はじめはェアポォゥ
座ったら?―――ベッドをぽんぽん、と叩く。
と、今度は理解したらしく、ミリーおばさんは私の隣に静かに腰を下ろした。
それにしても暑そうな服だ。立て襟が首の半分ほどを覆い、長そでのワンピースのような形のそれは、体のほとんどを隠していた。暑苦しい。
私はリモコンを手にとり、冷房を入れる。
ピッという音にミリーおばさんが飛び上がる。
そして突然冷たい風を吹き出し始めたクーラーをじっと見つめてから、ベッドの上に立ち上がった。
あっおいこら、土足のままベッドの上に立たないで!
そう思ったが、ミリーがあまりにも嬉しそうにクーラーの前にへばりついているので諦めることにした。フィルター掃除してないからたぶんクーラーから出て来る風は相当カビ臭いんだけど、気にしてないみたいだし教えてあげようがないからもう放っておく。
何にせよ、言葉が通じないことにはどうしようもない。
数時間したらバイトに出かけなくてはならないが、その間ミリーには家にいて欲しい。
いや、別にいて欲しいわけではない。
元の世界におかえりいただくなら、それが一番いいのだ。
でも、私は元の世界に返す方法を知らないし、さっきの怯え具合からしてミリーもそれを把握していないようだった。
この世界にいるんだったら、迂闊にここから出て欲しくないのだ。外の世界はたぶんミリーにとって恐怖の世界だから。せめて言葉を覚えてからか、私がそばにいないと。
…ちょっと待て、なぜ私はこのおばさんを受け容れる体制を整えようとしているんだ。
待て待て待て待て。
でも現実問題、この人をほっぽり出してその辺でのたれ死んでいるところを見るのは嫌だし、何か事件に巻き込まれて欲しいかと言われたらそうでもない。ずっと養えるかと言われたらノーだが、言葉を覚えるまでくらいなら、うちに置いてあげてもいいんじゃないか。
うん、もう、そうするしかなさそう。
かくして私と謎のおばさんミリーとの共同生活が幕を開けることになった。ようだ。
「じゃあ、行ってくるから。ミリー、家にいてね。」
何一つ通じていないとはわかっていても、一応声を掛けて家を出る。「ハーイ!サラ!」
家の中から陽気な声が帰って来た。
あの妙な朝から一週間。私とミリーの奇妙な同居生活は今のところ平穏に過ぎている。
あの日、バイトの帰りに本屋に寄った。日本語の教材を買おうと思ったのだ。
ところがすぐにそれがいかに浅はかな考えだったかということを思い知らされる。
まず英語の授業を思い出してもらいたい。
「『こんにちは』は『Hello』と言います!」
みたいな、そんな感じだったはずだ。
これは、大前提として日本語の「こんにちは」を理解していることが求められる。
つまり、共通して扱える言語が何もない状態では教本や授業は何の役にも立たない。
本屋に行くまでそのことに気付いていなかった私は、ショックのあまりしばらく本棚にもたれかかったまま呆然としていた。
あいにくだが、『まったく知らない言語を話す人とコミュニケーションをとる方法』とか『異世界からの訪問客と仲良くなろう』とか『ボディランゲージのすゝめ』といった類の本はその本屋では見つからなかった。
だが私はあきらめなかった。
とりあえずは「あいうえお」だ!と信じ、まず50音のひらがなを表にしてミリーに渡す。幼稚園児がひらがなを覚えるために使うあれだ。
そして、ひとつひとつの音を教えていく。それが文字だということは理解したらしく、また、ミリーの話す言語にも文字があったらしく、私の発音を聞いて何やら横に小さく書き留めていく。たぶん音を自分の国の言葉で書き表しているのだろう。
そして次に、物の名前を教えていく。
「ネェギィ」
「りんごぉ」
「しょうゆぅ」
とりあえず冷蔵庫の中身から教えていくと、ミリーは絵を書き、横に発音を書き込んでいく。私はその横にひらがなを書いてあげる。英単語だって、はじめは「ェアポォゥ」だったはずだ。だから、これでいいのだ。たぶん。ちなみに「ェアポォゥ」というのはAppleのことだ。おわかりいただけただろうか。
この方法はなかなかに有効で、いまやミリーは「オハヨ」と「オヤス」をちゃんと言えるし、「メシ」も言えるようになった。あと、「ハイ」と「イイエ」も言う。
そして、嬉しい誤算だったのが、このおばさん、やたらと働き者だったのだ。
初日は、部屋に帰ってぶったまげた。
部屋が信じられないほどきれいなのだ。
整理整頓が完璧になされ、布団まで干してくれたらしい。
ちなみにミリーはどうにかこうにか窓を開ける方法を発見してベランダに出てみたはいいが、そこが地上からあまりにも離れていたせいでおどろき、ベランダで腰を抜かしたらしい。
私がバイトから帰るとミリーはすでに家の中にいたが、ベランダで絶叫するミリーの姿を目撃していた隣人が教えてくれた。
隣人には「あの人誰なの。日本語わからないみたいだったけど。」としつこく聞かれたので、「タクラマカン砂漠に住んでる少数民族の生き残りがちょっと留学してて、うちにホームステイすることになったの。」と嘘八百をこいておいた。だいたいタクラマカン砂漠ってどこだ。
次の日には、シンクや風呂がピカピカに磨き上げられていた。
3日目には、窓がぴかぴかに磨かれ、ガラスが透明すぎてそこに窓があるのかどうか確かめたくなるくらいだった。
4日目には、カーテンがすべて丸洗いされ、あざやかな色に戻っていた。ちょっと縮んだらしいことには、気付かないふりをしておいた。
5日目には、私の箪笥の中がぴしーっと整っていた。
ちょ、ミリー、私のパンツまでたたみなおしてくれたのか。それはちょっと恥ずかしいな。
6日目には、何とご飯ができていた。
ガスコンロの使い方などは一応教えておいたけど、家に帰って雑炊らしきものが出てきたときは感動した。家には米とねぎと塩と卵しかなかったのに、それはそれは美味な雑炊であった。
そして今日。今日は帰ったら部屋がどうなっているのか。楽しみでたまらない。
るんるんで帰宅した私の目に飛び込んできたのは、ミリーにもてなされてくつろぐ一人の男だった。
「ちょ、こんな時に来るんじゃねぇって!!!!」