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ポラリス

ポラリスの物語

堀川 忍

一枚の金貨


 僕はその日、パパとママに手を引かれて遊園地までの道を歩いていた。それは他の人から見れば幸せそうな光景に見えたかもしれない。だけど、僕にはその日が幸せとは正反対の「最悪の日」になるかもしれないんだということがなんとなく分かっていた。つまりその日が家族の最後の日になるのかもしれないということを知っていたからだ。アメリカが二度目の世界大戦に巻き込まれるかもしれないというように社会的に不安定な空気がただよっている、千九百三十八年の秋のことだった。

 僕はパパとママの手を握りながら歩いていた。枯葉が歩道を敷き詰めていたので、多分秋も終わりかけて冬が始まろうとしていたんだろう。出かける前にママは僕に手袋をはめるように言ったけれど、僕は手袋をしないでそれをポケットに入れたまま外に出た。日曜日の午前中だったけれど、日差しは暖かかったからだ。

 僕がパパとママの両方の手に握られて歩くのは久しぶりだった。二人の手は大きくて温かかった。その温もりをずっと覚えておきたかったのだ。僕はわざと楽しそうに手を大きく振って歩いたけれど、二人とも目が寂しそうにじっと前を見て歩いていた。僕は何か話しかけようと思ったけれど、いつものように、おかしなことを言って二人を笑わせる気にはなれなかった。だから僕も黙って歩いた。遊園地は思っていたよりも空いていて、僕たちは入場券を買ってすぐに中に入ることができた。

 遊園地と言っても、都会にあるような大きなものではなく、一年のうち何回か小さなこの町の広場にやってくる小さなサーカスのようなもので、トラックで運ばれてくる。一月もすれば、またどこかの町へ行ってしまう小さな移動遊園地だった。それでも他に楽しみのないこの町の子どもたちにとっては、待ちこがれていた楽しみの一つだった。回転木馬や一周五十メートルほどの小さな汽車や、小さなコーンで仕切られたゴーカートの他はたいした乗り物などないものだったけれど、それでも遊具には子どもたちの長い行列ができていた。

「テリウス…ママとパパは大事なお話しがあるから、この金貨で好きなだけ遊んでいらっしゃい」

 ママはそう言うと、僕に金貨を一枚渡してくれた。僕は今まで銅貨しかもらったことがないので、びっくりしてママの顔を見上げた。でもママは真面目な顔をしていて僕を見ていなかった。僕は黙って金貨を受け取ると、遊具がある方へ駆け出した。一度だけ振り返って二人を見たけど、パパもママもベンチに座って何か真剣に話し合いを始めていたんだ。


 僕は金貨をギュッと握りしめた。多分二人は大切な「大人の話」をしているんだろう。僕はまだ子どもだったので話し合いに入ることができないことを知っていた。金貨があれば一日中遊具で遊んでもまだお金が余るくらい価値のあるものだった。二人が長い時間話し合いたかったんだろうなと思う。僕はいろんな遊具を見て回った。どの遊具も魅力的なものだったけれど、今日はどの遊具にも乗りたいとは思わなかった。手の中の金貨は僕の体温で温かくなっていた。僕はいろんな遊具を見ながらぼんやりと歩いている時だった。

「坊やは何を迷っているんじゃな?」

「えっ?」

 そこに黒い服を着たよぼよぼのおばあさんが机のような台を前に椅子に座っていた。僕は一瞬絵本に出てくる魔女かなと思ったが、それは占いのおばあさんだった。その場を離れようとしたら、そのおばあさんがまた話しかけてきた。

「右手に金貨を握りしめて、一体何を迷っておるのじゃ?」

 僕は全身の血液の流れが止まったように驚いた。そして右手に確かに金貨が握られていることを確認した。

「ど、どうして僕が金貨を持っていると分かったの?」

 おばあさんは笑っているような、怒っているような不気味な目で僕を見つめて言った。

「私には何でも見えるのじゃ。目で見えるものなどたいしたもんじゃないからのぅ…」

「どうして、目で見えないのに何でも見えるの?」

「まぁ、いいからそこの椅子に座りなさい」

 僕は不思議な気分になっておばあさんと向かい合わせに座った。黒いのは服だけではなく、台の上に敷かれた布も全部黒かった。以前ママと来た時に「あんなのはインチキだから近寄ってはダメよ」と言われていたのだが、僕は誰にも盗られないようにしっかりと握りしめていて、誰にも分からないはずの金貨のことを言い当てたから、不思議でならなかったんだ。

「何故私に金貨のことが分かったのか、知りたいんじゃな?」

「僕の考えていることも分かってしまうの?」

「あぁ、分かるとも。目で見ようと思っているから、大切なものが見えなくなるんじゃ。心の目で見ねばならぬ」

「心の目?」

「そうじゃ。本当に大切なものは心の目で見るんじゃ」

おばあさんは、自分のわきに置いてあった、鞄の中から水晶の大きな球を出してきて、僕と交互に見ながら手で水晶の球をなでまわしていた。しばらくしておばあさんが、おもむろに僕の顔を見ながらゆっくりと話し始めた。

「坊やには、今四つの道に分かれておる。後の二人と一緒に生きていく道、そのどちらか一人と生きていく二つの道、或いは…」

おばあさんは、そこまで言うとギロッと僕の目を覗き込むように睨んだ。僕はぐっと息を呑んだ。

「…或いは?」

おばあさんはゆっくりと静かに言葉を続けた。僕にはなんとなく、その言葉があらかじめ分かっていたような気がした。

「二人のどちらとも生きていかず、一人で生きていく道じゃ…」

その言葉が何を意味していて、…つまり僕がもっとも恐れている内容だということも分かっていた。パパもママも僕を残して知らない所へ行ってしまうという、最悪の道…

「お前は自分が独りぼっちになることを恐れているようじゃが…」

「僕はどうすればいいんですか?」

「さぁて、どうすればええんかのぅ?」

おばあさんは、少し不気味に笑うと水晶の球をじっと眺めてから、うわ言のように話し始めた。

「いいかな。人間には定められた運命というものがある。それは時として人に深い悲しみを与える場合もあるし、幸運を与えてくれる場合もある。…分かるかな?」

僕はゆっくりと頷いた。

「私には、お前の運命が見えるが、ここでは話すべきではないと思っておる」

「何故ですか?」

「お前は、まだ子どもじゃ。先のことを知ってしまえばお前は自分の人生をあきらめてしまうじゃろう」

「じゃぁ、僕はこれから先どうすればいいんですか?」

「美しいものには『美しい』と、間違っているものには『間違っている』と、自分に素直に言えるように生きていけばいい。…そうすれば自然に自分の進むべき道が見えてくるはずじゃ」

おばあさんは、優しく微笑みながら言った。僕は自分がどうやって生きていけばいいのか分かったような気がした。僕も少し元気になって手に握っていた金貨をおばあさんに差し出した。占ってもらったお礼のつもりだった。でも、おばあさんは首を振って「お金はいらん」と言って、僕の左手に握らせた。それからこう言った。

「このお金は受け取れん。お前が今から出会ったもので、自分の心で本当に美しいと思ったものに、この金貨を差し出すといい」

「本当に美しいと思ったもの?」

「そうじゃ。そしてそれこそがお前に本当の幸せを与えてくれるじゃろう…」

おばあさんは、そう言うと目の前の台と荷物を片づけてどこかへ行ってしまった。僕は去って行くおばあさんを見送りながら、いつまでもそこにいたいような気がした。おばあさんが見えなくなると、僕は左手をしっかりと握りしめて歩き始めた。

「本当に美しいものか…」

僕はぼんやりと遊園地の中を歩きながら、「美しいものって何だろう?」と考えた。いろんな遊具があったけれど、僕はそんなものは少しも美しいとは思わなかった。楽しみにしていたゴーカートも、回転木馬も、今の僕には美しいとは思わなかった。僕は遊園地の外れまで歩いたけれど、「本当に美しいもの」を見つけることはできなかった。学校の友だちは僕がいつも迷っているのを見て「のろまなテリウス」とバカにしていたけれど、ママは僕に「貴方は決して『のろま』なんかじゃないわ。慎重なだけよ」と僕に言ってくれた。


僕はもう一度引き返して入り口の方へ戻ろうとした時、僕と同い年ぐらいの女の子や男の子たちが十人ぐらいで何かを並べて売っているのが見えた。

「あっ、…ポラリスの丘の子どもたちだ」

僕はその子たちを知っていた。知っていたけれど、話したことも一緒に遊んだこともない。

「ポラリスの子と一緒に遊んじゃダメよ?」

ママがそう言っていたからだ。学校のみんなも誰もポラリスの丘の子どもたちと話したりはしなかった。みんな「ポラリスの捨て子め!」とバカにしていた。だから僕も今まで「ポラリスの捨て子!」と言って相手にはしなかったのだ。

でも、どうしてなんだろう? 今日はその子たちのことが気になった。着ている服や靴はボロボロだったけれど、よく見ると友だちのカレンやジャービスと同じような顔をして同じように楽しそうに話し合っている。僕や友だちと同じじゃないかと思った。今日も誰もそこに近づこうとはしなかったけれど、僕は気になって近づいてみた。ポラリスの丘の子どもたちは僕が近づいて来るのを見つけると、一瞬身構えるように皆黙ったけれど、その中の一人の長い髪の女の子が僕に優しく微笑むように言ってくれた。

「いらっしゃい。面白いものがたくさんありますよ?」

僕が黙って地べたに布を敷いて並べられたものを見てみるとそこには、多分ポラリスの丘で作られたであろう様々なものが置いてあった。

「これ、全部君たちが作ったの?」

「ええ、そうよ。先生に手伝ってもらったものもあるけど…」

僕が声をかけると、その…多分同い年ぐらいの女の子が答えてくれた。男の子たちは、僕がバカにするとでも思っているのか、相変わらず怖い顔をして黙っていた。僕は構わず一つひとつの品物を手に取って見ていた。するとそこに二つ並んだ髪飾りとネクタイピンを見つけた。それは、宝石のようなきれいな石が付けられていて、周りにこれもきれいなビーズで飾られていた。

「美しい!」

僕は思わず手に取ってそう思った。きっとパパとママにプレゼントしたら似合うだろうなと思った。

「これ…素敵だね?」

「それは私が作ったものなの。気に入ってもらえたかしら?」

「うん!…本当に美しいよ」

「ありがとう!…そんなこと言ってもらったことないわ!」

「これ、売ってもらえる?」

僕がそう言うと、それまで黙っていた男の子たちも急に笑顔になって僕に話しかけてきた。

「ありがとう!…マリーの細工はすごいだろう!」

「ありがとう!」

「うん!…本当に美しいよ!」

「僕たちはいい友だちになれそうだね?」

 男の子の一人が嬉しそうに握手をしてくれた。

「別々に包んだほうがいいかしら?」

「いや、一緒に包んでくれないかい」

「分かったわ。ええと値段は…」

今まで売れたことがなかったらしく、男の子たちは顔を見合わせた。僕は左手に握っていた金貨を出して、「これで足りる?」と聞いた。金貨を見た子どもたち全員が驚きの声を上げた。

「き、金貨だ!」

「この金貨、とっても温かいわ!」

別の女の子が驚いたように僕の体温が残っている金貨を手にして言った。黒い瞳がきれいな女の子だった。

するとさっきの女の子、マリーが少し困ったような顔をして言った。

「ごめんなさい。金貨なんて私たち見たことも触ったこともないから、お釣りが用意できないわ!」

「お釣りなんていらないよ。実はね…?」

僕はさっきの占いのおばあさんが話してくれたことをみんなに話して、「だから、お釣りはいらないんだよ」と言った。

「それって、きっと北の空の魔女よ!」

「北の空の魔女?」

僕は黒ずくめのあのおばあさんの顔を思い出した。

「うん。ポラリスのマーガレット先生が言っていたわ」

「魔女と言っても悪い魔女じゃなく、年を取った天使様なのよ」

ポラリスの丘の子どもたちは、北の空に向かってお祈りをして、素敵な歌を合唱してくれた。それからマリーが僕に可愛いビーズで作られたネックレスを差し出して、言った。

「お釣りの代わりと言っても全然足りないけれど、このネックレスをプレゼントするわ。貴方に幸運を運んでくるお守りよ」

マリーが僕の首にお守りのネックレスを付けてくれた。そのネックレスもとても素敵だった。

「ありがとう!」

「貴方が幸せになれますように、お祈りしているわ!」

「うん!…ありがとう。また遊びに来てもいいかい?」

「もちろんよ!」

「僕の名はテリウスだよ」

「テリウス…きっと貴方の名前を忘れないわ!」

「この子はヤンキースのファンのケニーで、この子が絵を描くのが得意なジムよ。それからこの黒い瞳の子がジェニファーで、それから…」

「ちょっ、ちょっと待ってくれないかい。僕は魔法使いじゃぁないから、そんなに急にみんなを紹介されても覚えられないよ。また今度ゆっくりと教えてくれないかい?」

「それもそうね?」

マリーが笑いながら言った。白や黒、褐色というように肌の色も様々で、小さい子から僕と同じぐらいの子もいた。みんな笑顔で同じように美しい目をしていた。僕の学校には、白人の友だちしかいない。みんな同じことが当たり前だと思っていたのに、ここにはいろんな肌や髪の子どもたちがいるけど、共通しているのは同じ目の輝きだった。


僕はマリーやポラリスの丘の子どもたちに別れを告げて、ゆっくりとパパとママが待っているはずの、ベンチの方へ駆けて行った。二人がいるのか、もしかしたらどちらか一方か、そしてもしかしたら誰もいないのかもしれないけれど… そんなことは、僕の人生の幸せにはあまり関係ないと思ったからだ。僕は「本当の幸せ」が待っている方へ行くために、美しいと思えるものには「美しい」と言い、間違っていると思ったものには「間違っている」と言える自分に正直な人間になろうと思いながら、小さな遊園地の中を全速力で走っていったのだった。















二本のロウソク

(ポラリスのクリスマス)


 十二月になると町全体が「クリスマスムード」に包まれる。寒い日が続いて、雪も降り始めるけれど、人々はにこやかに町を歩いている。みんなそれぞれの家をリースやツリーで飾りつけ、毎日のように人々は集まり、楽しいパーティーで歌い、踊っていた。僕の通う中学校でも、冬休みが近づき生徒のほとんどが休暇の予定を話題にすることがふえてきた。

「当然だよな…」

 僕は本館から別館に伸びている長い廊下を歩きながらそんな生徒たちを横目に歩いていた。でも僕は…でも僕は違うことを考えていた。まったく違うことが頭の中を占領していて、他のことは考えられなかった。

