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極早生

作者: 東 吉乃






 高階たかしなの心はささくれていた。


 もう誰も残っていない休憩所、そこで缶コーヒーのプルタブに指をかける。プシュ、と小気味よい音が疲れた耳に響いた。

 ごくり。

 苦い液体を一口、飲み下す。熱さが舌から喉、胃の中へと移っていく。鼻に抜ける香ばしさは安っぽかったが、それでも気分転換になった。

 窓を開ければ涼しい風がするりと入り込んでくる。手すりにもたれて夜空を見上げると、それは見事な満月が中天にぽっかりと浮かんでいた。


 またこの季節がやってきた。


 芸術の秋。食欲の秋。スポーツの秋。読書の秋。

 どれもこれもクソくらえである。

 雇われにそんなもの楽しんでいる暇なぞない。高階にしてみれば、目前の決算を乗り越える秋、だ。


 上下期の切り替わり、経理部はこちらの営業部に対して口やかましい。やれこの契約の関連書類一式出せだの、減額見込みの理由書を作れだの。

 知るか。

 毎日言われて一時間ごとに電話されたら、そう叫びたくもなる。たかだか一つの修理契約が三本にも四本にも分かれることも、予定していた工事の一部が取りやめになったことも、何もかも客先の予算の都合であって高階のせいではない。

 壁の時計を読むと、時刻は23時を過ぎたところだった。

 今日であらかたの数字は出揃っている。

 計上コストの処理など一切の手続きは明日で〆切となる。営業部としてはそこまで気張れば、あとは経理部の管轄だ。

 高階は目を閉じ、眉間を指でつまんだ。

 三十を過ぎてからというもの、身体はさほどでないが、目に疲れが残るようになった。

「あ、先輩こんなところにいたんですか」

「……」

「ちょっと無視しないでくださいよー」

 ふてくされた声音とともに、足音が近づいてくる。

 うるせえな、と思いつつ目を開ける。夜間照明に落とされた暗がりの中、そこにいたのは後輩の三上だった。

「置いて帰られたのかと思いました」

「ひよこかお前は」

「そうですよ、高階さんの子分だったんだから」

 三上はしれっと言うが、もう四年も前の話である。

 指導員制度という今時珍しくもない枠組みのことだ。新入社員には先輩社員がついて、最初の一年間を公私にわたり指導するというやつで、三上が入社した時にその役を高階が務めた。

 刷り込みというのは恐ろしい。

 社内では「鋼の高階」などと有難い二つ名のお陰で避けられている高階だが、三上だけはこうして懐いてくる。

 自販機で炭酸ジュースを買った三上が、隣に腰を下ろした。

「疲れてますね。目、ですか?」

 ためらいなく炭酸を流し込みながら三上が言う。

「みかん食べるといいですよ。ちょうど今出回ってる、極早生ごくわせの青いやつ」

「へえ」

「わー気のない返事。信じてませんね」

「青いみかんなんて認めない」

 みかんといえば橙色、冬にコタツで頂くもの。関東出身の高階の中での常識だ。

 ところがここ九州の地元出身のそれも実家がみかん農家である三上が言うには、みかんは年中食べるものであるという。季節によってその品種はあれこれ変わるらしいが、今時期のおすすめは極早生なのだと力説している。

 一通りの説明を聞き流したところで、「そういえば」と三上が言った。

「高階さん、結婚はしないんですか」

「したい。嫁がほしい」

「嫁って……」

 三上が微妙な顔をする。そこで高階の缶コーヒーが空になった。ちょうど良い頃合いだ。高階が腰を上げると三上もそれに続き、休憩は終わった。



 翌日、決算は無事に終わった。定時を少し回って「飲みに行くか」と営業部の空気がゆるんだ時、その電話は鳴った。

 取ったのは最年少の佐野だ。

 最初は誰も気に留めていなかったが、やたらと電話が長い。最初に眉をひそめたのは隣に座っていた三上で、それを見た高階も斜め前から何事かと視線を向けた。

 佐野が涙目になっている。

 まだ入社二年目。必死にこらえながら懸命に説明を重ねているが、そのどれもが尻切れで、最後まで言わせてもらえない。何度「申し訳ありません」と繰り返しただろう。やがて受話器が置かれ、三上がすぐに「どうした」と声をかけた。

