二人
薫子の元へ。
なつかしい道をたどって、汀は母校の屋上を目指す。
薫子は生きているのか、それとも―
まず、血のついた服をどうにかしなくては。
あの高校に行くには電車を乗り継がなければならない。さすがにこの格好では怪しがられるだろう。
下は黒地なので血は目立たないが、問題はシャツである。ところどころに赤い飛沫がついている。
血なまぐさい院長室からはできるだけ早く出たかったが、先生はこの部屋でよく寝泊りしていたので、服の一つは置いてあるだろうと思い、探す事にした。クローゼットの中をあさって薄手の上着を調達し、それを着た。やはり僕にはサイズが大きかった。9月には早い格好だったが、今の自分は寒いくらいなので丁度良かった。
死体が腐らないように、冷房は点けたまま。電気も点けたままで、僕は部屋を出た。
きっと死体は、明日にでも見つかるだろう。当然僕は何かしら疑われるだろう。しかし、そんなことはもうどうでもよかった。
薫子に、会いたい。
暗い病棟を抜け、人気の無い待合室を抜け、病院を出た。
駅に向かうバスに駆け込み、一番前の一人用座席に座り、息を吐いた。
急ぐべきだ、という考えは無かった。急いだところで、何も変わらないからだ。
―これは物語だ。物語のフィナーレというやつは、華やかで感動的でなければならない―
数分前の先生の言葉を思い出す。
そうだ。今から僕らはフィナーレを迎える。
薫子が僕を待っているなら、今もあの校舎で僕を待ち続けている。死ぬという決断に揺るぎが無いなら、僕がもし間に合ったところで止められるはずもない。
時間が決める事ではない。僕らの過去が決めるべき結果だ。
僕は淡々とあの高校へと近づいていく。電車を乗り継ぎ、電車に揺られ、なつかしい駅につく。
学生時代もよく利用していたその小さな駅は、昔と変わらず静かで、広告なんかも昔のままだ。まるで高校生時代にタイムスリップしたみたいだ。
ここまで約三十分、この駅から高校までは歩いて十分ほど。
時々通る車の音しか聞こえない、だだっ広い通学路を歩く僕の影を夕焼けが伸ばしていく。
毎日のようにここを通った。薫子と湯澤と三人で。
日曜のこの時間であるのもあって、学生の姿は見えない。
坂の多い地形で、学校への道はほとんどが上り坂である。通学時、体力の無い僕は苦労した。
道の凹凸を強調するかのように、夕日が影を濃くしていく。
道が細くなっていき、それにつれさらに車も人も減る。風が夏の青々とした木の葉をなでる音だけが響く。
木の陰に、古びた校舎が覗く。
ああ、ここだ。僕が人生で一番幸せを感じ、一番絶望を感じた場所。
正門や裏門からは入らない。日曜のこの時間ではあるが、もしかしたら部活動生なんかと出くわすかもしれないから。僕が入り込むのは、来客用駐車場の裏にある金網。ここは滅多に人が通らない。学校行事などの際に開けられるもので、もちろん今は閉まっている。しかし、金網の左脇に植えられている木によじ登れば、どうにか侵入できる仕様になっている。
学生時代にクラスメートに聞いた侵入法で、なんとなく覚えていたのだが、まさか24歳になった今役に立つとは。
木の枝もまたいい位置についていて、上りやすそうだ。幹には、なんだかこすれた跡があった。生徒達が侵入時につけたらしい。こんなに磨り減るまで、一体何人この木にお世話になったんだろう。
どうかこの木が伐採されずに生徒達の侵入を助け続けますように。そんなことを思いながらどうにか一番低い枝に足を掛け、金網の両脇についている鉄パイプを握る。そのまま金網の上に乗り、ジャンプ、着地、失敗。意外と高さがあった。体を起こし、服から砂を払う。木の枝にこすれた手のひらと、着地で地面に叩きつけられた足裏がじんじんした。
さあ、向かうは屋上。
外階段を使って上る。カン、カン、と大袈裟な音を立てる階段を、できるだけゆっくり上る。
学生時代も僕はよく外階段を利用した。中央階段は生徒も先生も多いからだ。
冷たい手すりに力なく手を滑らせながら、僕はここまでの道のりで初めて不安を感じた。
屋上に、もう薫子の姿が無かったら。
もう既に自殺していたら。
屋上の扉を開けた時、湯澤と同じようにあの手すりから、この世界とは違うところへ滑り落ちていく薫子がいたら。
そしたら、この世界は崩れるんじゃないか。軸がなくなればこんな世界、積み上げたジェンガのように、バラバラと崩れ落ちるのではないか。僕は、今にも空が落ちてくるのではないかと上を見上げた。そこにはただ、赤く染まった夕焼けがあるだけだった。
信じたくない。考えたくない。薫子。薫子。薫子。薫子!
生きていて、僕を待っていて!