 何故そうなったのかと言うと、お昼になって食堂でいつものように、ランチをすませて、雑談していた時だった。たいていランチの後は友だちとテーブルについたまま軽い雑談をするのが僕たちの習慣だった。大人たちは「日本の奇襲作戦により、アメリカも大戦に参戦することになった」と噂していたけれど、僕たち子どもはそんなことには関係なく、その日もジャービスやカレンやパトリシア、トーマスたちとクリスマス休暇のことについて話し合っていた。みんな笑顔がキラキラ輝いていた。誰かが面白いことを言うたびに大きな笑い声が食堂に響いていた。それは、いつもの光景であり自然なことだった。そうやって話に興じていると、不意にカレンが俯いた。

「大丈夫カレン?…気分でも悪いのかい?」

 僕の問いかけにカレンはこっくりと頷いた。「待っていて、今お水をもらってくるから…」と僕が立ち上がるとカレンが「ありがとう」と小声で言った。僕は大急ぎで厨房のオバサンに声をかけ事情を説明して水をグラスに入れてもらうのを待っていた時、何気なく横手に立てかけられていた掲示板が目に留まったんだ。ほんの一瞬だったけれど、そこに貼り出されて小さなチラシの一つの言葉が僕の心を奪った。そんなものが、そこに貼り出されていたことに今までまったく気がつかなかった。僕はオバサンから水をもらうとまたテーブルに戻り、カレンに渡した。それを受け取ったカレンは少しずつ飲み始めた。でもまだ蒼白い顔をしていたので、「保健室で休んだ方がいいよ?」とおでこに手を当てて熱の有無を調べようとしたが、よく分からなかった。

「ええ、その方がいいみたいね」

 カレンはゆっくりと立ち上がり友だちのスザンナに肩を抱かれるように別館にある保健室の方へ歩いて行った。

「僕も後で行くよ。先生には話しておくから心配しないで」

 僕はカレンの後ろ姿に声をかけた。それから、ゆっくりとさっきの掲示板の所に戻って、チラシの内容を詳しく読み始めた。僕が何故心を奪われたのかというとその小さなチラシの最初に「ポラリスの家の…」と書いてあったからだ。

「ポラリスの家…」

 僕は小さく呟いた。それは僕がずっと忘れていた記憶の一部分をまるで絵画のように一気に思い出させるものだった。何年か前、僕がママと二人で暮らすようになった「あの日」の記憶が… 年に何度かやってくる移動遊園地で会った十数人の子どもたち…「ポラリスの捨て子め!」とみんなから差別的に呼ばれていた子どもたちの笑顔が懐かしく甦ってきた。確かマリーという僕と同い年ぐらいの女の子が作った髪飾りとネクタイピンを買ったことなど、マリーの美しく長い髪が風に揺れていたことなどを思い出した。あの後、パパは国の東にあるフィラデルフィアという大きな街に行ってしまい、僕はママと二人で暮らすようになったので、ネクタイピンは渡せないままに僕の机の引き出しの奥に入れたままになっているんだけれど… 僕はあの日に約束しておきながら、「ポラリスの家」には一度も行っていなかった。ママが泣いてばかりの日が続いたので、それどころではなかったからだ。もともと大学病院で勤めていたママはその後町で医者として開業して立ち直ったのだけれど…

 僕は手書きの小さなチラシに目を戻し、ゆっくりと読み始めた。そこにはクリスマス会の案内が書かれていて、こんなメッセージが添えられていた。

「貴方は誰かと本当の幸せを分かち合ったことがありますか?…もしよければ私たちと一緒に幸せを分かち合いませんか?」

 僕はそのメッセージを読んだ時、黒ずくめの「北の空の魔女」が僕に言った言葉を思い出した。

「美しいものには『美しい』と、間違っているものには『間違っている』と自分に素直に生きていけばいい。そうすれば自然に自分の進むべき道が見えてくるはずじゃ」


 僕はあの魔女の予言通り自分に素直に生きてきただろうかと自問した。友だちの意見に左右されて自分の意見を曲げてしまったこともあったし、間違っているのに自分を甘やかして楽な道を選んではいなかっただろうか?

 僕は一瞬、自分の選んできた今までの人生を反省した。同時に「マリーやポラリスの子どもたちに会いたい」と思った。あの頃小学生だった僕も今では中学生になって随分変わったから、きっとマリーや子どもたちも僕のことなんか覚えていないだろうけれど、それでもいいから会って今まで行くことを忘れていたことを謝りたいと思った。その時、背後からよく通る声が僕のところに届いた。

「テリウス!…そんなところで、何やっているんだい?」

 振り返ると、ジャービスが笑顔で手を振っていた。保健室に行ったカレンとスーザン以外の友だちが話の続きをやっていた。僕はその光景がなんとなく薄っぺらいものに見えたので首を傾げた。「こっちへ来いよ!」とトーマスが誘ったけれど、僕は首を振った。

「カレンが気になるから、保健室へ行ってくるよ」

 僕はそう言うと食堂を出て、保健室がある別館の方へ歩き始めた。あのまま食堂で談笑の続きに戻る気にはならなかった。もっと大切な何かを考えなければいけないと思ったからだ。


 そうやって別館へ続いている渡り廊下を歩いている時、僕は不意に何かを決心した。「よしっ!」と僕はそれまでよりもしっかりとした歩調で保健室に向かった。

 保健室が別館にあるのは、教室のある本館よりも静かに休めるように配慮されていた。校長室や教官室も別館にあった。保健室に入るとカレンが長椅子に座っていた。保健室の先生の話しによると軽い目眩だったらしい。

「大丈夫かい?」

「心配かけてごめんなさいね…」

 カレンなら分かってくれると思ったので、僕は自分が考えていることを全部話した。カレンは黙って聞いてくれた。話し終わるとカレンは優しい眼差しで僕に話しかけた。

「テリウス…貴方らしいわね。ポラリスのクリスマス会か…きっと素敵な出会いが待っていると思うわ!」

「本当にそう思ってくれるの?」

「もちろんよ!…私に手伝えることがあったら何でも言ってね?」

「ありがとう!…カレン、君に話して良かった!」

 午後の授業の鐘が鳴ったので、僕たちは保健室を出て渡り廊下を並んで教室のある本館の方へ歩いた。僕は気になって足を止めた。

「…あ、あのさぁ、カレン?」

「何?」

「みんなには黙っていて欲しいんだ。さっきの話…」

「いいけど、どうして?」

「みんな『ポラリスの捨て子』ってバカにしているから…」

「貴方が黙っていて欲しいなら、喋らないわ」

「ありがとう…」

 少しだけ胸が痛かった。


 「ポラリスのクリスマス会」は、十二月二十四日の午前中からお昼までだったんだけれど、僕は次の土曜日にポラリスの家に行ってみた。ポラリスのクリスマスの家は丘の上にひっそりと建てられた古ぼけた昔の教会だった。初めて行くので、僕はドキドキしながら丘を登って行った。すると門の前にとっても綺麗な少女が家の周りを箒ではいていた。僕に気づくとその少女が首を傾げて何かを思い出したように、笑顔で僕に話しかけた。

「…貴方は、もしかしたら…テリウス?」

「何故僕の名前を知っているの?」

「やっぱり?…あぁ、テリウスよく来てくれたわね!」

「よく覚えてくれていたね」

「約束したでしょう?…貴方のことは決して忘れないと…」

「でも、僕は約束を破ってここに来なかった…」

「いいえ。貴方は約束を守って来てくれたわ。今日、ここへ!」

 マリーは僕のことを覚えてくれていた。こんな僕を何年も… マリーは僕の手を取って僕を中へ招いてくれた。

「みんな~!…素敵なお客様よ!…『金貨の王子様』よ!…さぁ、テリウス中へ入って!」

 マリーの声にみんなが集まってきた。口々に「あっ、あの時の王子様だ!」と言うので、僕は照れ臭かった。見たことのない小さな子もいたけど、みんなそれぞれに大きく成長していた。みんな僕のことを覚えてくれていた。僕はそれに驚いていると、「私が毎晩寝る前に貴方のことを話してあげたからよ」と小声で囁いた。「まるでヒーローだね?」僕がそう言うと、「確かに貴方はこの子たちのヒーローなのよ」と笑顔で答えてくれた。すると、まだ三才ぐらいの女の子が右足を少し引きずりながら僕の前に進み出て言った。

「初めまちて、王子ちゃま…わたち、アニーでちゅ」

 アニーと名乗る女の子が右手を差し出したので、僕は恥ずかしかったけれど、絵本の王子様のように片膝をついてその小さな手に優しくキスすると、みんなが拍手してくれた。まるで夢のような感じだった。

「アニーは生まれつき、右足が不自由なの…」

「そうなんだ。…だけど、きっと素敵なレディになれるよ」

 僕はマリーの説明にも違和感を持たないで答えた。

「みんなは何をしていたの?」

「クリスマス会の準備だよ」

 ケニーと名乗った少年が雑巾で窓を拭くそぶりなどしてくれた。ジムという少年はハタキでバタバタしてみせた。他の子たちもそれぞれに掃除する真似をして見せてくれた。「でもなぁ…」と、ケニーがちょっと寂しそうな顔をした。

「どうしたの?」

「今年はサンタさんが来てくれそうにないのよ」

 マリーの説明によると、毎年援助をしてくれている資産家のマクガイヤーさんがクリスマスにはサンタクロースの格好をしてくれて、子どもたちにプレゼントをくれるのだが、今病気で入院していて今年は来ることができそうもないらしかった。

「そりゃ、困ったね…」

「うん…でも私たちだけでも…たとえプレゼントがなっくってもクリスマス会は予定通りするつもりよ?」

 マリーは笑顔に戻った。僕はしばらく考えてから「僕に考えさせてくれないかい?」と言って、みんなで掃除を始めた。二時間ぐらいで、だいたい終わったので、僕はクリスマス会に参加することを約束して、ポラリスの家を後にした。僕は家に戻って、自分の部屋で考えたけれど、いいアイデアが思い浮かばなかった。

僕はママに相談することにした。「ポラリスの家には行っちゃダメ!」と言っていたので、迷ったけれど、今までのことを全部話した。ママは最初は少し不愉快な顔をしていたけれど、僕の話を最後まで黙って聞いてくれた。

「テリウス、いつまでも子どもだと思っていたけれど、しっかりと成長しているのね。…サンタが来ないなら、貴方がサンタさんになってあげれば?」

「僕がサンタさんに?」

「ええ。…ただし、プレゼントは自分でなんとかしなさい。ママがお金を出したら、貴方の真心が伝わらないわ」

「僕の真心かぁ…」


 僕は、次の日…つまり日曜日にもう一度ポラリスの家に行き、子どもたちと話しながら、それとなく子どもたちから欲しいものを聞いてみた。僕は子どもたちの欲しいものをメモしていると、マリーが不思議そうに聞いてきた。

「何をしているの?」

「なんでもないよ。…ところで、君は何か欲しいものある?」

「いいえ。私は貴方が来てくれるだけで幸せよ」

「そうじゃなくて、具体的には何かあるだろう?…ドレスとか、髪飾りとか…」

「いいえ。『本当の幸せ』は形なんかないわ。私は貴方が来てくれるだけで、最高に幸せよ?」

「確かに『幸せ』は形にできないかもしれないけど…」


 次の月曜日に僕は子どもたちの欲しがっているものをリストにして学校へ行った。僕はこっそりとカレンに見せて友だちから寄付してもらうことにしたことを話した。カレンは「私にも手伝わせてちょうだい」と言ってくれた。冬休みまでにはあまり時間がなかったので、大急ぎで友だちに話した。次の日から買ったけど使っていないノートやいらなくなった鞄、クレヨンや絵本やぬいぐるみや人形…いろんなものを僕とカレンは集められるだけ集めた。

「ありがとうカレン。君のおかげでこれだけのプレゼントを集めることができたよ!」

「テリウス。…これが貴方の真心よ。…そして、私から貴方へのプレゼントがあるの。もらってくれる?」

 そう言うとカレンは僕に紙包みをくれた。「何これ?」と包みを開けてみると、中には真っ赤なサンタクロースの衣装が入っていた。

「私の手作りなの。…似合うかしら?」

「素敵だ。ありがとう!」

「私はフロリダに旅行に行くから、クリスマス会には参加できないけれど、ポラリスの友だちにカードも添えてあるから、渡してあげてね?」

「カレン。本当にありがとう!…大好きだよ!」

 僕はカレンの手を取って感謝の気持ちを言った。これで準備はばっちりだ。


 「ポラリスのクリスマス会」にはママが車で送ってくれた。まさかサンタの衣装を着てプレゼントの入った白い袋を背負って町の中を歩けないから…でも、ポラリスの家のドアの前でマリーが困った顔をして座っていた。僕が訳を聞くと、パーティーの準備をしている時にアニーが間違ってオルガンを壊してしまったらしいのだ。

「讃美歌も歌えないクリスマス会なんて、がっかりだってみんな困っているの」

「そうか…」と僕も隣に座ったけど、不意にいいアイデアが浮かんだ。

「ねぇ、この家にはギターはないかい?」

「亡くなられた神父様の古いギターなら、確か物置に…」

「それ、持ってきてくれないか?…そうして、みんなを会場へ集めてほしいんだ!」

「どうするの?」

「パーティーを始めるのさ。楽しいパーティーを!」

 マリーは家の裏にある古いギターを探し出してきた。それは確かに古かったけれど、弦も六本張られていて、チューニングさえすれば僕にもなんとか弾くことができそうだった。僕はピアノやヴァイオリンの代わりに若い頃ギター奏者だったパパからギターを教えてもらっていたのだ。チューニングを終えると、僕とマリーは並んで家のドアを開けた。

「メリー・クリスマス!…さぁ、パーティーの始まりよ!」

 マリーの元気な言葉に子どもたちがツリーの飾られた広間に集まってきた。

「あっ、サンタクロースだ!」

 みんなの顔に元気な笑顔が戻ってきた。みんなに取り囲まれて僕は「サンタらしく?」笑顔で手を挙げて「メリークリスマス!」と子どもたちに挨拶をしたんだ。それからみんなの中心に用意してもらった椅子に座り話し始めた。それは、学校の音楽の時間に先生から聞いた話をアレンジしたものだった。


「昔、ドイツとオーストリアの国境に小さな村があったんじゃ。その小さな村には小さな教会があって、ヨゼフという神父様がクリスマスの準備をしておったんじゃが、クリスマスの前日に教会のオルガンが壊れてしまった。イヴのミサに讃美歌が歌えないと村の皆ががっかりする。困った神父は友だちで小学校の先生だったグルーバーさんという人に相談に行ったんじゃ。話を聞いたグルーバーさんは、『オルガンがなければ、皆で歌える歌を創ればいいじゃないですか』と自分が持っていたギターを出してきた。そこでヨゼフ神父が昔書いた詩をもとにして出来上がった歌が、これじゃ…」

