千代薫子という人間
千代薫子。彼女は天然記念物級の危険人物である。
能登汀と千代薫子は、どこまでも正反対の二人であった。互いの言い分が合致する事など一度も無かった。
僕らは永遠に違う物だった。この世で最も遠い存在だった。
いつまでも分かり合うことが無いのなら、僕らは離れるべきだと誰もが言うだろう。
共に生きるべきではないと誰もが思うだろう。
しかし僕らは離れなかった。
理由なんて僕が一番知りたいくらいだ。
ただ何故か、僕が彼女を見ないで生きていると、彼女は私を見ろ、と僕の人生に入り込んでくる。
お前の対極から目を背けるな、と。
また、千代薫子はどこまでも善の心を信じる人間であった。
きっと彼女は、「嘘をつく」という便利でかつ高機能な誤魔化しを知らない。
まるで生まれたての赤ん坊のような、どこまでも自然体であり澄みすぎた心をしているのだ。
僕は彼女を天然記念物に指定すべきだと思う。数が少ない鳥や熊なんかより、ずっと貴重で珍しい。なんせ世界に唯一の人格だからだ。
貴重人物であり、また危険人物でもある。
それに比べ、僕はどこまでも自然体から遠い存在である。
周りに染まり、周りに合わせ、嘘しかつけないような性質の悪い人工透明人間だ。周りにはほとんど害を与えない、ただ空気と一緒に漂っている。
例えば僕がスマートフォンなら、彼女はイリオモテヤマネコだ。
例えば彼女が北欧の空に広がるオーロラなら、僕は人工芝だ。
出会いだって鮮烈に覚えている。忘れられるわけが無い。
出会いもこの病院だった。八歳の頃に伯母に連れられこの病院に来た。
そこには大東哲司もいたのだが、彼と出会うのはもう少し先の話である。
伯母は僕を、誰も居ない真っ白い壁だけの殺風景な部屋に僕を残してどこかへ行った。部屋には明るい色の絨毯がひかれているだけで、嫌にわざとらしくぬいぐるみやおもちゃがその上に山積みになっていた。
僕はもっと狭い部屋にして欲しかった、と思いながら、白い壁を見てすごした。
すると、誰かがドアを開けた。そこには見知らぬ少女がいた。
そこで僕は千代薫子に出会った。
千代薫子は長くてぼさぼさの髪をした、綺麗な女の子だった。
僕を見るなり、彼女は言った。
「遊ばないの?」
声を聞いたとき、僕は何故か、やっと出会えた、と思った。
「遊びたくないんだ」
僕は端的に答えた。
「あなたは誰?」
少女が訊いた。僕は答えた。
「能登汀」
「そう、私は千代薫子よ。ここで何してるの?」
「知らないよ。連れてこられたんだ。君、知ってる?ここがどこなのか」
「知ってるよ。ここは父さんの病院。千代精神化病院よ。きっとあなたは、私の父さんに会いにきたのね」
それを聞いた時、薄々勘付いてはいたが、少しショックを受けた。やっぱり僕は、こんな病院に来なきゃならないほどおかしくなってしまったんだなあ。
僕はなんだかいろんなことがどうでもよく思えて、こんなことを話し出していた。
「僕はここにいたくないな。ここは、普通じゃない、おかしい人が集まるところなんでしょ?僕は他と一緒でいたいから、ここにいるのは嫌なんだ」
彼女はそれを聞いて驚いたようだった。
「他と一緒なんて、つまらないなあ君。私は他と違っていたいけど」
そのころから、やはり僕と彼女は合わなかった。
「でも、そうね、人それぞれか。君がここにいたくないのなら、助けるよ」
彼女はけろっと言い放って、部屋のドアを少し開けて外を見た。やっと出て行ってくれるのか、と思ったが、少し覗いただけで戻ってきた。そして一言、
「行くよ」
いきなり、僕の腕をつかんで、立たせた。―すごい力だった。
僕は抵抗できるわけも無く、そのままドアの外へ引っ張られていく。
「え、どこ行くの?!」
「ここじゃないところに!」
千代薫子はどこまでもまっすぐで、善意からの行動には全く疑いを持たない人間だ。だから僕がここにいたくないと言えば、僕をあの部屋から連れ出すのは、彼女にとっては当然のことであった。
結局受付にいた看護婦何人かに力ずくで止められたのだが、きっと誰もいなかったらそのまま外へと飛び出していっていただろう。
それから僕らは、僕の病気のこともあって、ずっと一緒にいるわけだ。
どこまでも「合わない」僕らは、何故か決して離れない。
今だって理由は分からないが、こうして同じ病院の待合室で一緒の空気を吸いながら、互いの存在を確認してるんだ。
互いに、自分の片割れがまだ生きていることに安堵しているんだ。
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