最後の夢
二人になれた汀と薫子。
しかし、汀を強い眠気が襲う。
湯澤が汀に最後に伝える事とは。
気がつくと、僕はまた夢の世界に立っていた。
夕日が丁度現実の世界と同じような具合の色味だったが、立っていたのが教室だったので夢の世界と判断できた。
そしていつもどおり、湯澤がそこに座っていた。
「湯澤」
僕が呼びかけると、湯澤はやわらかい笑顔を浮かべた。生前の湯沢がするものと同じ笑顔だ。
「湯澤、僕…」
「やっと二人になれたんだね」
優しい声だった。
湯澤は席に着いたまま、目に涙をためた。そのしずくを流すまいと、唇を少し噛んだ。でも目線は僕から離さなかった。
「長かった」
湯澤が呟いた。
「長かった…!」
湯澤は今度こそ涙が流れるのを防げずに、下を向いた。
僕は彼女に近づいた。
肩が震えていた。机に一つ、二つと涙が落ちる。
僕は彼女の震える手を握ろうとした。でも、寸前で止めた。
僕は夢の世界で湯澤に自分から触れた事はなかった。それは、僕らはもう別の世界の存在である事を頭の奥でわかっていたから。
だから、僕は自分から湯澤に触れる事はできない。僕は行き場のなくなった右手を握り締めた。
「千代先生に、きっともう聞いたでしょう?」
湯澤が下を向いたまま、震えた声で言った。
「うん」
僕は答えた。
湯澤は一度鼻をすすって、指先で涙を払い、また僕を見た。
「ごめんね、いろんなこと、隠して」
違うよ。湯澤。君は謝らなくていい。罪人は僕と、薫子なんだから。
僕は謝罪の言葉を言おうとした。でも、湯澤のほうが早かった。
「私はね、周りばかりを見てしまうの。誰かに求められていないと、誰かの役に立ってるって実感がないと、生きる意味も見出せないの。だから、千代先生に自殺の事を教えてもらった時、嬉しかったんだよ。死ぬ事でさえ、人の役に立てる。しかも私の大好きな、汀と薫子を救えるなんて、私にとって、こんな幸せな事はないって思った」
僕は彼女の声を、言葉を一言も聞き逃さないよう、彼女に集中した。
もうそれが最後だとわかっていたから。
「だからね、汀。私は汀と薫子と自分の為に死んだんだよ」
彼女は微笑んだ。そうか、彼女は僕に謝らせない為に。
伝えたい事も謝りたい事も、脳の処理が追いつかないほどにあった。
でも僕らには時間が無い。果たして時間と言うべきなのかもわからないけど、少なくとも僕らがこの教室にいられる時間はもうわずかだ。
それを表すかのように、窓の外がどんどん暗くなる。今まで、夢の世界の空がここまで暗くなった事はない。いつも夕焼けの時点で、眩む。
僕が窓の外に視線を向けていると、彼女はポケットから携帯端末を取り出した。古い型だ。
「汀、これ覚えてる?」
液晶画面には文字が羅列していた。それを読むために、僕はさらに近づいた。
そこに表示されていたのは、小説。それも…
「僕の…?」
彼女はその通り、と言わんばかりに頷いた。
それは確かに、高校時代に僕が執筆していた小説だった。最新更新日は七年前で止まっていた。
部活等をしていなかったので、暇な時間に少しずつ書き進めていった。元々小説が好きだったので、未熟ながらに楽しかった。小説投稿サイトに投稿していたので、残っていてもおかしくはないが、一体どうやって僕の作品を探し当てたのだろう。
「汀がよくお昼休みに書いてたでしょう?だから作品名だけ覗いて、検索してみたの」
湯澤は悪戯っぽく笑った。これも生前彼女がよくしていた表情だ。夢の世界ではその表情を見たことが無かったので、彼女がそんな顔をするのを忘れていた。
湯澤は液晶画面を自分に向けなおした。
「それで、こっそり読んでたの。このお話には一組の男女が登場する。ほとんど、その二人しか出てこないくらい」
確かにそのような話だったはずだ。僕が日常で感じた事を、主人公に重ねて書いた。もう内容は覚えていないが、恐ろしく薄い内容だっただろう。
「私が気になったのは、主人公がヒロインに対して繰り返し使う表現。彼は彼女のことを、「世界の軸」って表現してるんだ」
湯澤は携帯端末を机に置いた。もう必要ないらしい。
「これは、汀が薫子に対して使っていた表現、だよね?」
湯澤は答えを促すように、小首を傾げた。
「そうだよ」
大当たりである。その表現を他人に口にしたことは無かったが、こんなところからばれるとは。
「これを見て、生きてた時私、思ったの。あなた達は「二人」になれていないって」
僕は何も言わずに聞き続けた。