 僕はマリーが抱えていたギターを受け取って、優しくアルペジオで引き始め、「聖しこの夜」の歌を歌い始めた。みんなも僕と一緒に歌い出した。アニーもマリーも安心したように歌ってくれた。それから、持ってきたプレゼントを一人ずつ名前を呼んで渡したんだ。みんなは自分が欲しかった絵本や人形、ノートなどをもらってとても満足したように喜んでくれた。カレンのカードをマリーにプレゼントした。

「王子様はサンタクロースだったの?」

 アニーが不思議そうに僕の顔を覗き込んだ。みんな大笑いした。楽しい雰囲気で「クリスマス会」が始まり、そして終わった。みんなで質素な昼食もご馳走になった。

 

 僕は帰りがけにマリーに呼び止められた。振り返るとマリーがロウソクを二本持って立っていた。

「これは昨年のクリスマスにサンタ様から頂いたプレゼントで双子のロウソクなの…一本は私が、そしてもう一本を一番大切な人に渡すと二人は永遠につながることができるのよ?」

 そう言うとマリーは二本のうちの一本のロウソクを僕に差し出してくれた。

「これを僕に?」

「貴方は、私の…私たちの一番大切な人だから…」

 マリーの瞳は涙で輝いていた。僕はマリーを抱きしめて「ありがとう」と囁いた。今までで最高に楽しいイヴを過ごすことができたと僕は思った。


 家に帰ってママに報告すると「素敵な時間が過ごせて良かったわね?」と言ってくれた。夜になって降り始めた雪は、明日の朝には積もっているかもしれないと思った。僕は窓辺に立ち、マリーからもらった双子のロウソクに火を灯した。町の教会の鐘が静かに低く鳴って、素敵なイヴの夜がいつまでも続くような気がしてならなかった。

「誰にだって、メリー・クリスマス…」

 僕は、ここにいるはずもない、マリーやカレンの笑顔にロウソクに小さな火を灯して呟いたのだった。















三匹の子猫


春になれば、木々が芽吹き花々も咲き誇り、町がいろんな色に包まれる。だが、そんな春といってもそんなに嬉しいことばかりじゃない。僕はどうも虫というか、昆虫以外の虫が苦手なのだ。「たかが虫じゃない!」とママや友だちに言われるのだけれど、どうしても見ただけで吐き気がするほどにきらいなんだ。

特に足の数が異様に多い、ムカデやダンゴムシが許せない。一体神様は何故あのように必要以上に足の多い生き物を許されたのか、僕には理解できなかった。それなのに、ポラリスの子どもたち…特に男の子は、僕が苦手だと分かっていながら「これ、プレゼント!」と言ってダンゴムシが大量に入った箱をご丁寧にラッピングまでして渡すんだ。箱を開けて僕が悲鳴を上げるのを楽しんでいるみたいだ。もちろん、僕はあまりいい気分ではないけれど、ダンゴムシを殺したりはしない。ダンゴムシには、彼らなりの生き方があるのだから、ママがゴキブリを殺虫剤で殺すよりかはマシだと思っている。


僕はクリスマス会以来、学校が休みで特別な用事がない時は「ポラリスの家」に行って子どもたちと遊んだり勉強を教えたりするようにしていた。もちろん、たまに子どもたちからイタズラなプレゼントをもらうこともあるけれど、僕は子どもたちが大好きだった。でも、カレン以外の学校の友だちには秘密にしていた。…と言っても、カレンは冬休み以後ずっと学校を休んでいる。友だちのスーザンの話によると、フロリダの病院に入院しているらしかった。心配でお見舞いに行ってあげたいけど、フロリダまで行く時間もお金もないので、早く元気になるよう祈ることしかできなかった。マリーやポラリスの子どもたちもクリスマス会の偽サンタの手伝いや、プレゼントのラッピングをカレンがしてくれたことを知っていたので、カレンのことを「ソバカスの天使様」と呼び一緒になってお祈りしてくれた。手紙を書くことは許されていたので、僕は日々の「ポラリス情報?」をカレンに手紙で報告した。カレンからの返事には僕の書く可笑しな情報を読んで大笑いしたことや、「元気になって、早くみんなに会いたい!」と綴られていた。

「まだ、会ったことないけど、きっと素敵な人なんでしょうね?」

 マリーが青い瞳を輝かせた。僕はソバカスだらけのカレンの無邪気な笑顔を思い出して、「外見はともかく、本当に心の優しい女の子だよ」と言った。

「外見はともかく…は、余計よ!…今度カレンに会ったらバラしちゃうわよ!」

 マリーが口を膨らませた。「その顔…カレンにそっくりだよ」と僕が茶化すとマリーが手を上げてげんこつで僕の頭を軽く叩いた。そんな時、本当にカレンがここにいればいいのに、と僕は思った。


 春が過ぎて、初夏になって学校で「メイフェスティバル」が始まろうとしていた頃にカレンがこの町に戻ってきた。学校の友だちもみんな元気そうなカレンの顔を見てホッとしたように彼女の周りに集まってきた。

「元気そうで安心したわ!」

「ありがとう!」

「病院なんて退屈じゃなかったかい?」

「おかげで、たくさん本が読めたわ。他にすることないもの…」

「メイフェスティバルに間に合ってよかったわね」

「みんなに会えて本当に幸せよ!」

 僕も何か話したかったけれど、言葉にするとポラリスの家のことが出てしまいそうだったので、ただニコニコと微笑んでいるだけだった。そんな僕に気がつくとカレンは少し疲れたように言ったんだ。

「みんなに会えて嬉しいけれど、少し疲れたみたいだわ。テリウス、私を保健室に連れて行ってくれる?」

「いいよ。大丈夫かい?」

「少し休めば平気よ。みんな、ごめんなさいね」

 僕はカレンの手を取って本館の教室から保健室の方へ歩き始めた。保健室の長椅子に座ったカレンは舌を出して笑った。

「私の仮病、ばれなかったかしら?」

「えっ?…本当に疲れたんじゃないの?」

「貴方と二人っきりになりたかっただけよ」

「なぁんだ。心配して損したよ」

「それより、ポラリスの家の話を聞かせてよ?」

 僕はカレンの隣に座って、クリスマス会のことや、その後のことをすべて話した。…もちろん、カレンのソバカスのことは内緒にしていたけれどね。カレンは、僕の話を手紙で全部知っているはずなのに、初めて聞いたように喜んでくれた。時々咳き込むことが心配だったけれど、カレンは次の土曜日に一緒にポラリスの家に行くことを約束してくれた。


 次の土曜日は、朝からとてもいい天気で風も穏やかだった。僕はカレンと待ち合わせ場所の大きな楡の木のある公園に向かいながら、自然と口笛を吹きながら、歩いていた。ポプラ並木の道を三百メートルほど歩けば公園に着くはずだった。僕は一瞬「学校の友だちに会ったらどうしよう?」と思ったけれど、公園のベンチで座って待っていたカレンが手を振るのを見て、「どうでもいいや」って気になった。

「待った?」

「いいえ、今さっき着いたばかりよ」

「じゃぁ、行く?」

「私、初めてだから、ドキドキするわ。嫌われないかなぁ?」

「大丈夫だよ。君は天使様だと思われているから…」

 僕は右手を差し出し。カレンと手をつなぎながらポラリスの丘を目指して歩き始めた。ポラリスの丘は町の外れの北にあった。あまり人が近づかないので、丘には綺麗な花が今を盛りと咲き誇っていた。カレンはまだ心配そうにしていたが、家の前で遊んでいる子どもたちが僕たちに気づくと大きく手を振ったのを見て安心したように笑顔になった。

「こんにちは!…貴方がケニーで、そして貴方はジムね?」

「ソバカスの天使様だね?…でも、どうして分かったの?…僕たちの名前」

「ウフフ天使様だから…かな?」

 二人の子どもたちは、驚きを隠せないように、家の中に飛び込んでしまった。僕も驚いて三人のやり取りを見ていたけれど、カレンは僕の顔を見て微笑みながら言った。

「貴方の手紙を読んでいたら、写真を見なくても誰が誰だか分かるわ。ヤンキースファンのケニーに鼻の右側に少し大きめな黒子のあるジム」

 僕が「さすがカレンだね?」と両手で感心したそぶりをして見せ、それからドアを開けて家の中へ入って行った。「天使様だぁ!」と何度も叫んでみんなを呼んでいたケニーとジムの周りに集まって来た子どもたちの一人ずつ名前を言って握手をしたカレンに、皆が驚いた顔をしていた。そして最後にやってきたマリーにも「あぁ、貴方がマリーね?…テリウスが話していた通りの素敵なお嬢様ね!」と言い軽くハグした。

「クリスマス会では、本当にありがとう!」

 マリーも嬉しそうに言い、それから「先生たちに紹介するわ!」とカレンの手を取ってマーガレット先生たちの部屋へ案内してくれた。ノックして入るとキャサリン先生もいて、カレンが二人の先生に軽くおじぎをした。「こちらが…」とマリーが先生たちを紹介しようとすると、カレンはまた微笑んで言った。

「マーガレット先生と、キャサリン先生ですね。初めまして、カレン・ノーマンです。テリウスに誘われてお邪魔しに来ましたわ」

「カレン。ようこそ、ポラリスの家へ!」

 若いキャサリン先生がカレンを抱きしめて、喜んでくれた。マーガレット先生も「本当に噂通りのお嬢様ね。テリウスを巡ってマリーと三角関係にならなければんだいいけど…」と微笑んだ。するとマリーもカレンも…多分僕も顔を紅潮させた。 

「そんなことありません!」

 マリーが僕のそばからスッと離れて大きな声で反発した。カレンは恥ずかしそうに俯いていた。「好きならば、素直に好きと言えばいいのに…まぁ、これ以上言うと邪推になるわね。カレン?…楽しんでいらっしゃいね?」

「はい…!」

 カレンが顔を上げ、まだ紅い顔をしたままで微笑んだ。それから僕たちはまたお辞儀をして部屋を出て、子どもたちのいる広間に行った。みんながカレンと話したがっているのを察したように、マリーが意地悪そうに言った。

「さぁ、貴方たちはお勉強の時間よ。今日は先生が二人もいるから、ビシビシとしごいてもらうといいわ!」

「え~っ!…天使様の話を聞きたいのに…」

 背の高いジャックが少し不満そうに言った。でもマリーが怖い顔をして睨んだので、みんな仕方なく勉強部屋に行き自分の席に着いて英語や数学の教科書を広げた。教科書と言っても、古本屋で安く買ったボロボロの教科書ばかりだった。するとその部屋にもうすぐ四才になるアニーが足を引きずりながら入ってきた。

「アニー、勉強の邪魔だからあっちで遊んで待っていて」

 黒い瞳のジェニファーが言うと、カレンは空いている机にアニーを招いてから、「アニーちゃんもお勉強がしたいのよね?…ここで文字のお勉強をしましょうね?」とマリーに紙をもらって「アニー」と名前を書いて「自分の名前を書く練習をしてくれる?」と言い、僕とカレンが先生役をして勉強時間が始まった。まるで本当の授業のように、みんな真剣に勉強し、僕は自分が得意な科学や数学を教え、カレンが歴史や文学を教えた。アニーは一生懸命に自分の名前を書いていた。カレンはアメリカ文学を始めとして、ヨーロッパの各国の文学にも精通していて、純文学から童話まで幅広く子どもたちに分かりやすく解説していた。とてもじゃないけど、僕にはかなわなかった。歴史的な知識も豊富だった。「カレンはすごなぁ…!」と僕が驚いたように言うと、「入院中に本を読むことしかできなかったからよ」とカレンは微笑んだ。勉強時間が終わると、広間でカレンを中心にして楽しい時間を過ごした。僕たちは昼食をご馳走になって、それから再会を約束してポラリスの家を後にした。僕もだけど、カレンもとても嬉しそうに、「とっても楽しかったわ!」と言ってくれた。

 その後、僕の家に行き、ママが出してくれたお茶とクッキーを食べながら、雑談をした。カレンは時々咳き込むぐらいで、相変わらずいつもと特に変わった様子はなかった。けれどママは「ちょっとカレン、私の部屋に来て?」と言い二人は中に入って行った。三十分ほどしてカレンは出てきた。

「何かあったの?」

「ううん。何でもないわ!」それから、また二人で話の続きをしてから、やがてカレンは自宅へ帰った。ママは少し寂しそうな顔をしていたけれど、僕には何も言わなかった。


 そ日の夜にカレンから電話があった。

「もしもし、テリウス?」

「どうしたの?」

「ちょっと相談したいことがあるの…」

「何だい?」

「会って話したいの。今から来られない?」

「君の家へ?…いいけど…」

「ごめんなさい。貴方にしか相談できなくて…」

 僕はママに訳を話してから、夜の町を歩き、カレンの家のドアを叩いた。ドアを開けたメイドは僕を客間に通してくれた。カレンとカレンの両親が迎えてくれた。

「こんばんは」

「すまないねぇ、パーカー君。こんな夜に…」

「実は…」

 カレンがソファーの隣に置いてあったバスケットをテーブルの上に置いた。小さな鳴き声をきいて、僕は中に子猫が入っているのが分かった。

「子猫?」

「これを拾ってきたらしいんだ。カレンが…」

「貴方の家からの帰り道に公園の隅っこで鳴き声に気がついたのよ」

「このバスケットの中に?」

「開けてみたら、生まれたばかりと思われる三匹の子猫ちゃんが入っていたの」

 カレンがバスケットを開けると、中には可愛い生まれたての赤ちゃん猫が三匹鳴き声を上げていた。三毛猫や黒と白のぶちで、どれも可愛らしく、「生きたいよ~!」と訴えかけるような目で見ていた。するとノーマン氏が言った。

