おはよう
「おはよう」
彼女の挨拶はいつもそうだ。
今日もいつもと同じ、灰色の瞳で僕を見る。
「おはよう汀」
千代薫子の最初の挨拶が「おはよう」だったのは、今が十一時過ぎであるからではない。彼女とこの病院で会うとき、彼女の挨拶は昼でも夜でも「おはよう」である。彼女に言わせると、『「おはよう」には人を起こす力があるんだよ。だから今まで寝てた人に言うのは当然でしょ?』らしい。
「おはよう薫子」
今は午前中なので、僕もおはようと返す。
「今月は早いんだね」
そう言うと彼女は僕の隣に腰掛けた。
現在大学院で薬学を学んでいる彼女は、現在も実家住まいだ。父を一人にしたくないらしい。
今日は講義が入っていないのか、彼女は病院で僕を待っていた。(薫子の場合、僕が診察に来るときは講義が入っていようと会いにくるのだが。)
昔から変わらない。色素が薄いのか、明るい色をしたボサボサの腰まである長い髪に、灰色の瞳をしている。
なんだかおとぎ話から抜け出してきた妖精のような、別世界の住人のような、そんな雰囲気を持っている。ときどき、この人本当に人間なのかなと思うくらいだ。
宇宙人と言ったほうがしっくりくる。
「早くに呼ばれたんだ」
僕は答えた。彼女は薄い色をした瞳で僕を舐めるように観察する。
僕はこれが苦手である。なんだか心まで読まれているような気がするからだ。
「湯澤は元気?」
「うん、変わらないよ」
「そっか、よかった」
彼女は安心したように、作り物のような綺麗な顔で遠くを見た。
僕らと武富湯澤は高校時代に出会った。
僕と薫子は、高校で初めて同じ学校に入った。薫子の頭脳があれば、有名校に入ることなど容易いことだったろうが、彼女は、自分は勉強をやりたいわけではないし、僕が心配だから、と言ってそこそこ進学校の公立高校に入ったのだ。
武富湯澤は空気以下の存在感しかない透明人間の僕と、高嶺の花ならぬエベレストの花である、常人と才能の差がありすぎて浮いていた薫子にも適応できる、心の広い人間であった。
彼女は僕らの世界を受け止め、そこで生きた。
僕らにとって、そんな人は初めてだった。やっと僕らを理解してくれる人に出会えた。僕らはそう思った。
でも、それは全て思い違いだった。
武富湯澤は、高校二年の夏の終わり、屋上から落ちて死んだ。
僕らの世界に耐えられなくなったんだ。
そのころから傾眠期のときだけ、湯澤は僕の夢に現れるようになった。
湯澤が死んだ日から、僕と薫子を縛る鎖の数が増した。
その鎖の名は「罪償い」という。
僕らのせいで散ってしまった、武富湯澤の愛した世界を残すべく、僕は自らの手に手錠をかけ、もう片方の手錠を薫子に渡した。
僕らはなおさら離れられなくなった。
「能登さん、診察室へどうぞ」
看護婦が呼ぶ声がしたので、僕は席を立った。
「あ、そうだ汀。ちょっと話したいことがあるから、私診察が終わるまでここで待ってるね」
……診察が長引くことを祈ろう。
僕はうなづいて、診察室へ向かった。
airfishです。読んでくださった方ありがとうございます。
引き続き投稿していくので、よろしくお願いします。