恩人の懇願
千代和富のもとへ向かった大東哲司。
かつての恩人の懇願とは。
「うっわ久しぶりだな」
会社のすぐ近くなのに、すっかり足が遠のいてしまっていた。
中庭を突っ切って入り口に向かう。水をまいたらしく、真夏の太陽がじりじりと照らす中でも、花々は生き生きとしていた。
古めかしい造りだが、大東はこの病院の中庭が好きだった。
自動ドアを通り抜けると、クーラーの冷気が体を包んだ。
先生には電話で話をつけておいたので、診察の入っていない時間を空けておいてくれているはずだ。
院長室の場所も知っている。子どもの頃何度も行った。
懐かしい色のドアをノックすると、すぐさま「どうぞ」と声がした。
「やあ哲司君、久しぶりだね!さあ座りなさい」
千代和富は一年会わずとも何ら変わっていなかった。
「こんちわ先生。ご無沙汰してました」
促されたとおり、先生の向かいのソファに座る。テーブルの上には、水滴で濡れたグラスの中に氷と麦茶が入っていた。これは助かる。
「仕事の方はどうかね?」
「まあまあですよ」
先生の瞳は灰色だった。子どもの頃から、やけにその瞳は印象強かった。そういえば娘さん、薫子ちゃんも灰色の瞳だった。雰囲気は似ていないが、やはり親子だ。
「汀君の傾眠期がまた来たといっていたね?」
用件については先に電話で話しておいた。
「はい。たぶん今もです。さすがにおかしくないですか?今まではほとんど狂いなく一ヵ月ごとだったのに、明けた翌日にまた入るなんて」
先生は考えるように明るい色の口髭に手を当てた。
「何か、変化はあったかね?汀君の周りに」
「特に…あ、一つ。あいつ宛で変な封筒が来ましたね。結局誰からだったのかは知らないですけど」
「封筒…なるほど」
千代和富は座っていたソファから立ち、小窓から外を見た。
大東は喉が渇いていたので、出されていた麦茶に口をつけた。
「汀君が、これから先、もしかすると死のうとするかもしれない」
「っは?」
思わず、飲んでいた麦茶を吹いてしまった。
「汀君が、もしかすると死のうとするかもしれない」
千代和富は静かに繰り返した。
「え、それどういう…」
大東には意味が解らなかった。
今、話をしていたのは、封筒の事だったのでは…。
千代和富はこちらを振り向いて、いつもの笑顔で言った。
「だからね、哲司君。もし汀君がそういう状態に陥った時、汀君を死なせてはいけないよ」
千代和富は笑顔だった。しかし、いつもとは違う。必死さを必死に隠しているようだ。
この人の言う事だ。殺人計画をいとも簡単に見抜くような男の言う事だ。きっとただ事ではない。
「今の私には、そこまでしか言う事はできない」
千代先生は、再び目の前のソファの腰を下ろした。そして、テーブルの上の写真たてに視線を落とし、また考えるように口髭をいじった。大東は、その写真たての中の人物を知っていた。少年時代に院長室へ来た時、いつでもここにあったからだ。
「奥さんですよね」
千代和富は無意識に写真を見ていたようで、大東の言葉に少し驚いたようだった。そして苦笑し、
「哲司君、君は本当に鋭いな」
と、照れくさそうに言った。
写真の中の人物は、とても美しい、若い女性だった。
「妻の柘榴だ」
柘榴。名前は初めて聞いた。昔聞いた話では、若くして亡くなったらしい。
娘の薫子は、明るい色の瞳や髪は父親譲りだが、その美しい顔立ちは完全に母親似であった。
「人が死ぬということは、どうにも取り返しがつかないものだ」
千代和富はため息混じりに呟いた。こんな先生は初めて見る。
これまでこの人は、一体何人の死を防ぎ、死を見届けたのだろう。
「汀君の病状に関しては、あまり心配することは無い。この手の病状は不安定な物が多いし、今までが定期的すぎただけだよ。今私に言えることは、汀君を死なせないで欲しい、それだけなんだ」
恩人の声は、懇願するようだった。
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