「うちで飼ってあげればいいんだけれど、娘の病気に支障があると困るので無理なんだよ。…かと言ってこのまま捨てるのは、カレンが許さないし…」

「それだけは、嫌なの!…この猫ちゃんたちを見殺しにはしたくないの!」

「分かっているよ、カレン。だからパーカー君を呼んだんだろう?」

 カレンが僕の方に向き直って懇願するように僕に言った。

「テリウス、お願い。この子猫たちの貰い手になれないかしら?」

「僕は、君の気持ちはよく分かるし、すぐにでもOKしてあげたいんだけど…」

「ダメなの?」

「うん。ママは小動物が苦手なんだ」

「…やっぱり、ダメかぁ…」

「カレン、他の友だちに聞いてみたらどうだい?」

 僕はカレンの悲しみに溢れた顔を見るのが辛かった。なんとかしてあげたいと思って考えた。そしたら、とてもいい考えが思い浮かんだんだ。

「カレン、僕はこの子猫たちの最高の場所を思いついたよ!」

「どこ?」

「ほら、君も今日行ったじゃないか!」

「ポラリスの家?」

「うん!」

「でも、あそこじゃ猫の食事を出す余裕がないわ…」

「食費なら、パパが毎月出させてもらうよ」

「本当?」

 カレンの顔が急に明るくなった。それを見て、ノーマン夫妻も笑顔になった。

「良かったね、カレン!」

「ポラリスの家なら、いつでも会いに行けるわ!」


 次の日曜日、教会のミサが終わってから、僕とカレンは昨日に続けてポラリスの家に行った。バスケットは僕が持ち、ポラリスの家で訳を話した。

「可愛いお客様ね。もちろん大歓迎よ!」

 カレンがマリーに抱きついて「ありがとう!」を連呼した。マリーはカレンの喜びように少し驚いたように言った。

「カレン、この子たちも捨てられていたんでしょう?…ポラリスの家は、神様に恵まれなかった者にとって平等に扱われるのよ。だから、当然のことなのよ」

 僕は予想通りの展開に満足して「やっぱり、ここに来て正解だったね、カレン?」とカレンの肩を抱いた。それから「食費はカレンのお父さん、つまりノーマン氏が出してくれるらしいよ」と言った。

「まぁ、食費のことまで面倒をみてくれるの?…嬉しいわ!」

 マリーは神様にお祈りするように手を組んで言った。それから「名前を考えなくっちゃいけないわね?…カレンが名付け親になってあげて!」と言った。

「私が?…じゃぁ、三銃士から名を取ってこの子がダルタニアンで、この子がアトス。そしてこの子がポルトスでいいかしら?」

「素敵ね!…さすが文学に造詣が深いカレンだわ!…テリウスもいい?」

「カレンの猫だから、構わないけど、みんな男の子なの?」

「あっ、そうか。確か三毛猫のアトスは女の子だから…アンの方がいいかも…」

「決まりよ。三毛猫のアン!…きっとアニーも他のみんなも喜ぶと思うわ!」

 ポラリスの家の先生たちの了解を得て、三匹の子猫が子どもたちに紹介されと、思っていた通りアニーが一番喜び、まるで自分の友だちのように何か話しかけていた。「アニーばっかりズルいぞ!」と取り合いになって叱られていた。


 次の土曜日にカレンはカメラを持ってきて、子猫や子どもたちの様子を写していた。子どもたちは最初少しはにかんでいたけれど、カレンが上手にシャッターを切ったおかげで後から見せてもらった写真には可愛いポーズの子どもたちばかりが映っていたんだ。

「どうするの?…この写真」

「三枚ずつ焼いてもらったから、一冊はポラリスの家に。そして貴方に…もう一冊は私の思い出にするわ」

 まだカメラなんて高価なものだったので、アルバムに入れてもらったマリーたちが喜んだことは当然だったが、ママにそのことを話すと、ママは少し悲しそうな顔をして僕の手を握り、こう言ったのだ。

「テリウス。貴方、カレンと友だちでいてあげることは素敵なことだけど、彼女を愛することはやめておいた方がいいわよ?」

「どうして?」

「貴方に悲しさを味わってほしくないからよ…」

「どういう意味?」

「後で分かると思うわ」

 ママはそれきり口を閉ざした。それから数ヶ月もしないうちに僕にも「その言葉」の意味が分かることになるのだけれど…その時の僕にはポラリスの子どもたちの笑顔が眩しく見えるばかりだった。




























四葉のクローバー


 「その日」がくるまで、僕は休日には毎週のようにポラリスの家に通っていた。夏休みが始まろうとしている頃までは、カレンも一緒だった。子どもたちに勉強を教えたり、ギターで歌を歌ったり、ゲームをしたり楽しく過ごしていた。…そう。夏休みが始まろうとしていた六月の中頃までは…


 カレンが州都の病院に入院したのは、あまりに突然だったので、僕たちは驚きを隠せなかった。その何週か前までは、明るく楽しくみんなと学校でも、ポラリスの家でも笑顔を見せていたからだ。当然、僕がポラリスの家でみんなに話した時もマリーはもちろん、子どもたちもみんな驚いたし、困惑の色を隠せなかった。マーガレット先生たちも、「カレンの病気が早く良くなるように、お祈りしましょう…」としか言わなかった。

「カレンは、何の病気なの?」

 マリーが僕に聞いた。心配で仕方なかったのだろう。

「さぁ?…ママは何か知っているみたいだけど…」

 僕は嫌な予感がしたけれど、本当に何も知らなかったのでそれ以上答えることができなかった。

 カレンのことは、以前から身体が弱いとは知っていたが、生活に支障をきたすようなことはなく、寧ろ友だちのことを心配しているようだった。それなのに、急に学校を休学したのだ。驚かない方が不自然だよね。でも、僕は一度だけカレンがポラリスの家で咳き込んだ時に血を吐いたところを見ていた。たまたま誰もいなかったので、「みんなには言わないでね?」とカレンが真蒼な顔で僕に話した。僕は「君が言って欲しくないなら、誰にも言わないよ」と約束をしたけれど、入院したと聞いて僕はママに聞いたんだ。ママは真剣な顔になって僕をキッチンの椅子に座らせ、自分も隣に座って静かに話してくれた。

「カレンはね…肺結核なのよ」

「ハイケッカク?」

「肺の病気よ」

「治らない病気なの?」

「肺結核は、今の医療ではどうすることもできない『死の病』なのよ」

「じゃぁ、カレンは死ぬの?」

「もって半年ってところかな。…でも誰にも言っちゃダメよ」

 確かに当時の結核には特効薬であるストレプトマイシンが発見されるまで一年間待たなければいけなかったので、どうすることもできなかった。「もしも、あのままフロリダの病院で養生を続けていたら…」とも思ったが、きっとカレンは自分の意志で故郷の町に帰ってきたんだと思う。きっと学校やポラリスの家のみんなに「サヨナラ」を言うために…

 やがてカレンが入院すると学校ではしばらくの間、カレンのことが話題になったけれど、次第に当時真っ最中だった世界大戦のことが話題の中心になっていった。僕にはそれが辛かったけれど、まさか「ポラリスの家」のことを話題にすることもできなかったので、みんなからは距離を置いて一人で考えるようになった。僕は学校が早く夏休みになればいいのに、そのことばかり考えていた。そうすれば僕は毎日ポラリスの家に行けるし、余計な戦争のことを考えなくてもすむからだ。僕は友だちには何も言わなかったけれど、マリーにだけはカレンのことを全部話した。他の子どもたちには聞かれないように、丘の上で…

「僕はどうしたらいいんだろう?」

「こんな時にこそ『北の空の魔女様』が来てくれればいいのだけれど…」

 マリーはそう言い、それから丘の地面をキョロキョと何かを探し始めた。それから、小さな草を引き抜いて僕に差し出した。

「これを、カレンに…」

「これはクローバー?」

「うん。でも普通のクローバーじゃなくて、四葉のクローバーよ。カレンに幸運が来ますように…」

 マリーはそう言うと両手を広げて立ち上がり、大きく伸びをした。僕も隣で背伸びをしてみた。「そうだ。カレンのために、今できることの最善を尽くせばいいんだ!」と僕とマリーはお互いに微笑んだ。

 その夜、ママから四葉のクローバーの葉の栞の作り方を教えてもらった。このままだと葉の水分で腐ってしまうか、枯れてしまうからだ。古新聞に挟んで水分を抜き取り、それを何回か繰り返すと葉の色は変わらないままに十日ほどで可愛い栞が仕上がった。僕はそれを持ってお見舞いに行った。


 州都までは、五時間ぐらい汽車に揺られなければ行けなかった。僕は病院で少しやつれたカレンと再会した。カレンとポラリスの子どもたちと子猫たちのことをたくさん話した。それから四葉のクローバーの栞を渡した。

「素敵ね。私にも幸運がやってくるかしら?」

「きっと君にも幸せが訪れるから、諦めちゃダメだよ」

「うん!」

「退院したら、一緒にポラリスの家に行こうよ。みんな待っているから…」

「そうね…」

 カレンは軽く咳き込んだ。僕はカレンの痩せて小さくなった背中をさすった。その時、僕は何故か「これが最後かもしれない」と思った。僕はカレンが愛おしく思えて、顔を近づけて頬にキスをした。カレンは頬を染めて言った。

「貴方のキスが何よりのプレゼントだわ…」

「ずっと待っているから、必ず帰ってくるんだよ?」

 僕の言葉にカレンは微笑みながら、小さく頷いただけだった。

 面会時間も制限されていたので、僕は病室を出て廊下の長椅子に座り、思い切り泣いた。声には出さなかったけれど、涙が溢れて止まらなかった。帰りの汽車の中でもカレンのことを思い出すたびに涙が出てきたのだった。


 学校ではカレンのことが話題にのることも少しずつ減ってきて、アメリカを巻き込んだ世界大戦のことが多くなってきた。アメリカやイギリス、フランス、ソビエトなどを中心とした連合国とドイツ、日本、イタリヤを中心とした枢軸国との戦いは、ヨーロッパではナチスドイツが、太平洋では日本が最初は圧倒的な強さで進撃していたけれど、アメリカが参戦することで一進一退の状況が続いていた。学校でも新聞やラジオから流れる戦況にみんな一喜一憂していた。でも、僕はそんな話題には加わろうとはせず、カレンの無事を祈るばかりだった。

 ポラリスの家でも、箒やハタキをライフル銃に見立てたりして子どもたちが戦争ごっこに興じていた。ヤンキースファンのケニーが「憎きナチスめ!…やっつけろ!」と言い敵側に回された相手を箒の銃で撃ち殺す真似をして見せた。

「ねぇ、テリウスも一緒にやろうよ!…連合軍の大将になってよ!」

 ケニーが僕を誘ったが、マリーは困った顔をするばかりだった。僕は子どもたちを集めて言った。

「戦争は勝手な大人たちが自分の利益のために始めたことだろう?…確かにアメリカ本土では戦場になっていないので、分からないかもしれないけれど、ヨーロッパの各地では破壊された建物の影で隠れて泣いているのは、女性や子どもたちじゃないのかなぁ。戦争で親を失って泣いている戦災孤児たちの悲しみを一番よく知っているのが、ポラリスの子どもたち…つまり君たちじゃないのかい?」

 僕の話を聞いてケニーは箒を床に置いて泣き出した。他の子どもたちも持っていた武器に見立てたものを置いた。みんなの肩に手を当てて僕は「早く戦争が終わるように、みんなでお祈りしよう」と言った。みんな静かに礼拝場のキリストの肖像の前で祈った。その後、子どもたちは二度と「戦争ごっこ」はしなくなったとマリーが教えてくれた。僕は丘の上でマリーに悲しみを打ち明けた。

「カレンが死んでしまったら、僕はどうすればいいんだろう?」

「カレンを愛しているのね?」

「僕は…君と同じぐらいにカレンを愛しているんだ…」

「私と同じくらいに?」

「今はカレンで頭が一杯だけど…」

「私には分からないわ。…マーガレット先生に聞いてもらうといいと思うわ」

 僕たちは、丘を降りて先生の部屋に相談しに行った。マーガレット先生は、僕の話を真剣に聞いてくれた。話し終わると静かに先生が言った。

「カレンがもしも天国に召されたとしても、カレンの肉体が滅んだとしても、カレンの魂はテリウス…貴方の心の中で永遠に生き続けることになるのよ」

「永遠に?」

「はい。貴方がカレンを愛している限り、永遠です」

 僕はマーガレット先生の言葉が心に沁みた。久しぶりに微笑んだ僕は「ありがとうございます」と言い立ち上がった。マリーも微笑んで立ち上がった。そして僕の肩に手を添えて「良かったわ。やっとテリウスに笑顔が戻ったんですもの!」と言って二人は先生の部屋を出て行った。


 「その日」の前日の夜に、ノーマン氏から電話があった。僕はカレンがくれたアルバムに写っているポラリスの子どもたちやダルタニアンやアンなどの子猫の写真を見ていた。しばらくして、ママがノックもしないで僕の部屋に入ってきて、少し慌てているように言った。

「テリウス、すぐに支度してちょうだい」

「どこに行くの?」

「病院よ。カレンが危ないらしいの。五分後に出るわよ」

 僕は一瞬、ママが何を言いたいのか分からず、ぼんやりとしていたが、夢から覚めたように、大急ぎで外出用の服に着替えた。それから、机の引き出しの中からマリーが最初にくれたビーズのネックレスを取り出してコートのポケットに入れた。それから大急ぎでママの車に乗り込んだ。ママはすぐに車を出して走り始めた。駅までは十分ぐらいで着くはずだった。僕もママも何も言わずに運転し、車はすぐに駅に着いた。

「一人で大丈夫?…一緒に行きましょうか?」

「いや、僕一人で大丈夫だよ。心配しないで」

「テリウス…貴方、知らない間に大人になったわね」

 ママが運転席から僕を抱きしめてキスをした。それから、財布ごと僕に渡してくれた。僕は車を降りて駅に行き、州都までの切符を買って改札へ行った。プラットホームに立つと上りの汽車の時間を確かめた。風が僕をなぎ倒そうと吹いていたけど、僕は踏ん張った。後十五分もすれば汽車がやってくるはずだった。風は強弱を繰り返す波のように、時折僕を倒そうと吹き抜けて行ったけれど、僕は敢えて柱にはもたれずに、一人で踏ん張った。自分がカレンの命を支えているような気がしたからだ。やがてやってきた最終の州都行の汽車に乗り込む時も、誰かが僕を見守ってくれているような気がした。僕はコートのポケットに手を入れてビーズのネックレスがあることを思い出した。

「マリー、君も一緒だよね?」

 駅から乗り込んだのは、僕一人だった。汽車の中も空席が目立ち、スチームが効いていて暑いと思うほどだった。僕はコートを脱ぎ、座席に座ると汽車が汽笛と共に「よっこいしょ!」とでも言わんばかりに動き始めた。窓の外には小さな明りが見えていたけれど、汽車が段々速度を上げて走り始めると、それらの明りはどんどん後ろに飛ばされて行き、やがて見えなくなり、代わりに車内の照明が映るばかりで、単調な時間が始まった。車掌に切符を見せると、僕は黙って窓の外を見ていた。多分ポラリスの丘の近くも走るはずだったのだけれど、窓にはカレンとマリーの笑顔が交互に映し出されているように思えた。どちらの笑顔も悲しみを隠しているように思えたので、僕は瞳を閉じて今までの楽しかったことを思い出してみた。ポラリスの家で過ごした楽しかった日々、子どもたちの笑顔、可愛い三匹の子猫たち…だが、そこには必ずマリーはいたけれど、カレンの姿が少なかった。ソバカスの笑顔は、いつも小さく咳き込んでいて、弱々しかった。僕の中のカレンは、病室のベッドの中にしかいなかったことに気がついた。不意に涙が溢れてきた。僕はカレンが元気に走り回る姿を思い出そうとしたけれど、どうしても無理だった。汽車の小刻みな振動に揺られながら、僕は今走っている汽車のレールのように、永遠にカレンと僕の人生は重なることはないんだろうか?