僕は階段を駆け上がった。足音も気にせず、走った。
屋上に繋がるドアが見えた。薫子がそこで待っているのなら、このドアは開くはず。
ドアノブを握り、目を瞑った。こんなに心がざわついても、湯澤の声は聞こえなかった。
一人でやれ、という事なのだろう。
僕はドアノブを回した。
開いた。
飛び込むようにドアの隙間を抜け、屋上に出た。
僕は顔を上げ、見渡す。
その前に、抱きしめられた。
色の薄い長い髪が顔にかかり、なつかしい香りがした。
僕も強く抱きしめ返した。
全身の力が抜けるようだった。それでいて新しい力が体の芯から湧いてくるようだった。
「易々と、死なせない」
僕は腕の中の薫子に言った。
初めてそんなことを思ったし、そんなことを言った。
初めてそうした薫子の体は華奢で、今となってはあの超人的なオーラも感じられず、畏怖を抱く要素もないように思えた。なんだか普通の人間みたいだ、と思った。
腕の中で、薫子が顔を上げた。彼女の顔に一筋、水のしずくが流れていた。僕はそれを涙だと認識するのに時間がかかった。薫子が泣くなんて、考えられないことだったからだ。
「汀」
薫子が呟いた。
「やっぱりだめだった。死ぬのは、自分から死ぬのはやっぱり怖かった。私、やっぱり湯澤みたいに強くなれない」
薫子の声は震えていた。いつだってまっすぐでぶれなかった薫子の声が、震えていた。
震えていたのは声だけではなかった。指も、足も。
「汀、私を殺してよ!自分で死ねないなら、誰かにやってもらうしかないんだよ!」
薫子は泣き叫んだ。目から涙をぼろぼろこぼしながら。
自分の腕の中のそれは、もう世界の軸でもなんでもない。ただの、一人の、人間。
「薫子」
名前を呼んだ。彼女は喚くのをやめて、僕の顔を見た。
彼女は紛れもなく僕の太陽だった。
僕は月だ。
いつでも太陽の光を受けて、やっと存在できる。
太陽はいつまでもそこにあり続ければよかった。
ただ存在していればよかった。
近づくことも、遠ざかることも、僕は許さなかった。
今、無くなろうとしている太陽を、彼女を初めて受け入れた。
もう太陽も月も無い。
僕らは初めて、二人の人間になれた。
「なつかしいね。この屋上。よく、ここでお昼ご飯食べたよね?」
優しく、薫子に語り掛けた。腕を緩め、僕らは向かい合った。薫子の顔には、まだ涙の跡が残っている。
僕は続けた。
「薫子と湯澤はいつもお弁当だった。僕はいつも食堂で買ったものを食べてた。湯澤は好き嫌いが多くて、その度に僕らがもらって食べてた。薫子は湯澤のお母さんがつくるお弁当が大好きだったよね。よく、私にもつくってくれないかなってぼやいてた。薫子はいつも自分でつくってたから、うらやましかったんだよね」
それを聞いて、薫子は少しだけ、笑った。
「うん、そしたら湯澤、お母さんに頼んで私の分までつくってくれた。すごくおいしくて、すぐ食べ終わっちゃった」
僕も笑った。あの時の薫子の食べっぷりは本当にすごかった。僕がパンを半分も食べないうちに完食していた。こんな日常があったことを、僕らは忘れていた。
「食べ終わっても、僕らはなかなか教室に戻らなかった。薫子と湯澤はよくフェンスに寄りかかって話をしてた。僕はフェンスの下に座って携帯をいじってた。そしたら、汀何してるのって二人がよく覗き込んできた」
「うん、よく、ここのフェンスから景色を眺めてた。夏は日陰から、冬はマフラーをもこもこ巻いてた。湯澤は薄い茶色のマフラーで、手袋も同じ色。私は白で、汀は黒。汀はよく、携帯で小説を書いてたよね?私たちが覗き込んだら、慌てて隠してた。結局一度も読ませてくれなかったね」
「一度だけ読ませただろ。春か、秋。あったかいころ」
「ワンフレーズだけでしょ。一行じゃ意味がわかんないもの」
僕は笑った。つられて、薫子も笑った。
生きている実感のようなものを、初めて感じた。
僕は過去ばかりに戻った。
彼女は未来ばかりを求めた。
誰も今を見なかった。
どちらも今を生きなかった。
今、僕は初めて前を見た。
彼女は初めて振り返った。
初めて目が合った。
初めて、同じ時を生きていた。
初めて話して、笑って、共感した。
まるで今日初めて出会ったかのように、それは新鮮だった。
どこまでも分かり合った僕らは、やっと二つの人間になれたんだ。
僕らは昔の話をした。
これまで、幼少時代のそんなたわいもない日常を思い出すことなんてなかったが、薫子との記憶は溢れんばかりに脳の奥底から飛び出し、尽きる事はなかった。薫子もそれに答えた。競い合うように思い出を話した。それを共有できるのが、ひどく嬉しかった。
薫子の涙の後は消え、長い髪と彼女の着ている白いワンピースが同じ方向に流れていた。
その時だった。
鋭く、重たい眠気。
湯澤が僕を呼んでいる。
抗えない眠気。いつもよりずっと強い。
目の前の薫子の驚いたような表情が瞼の隙間に覗いた。
そのまま僕は、夢の世界に落ちていく。
airfishです。読んで下さった方ありがとうございます。
今回、新たな試みとして挿絵を挿入してみました。
自分絵なので下手です。すみません。
小説の世界観を感じて頂ければ嬉しいです。
これからも引き続き投稿していくので、よろしくおねがいします。




