真実
ガーネットのピアスを手に、ある場所へと向かい始めた汀。
そこで、真実を知る。
その海辺から去ること、それは即ち死であった。
その海に入ること、それは即ち生であった。
僕はどちらともつかない状況で、ただつま先だけを濡らし、意識は海辺の外ばかりに向けていた。
僕はとにかく早く、その海辺から去りたかった。
海は不安定で恐ろしいものだからだ。
本物の海を見たのは一度だけ、小さい頃に伯母が近くの海浜公園へ連れて行ってくれたことがある。
そこには大きくうなりながら波を立てる、とてつもない怪物がいた。絶対的な存在感を持つ海だ。
僕はそれを恐ろしいと思った。それ以来、海辺には近づかないようにしている。
波音にはリラクゼーション効果があるなんてよく聞くが、僕にとってあの激しくて重たい波音は恐怖である。
僕は今、その海に入ろうとしている。
大東さんと別れた公園から、目的地はすぐ近くだった。
道沿いに歩いていけば、それは見えてくる。
古びた病棟、美しい中庭、見慣れた風景だ。
今日は日曜なので、そこの自動ドアは開かないはずだった。しかし、その透明なドアは僕を歓迎した。
がらんとした待合室は薄暗く、いつものような暖色系の暖かい光は無かった。
僕の行き先は決まっていた。階段で二階へと上がる。きっとその男は、院長室にいるはずだ。
懐かしい色のそのドアを、僕は反射的にノックした。中からは予想通りの声が「どうぞ」と答えた。
僕はドアを明け、その男と対面した。
「やあ汀君」
「こんにちわ千代先生」
千代和富は小窓から外を眺めていた。
「待っていたよ。さあ座りなさい」
いつもと同じだ。僕は促されたソファに座る。先生も向かいのソファに座る。何も変わらない。
「さて、今回の傾眠期を終えて、何か変わった事は?」
先生は灰色の瞳で僕を見る。
「僕は傾眠期を終えたなんて言っていませんよ」
「君がここに来る理由なんて、診察くらいだろう?」
まあ、確かにそうだ。
「一つだけ、変わった事がありましたよ」
それは十四年間で初めての返答だった。
「何かな?」
先生の声は優しかった。
「諏訪衣人と名乗る男から、あなたのピアスを預かりました。今日はそれをお届けしに来たんです」
そう言って、あのベルベットの小箱をテーブルに置いた。
「ああ、ありがとう。よく私のものだとわかったね」
先生の声は流暢で、わかりきったようだった。僕はテーブルの写真立てを見た。千代先生の妻、柘榴がそこで微笑んでいた。そしてその白い耳には確かにあのガーネットのピアスが輝いていた。
「先生の亡くなられた奥様のものです。今は先生のものでしょう?」
「その通りだ」
先生は小箱のふたを開け、ピアスを確認するとまたテーブルに置いた。
「さあ、僕は頼まれたとおり、きちんと持ち主に返しましたよ、諏訪さん」
僕が言うと、先生は口の端だけで笑った。
「いかにも、私が諏訪だ。届けてくれてありがとう」
「随分と変わったお名前ですね?」
「親戚の名だよ。少し貸してもらった」
「どうしてこんな回りくどい事を?」
先生は落としていた視線をまた僕に戻した。
「私が警戒したのは大東君だよ。彼の情報収集能力は恐ろしいものだからね。下手に郵送してしまうと、彼に送り元を特定されてしまうと思ったのさ。あの段階で彼に勘付かれてはいろいろと面倒だった。君の自宅に送るというのもあったが、君はほとんど毎日職場に泊まり込んでいるようだからね。諏訪衣人は、当初は正体を明かさずに君に手紙を届ける為だけのアカウントだったが、状況が変わった。君にここに来てもらわなければならなくなった。このピアスがどんなものか、君なら知っているだろうと思ってね。期待通り、君は傾眠期を終えてすぐに、ここに来てくれた」
先生の声は優しい。でも、いつも診察の時に聞くあの声とはどこか違う。
「僕のケータイの番号は知っているでしょう。掛けて頂ければすぐに来たのに」
「急いでも無駄なのさ汀君。急いだところで結果は変わらない。これは物語だ。物語のフィナーレというやつは、華やかで感動的でなければならない」
二人の間に一瞬沈黙が流れる。互いを詮索しあうように、目はそらさないまま。
「一つだけ、お訊きしたいことがあります」
沈黙を破り、僕はその質問をした。何よりも知りたかった事。
「武富湯澤の書いたあの便箋を、どうやって手に入れたんですか」
千代先生は、それを聞いて嘲笑うかのような表情をした。
「あれはね、元々私が預かっていたんだよ」
「えっ…」
思わず声が出た。千代先生と湯澤に面識は無かったはずだ。僕はこの人に湯澤の話をしたことはないし、薫子も僕以外に湯澤のことを話したりしないはずだ。
「武富湯澤とは、君たちよりも前から面識を持っている。彼女は、この病院の患者だった」
「そんなわけ…。湯澤は僕がこの病院に通っていることを知っていたし、先生を知っているような素振りも見せた事は無い…」
混乱していた。湯澤が、この病院の患者だったなんて…。
「私が彼女に頼んだんだよ。汀君と薫子に、君がこの病院の患者であった事は内緒にしてくれ、とね」
「どうして…そんなこと?」
意味が解らない。鼓動が早くなる。波が迫ってくる…。
「率直に言おう」
先生の目は、もういつもの優しい目ではなかった。
「武富湯澤の自殺を示唆したのは、この私だ」
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