「カレン…こんなに愛しているのに…」

 僕は、いつの間にか涙を流しながら眠っていたらしい。夢の中のカレンは、笑顔でポラリスの丘を走っていた。僕は大きな声でカレンの名を呼び、「そんなに遠くへ行かないで!」と不満げに言った。カレンは「早くこっちへいらっしゃい」と言うように手招きをしていた。丘の上でカレンは大きく息をしながら、いつまでも僕に手招きをしていた…

 ガタン!という汽車の揺れで僕は目が覚めた。まだ夜は明けていなかった。腕時計を見ると午前五時前だった。遠く東の空に細い月が映っていた。僕にはそれがカレンの命のように思えた。やがて昇って来る朝日に消されてしまう、数時間だけの短い命…

「いいえ、カレンは貴方の心の中で永遠に生き続けるのですよ」

 僕はマーガレット先生の言葉を思い出し、たとえ目には見えなくても、そこにあるカレンの命の輝きを思うと、何故か僕は意味のない自信が心に芽生えた。

「そうだ。カレンはいつも僕を見ていてくれるんだ!」

 僕は不思議な充実感に溢れていた。車掌が「後一時間で州都に到着します」と乗客に案内して歩いて行った。僕は降りる準備をした。

「降りたら、駅でまず顔を洗わないといけないな」

 そう呟き、涙でぐちゃぐちゃになった顔を触った。すると今まで気づかなかったけれど、顎に少しだけ産毛のような髭が生え始めているのに気がついた。昨夜ママが「大人になったわね」と言った言葉を思い出した。こうして、僕たちはみんな大人になっていくのかなぁ?


 朝の病院は静かだった。誰もいないのかとさえ思った。僕は長い廊下を静かに歩いた。でも僕の足音は確かに小さな音をたてカレンがいる病室へ向かって続いていた。ドアをノックするとノーマン氏が僕を抱きしめた。

「間に合わなかったよ。パーカー君…」

 僕は一瞬、ノーマン氏が何を言っているのか分らなかったけれど、赤く充血したノーマン氏の目がすべてを教えてくれた。彼に導かれて部屋に入ると、そこには眠ったようなカレンがいた。泣き崩れる母親は、冷たくなったカレンの手を握っていた。

「いつ…ですか?」

「今朝方…まだ暗いうちに、眠るように逝ってしまったよ…」

 僕はカレンの側に行き、冷たくなった彼女に二度目のキスをした。でもカレンの唇は冷たいままだった。部屋にあった椅子に座り込んでいたノーマン氏の隣に僕も座った。

「昨日までは、元気だったんだ。学校の友だちと仲良く話していたよ。…それなのに、夜になって急に容体が変わって、ずっと君の名を呼んでいたよ」

「僕の名を?」

「あぁ、君に渡したいものがあるって…」

「カレンが、僕に何を?」

 ノーマン氏がカレンの枕元へ行き、一冊の本を僕に差し出した。それはカレンが自分で作ったブックカバーに包まれていた。中にはアーネスト・ヘミングウェイの著書『武器よさらば』だった。僕がその本の頁をめくっていると、中にはマリーと僕からの四葉のクローバーの栞が挟んであった。そのページには、隅にカレンの文字が綴られていた。

「テリウス・パーカーとマリー・ポラリスに本当の幸せがやってきますように…」

 カレンは、この四葉のクローバーの栞を僕たちに返すために僕の名を呼び続けたんだ。自分に死が訪れることを悟って…僕はノーマン氏に聞いた。

「カレンは眠るように逝ったと、おっしゃいましたよね?」

「あぁ、確かに」

「何時頃か分かりますか?」

「確か五時前だったと…」

「ちょうど僕が夜明け前に汽車で目覚めた頃ですね」

 僕は自分が目覚めた時のことをできるだけ詳しくノーマン氏に話した。マーガレット先生の言葉を思い出したことも全部…

「テリウス君、今は無理だが…暖かい春がやってきたら、私たち夫婦をポラリスの家へ案内してくれないかい?」

「いいですよ。カレンの子猫たちも、子どもたちも先生方も、皆喜んで貴方たちをあたたかく迎えてくれますよ。『ソバカスの天使様のご両親だ!』って…」

「ありがとう。カレンもきっと喜んでくれるだろう」

「はい。もちろんですよ!」

「…ところで、君。朝食はすんだのかい?」

「いいえ、駅からタクシーで直行したので…」

「じゃぁ、一緒にレストランで朝食を摂らんかね?」

「ええ、是非!」

 ノーマン氏は立ち上がって僕に握手をしてくれた。カレンのママは「この子を一人にはできません」と言ってベッドの側から離れようとはしなかったけれど、僕の話を聞いて少し安心したようだった。


 カレンの葬儀は町の教会で静かに行われた。列席した学校の友人たちや遺族や町の大人たちの影で、ポラリスの子どもたちもマリーに連れられて祈りを捧げに来ていた。僕は不思議にあの夜汽車以来、一度も泣かなかった。

「本当に悲しいと涙も出ないんだね?」

 僕がマリーに言うと彼女が言った。

「カレンの魂が貴方の悲しみを引き受けてくれたのよ」

「…確かに、そうかもしれない。僕は夜汽車の中でカレンと同化したのかもしれないね」


 葬儀が終わって年も変ったある休日、いつものようにポラリスの家に行くと、なんだか家が賑やかな感じだった。不思議に思って、ドアを開けたら、なんと子どもたちに混じって僕の学校の友だちがほぼ全員来ていたのだ。

「おっ!…王子様のお出ましだ!」

 ジャービスが言った。

「…一体これは何?」

「カレンが亡くなる前の日に私たちに全部話してくれたのよ!…貴方たちだけにいい思いをさせないわよ!」

 スーザンも大きな瞳でちょっと怒ったように、言った。

「いや、別に秘密にしていたわけじゃないよ。ただ…」

「ただ何だよ?…カレンやマリーを独り占めしたかったのかい?」

トーマスも僕を茶化すように言った。

「そんなんじゃないよ!」

僕は慌てて言い訳をしようとした。するとマリーがとりなすように言ってくれた。

「理由なんて、どうでもいいじゃない!…皆さんが来てくれて、幸せだわ!」

それから、みんなで一緒に楽しく遊んだ。僕は丘の上まで登りマリーに話した。鞄の中にはヘミングウェイの本が入っていた。僕はそれを出してからマリーに四葉のクローバーの栞を差し出して言った。

「カレンの願いが叶ったね?」

「本当の幸せは、これからよ!」

マリーが笑顔で僕に言った。そのことが本当に実現するのは、二年後の春まで待たなければいけなかったのだけれど…





五つ目の願い

                     

 カレンが亡くなって一年がたとうとしていた千九百四十三年の春の日だった。

 その日の夜明け間に僕は不思議な夢をみた。悪夢というものではなく、寧ろ幸せの予感がするような…甘い蜂蜜に包まれたような気がする、不思議な夢だった。何故か僕はポラリスの家の前にいた。すると何故か「北の空の魔女」がやってきて僕に笑いかけた。でも顔は何故かマリーの顔をしていて、「お前は私を愛しているんだな?」と言い、空へ消えていくような不思議な夢だった。目覚めた後も、不思議な気分に包まれたままだった。僕は不思議な違和感がして、窓の外を見て、心の底から驚いた。そこには夢に出てきた黒ずくめのオバアサンが立っていたからだ。じっと窓からこっちを見ていた。

「北の空の魔女?」

 僕は引き寄せられるように、窓辺に行き魔女に話しかけようとした。

「私は、一度会った者には二度と会うつもりはなかったんじゃが…」

 魔女はそう言い、僕を強く見つめた。僕は何も言えなかった。聞きたいことや話したいことはたくさんあったのに…

「お前は、今までのところ正しい道を歩んでいるようじゃが…」

 北の空の魔女は、水晶玉を僕にかざした。

「そこで褒美と言ってはなんじゃが、お前の願い事を叶えてあげよう。ただし、条件があって『死んだ人間』だけは生き返らせることはできん。しかも願い事は四つだけじゃ」

「四つの願い事?」

「きっと慎重なお前のことだから、それも正しく使えるじゃろうて」

「どうやって?」

「簡単なことじゃ。四葉のクローバーの葉を一枚ずつ抜いて願えばそれが現実になるだけじゃ」

「カレンにあげた栞のクローバー?」

 北の空の魔女は、不気味な笑いと共にまたどこかへ行ってしまった。僕は自分がまだ夢を見ているように思ったけれど、風の冷たさが「夢じゃないよ」と僕に教えてくれた。僕はまさか願い事が叶うとは思っていなかった。まさかカレンが残してくれた四葉のクローバーの葉を抜くなんて、できるはずもなく、僕は無視して着替えキッチンに行った。するとママがお腹を押さえて苦しんでいたんだ。

「大丈夫、ママ?」

 僕はママに声をかけたけれど、苦しむばかりでママが返事はなかった。僕は何をどうすればいいのか分からなかった。「医者?」と思ったけれど、この町にはママが唯一の医者だった。困った僕は不意に魔女の言葉を思い出し、急いで部屋に戻って机の引き出しに入れていた四葉のクローバーの栞から葉っぱを一枚ちぎって祈った。

「ママの病気が治りますように!」

 僕は必死に祈り、キッチンに戻ると、驚いたことにママが不思議そうな顔で立っていた。

「大丈夫なの?」

「不思議よねぇ。さっきまで死ぬほど苦しかったのに…」

 僕は朝食を食べながら、魔女の言葉が嘘ではないことを確信した。…そこで、僕は二つ目の願い事を考えた。迂闊につまらない願いを叶えてもらうわけにはいかないものね。


 僕は部屋に戻って考えてみた。僕の願い事と言えば… 僕の頭の中に最初に浮かんだのは、マリーやポラリスの家の子どもたちの笑顔だった。僕はクローバーの葉を一枚ちぎって「ポラリスの家の子どもたちに幸せを!」と祈った。後は特に思い浮かばなかったので、二枚の葉っぱになった栞をヘミングウェイの本に挟んだ。それから「用事があるの」と車で出かけたママの後で、家を出た。

 僕がポラリスの家に行くと、家の周囲にいろんな大人たちが出入りしていた。中からマリーが嬉しそうに出てきて言った。

「ノーマンさんの声掛けで、大工さんや電気屋さんや…とにかくいろんな人たちがやってきて、ポラリスの家の修理をしてくれて…」

「やっぱり?」

 やがて、クリーニング屋のオジサンが子どもたちのための新品に近い服や下着をたくさん運んできて、「町のみんなの家でいらなくなった古い服をクリーニングして持ってきてあげたよ」と家の中に入って行った。中では子どもたちの歓声が聞こえてきた。「ここまでやる?」と思って中に入ってみると子どもたちは、さっそく洗い立ての衣服に着替えて喜んでいた。そうすると学校の友だちと何も変わらなかった。

「マリーも着替えるといいよ!」

 ノッポのジャックが言ったけれど、「私は後から着替えるわ」とマリーは答えて奥の部屋の方へ行くと、中からママが出てきて言った。

「さぁ、次の患者さんは誰?…せっかくだけど、中では裸になってもらうわよ」

「ママ!」

「あら、テリウス?…貴方も患者さん?」

 ママが笑い、順番を待っていたアニーがママに連れられて中に入って行った。さすがの僕もこれには驚いた。


 僕がすっかり満足して家に帰るとママが、一連のポラリスの家の「幸せ」について説明してくれた。どうやらカレンの父親であるノーマン氏が家の状況に不満で自分が経営している会社の利益の一部を出してくれて、友だちの親にこの話を持ち掛け、みんな我が子から聞いていたので、ほとんど実費だけで働いてくれたらしい。

「いい友だちばかりで、貴方も幸せね?…ところで、アニーちゃんって言ったかしら、あの子の足は生まれつきじゃないわ。手術さえすれば治るわ」

「本当?」

「多分、私の推測では、生まれてすぐにアニーは散弾銃の欠片をうけているの。それらしい弾痕があったから間違いないわ。だから、銃弾の残りを足から取ってあげれば…」

「アニーは、歩けるようになるの?」

「ええ。ママが今までに嘘ついたことある?」

 ママは優しく微笑み、明日にでも手術することを約束した。

 まるで、夢のような気分だった。僕は、ママを信用しないわけではなかったけれど、クローバーの葉の一枚をちぎって「アニーの足の手術が成功して、歩けるようになりますように」と祈った。最後の一枚だけになった栞を見て、「僕の最後の願いって何だろう?」と思いながら、静かにベッドで眠ったのだった。


 アニーの手術は無事に終わり、リハビリが終わるとアニーは足を引きずらなくても歩けるようになったし、小走りぐらいはできるようになった。マリーはもちろんマーガレット先生やキャサリン先生たちみんながママに感謝した。…ママはわざとクールに「医者として当然のことをしたまでです」と言うばかりだった。

「貴方のお母様にお礼の言葉もないわ!」

「実はね?」

 僕は、「北の空の魔女」の話…つまり四つの願いのことを話したんだ。マリーは僕を抱きしめ「みんなテリウスのおかげだったの?」と耳元で囁いた。「マリー…」と僕が顔を赤らめて言うと、マリーも気づいたのか僕から離れて俯いた。マリーの新しいブラウスが眩しかった。

「決めたよ?」

「何を?」

「最後の願いさ!」

「最後の願い?…それは何?」

「ヒミツさ!」

「意地悪!」

 僕は自分が心の底からマリーを愛し始めていることに気がついた。今までカレンのことがあって、気持ちが分からなかったけれど、僕は、もしかしたら初めて出会った時から、マリーのことが好きだったんじゃないのかなと思った。


 僕は自分の部屋で一枚きりになったクローバーの栞を持ってマリーの顔を思い浮かべた。そして心の中で「僕はマリーと…」と願いを描き、そして本当に言葉にしようと思った。

「僕はマリーと…」

 だがその時、大きな音で家のドアが開けられたので、僕は一瞬「何だ?」と驚き、ドアのある方へ顔を向けた。ママも驚いたように声をあげた。 

「アルバート!…どうしたの、こんな時間に?」

 「アルバート」というのがパパの名前だと思い出すのに少し時間がかかった。「パパ?」…遠くのフィラデルフィアにいるはずなのに…

「助けてくれ!…エレノア…」

 僕は慌てて部屋を出てリビングルームの方へ行った。

「何があったの?…ちゃんと話してちょうだい」

 ママは、落ち着いて言ったけれど、顔は蒼ざめていた。家を出て行ったパパが助けを求めてやってくるなんて相当のことがあったからなんだろうと僕も思った。

「実は…」

 パパは、それまでのことを順々に話していった。家を出たパパはフィラデルフィアの酒場でギタリストとしてバンドに加わり、毎日楽しく暮らしていたのだけれど、酒場のギタリストなんてたいした稼ぎもなく、いつかメジャーデビューしたいと思いながら、それでもギターの腕を磨いていたらしいんだ。何年かそういう日々が続いていたんだけど、今年の冬のある日「ニューヨークへ行かないか?」とプロデューサーを名乗るスミスという男から声をかけられたらしいんだ。

