自分の父であるこの大公を嫌っていた。
彼女から見れば、傍目には善良そうに見えるブレトンも、その大公と同じような為人と言うのだ。
「……何故分かる?」
「…………もともと人が纏う色というのがあるんです。基本的に善い人は澄んだ色、悪い人は澱んだ色。それに人に害をなす程の悪人の足元には…………黒い狼がいるんです」
ラシェルは暫く躊躇った後、小さな声で言った。
婚姻後暫くしてから知ったことだが、ラシェルには不思議な力とでもいうのか、鑑識眼が異様に鋭いらしく、善人悪人が一目見ただけで識別できてしまうらしいのだ。
「でも、ごめんなさい。あの人は国の要人なのでしょう? 私、失礼な態度を……」
「ああ、それはいい。態度についてはこれからの事を思えば徐々に繕えるようになってもらわねばならないが、今の段階で急ぐ必要はない」
ギルバートは確かにラシェルを寵愛しているし、それを隠そうともしていない。王太子の気に入りの妃となれば下心を持って近付いて来る者も多くなってくる。ラシェルの純真無垢な様は利用しやすいと侮られそうなものだが、ラシェルは見た目ほど簡単な娘ではない。反ってそれを利用して反乱分子を見つける手助けになるとギルバートは考えている。
先程のブレトンもこのラシェルを見てどう出てくるだろうか。あの人の良さそうな顔は本物か建前か、それがこれから選別できるのではと考えていた。
そういう風に今はまだラシェルを幼い女と思わせておいた方が得策だった。
「それより、そういうものが見えるのか」
ラシェルは黙ってこくりと頷いた。
狼は野生、色欲、飢餓、獰猛のシンボルで一般的に悪しきものの象徴とされているものだ。ラシェルの瞳にはそういうものが映り込むのか。
「そんな顔をするな。俺は信じる」
人と異な能力は恐怖心を与え排他されるもの。ラシェルはそれを教えられていたようで、この能力を夫にすら気付かれるまでは自ら告げることはしなかった。
ギルバートが浮かない顔をするラシェルの頬を撫でれば、ラシェルは安堵してにっこりと笑みを見せた。その笑みこそが本当に可愛くてギルバートの表情も緩む。
世の中には説明のつかないことは万々ある。
ラシェルの人を無抜く力は確かなものだった。
例えば、ラシェルの侍女として用意しておいた者にしても、ラシェルは直ぐに傍に置く者となるべく関わらないようにすむ者とを分けていた。ギルバートがこの侍女はいいだろうと思った者でも、ラシェルはろくに声をかける事もなく、何が気に入らないと訊けば「悪い人だから」とさらりと言った。不思議に思い女官長に調べさせれば隠れて小さな調度品などを盗んでいた犯人だと分かった。反対に皆が遠巻きにする表情の乏しい女官に懐いたりする。ラシェルが取り立てた事で分かったが、彼女は真面目で人一倍熱心に主君に仕える女性だった。今ではラシェル付きの筆頭女官だ。
そして、先程のブレトン。彼もごく少ないが黒い噂がある。ただ、貴族社会で足を引っ張りあう事はよくあることで、その噂も故意に流されたものかもしれず、ブレトン自身の人当たりの良さの所為でギルバートも確信が持てずにいたのだ。
けれどラシェルの言葉で決まりがついた。ブレトンは本格的に調べた方が良い。
「しかし、そういうものが常に見えると歩き辛くないか?」
「見えるだけでそのものに傷付けられることはありませんから。実体があるわけではないのでぶつかっても霧のように霧散してまた形に戻ります」
「幽霊のようなものか」
「幽霊は見えません。見えたら怖いです。見えるのは守護動物と言ってその人の守り神のようなものです。それは怖いものでも表情があるからある程度は可愛いですけれど、思いを残した人は虚ろで怖そうです」
実体のないものは幽霊と同じではないかと思うが、そこはラシェル独自の分類があるらしい。確かに虚ろな表情のものよりも威嚇していても表情がある方が可愛いげがあるというのも頷ける。
「守り神か。悪人には悪い動物が憑くんだな」
「波長が合うと居心地がいいんじゃないかと思います」
「なるほど」
「殿下……ギルバートには黄金の獅子が付いているんですよ。こんなに綺麗な動物は初めて見ました」
獅子は太陽、黄金、勝利、高貴、力を意味する王の象徴。それが自分のもとにいるという。王族として嬉しいことだ。
「ああ、あの時綺麗と言ったのはそっちか」
「いえ、ギル自身も綺麗ですよ。貴方の纏う色は冴える程に清々しい。冷たさも含んでいますが、それは王としての資質です」
そう告げるラシェルの表情にあどけなさはなく、いやに凛としていて別人のようだ。ギルバートはただじっと彼女を見つめた。するとラシェルの表情はまたふわりと緩んで微笑んだ。
「大好きです」
「ふっ……お前は意図なく俺を縛る。今夜も行くから起きていろよ」
塔の入口で深い口付けを交わすと、ギルバートはラシェルと別れた。
塔から本城に戻るのに正規の道を通っていては時間がかかるので、多少省略できる道は省いていく。窓から外通路に下りれば、鳥が慌てたように羽ばたいて行った。
ギルバートは飛び立つ鳥を暫し見上げていた。
ラシェルの能力は類稀で貴重なものだ。
王子妃としてではあるが簡単に彼女を手放したユーク大公は、娘のこの能力に気付かなかったのだろうか。
統治者としては自分を裏切る者かどうかの選別がしやすくなるというのに。
ギルバートに見えない以上は全てを鵜呑みにするわけには流石にいかないし、善人であってもどういう善人であるか、悪人であってもその程度と改心、忠誠心の見極めはまた別に必要になるだろう。
それでも、素晴らしい能力だ。
愛する者としてとは別に、彼女は傍近く閉じ込めておく必要がある。
彼女は―――大事な大事な籠の鳥だった。
読んで下さっている方がいるようなので(偶然迷い込んだだけかもしれませんが)、報告しておきます。
こちらの話は、毎月15日ごろ投稿予定です。
ブックマークありがとうございます。