 途切れがちの説明を辛抱強く聞く。

 電話の相手は経理部だった。佐野の担当で決算の売上とコストが見合っていない案件が幾つかあったらしい。よくよく確認をしたところ、それらは今期で〆るが残工事があるもので、その残工事分のコストを経理部に申請しなければならなかったものだった。

 その手続きを佐野が忘れていたのだ。税務的に不味く、経理部の怒りももっともである。

「佐野」

 高階が呼ぶと、華奢な肩がびくりと揺れた。

「泣いてても解決にはならない。経理部はなんて?」

「今から全案件を確認するから、話の分かるやつを出せと……」

 思わず高階の眉根が寄った。

 責任者を出せ。どう考えても罵倒される流れだ。こちらの手落ちなので甘んじて受けるしかないが、今日に限って課長は不在。年次的に全件把握しているのは高階しかいない。

 高階が覚悟を決めた時、もう一度電話が鳴った。

 空気を読んだ庶務が素早く応対に出る。メモを取る手が忙しなく動き、やがて会話は終わった。庶務の目が高階を捉える。

「高階さん、S市で不具合です! 明後日までに復旧が必要だそうで、今日中に来てほしいって」

 高階の思考が止まった。

 怒髪天の経理部に、若い後輩を放り込むわけにはいかない。かといって、臨時修理はそれこそ担当である高階しか話が分からない。

「自分が経理部行ってきます」

 名乗りを上げたのは三上だった。

「どうせ社内ですし」

「でも三上、」

「決算は怒られれば済みます。でも臨修は待ってくれませんよ」

「……分かった。経理部は頼む、何かあれば電話するように」

 色々と心配はあったがやむを得ない。

 それ以上の問答はせず、高階は身の回りのものを引っ掴んで会社を飛び出した。



 高階が会社に戻ったのは、深夜1時のことだった。

 不具合は比較的軽く数時間で復旧した。不幸中の幸いだった。目頭をつまみながら事務所のドアを開けると、ぽっかりと一か所だけ電気が点いていた。

 消し忘れか。

 訝りながら歩を進めると、光の中から不意に「おかえりなさい」と声が聞こえた。真夜中の急な有声音、高階の背中がびびったのは生物として正しい反応だ。

「三上? なんでこんな時間まで……まさか」

「あーいや違います、経理部はとっくの昔に片付けました」

 じゃあどうして。

 高階が首を傾げると、三上が白いビニール袋を掲げた。

「待ってたんですよ。これ渡そうと思って」

 膨らむ袋が丸ごとがさりと手渡される。開いた口から、ふわりと爽やかな香りが漂ってきた。

「……みかん?」

「そう。昨日言ってた極早生。ビタミンいっぱいだから目に良いし、クエン酸で疲れも取れます」

 三上が一つを割って差し出してくる。

 急な後輩の優しさに、高階は言葉を失った。

「ねえ高階さん。もう少し頼ってくださいよ」

 光の中で三上が言う。

「俺が誰に鍛えられたと思ってるんです。鋼の高階が育てた後輩が使えないなんて、そんなことあるわけがない」

「……何その自信」

「だから、目が霞むほど根詰めちゃいけません」

「……そう?」

「あと『嫁ほしい』ってのは俺の台詞です」

 次いで「あなたは嫁になる立場ですよ、どんだけ男前なんですか」と説教された。

 高階が何かを言う前に、青いみかんが口に押し込まれる。帰り支度を始めた三上の頬は、少しだけ色づいていた。


 高階は首を捻りつつ極早生を咀嚼する。


 生まれて初めてのそれは酸味は強いが爽やかで、控えめな甘さがおいしかった。





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― 新着の感想 ―
[良い点] 小説ならではのオチですね^^ ほっこりしました
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