「…実は、それが罠だったんだ。詐欺グループに引きずり込まれて、麻薬の運び屋にさせられそうになったんだ」

 そのことを他人に話そうとするとグループの男たちが怒って「秘密を知ったからには、生かしておかない!」となったらしいんだ。焦ったパパは警察に知らせようとしたら、そこにはグループの男が立っていて見張っていて、「警察にばらしたら、お前も家族も皆殺しだ!」というので、ママと僕に危険が及ぶのを恐れて帰ってきた…ということらしい。

「お前やテリウスに迷惑をかけてすまない…」

 パパはリビングのソファーで頭を抱えて謝罪した。

「ここは安全なの?」

 ママは少しうんざりするように言った。その時、風と共にドアが開いて男たちが四人入ってきた。パパの顔が引きつった。ママは僕の右手をしっかりと握った。

「愚かなパーカー…わざわざ家族まで紹介してくれるとはな…」

 男は自分で「スミスだ」と名乗った。へらへらと笑みを浮かべて胸元から自動小銃をちらつかせた。

「これも罠だったのか?」

「もちろん。…これで、お前は何がなんでも仕事を引き受けなければならなくなったんだ。愛しい家族のためにもな!」

「畜生!」

 僕は自分が殺されるかもしれないと思った。…でも、まだ死ぬわけにはいかない。「なんとかしなくっちゃ」と思った時、僕は左手に持っていた栞を思い出した。僕は男たちに気づかれないように最後の葉をちぎり、心の中で祈った。

「僕やパパとママを助けて!」


 その時、ドアが開けられまた男の人が入ってきた。隣にはライフルを構えた男がいた。

「スミス君。これまでだ」

「警察?」

「…と言うよりもFBIだ。家の周囲はライフルで装備された警官で固められているよ」

「畜生!…裏切ったな!」

 スミスと名乗った男が小銃をママに向けて構えた。咄嗟にパパがスミスに飛びついてもみ合いになり、パパは右肩を撃たれた。警官が足元に一発ライフル銃を発射し、スミスや男たちは両手を上げて観念した。やがて警官に手錠を嵌められて男たちは連行されて行った。FBIの主任らしき人は「救急車を呼びましょうか?」と尋ねたが、ママが笑って「救急車を呼んでも、私にしか連絡がきませんから…」と言って家を出て行ったFBIの人たちを見送っていた。ドアの向こうではマリーが心配そうに中の様子を見ていた。

「あぁ、マリーちょうどいいわ。貴方も手伝ってちょうだい」

 マリーを見てママが言った。マリーも「はい。先生!」と自宅の隣の病院の診察室にパパを運んで行った。パパは「すまない。エレノア…」とうわごとのように、言った。

「助かりたいなら、黙ってらっしゃい!」

 ママはきつく言ったけれど、涙で目が潤んでいた。ママの手当てのおかげでパパは無事に眠りにつくことができた。

「マリー。貴方のおかげよ。…テリウス、マリーを送ってあげて。ママは一生分働いてへとへとよ」


 暗い夜道、僕とマリーは手をつないでポラリスの家に向かって歩いた。夜の町はひっそりとして静かだった。

「どうして、うちに来たの?」

「貴方の四つの願いに答えるためによ。私のことでしょう?」

「うん…でも、僕はさっきのドタバタで、最後の願いを使ってしまったんだよ…」

 僕は葉が無くなった栞を見せて、ため息をついた。

「そうだったの…でも、五つ目の願いがあるはずでしょう?」

「五つ目の願い?」

「うん。自分で、自分の力で叶える願い事よ」

「…で、君の答えは?」

「それは…秘密よ。貴方が自分の力で探してみて!」

「そんなの無理だよ!」

「…私の答えは、私の夢が叶った時に答えるわ!」

「君の夢?…それは何?」

「それも秘密よ。…今はね」

 僕は夜空を見上げた。それから、小さな声で「君がもし、ポラリスなら…」と呟くように言った。マリーも「私がポラリスなら…?」僕はマリーの目を見てからゆっくりと答えた。

「僕は、北極星の周りを見守りながら回り続ける北斗七星になりたいよ」

「ありがとう…」

 街灯の下で、僕はマリーを抱きしめて初めてキスをした。星がとっても綺麗な初夏の夜のことだった。




























六人目の賢者

           

 「あのね。ポラリスの家には、『五人の賢者』という伝説があるらしいの」とマリーが丘の上で他のことについて、話し合っている最中に急に言い出した。その言い方があまりに突飛だったので、僕はたじろぐ間もなく、頷いてしまった。一体今まで熱心に何について話し合っていたのかも忘れるほどに…

「五人の賢者?」


 僕は、もう高校を卒業して衆にある大学に入学していた。学内では、医者になるための単位を履修していたので、平日は、毎日が勉強することで精一杯だった。それでも週末にはポラリスの家に顔を出すようにしていた。実はつい最近になって知ったんだけれど、マリーはママとノーマン氏の援助で通信制の高校で学び、卒業後、今は看護学校に通っているらしかったんだ。「私の夢」というのは、マリーは看護師としてママの病院で働くことが夢だったらしいんだ。「テリウスには内緒よ?」とママが口止めしていたんだって。…ついでに言うとパパはギタリストになることを諦め、家に戻ってノーマン氏が経営している会社で事務の仕事をしていた。「もう都会はこりごりだ…」と話していた。ママは「やっと目が覚めたのね?」と嫌みのように言っていたけど、内心は嬉しくて仕方ない感じだった。家庭に流れる空気も平穏な感じがした。


「…それでね?」

 マリーが突然話しかけてきたので、僕は少し驚きを隠せなかった。

「何?」

「五人の賢者よ!…初めの二人はゴードン兄弟なの。西部開拓の途中にポラリスの丘に教会を建てたの。そこで貧しい人たちを救ったのよ。次はその教会にやってきたモラル神父様…彼は、恵まれない孤児たちを集めて、今の『ポラリスの家』の形を作ってくださったのよ。残りの二人は、彼の意志を受け継いだマーガレット先生と、先生の意思を受け継ごうとしているキャサリン先生ってわけ」

「なるほど…」

「資産家のマクガイヤー氏やノーマン氏、貴方のママや町の人たちにも、心の底から感謝しているけど…」

 マリーは長い髪を風になびかせながら、遠くを見て言った。もう、あれからはボロ着ではなくジーンズに水色のポロシャツ姿で、町の人たちの援助で新しい服を着ることができるようになっていた。ポラリスの家もマクガイヤー氏やノーマン氏の援助で、ラジオなども設置されるようになったし、子どもたちも十五才になれば、町の人に仕事を紹介してもらったり、マリーのように学校へ進学することも可能になっていた。何もかもが思っていた通りになっていたんだ。

「思っていた通り?」

 僕は自分がさっきまで話していたことを思い出した。「そうだ。本当にそれでいいのか?…ポラリスの家にとってそれが本当の意味での自立になっているんだろうか…?」僕は…いや、僕たちはさっきまで「そのこと」について話し合っていたんだ。それなのに一体何故急にマリーが「賢者の話」などを始めたのか、分からないけれど…

「君は何が言いたいんだい?」

「…つまり、私にはうまく言えないけれど、『ポラリスの家』は、初めからそこにあるべきものだった…ということかな?」

「神の恵みってこと?」

「うん…」

 僕は黙って考え込んでいるマリーの隣で、少し違うことを考えていた。「ポラリスの家は、多くの人たちに支えられている。でも、本当なら孤児だって、黒人だって、障害者だって、みんな同じアメリカという国で生まれてそこで生きているんだから、アメリカ国民として自由と権利が保障されなければいけない。それなのに、貧しい人はどんなに大きな夢を持っていたとしても、生涯叶えることは無理なのか?…合衆国憲法にも保障された自由と権利は、『ポラリスの家』にだって当然適応されるべきではないか」と…

 僕は、そのことをマリーに語ったけれど、「私にはよく分からないわ」と言うだけだった。ポラリスの家の「自立」のためには、誰かに援助に頼ることではなく、国や衆政府が責任を持って支えるべきなんじゃないんだろうか?…僕はそんな風に考えた。


 僕は大学内で衆政府に対する「ポラリスの家の公立化」の署名活動を始めた。キャンパス内はもちろん、昔からの友だちにも声をかけて、町や衆都の街でも署名をお願いした。その運動の様子がラジオで放送されて、思っていた以上の反響があり、署名の数も多くなった。集まった署名を衆政府に提出に行くと、「知事へ直接渡してください」と知事室に行くように言われた。秘書に案内されて知事と面会することになった。僕は、知事に対しても自分の考えを素直に述べた。知事は威厳深く僕の話を聞いてくれた。

「パーカー君、とかいったね。…君の考えはよく分かる。署名もしっかりと受け止めて、政府としても考えたいと思っている。だが…」

「…だが?」

「君の描く理想的な社会は、大変素晴らしいと思うよ。だが、現実的には我々の社会というものは、そう簡単にいくものではない。黒人に対する差別の解消を実現するだけでも、君一人じゃ百年かかるよ?」

「僕一人で百年ですか…確かにそうかもしれません。でも、僕と同じような人間が百人集まれば一年で可能なのではないですか?」

「百人で、一年か…確かに理屈はそうなるな。ハハハ…」

 知事は僕の顔を見て笑った。僕も笑って頭を下げて知事の部屋を出た。その後、知事から「公立化の決定通知」が届いた。


「ポラリスの家が公立化されるの?」

「そうさ。衆政府が責任を持って必要経費を出してくれる。…だから、特定の資産家の補助に頼ることなく、堂々と胸を張ればいいんだ!」

「テリウス…貴方が言っていた自立って、こういうことだったの?」

「そうさ。これからは、明日の食事の心配をすることもなく、クリスマスの心配もしなくていいんだよ?」

「政府がお金を出してくれるなら、安心して気兼ねなく使えるわ!」

「そうさ。公のお金だから、誰もが自由にできるのさ」

 マリーやマーガレット先生やキャサリン先生たちはポラリスの家か本当に自立することできたことを本当に喜んでいた。

 ポラリスの家は隣に鉄筋の建物が建てられ、敷地内には、病院も含めて様々な公の施設が出来上がった。町の人たちにとっても憩いの場としても活用されるようになった。素敵な食堂も設置されたし、衣服も衆政府から最新のものが支給されるようになった。何もかもが、僕の予想通りになったので、安心して大学に戻ることができた。


 しばらくして僕がマリーに関して変な噂を聞いたのは、彼女をキャンパスへ招いて案内した後、数日経ってからだった。

「マリーが経済学部のナッシュと仲良くドライブしていたらしいよ?」

 ナッシュというのは、お金持ちの一人息子で最新モデルの車を乗り回しているような、あまり僕の好みではない「お坊ちゃまタイプ」の男子学生だった。気にならない…訳はなかった。だからと言って、直接マリーに問いただすこともできなし… 僕は一人で考えていると良くない方へ考えてしまいそうだったので、勉強に夢中になることで紛らすしかなかった。週末にポラリスの家に行くことも戸惑うようになった。

「テリウス?…何か悩んでいるの?」

「…いや、なんでもないよ」

 マリーとの会話の中に「ナッシュ」という名が出てくるたびに僕の心は胸騒ぎがして、いつものように涼しい眼差しで僕に話しかけるマリーを見るのが辛くなった。僕は思い余ってマーガレット先生を訪ねて話を聞いてもらった。先生は歳のせいで車椅子の生活になっていたけど…

「貴方は…そのことをマリーに直接聞いてみたのですか?」

「いいえ。彼女には直接聞くのが怖くて聞けません」

「貴方が本当にマリーを信じているなら、聞く必要はないと思います。…でも、もしも彼女を疑っていたり、貴方に不安があるなら直接聞いてみた方がいいと思いますよ?」

 先生の話を聞いて僕は自分に不安があったので、直接マリーに聞いてみることにした。僕はマリーを丘の上に呼んだ。ドキドキしたけど、今のままでは不安から解放されそうもなかったからだ。ポラリスの丘は初夏の日差しが眩しかった。

「話ってなぁに?」

「ナッシュのことだよ」

「ナッシュ?…彼が何か?」

「君が一緒にドライブに行ったって…本当?」

「ええ。確かに誘われてドライブに行ったわよ?」

「それで?」

「えっ?…それだけよ?」

 僕は自分の気持ちを素直に打ち明けた。するとマリーは声を出して笑い出した。

「それって、もしかしてジェラシー?」

「…っていうか、君が心配なだけだよ?」

「貴方の誤解よ。…確かにナッシュは、私と付き合いたいって言っていたわ。でも、彼は私が『ポラリスの家の出身だ』って言ったら、手のひらを返したように無口になったの…理由を聞いたら『多分、両親が許してくれないだろう…』だって…」

「じゃぁ、噂は…?」

「でたらめに決まっているでしょう?」

マリーは僕の手を取って立ち上がった。僕も立ち上がると、いきなり僕に抱きついてきた。僕はマリーの長い髪をなでながら、キスした。

「これが私の答えよ!」

「何の?」

「ほらっ、あの時の『貴方の五つ目の願い』の答え!」

 マリーは丘を駆け出して下りて行った。僕も微笑みながら走り出した。少し照れ臭かったけれど、幸福感に包まれていた。もうすぐマリーは正式な看護師になるだろう。そして数年もしないうちに僕も医者になる。そしたら、二人は…そう考えるだけで僕の胸は熱くなった。僕はマリーに追いついて後ろから彼女を抱きしめた。

「ダメよ。まだみんなには内緒だから…」

「構うもんか!」

 マリーは少し抵抗したけれど、僕はもう一度彼女にキスした。

「本当に困った賢者様ねぇ…」

「誰が賢者なんだい?」

「あら、知らなかったの?…孤児院だったこのポラリスの家を公立化した貴方は『ポラリスの六人目の賢者』になったのよ?」そう言うと僕に顔を近づけて「貴方に永遠の幸福が訪れますように…」と囁いた。