「少し変わった世界観を持つ女の子が一人死んだって、世界は何も変わらないよ。何事も無かったように回り続ける。だから、薫子は「世界の軸」じゃない。薫子は「汀の世界の軸」だった。だから、あなたは薫子がいないと生きていけない。もちろん薫子にも同じ事が言える」
湯澤は続けた。窓の外がしだいに暗くなっていくのを僕も湯澤も気付いていたが、窓を見なかった。
「当人達までもがそう思ってしまうほどに、あなた達はどこまでも合わないように見えるけど、互いがいないと存在できないんだよ。そしてそれがやっと今日、お互い理解し合えたの。互いが必要な存在だってわかった。自覚した事で、依存しあう共有結合状態だった汀と薫子が、二つの独立した人間になれたんだよ」
それが、僕らの答え。
湯澤が命を落としてまで伝えてくれた、僕らの罪だった。
「湯澤」
僕はいつもの質問をした。きっと最後の質問になる。
「どうして君はこの世界に残るんだ?」
僕はどこかで、もうわかっていた。もちろん湯澤もわかっている。これは言わば、僕らの答え合わせ。
いつもははぐらかす湯澤が、初めてその質問に応えた。
「これはあくまで、私の推測だけどね」
湯澤が言った。大丈夫、僕も推測だ。
「私の今の存在は、現世の人達の言う「幽霊」みたいな存在だと思うの。一般的に、現世に心残りがある魂のことを言う…で合ってるかな。でも私は、逆バージョン。私が現世を求めたんじゃなくて、現世の人が私を求めた」
同じだ。
「汀、あなただよね?あなたが、死んだ私を強く求めた。だから私はあの世までいけなかった。この教室で、幽霊的存在として、汀の夢に現れた」
「つまり、僕はずっと君に依存してた。自分の罪ばかり気にして、君を望み続けた」
僕が言うと、彼女は静かに頷いた。応え合わせは順調である。
「汀は過去ばかり見てた。だから私という罪から逃れられなかった。薫子は未来ばかり見ていた。過去の罪から逃れる為に、罪の償いを強く求めた」
湯澤は席を立った。床と椅子の足がこすれる音が響く。
「でももう、あなたたちは二人になれた。汀はもう私を求めない。過去の罪に執着しないで、前を向くの。そうすれば、私はこの幽霊的存在から開放されて、あの世って呼ばれるところに行くんだと思う」
そう、これはあくまで僕らの推測。この世界の本質が理解できるほど僕らは優れていない。
でも、本質などどうだっていいのだ。これは僕らの中で決める事だから。
湯澤は窓の外を見た。もう、空は黒く染められ、いつもの赤い光はどこにもない。
「これ以上、あなたはこの世界にいないほうがいい。これ以上い続けると、私もどうなるかわからないから」
湯澤は僕を見た。僕はその笑顔を見つめ、言った。
「僕らに出会ってくれて、教えてくれて、ありがとう。僕らは君を忘れない」
湯澤の目がまた潤んだ。頬に涙が伝うのを、もう隠さなかった。
「最高の人生だった」
湯澤は最後にそういって、僕に背を向けた。そして教室のドアを開け、向こう側へと旅立った。
向こう側がなんなのか、僕はまだ知るべきではない。
そのまま僕は、眩む世界に身をゆだねた。
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「お久しぶりですね先生」
武富湯澤は教室から出た暗い廊下の先に、彼の姿を見つけ声を掛けた。
長身のシルエットがこちらを向いた。千代和富はいつもの白衣姿だった。
「やあ、変わらないね」
「死んでますから」
武富湯澤は少し先にいる彼の元へ近づいた。そして、共にその先へと歩みだした。
「君のおかげで、薫子も汀君も、生きていく事ができるようだね」
千代和富が言った。
「はい。なんともじれったい二人でしたが、やっとわかってくれたみたい」
武富湯澤が言った。
「君には大変な仕事を押し付けてしまった。本当にすまない。私のことを、恨んでいるかな?」
千代和富が尋ねた。
「うらんでなどいません。あの二人を救う事ができたんだから本望です」
武富湯澤が応えた。
「私は幸せ者だな。死んだ後でさえ人の役に立てるなんて」
武富湯澤の言葉を聞いて、千代和富は少し笑った。その目に涙が光ったような気がしたが、武富湯澤は指摘しなかった。
「さあ、私たちも、そろそろ行こうか」
「そうですね。七年もいたら、この学校の風景にも飽きてしまいました。次の世界へ、行きましょう」
二人の影は、廊下の奥へ消えていった。
airfishです。読んで下さった方ありがとうございます。
今回も前回に引き続き、挿絵を挿入しました。
引き続き投稿していくので、よろしくお願いします。




