名はミリー
まぁ、そうだよね。
トリップするのが若者ばかりとも限らないし、必ずしもそこに異性との出会いが転がっているとも限らない。
というか、これがトリップなのかどうかもわからないけど、もうそういうことにしとこう。
だって、密室におばさんが転がり込んできたんだよ?
夢でもなさそうなんだよ?
トリップとかそういう、ファンタジーな事情じゃなかったら相当こわいでしょ。ホラーでしょ。
あぁ、やめてやめて。ホラーなんてもう、マジで大っ嫌いだから。一人暮らしの家でホラーな現象なんて本当に勘弁してください。このおばさん、実体あるよね? うん。足も生えてるし、触れる。血みどろだったりもしない。気は失ってるけど、不自然に肌が白かったりもせず、透けてもいない。そっと首筋に手をやると、脈を感じた。
よっしゃ、OK。とりあえず、生身の人間だ。それだけで、だいぶ落ち着く。
で、どうするか。
家出人捜索? あ、いや、それは家族が家出したときに探してくださいっていうやつであって、たぶん家出した人を拾った場合の手続きではないんだろうし、まして家がどこにあるかわからない人が部屋に降ってきた場合の手続きではないはず。そして、そんなことを警察なぞに申告しようものなら、きっと違う施設――おそらく「び」から始まり「ん」で終わる――を紹介されるのが関の山だ、ということくらいは私にもわかる。
おばさんを見下ろしながら、ようやく活動を再開した頭をフル回転させた。
これが異性だったら、ラブラブライフが始まったりしそうなわけだけど、異性じゃないしねぇ。いや、何を考えてるんだ。この感じで突然若い男が降って来たりなんかしたら、それこそ私の人生めちゃめちゃになる。おじさんなんてもっと最悪だ。若い可愛い女の子だったら最高だったんだけど、贅沢は言うまい。おばさんで上等だ。小太りでも、まぁいいよ。ガリ痩せしてるおばさんとか、ちょっと怖いし。
ふうむ。
どっちにしてもねぇ。本人の希望もあるだろうしねぇ。とりあえず起きるまではほっとくしかないかなぁ。
突然の来客にもう眠る気なんかすっかり失せてしまったし、おばさんが私のベッドに伸びてるし、私は眠ることをあきらめた。
一応、見ず知らずの他人のとなりで眠れるほど神経は太くないし。寝首を掻き切られないとも限らないわけで。
よし、朝ごはん食べよう。
自分なりに色々と考えたはずだけど、最終的にそこに行き着いたのはたぶん、自分の身に起きたことを整理しようとして失敗した脳みそが、色んなことを放棄したせいだったのだと思う。
んーっと一発伸びをしてから床に置いてあったカバンを持ち上げ、サンダルを足に引っ掛けて家を出て鍵をかけた。近くのコンビニまで歩いて5分だ。早朝だっていうのに不愉快な暑さだが、日が出ていない分だけ幾分過ごしやすかった。
こんな時間に起きて活動するのなんて久しぶりだなぁ。前に居酒屋のバイトをしていた頃は深夜の方が時給がよかったので積極的に深夜にシフトを入れていたのだが、昼夜逆転の生活で体調がおかしくなった上に、飲んだ客の絡みがひどくてひどくて、さらにストーカーみたいな客があらわれたので辞めてしまった。
「いらっしゃいませー」
客のいないコンビニに入り、朝食を選ぶ。通い詰めたコンビニのどこに何が陳列されているかはほぼ完ぺきに把握している。つまり、もう食べ飽きている。おにぎりも、サンドイッチも、菓子パンも。
新発売! のシールを見つけ、迷わずそれを手に取った。
どこかのテレビ局のドラマとタイアップしたらしいその商品のパッケージには今をときめく俳優の顔写真がくっついていて、中のパンはひどくまずそうだった。とはいえコンビニがないと生きていけない私が商品に文句をつける権利なんてない。
そのまずい(に違いない)パンを手に取り、それから部屋に伸びているおばさんの存在を思い出して、一番ベーシックな食パンを手に取った。これなら食べれるかな。
なぜかおばさんを客と認識してる辺りも、たぶん脳みそがオーバーヒート気味なせいだろう。
顔なじみの店員さんが商品にピッとしながら「今日は早いですね」と言ってきた。部屋の中に小太りの変な格好したおばさんが降って来たので目が醒めましたとは言えず、「暑さでね」と言っておいた。
「ありがとうございました」という声に追いかけられながら店を出ると、 むわっとした熱気が体を包み込んだ。
サンダルでぺったんぺったんと歩き、部屋についてドアを開ける。
狭い部屋なので、玄関を入るとベッドまで見通せるのだが、
――あれ、おばさんがいない。
まさか、新手のドロボーだった?