 二度目の世界大戦が終わり、世界はソ連を中心とした社会主義国側とアメリカを中心とした資本主義国側に対立したが、戦勝国を中心として結成されたのが国際連合だった。様々な課題は抱えていたけれど、僕はその理念に大きく傾倒していった。国際連合は、社会主義との対立を超越して、自由に話し合う場として位置づけられていて、貧困や紛争の問題を解決していく場としての役割を果たしていくだろう。僕が大学で医学を学んでいることも、そんなことが起因しているのかもしれない。

 同じ過ちを繰り返さないように、三度目の世界大戦を起こさないために働きたい…そんな生き方をしていきたいと僕は願っていた。貧困や紛争で苦しむのは、女性や子どもたちだ。孤児や貧困の悩みがこの世界から無くなるまで、僕は働かなければならないと思っていた。

 今までは「アメリカ」という国の中のことしか考えていなかったけれど、アメリカよりもアジアやアフリカ諸国には、戦前植民地として欧米先進各国に搾取されてきたという歴史的な問題についても考えなければならない。これからは、貧富の差や宗教或いは主義の違いが原因となって世界のあちこちで紛争が起こるのだろう。

 僕は、せめて「ポラリスの家」のことのように、困っていても声に出せずにいる人たちの本当の声を代弁してあげられるようになればいいなと僕はマリーに話した。

「貴方らしいわね?」

「そうかなぁ…?」

「私ね?…本当の自分の名前も誕生日も何も知らないで拾われたのよ…」

「どういうこと?」

「私は多分、生まれてすぐに、へその緒もついたままで、ポラリスの家の前に捨てられていたの。…何のメッセージも添えられてなかったらしいわ。哀れに思ったマーガレット先生が私にマリーと名付け、拾われた日を私の誕生日にしてくれたの…」

「そうだったの…」

「私はその事実を知った時に、両親を恨んだわ。…自分が世の中で一番不幸な人間だと思っていた。貴方に会うまでは…」

「僕に会うまで?」

「ええ。私にはお伽話の王子様なんて来ないと思っていたの。…でも、貴方が一枚の金貨を持って来てくれた。…私は、『私の王子様だわ!』って思ったの。…でも、貴方は私だけでなくこの世界にいる悲惨な状況の人たちをも助けようとしているんだわ」

「…それは、多分君と出会ったから、考えるようになったと思うよ」

「貴方は『ポラリスの賢者』にとどまらなくて、『本当の賢者』になろうとしているんだと思うわ」

「大げさだよ。…僕は僕にできることをやろうとしているだけさ」

「だから、貴方らしいのよ」

 マリーはそう言うと微笑んだ。僕は自分がやろうとしていることが、間違っていなかったんだと確信した。僕たちは今後世界がどのように変化しようとしているのか分からなかったけれど、きっと貧困や差別や紛争は無くすことは非常に困難なことだろうと思った。このアメリカという国が戦争を起こすかもしれない。その時、僕は自分で胸を張って「間違っている!」と言える自分でいたいと思ったし、マリーにも同じ考えを持っていて欲しいと思ったんだった。

「マリー。君に約束したいことがあるんだ」

「何?」

「僕は、多分世界中の貧困の国が仕事場になるだろうと思っているんだ。でも、どこにいても君と心で結ばれていることを約束するよ」

「ええ。貴方は貴方が選んだ道を歩けばいいの。私は…貴方を信じて待っているわ」


 風はやがてくる夏を予感させるように暖かく吹いていた。僕たちは丘の上で衆知事が言っていた「理想の世界」を思い描いて微笑み合ったのだった。
























七冊の日記

                     

 僕はアメリカ人だ。だから、アメリカ国民としての様々な権利や自由が保障されている。…だが、同時に好むと好まざるに関わらず、国民としての義務も果たさなければならない。僕は大学で医学を学び、医者として働くつもりでいたが、「徴兵制」のあるこの国では、二十一か月間の兵役義務を果たさなければいけない。拒む方法もないわけではなかった。第二次世界大戦は既に終わっていたが、戦争の火種は世界中に今もある。戦後のアメリカの世界的な立場から言っても、ソ連を中心とする東側諸国との対峙は深刻な状況下にあった。従って僕は大学を卒業後に差し迫った状況(社会主義革命を起こした中国と北部朝鮮半島地域)にあった極東アジア…具体的には日本という敗戦国の基地に配属され、そこで医療部隊に所属されることになるだろうと思っていた。本来なら大戦後に作られた国際連合に勤めるつもりだったが、その内容が現実と大きくかけ離れていて、戦勝国のイデオロギー対立の場となっているのを見て、明らかに僕は落胆していた。やはり僕の考えは「理想」なのだろうか?…僕は諦めるつもりはなかったけれど、とりあえず二年近い兵役義務を果たさなければならなかった。戦争は嫌だけれど、「逃げる」ことはもっと嫌だったからだ。


 そんなわけで、召集に応じることにした。大学を卒業して、インターン期間を終えて、僕は米軍基地のある衆への列車に乗った。出発前にポラリスの家に行き、しばしの別れをマリーに伝えた。

「身体に気をつけてね。…それから、これを持って行くといいわ。暇つぶしになるでしょう」

「何これ?」

「私の日記よ。貴方に初めて会った日からの日々が綴られているのよ」

 マリーはそう言うと七冊の大学ノートを僕に渡した。最初の頃のノートはかなり古いもので、それだけの年月の経過を教えていた。僕はそれを大切な物として受け取り、リュックの中に入れた。リュックの中には着替えや小物に混じってカレンが僕に死ぬ間際に渡したヘミングウェイの「武器よさらば」も入っていた。僕はカレンの死後一度読んでみたのだが、当時の僕には意味が理解できなくて、そのままにしてあったのだ。「今の貴方なら理解できると思うから、持って行くといいわ」とママが昨夜言ったのだ。僕はその少し分厚い本の隣に七冊の日記を置いて立ち上がった。

「今から出発つの?」

マリーが聞いた。「あぁ」と答えると「仕事があるから、見送りに行けないわ」と寂しそうな顔をした。

「おいおい、僕は戦地に行くんじゃないんだよ?」

 僕が笑うと、彼女も笑顔で「うん…行ってらっしゃい」と言った。それで僕は気が楽になって手を振りながらポラリスの家を後にした。ママが車で駅まで送ってくれた。

 確かに戦時であれば本当に永遠の別れになるのかもしれなかったけれど、世界大戦は終わっていたし、僕は「恐らく日本の駐留米軍の医務官として配属されるだろう」とパパが言っていた。仮にどこかで戦争が始まったとしても、最前線に送られることはないだろうと思っていた。どこであれ僕には関係なかった。「…とりあえず、終わればいい」と思っていた。愛国心がないわけではなかったけれど、僕には世界中の貧困を克服することが最大の目的だったからだ。日本であれ、ヨーロッパのどこかの国であれ、中東であれ…僕は自分がアメリカ軍人として赴くことが嫌だった。


 基地に到着すると、入隊手続きのようなものをすませ、まず宿舎に案内された。僕は陸軍医務官に配属され、与えられた部屋は四人部屋でさほど広くも狭くもない手頃な部屋だった。僕は西側の上のベッドに寝ることになっていた。部屋には先客がいて、ジミーとマックという僕とそう年も変らない白人兵だった。ジミーは陽気でなんでもジョークにしてしまうような若者で、マックは少し陰気な感じがする。二人とも同じ陸軍で部隊は違っていたが、基地内では同じ訓練に参加するらしい。基本的に実践部隊に配属されるまでは、兵士としての基礎訓練を行うらしい。軍律を守りさえすれば罰せられることもないので、「とにかく上官の命令に従っていればいいのさ」と陽気なジミーが言った。

 基地内では、軍人としての基本的な態度と、戦地に耐えられるだけの体力を養うこと、様々な兵器の使用法などがミッションとして組み込まれていた。一番苦痛だったのは、戦地を想定した実践訓練だった。日々のミッションをこなすことで精一杯で、僕は疲れ果てていた。一か月ほどして、僕は在留日本基地に配属される命令が下って、大型輸送機でオキナワの嘉手納基地に降り立った。

 医務官としての仕事は、訓練中に負傷した兵士の手当をしたり病気に罹った者の治療に当たった。本国の基礎訓練に比べたら、仕事も楽だったし、時間的な余裕があった。僕は自由な時間になると、「武器よさらば」やマリーの日記を読んだ。ヘミングウェイの小説は、この年になると理解できるのだが、題名と内容にギャップを感じざるをえないものだった。キャサリンへの愛と死の別れ方に感動はしたのだけれど… むしろマリーの日記の方が論理的に綴られていて、僕を納得させるものだった。初めて僕に出会った時から、僕が入隊するまでの日々が綴られている日記は、神への感謝と僕への愛に貫かれていて、僕を感動させてくれるものだった。


…私は、神様の存在を確信しております。今まで自分は「名もなき孤児」としてしか生きていくことは許されないのだと思っていました。私は愛とは無縁の…ましてや恋などを想像することさえ許されないのだと思っていました。貧しい孤児は、永久に「そこ」から逃れられることは許されないのだろうと…私には「白馬の王子様」なんて永遠に来ないし、来たとしてもすぐに忘れられるのだろうと思っていました。…でも、神様。こんな私にも王子様が手を差し伸べてくれようとしているんです。その方の名を口にするだけで、もう私は激しく心ときめきます!…その方は他の人たちとは違って、私を一人の女性として扱ってくれます。何の偏見もなく、人間として接してくれます。私はその方に私のすべての愛を捧げます。

 …あぁ、テリウス!…テリウス!…その名を口にしただけで、私は神様の御許へ導かれていきます。テリウス、テリウス…貴方は私に大いなる力を与えてくれました。テリウス、テリウス…貴方は私に生きる意味と希望を教えてくれました。

 …あぁ、神様。私は愚かな女です。いつか罰を受けるのでしょう。私は、自分が愛する方にジェラシーなどという下等な心を持ってしまうのですから、初めから愛されるべき女ではなかったのです。私など、その天使様に比べたら、小さな雑草でしかないんですもの…寧ろ私はお二人の幸せを祈ることしかできないんでしょうね…

 …あぁ、神様。どうか天使様をお守りください。テリウスの恋人カレンを健康な身体に戻してあげてください。あんなに苦しむテリウスを見ているだけで、私の胸は張り裂けそうです。この世に存在するすべての神様にこの魂を売り払ってもいいから、どうかカレンさんをお守りください。お願いします…

 …何故ですか?…何故カレンさんは死ななければいけないのですか?…あんなに優しく私たちを見守ってくれたのに…だからって、私はテリウスの元へ走ったりはしません。私はテリウスにお仕えするメイドであればいいんです。テリウスのしもべでしかないのだから…

 …私はどうすればいいのですか?…テリウスが以前から私が好きだったと告白されました。私は、カレンのように教養もないし、可愛いらしい顔も持ち合わせていません。…それなのに、テリウスは私を選んだとおっしゃるのです。私は一体どうすればいいのですか?…どのような答えがテリウスを喜ばせることができるのですか?

 …今日、テリウスのお母様に相談させていただきました。「自分に自信がないのなら、あの子に見合った教養を得ればいいのよ」とおっしゃり、私を学校へ進学するように勧めていただきました。しかも学費まで出していただけると…神様?…私は本当にこんなに幸せでもいいのでしょうか?…何か良くないこと起きがなければいいのですが…

 …お願いです。テリウス?…貴方を「私のダーリン」と呼ばせてください。貴方が私のような者を愛してくださるのなら、私はどこへでも行きましょう。何でもいたします。貴方が「ダーリン」と呼ばれることが嫌なら、せめてこの日記の中だけでも、「私のダーリン」と呼ばせてください。貴方にジェラシーを疑わせたことを反省しています。ナッシュのことも、本当にごめんなさい。もう私は貴方以外の男性とは口もききません。貴方に疑われることのないようにしますわ!…貴方にキスされて私は幸せに包まれています。…おやすみなさい。私のダーリン!

 …私のダーリン。貴方が徴兵されて行ってしまうことが、私にどれだけのダメージを与えるか、貴方には理解できるでしょうか?…でも、私は貴方の負担にならないように、笑顔で見送るつもりです。話しておきたいことは、山のようにあるのだけれど、貴方が帰っていらっしゃるまでは我慢します。お父様やお母様のためにも、一日も早く帰ってきてください。「さよなら」は言いません。どうかお元気で、行ってらっしゃいね。そして私を…貴方の妻にしてください。


 「武器よさらば」が、カレンの愛なら、僕はマリーの日記を読んで感動した。愛しさが募るばかりで、本国に戻ったら、すぐにプロポーズをしようと思った。そう考えると日々が長く感じられた。僕は気を紛らすためと、現実を把握するために日本という国をよく観察してみることにした。敗戦国である日本は、皆貧しく飢えていた。けれど、その国民性は温厚で非常に真面目で礼儀正しかった。何故この国がアメリカなど連合国を相手に無謀な戦争を始めたのか理解できなかった。きっと一部の軍国主義者によって戦争状態になってしまったのだろう。「戦争」というのは、そういうものだ。ヘミングウェイの著書にも戦争のバカらしさが綴られている。もしかしたら、彼は直接的に「戦争反対!」と言えない状況下にあったから、あんな本を書いたのかもしれない。

 僕は、本当にダメなものは「ダメ!」と言えるだろうか? 日本人は僕たちアメリカ兵に対して少し卑屈になっていたが、米兵の中には勝者としての驕りのようなものがあり、女性を人間扱いせずに酒場で誘って、その後安いホテルで玩具のように抱いて遊ぶ連中が許せなかった。それこそ「勝者の論理」であり、何をしても許されるものではないと思う。僕はアメリカ人として恥ずかしかった。嫌、人間として彼らを許すことができなかった。僕は上官に何度か抗議をしたが、彼もまた聞く耳を持ち合わせてはいなかった。僕は軍隊を憎んだ。同時に勤務中に自動小銃を携帯しなければならない「自分」を…自分につながるアメリカという国家を憎んだ。「戦争」という言葉でさえ、僕には許せなかった。とにかく「ここ」にいる「今」を憎んだ。

 休日には日本の街を歩き周囲の日本人からじろじろと眺められながら、「自分はアメリカ人なんだ」と思った。銃を携帯することも認められてはいたけれど、僕は持ち歩くことをせず、街の人たち…特に子どもたちに興味を持って眺めた。僕は英語を話せるという日本人に言葉を少しだけ教えてもらい、なるべく日本語で話すようにした。

「何ガ欲シイデスカ?」

「ソレハ何デスカ?」

「私ハ医者デス」

「アリガトウゴザイマス」

 この四つの言葉で会話した。最初は警戒していた子どもたちも少しずつ慣れてきて、お菓子や文具、時にはお金を求めてきた。僕は最大限子どもたちの要求に応えようとしたが、それこそ百年かかっても子どもたちの要求に完全に応じることはできないだろうと思った。やはり国際的な機関で働く気持ちが強くなるばかりだった。かつて、アジアで唯一の列強国だった日本でさえそうなのだから、貧しい国ではさらに悲惨な状況なんだろうなと思った。


