パン屋のルール
これは僕が神戸市にある湊川という場所に嫁と行った時の話しだ。湊川には東山商店街という古いが活気ある神戸では有名な商店街があり、パルシネマという館長が頭を何時間も悩ませて選りすぐった上質の映画を上映する小さな映画な館があり、そして風俗街福原がある。震災で街が焼けて区画整理が行われ家並がだいぶ新しく生まれ変わりはしたものの、今だ下町風情を残す街だ。
僕らが目的であった商店街での買物を終え、夕暮れ時商店街からは少し離れた駅近くの洋食屋やスーパーが並ぶ道を歩いていると人だかりが見えた。
「なんやあの人だかりは?」
僕がそれを見て言った。
「ちょっと行ってみようよ」
嫁も興味を持ったようで、2人でその人だかりに近づいて行った。
行ってみるとそこはパン屋で、多くは60過ぎであろう男女が10人程おり、聞いてみると17時から食パンが販売されるために待っているとの事であった。そこの美味しいと皆が口を揃えて言うパンは、本来予約をしなければ買えないのだが、特別に予約なしでも10斤販売しており、1人2斤までしか買えないという制約はあるのだが、現在並んでいるのが4人であったので、今並べばその食パンを買えると言われた。僕が時計を見ると16時40分で、17時迄は20分程時間があったが、無類の美味しいパン好きである嫁が「並んでみようよ」と僕の様子を伺うように提案してきた。
「うん。並ぶか」
別に急ぎの用がある訳でもなかったので、僕は同意した。
しかしそう言って並んでみたものの、すぐに手持ち無沙汰になってきた。パン屋の隣にはスーパーがあり、僕はそこで時間を潰そうと思い、「ちょと、あっこのスーパー行って来るわ」と嫁に言って歩き始めた。すると嫁も、「私も行く」とついて来た。
並んでいるのにパン屋を2人して離れる事に、懸念材料がまるでなかった訳ではなかったが、スーパーがすぐ隣で近かったし、皆が整然と並んでいるわけでもなかったので、まあいいか、というような軽い気持ちでその場を2人して離れた。
そして5分~10分後くらい経ち、いざパン屋の前に戻ってみると、最初に色々教えてくれた60歳代と思しき初老の女が、僕らに宣告した。
「あんたらもうあかんで」
どうやら僕らは、もうパンを買えないということになっているらしい。僕らが唖然として何も言えないでいると、初老の女は半笑い気味に続けて言った。
「列から離れたら買えんっちゅうルールがあんねや」
するとそれを聞いた、僕らがいない間に並んでいたらしい30代くらいの線の細そうな女の人が、「私大丈夫です」と立ち去り始めたので、それを見た嫁が、「私らが列を離れたんが悪かったんで別にいいですよ」とその人に言った。しかし、「またすぐ来れるんで大丈夫です」と行ってしまった。
初老の女を含め、色々最初に教えてくれたそこにいた人たちは何も言わない。
結局パンは買えたが、その後17時過ぎに来た20代後半と思しき女の人が、「買えないんですか」と並んで帰ろうとしないので、嫁はその人に1斤譲り、1斤だけ買った。
僕らはなんとも不愉快な気持ちで、帰りの地下鉄に乗っていた。
「あのババア、列を離れたらあかんねやったら、なんで列離れる時になんも言わんかってん」
「私らのこと、もて遊んどんねんで」
「大体列を離れたらあかんて誰が決めてん、あいつらが勝手に決めたルールちゃうんか」
どうにも腑に落ちない所が他にもあった。
「だいたいあいつら予約しとるんやったら、あんな早よから並ぶ必要ないんちゃうんか」
最初に僕らがパン屋に着いた時にいた多くは、すでに予約しており実際に並ぶ必要のない人たちだったのだ。
「なんかそういう暇な人らがおるらしいよ」
「そうか、ああやって取り仕切って楽しんどるんか」
後日食べたその食パンは、確かにもちもちした食感で上質の物ではあったが、以後僕らがそのパン屋に寄り付く事はなかった。