多数者の支配する世界で
例えば、「無職の英雄」というなろう小説があって、この内容があまりに酷いというのはまとめサイトなんかで問題になったが、例えそうであっても、それを支持する人の「数」が一定数以上いれば、それで問題ないとされる世界に我々は住んでいる。実際、「無職の英雄」はなろうでは十万ポイント以上を稼いでいる。僕の文章などは千ポイントもいった事はない。フリーザとヤムチャ以上の戦力差があると言っていいだろう。
僕は、物書き志望といった立ち位置なので、他の物書き志望もいくらか知っている。プロになった人、出版までこぎつけた人もいる。僕は彼らを横目で見て、彼らの内、自分の魂を売って「プロ」になった人がいるのを知っている。(全ての人ではないが) 現在では、自らを世界に売り渡して、自分というものを消去して、世界に溶け込むのは、良しとされている。というか、これを「良し」とする世界に生きており、これがあたかも物理法則のように堅固なものであると前提されている。
自らを売って、人々のーーつまり、多数者の望むものに自分を合わせていく事が、人によって断罪される事はない。例え魂を売っても自分を捨てても、人々に尽くす、人々の願望に自己を一致させる事は善とされている。それが「善」であって、この世界はこの善によって人間を包み込む。
妙な話だが、悪い人間というのはそんなにいない。多くの人、あるいはクリエイターのような人達でも、今は偏屈な、個性のある、頑固な人というのは少ない。みな分別があって、それなりに才能・能力があって、利口でなおかつ優しい。しかし、この優しさが問題であって、我々はゆっくりと自分の魂を圧殺されるように要請されているのであって、それが嫌なら、この世界で、死ぬよりも辛い目に合わなければならない。それは人々から疎外される事だ。人間ではないと判断される事だ。
上記の文章はトクヴィルを読んでいて浮かんだ感想なのだが、トクヴィルはこう書いている。
「そこでは、主人は『お前は俺のように考えよ。そうでなければお前は死を与えられるぞ』とは、もはやいわない。彼は次のようにいう。『君が俺のように考えないのは君の自由である。君の生命、君の財産はすべて君のものである。けれども今日からは、君はわれわれの間では赤の他人だぞ。(略)』」
(講談社学術文庫「アメリカの民主政治」より)
現代における多数者の支配…正確に言えば、多数者の共同観念が我々の魂を拘束する方法については、芸術的といえるほどに繊細で複雑に、決めの細かい網目によって織られていて、この網には気付く事すら難しい。我々は「望む」事すらほとんど叶わない。何を「望む」のかという事すらも、我々の魂そのものが最初から抑えられている為に、それ自体が既に自分の意志ではない。しかし、それが自分の意志であるように思わせられるわけだ。小説を書くといえば「作家になりたい」という風になる。そうなると、今の文壇とか、人々が文学と認めるようなもの、そういう価値観に従うものになっていく。この誘惑には耐え難い。
さて、ここまで、書いて、鋭敏な人は次のように批判を僕に向けるだろう。それは「では一体、お前は誰に対して語っているのか?」と言うものだ。
僕は多数者の支配する世界について、話してきた。だが、それをお前は一体、「誰」に語っているのか? というのが次の問いになる。哲学的に訓練された鋭敏な人はこの問いを僕に向けるだろう。この問いは鋭い。
もし、僕の言っている事が正しければ、僕はこの文章をネットに載せて、人々の裁可を仰ぐ…そうすると、それは僕の文章そのものが多数者の価値観に巻き込まれる事になる。ネットに文章を載せるとは、それを「期待して」の事だと言われても仕方ない。ユーチューバーが、「視聴者は少なくても己を突き通したい」なんて言うだろうか? そんな事がしたいならそもそもユーチューバーなんてものになるわけがない。
トクヴィルの言う通り、多数者の支配する世界において、多数者を支持し、崇拝し、彼らの価値観を称揚し、彼らの気に入る物を作れば、多数者の方からも恩恵を与えてくれる。ここには互恵関係がある。だが、今書いているこの文章は多数者の支配に対する批判的文章であって、なおかつヤマダヒフミという人物はそれを多数者である人々に対して投げ渡そうとする。こんな馬鹿な話があるだろうか? こんな自己矛盾があるだろうか?
おそらく、ここで、僕は自分の論理の破れ目を「期待」しているのである。即ち、多数者である人々の中にそれを抜け出ようとする人がいる事を期待している。自分の論理が自己矛盾に陥るのを望んですらいる。
したがって、僕は自分の論理が破れれば僕の望みの通りになり、僕の論理が正しく、僕の言っている事が誰にも伝わらないとしても僕の論理における正当性は行使され続けるという事になる。(僕が世界から疎外される事によって僕の正しさが証明される) では、僕ーーヤマダヒフミーーという人物は、どっちの方向に転んでも(自分の中で)勝利が約束されているというのだろうか?
もしかしたら、そうかもしれない。しかし、内心虚しさを感じているのも事実である。論理が破れる瞬間を僕は見たい。その時、「僕」はおそらくうっすらと笑っているだろう。その笑いが勝利の笑みか敗北の笑みか…それを決める事は誰にもできはしない。多分、僕自身にも決める事はできない。