なけなしの全財産を盗まれでもしたら、明日には飢え死にだ。大都会で頼るあてもなく、本気で、やばい。
慌ててサンダルを脱いで家の奥に入ったところで、思わず声を上げてしまった。
「うおおおおっ」
ちょうど玄関から死角になる壁におばさんが張り付いていたのだ。目をこれでもかってくらいに見開いたおばさんは、ちょっとしたホラーだった。
ああ、ファンタジー説は撤回。
これ、確実に恐怖のやつです。もしかするとサスペンスかも。
だけど、震えてるのは私じゃなくておばさんの方だった。
それはもう、面白いほど震えている。
歯がカタカタと音を立てているのだ。
こんなに震えている人を初めて見たので私はちょっと驚きつつ、私には攻撃する意志はないですよってことを示すために両手を上げてみせた。こうも怯えられると、なんとなくこちらは心に余裕が出てくる。すくなくとも、害を与えられることはなさそうだから。
「おばさん、どっから来たの」
おばさんの顔立ちは寝てる時から明らかに私とはルーツの違いそうなものだったので日本語が通じるとは思えなかったけど、一応聞いてみた。おばさんはやっぱり、何もわからないようだった。
とりあえず落ち着いて欲しいんだけどなぁ。
私はそのままベッドに腰掛けた。そして、自分の横をぽんぽん、と叩く。
ここに座ったら? という意思表示のつもりで。
でもおばさんはやたらと怖い表情のまま固まっていて、動こうとしない。
しょうがないので私はコンビニの袋からさっきのまずい(に違いない)パンを取り出して食べ始めた。不自然な緑色をしたそのパンは、妙に甘ったるくて合成着色料バンバン使ってますよな味だった。うん、やはりまずかった。
私がパンに苦い思いをさせられている間も、おばさんは微動だにしなかった。いや、正確には、震えているという意味では常に微動しているとも言える。
英語わかったりしないかな、おばさん。
問題はわたしが英語わからないことなんだけど。
えー……
「どこから来たの」を英語に訳す、と。
えーっと
「どこ」が「ほぇあ」だったことは覚えてる。
「来る」は「かむ」
「から」は「ふろむ」
あー……
ほぇあどぅーゆーかむふろむ?
ちなみに言っておくと、一応、高校は出ている。高校卒業したくせにそんな英語もわからないのか、と言われそうな気もするけど。わからないのだからしょうがない。
勉強は昔から嫌いだった。
だから地元のいわゆる「バカ高」に通った。わたしの通った高校は停学者・退学者も多く、授業をさぼるなんて当たり前の世界だったから、普通に授業に出席して、教室でぼんやりして、先生を殴ったりもせずおとなしく過ごして、ちゃんとテストを受けて、勘を駆使して記号選択式の問題に立ち向かえば、まぁ卒業はできた。
そんな私の渾身の英語にも、おばさんの反応はなし。他に私が操れる言語はないので、残念だけどこのおばさんとのコミュニケーション手段はジェスチャーのみ。
お腹空いてないの? と告げるべく、私は自分の食べているパンを指さした。
あなたの――おばさんを指す。
分もあるよ。――コンビニの袋を指す。
お腹――自分のお腹をなでまわす。
空いてない――お腹を押さえてしょぼんとした表情をする。
?――首をひねって疑問形にする。
おばさんの震えが止まった。どうやらやっと、私が危害を加えようとは思っていないことに気付いたらしい。ちょっと遅いけどね。
おばさんはコンビニの袋に手を入れ、そして飛び上がった。あまりに予想外の動きに私も一緒になって飛び上がってしまった。
どうやらおばさんはコンビニの袋のシャカッという音にびっくりしただけだったらしく、恐る恐る袋を開けて中にある食パンを取り出した。6枚切りのパンが3枚入っているやつ。
「ああ、開けてあげる」
別に言葉が通じるわけでもないのに、私はおばさんの持つパンに手を伸ばした。食べかけのパンは口にくわえる。そしてビニール袋の口を左右にひっぱって開けると、中身を取り出した。
おばさんはクンクンと匂いを嗅いでから、意外に小さな口でぱくりとかじりついた。
そしてデカイ目が見開かれる。
だから、コワいってその表情。目が飛び出してくるんじゃないかと思う。
それからむしゃむしゃと食べ進める様子を見るに、どうやら食パンはお気に召したようだ。よかったよかった。
3枚もいらないだろうと、私も1枚手に取った。だっておばさんがあまりにもおいしそうに食べるから。まずい(確定)パンが朝ごはんというのはなかなか辛いものがあったし。
おばさんは1枚を食べ終わった後、むずむずと何か言いたげにしている。
「あ、もう1枚食べたいの? どうぞ」
袋から最後の1枚を取り出して差し出すと、おばさんはにっこりとほほ笑んだ。あら、嬉しそう。やっとホラーじゃなくなった。
「私、サラ」そう言ってから、きょとんとしたおばさんの表情をみて思い出す。ジェスチャーつけなきゃわかりませんよね。
私――自分の鼻を指さす。
「サラ」
あなたは?
――おばさんを指し、首を傾げる。
「ミリー」そう呟いたおばさんの声は想像よりもずっと高くてきれいだった。そしておばさんは、私の顔をじっと見て、つぶやいた。
「サラ」
「ミリー」
得た情報は、たったそれだけ。なのになぜか私はうれしくなって、思わず声を上げて笑ってしまった。