 当時、朝鮮半島が非常に危機的な状況で、いつ戦争が始まってもおかしくなかった。もしも戦争が始まれば僕も医務官として戦地に派遣されるのかと思っていたけれど、僕はなんとか戦地に派遣される前に本国へ帰還された。職業軍人になったジミーとマックは戦場へ派遣されて行ったらしい。


 僕はアメリカに帰国すると、除隊後その足で国連の下部機関である連合国救済復興機関…後の「UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)」のアメリカ支社に向かいドアを叩いた。

「僕をここで働かせてください!」

「しばらく、お待ちください。責任者が応答しますので…」

 受付の女性は、僕の勢いに多少圧倒されながら、隣の会議室へ僕を案内してくれ、珈琲を出してくれた。空港から軍服のまま来たので、驚くのは無理もないと思った。しばらくすると三十代の女性が事務所の責任者らしく、部屋に入ってきて僕の姿を見て思わず笑った。

「貴方、自分の姿を鏡で見てみるといいわ。誰だって困惑するわ!」

「はぁ?」

「いきなり、軍服姿の男が『ここで働かせろ!』と言えば、誰だって頭が変なのかと思うわ」

「はぁ…」

「とりあえず、故郷に戻ってご両親や恋人に相談してから…それからウチへ来るといいわ!」

 事務局次長を名乗ったヘレン・マジソンという女性はまるで僕を子ども扱いするように、まず郷里へ戻ることを勧めてくれた。「確かに貴方のような方に我が事務所で働いていただくことは大歓迎なんですけどね…」と微笑んでくれたのだけれど…


 僕は事務所を出ると、すぐに郷里へ戻った。それから両親に仕事のことと結婚することを伝えた。「お前らしいな」とパパが笑った。ママも呆れていた。僕は急いでポラリスの家に行き、マリーにプロポーズをした。まるで超特急に乗るような早さだった。もう「のろまなテリウス」ではなかった。僕は教会に行き、挙式したい旨を神父に伝え、友だちや町の人たち、そしてポラリスの家に行き、マーガレット先生やキャサリン先生にも結婚することを伝えた。

 マリーはママと大急ぎで式の準備をして髪を整えたり忙しそうにしていた。


「ねぇ、テリウス?」

「何だい?」

「もう、私の日記を読んだから、分かっていると思うけど、貴方のことを私は『ダーリン』と呼びたいの。『私のダーリン』と…」

「別にいいけど、なんだか恥ずかしいなぁ」

「私だけの貴方でいて欲しいから…もちろん、貴方だけの私になるんだけど…」

「分かったよ。好きなように呼ぶといいさ!」

「嬉しいわ!…ダーリン!」

 僕に抱きついたマリーは、まるで昔ママがやってくれたように、僕の髪をなで頬に何度もキスをしてくれたのだった。

 





















永遠の八

                      

 いよいよ僕たちの結婚式が町の教会で行われる日がやってきた。式場でマリーは美しいウェディングドレスを着て入場してきた。

「その素敵なドレスは用意していたの?」僕が小声で聞くとマリーは微笑んで「貴方のお母様のを借りたのよ。急に選べるわけないでしょう?」と言った。

式が始まり、いよいよ神父から「誓いの言葉」が読み上げられる時がきた。

「テリウス・パーカー、貴方は病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も…死が二人を別つまで、マリー・ポラリスを愛することを誓いますか?」

神父の問いかけに僕は素直に「誓います!」と言った。でも、マリーは…

「…貴方は死が二人を別つまでテリウス・パーカーを愛することを誓いますか?」との神父の問いかけに対して「いいえ、誓いません!」と答えたのだ。

「何故?」困惑した顔をして神父が聞くと。一歩進んで僕の顔をみながらマリーはこう言ったのだ。

「私、マリー・ポラリスは、たとえ死が二人を別ったとしても、テリウス・パーカーの意思を継ぎ永遠に愛し続けることを誓います!」

 一瞬のざわつきが静まり、やがて大きな拍手が教会内を包み込んだ。後で神父が「私の問いかけに対してノーと言ったのは、君が初めてだよ?」と笑っていた。


 慌ただしい結婚式を終えて、僕は正式に国連難民高等弁務官事務所で働くための手続きをした。…それは「死」と隣り合わせの仕事に就くということを意味していたので、式の前にマリーや両親にはちゃんと話しておいた。

「…テリウス。貴方がどんな道を歩こうと、ママは貴方の邪魔はしないつもりよ。でも、もう貴方は結婚したのだからマリーを…貴方の妻を泣かせるようなことは、できるだけ避けてあげて欲しいの」

「分かっているよ。僕は平和のために行くんだ。戦うために行くんじゃない。マリーも僕の生き方を理解してくれていると思うよ」

「えぇ、お母様。私はテリウスの生き方を尊重し、この人のために生きていくつもりですから…」

 マリーは、そう言ってくれた。

「分かったわ。テリウスはどこかの偽ギタリストとは違うものね?」

 ママはパパをチラッと見ながら、皮肉っぽく言った。

「おいおい、私は偽ギタリストなんかじゃないぜ!」

 パパは、わざと大げさに反論した。

「あら?…誰も貴方のことだとは、言っていないわよ?」

 家族という団らんに飢えていたマリーにとって、多分この頃が一番楽しかっただろうと思う。だから僕たちは新居を持たず、両親と同居することにした。マリーがそう望んだからだ。僕としてもマリーを新居に独り残すことに不安があったので、すんなりと同居が決まった。ママもパパも、マリーを本当の娘のように扱ってくれるのが嬉しかった。


 僕は一ヶ月の休暇の後で、UNHCRの本部があるスイスのジュネーブに行き、何週間かの研修を受けた後、多くの難民を抱えたアフリカ諸国へ派遣された。アフリカ諸国の多くが戦前、列強国の植民地であったために戦後独立国家としての紛争や利権に絡む内線などで、悲惨な状況下にあった。僕は国際連合のシンボルカラーである、青い帽子と上着を着けて自分たちは「敵でも、侵略者でもない」という意思表示のもとで食料や衣料、時には僕の医師としての資格を活かして治療などにも当たった。マリーには週に一度は手紙を書いて近況を報告した。僕たちはほとんどの場合、好意的に受け入れられた。

「何ガ欲シイデスカ?」「コレハ何デスカ?」「私ハ医者デス」「アリガトウゴザイマス」…やはり日本の時と同じで主にこの四つの現地語をまず学び、なるべく通訳なしで現地の人たちと会話をした。細かいことは、通訳者を交えて何が必要なのかをしっかりと聞くことも大切な仕事の一つだった。食料を手にして喜ぶ現地の人の笑顔…特に子どもたちの笑顔が何よりの報酬だった。

そうやって一定の支援活動に目途がつくと少しの休暇の後で次の支援国へ向かうというのが僕の任務だった。三年ほどの仕事の後で、僕は当時からもっとも危険とされていた中東のある国へ派遣されることを自ら希望した。そのために本部は僕に少し長い休暇を与えてくれた。僕は迷わずアメリカに残したマリーの待つ家に帰った。

「また、すぐに出かけるんでしょう?」

「いいや。次のミッションまでは、少し時間がもらえたんだよ?」

「…じゃぁ、どこかへ行きたいわ!」

「お望みとあれば世界中のどこへでも行くよ?」

「そうねぇ…どこがいいかしら?」

「ハワイなんかどう? 常夏で好きなだけ遊べるよ?」

「ハワイかぁ…あっ、そうだわ!…ダーリン、私行きたい所を見つけたわ!」

「どこだい?…イースター島かな?」

「いいえ。もっと素敵な所よ!」

 マリーは「移動式の遊園地に行きたい」と言うのだ。今でもあるのか調べて、なんとかメキシコにあるらしいことを探し、僕はマリーを助手席に乗せて車を走らせ旅立った。二人で移動式の遊園地へ行った。僕たちは二人並んで小さなメリーゴーランドに乗った。

「ここから始まったのよね?…私たち」

「一枚の金貨を握りしめて…」

「一枚の金貨から始まって、二本のローソク、そしてカレンの三匹の猫…」

「四葉のクローバーに五つ目の願い…」

「六人目の賢者に七冊の日記!…次は何?」

「永遠の八…かな?」

「永遠の八?」

「8という数字を横に倒すと…」

 僕はマリーの手のひらに8の字を書いて横に向けた。

「本当だ。8は横に倒すと∞になるわ!」

「つまり、二人の愛は無限大と言うことさ」

 僕はマリーの瞳がキラキラと輝いていたのを忘れないだろう。


 やがて、僕はアメリカを出発してスイス経由で中東のある紛争地へ行った。宗教と人種と言葉が複雑に入り組んだその地域はテロと内戦が日常化していた。雨季には伝染性の病気が流行し、乾季になると街は砂漠化する。少女は学問を受ける権利を奪われ、十二才で結婚し、十三才には最初の子どもを出産させられていた。親を失った男の子どもたちは少年兵としての訓練を受け、テロリストに仕立て上げられ、自らの身体に爆弾を巻き付け自爆テロさえ恐れない「兵器」となっていった。地雷で足や手を失い働くことも何もできない人たちが麻薬で自分の人生をごまかすことしかできないでいた。

 それでも僕の仕事は変わらなかった。多言語のため、二、三人の通訳を頼み支援の手を休めることはなかった。僕は基本的に国家をバックとせず、西側でも東側でもない中立的な立場でいようとしていた。必要とあれば、現地の宗教指導者の話を何時間も聞いた。…そうすることで現地の人々と同化することを願った。支援の輪が、それでも確実に広がることを僕は願った。それが国連の目的だから…

 マリーからの手紙はスイスの本部を通して僕のもとに月遅れで届いた。僕は彼女からの手紙を読むことだけが、自分にとっての唯一の憩いになっていた。彼女の言葉だけが僕を支えていた。

 「その日」僕は久しぶりの休日で、通訳を伴わずに街を彷徨い歩いていた。通訳は「危険だから気をつけろ」と言っていた。僕は街角の孤児たちと話したり彼らの好きなお菓子を与えて仲良く過ごしていた。僕が露天商で珈琲を飲みながら、現地の新聞に目を通していた時、僕は店の裏側にナイフを持った男が僕を狙って殺そうと様子を窺っていたことなどに気づいていなかった。僕は相変わらず苦みの強い珈琲を口に含んでいた。その時、大通りに通訳の一人が僕を見つけて「危ない!…逃げろ!」と叫んだ。僕には彼の言っている言葉の意味は理解できたが、「何が危ないんだ?」と微笑んだ。だが、次の瞬間僕は背中に激しい痛みを感じた。男が僕の背中にナイフを突き刺したのだった。僕はカップを落としその場に倒れた。多くの人が叫び、僕の周囲を取り囲んだ。「何があったんだ?」と僕は思った。ナイフは僕の胸まで貫通し、僕の胸からも赤い鮮血が溢れ出てきて、僕はやっとのことで何が起こったのかを理解した。

「何故?」

「しゃべるな!…今医者を呼んでくるから…」通訳の男は僕を仰向けに寝かせてくれた。僕を刺した男は人並みに紛れて走り去って行った。僕は生まれて初めて自分の「死」を実感した。僕の身体から血液がどんどん流れ出ていく中で、僕は自分が軽くなっていくような気がした。僕の頭の中では、それまでの様々な出来事が走馬灯のように流れて行った。「そうか、僕は死ぬんだな」僕は最後の力を振り絞って身体の向きを変え、うつ伏せになりマリーに伝言をしようとした。僕は地面に小さく無限大を意味する「∞」と書いた。…だが通訳の男には理解されなかったらしい。

「8…? どういう意味だ?…ダイイングメッセージか?」

 通訳者が不思議そうに言った。

「8じゃないよ。永遠の無限という…意味だよ」

 僕の最後の言葉が彼に伝わったかどうか、僕には分からなかった。やがて僕は薄れゆく意識の中で、精一杯の微笑みを浮かべたのだった…






 後書きに代えて…


 …愛しいダーリン。貴方は今、どこの国で働いていらっしゃるのかしら?…私はお母様の病院で毎日忙しく…それでも充実して…過ごしています。きっと貴方のことだから、さぞや凄惨な場所で危険を覚悟の上で忙しい日々なのでしょうね。飢餓や貧困を相手に毎日お仕事をなさっているんですものね。私の忙しさとは比べることなどできないほどに過酷な状況なのでしょうね。貴方に私の日々の愚痴を言ったら、怒られるでしょうね。三ヶ月前に貴方が一時帰国された時に話してくれた多くの難民キャンプの人々に笑顔が戻る日が少しでも早く来ることを私は毎日お祈りしています。お母様もお父様もお元気でお過ごしですので…もちろん私も!…どうぞ余計なことを心配なさらずお仕事にお励みください。

 今日は、私どものつまらぬ日常を貴方にお知らせするためにペンを取ったのではありません。今日は貴方に二つの大切な報告があります!…一つ目は、貴方が所属なさっている国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が、今年の「ノーベル平和賞」を受賞されることになりました!…貴方は「だから、どうなんだ?」とおっしゃるかもしれませんが、これは非常に名誉なことであり、貴方がなさってきたことが世界的に認められ賞賛された証だと私は思っています。やがて世界中に貴方の考えられている理想を持つ人が一人でも多くなれば、きっと「理想」ではなく「現実」になる日がやって来ると思っています。本当におめでとうございます。

 もう一つの報告は、きっと貴方も素直に喜んでいただけると思っています。…何だと思いますか?…「分かるわけないだろう?」と怒らないでくださいね。…実は、貴方の血を受け継いだ新しい命が私のお腹の中に芽生えたことです。お母様に検査していただいたから間違いありません。そうです!…私たちの赤ちゃんができるんです!

 ねぇ、ワクワクしませんか?…お父様もお母様も大喜びです。私も貴方の子を妊娠することができて、嬉しく思っています。予定日は来年の四月中旬だそうです。…それで、名前なのですが…まだ早いかしら?…もし、女の子だったらカレンと名付け、男の子だったら偉大な作家ヘミングウェイから名をとってアーネストと名付けたいのです。賛成しくれますよね?…貴方が帰ってくるのが遅いと、私の一存で決めますので、もし反論があるのなら、お返事の手紙でも電話でも構いません。私に知らせるか、すぐにでも私の元へ帰ってきてください。私は、本心を言うと貴方に反論してほしいです。…でも、貴方のお仕事の邪魔になるなら笑って破棄してくださって構いません。どうか、神の恵みのすべてが貴方に捧げられますように毎日祈っています。


一九五四年十一月五日

 …貴方の無事を祈っている、一人の看護師。マリー・パーカーより



(完)





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