国際貨物航空会社 フレイヤ・インターナショナル・エアカーゴ
今日は月曜日。
会社へ出勤するオレ。毎月の給料を貰う為、勤労に励んでおります。
会社の玄関から中へ入る。オレは正直、今のこの仕事が好きだ。情熱と向上心を持って取り組んでいるつもりではある。会社の同僚とも良好な関係を築いていると自負している。この商売、一人では出来ない仕事で、常にチームワークが求められる仕事なのだから、良好な人間関係が必須となるし、多くの色々な個性を持った人たちと対話出来る能力が必要なのだ。それはそれで、凄く気を使い、神経が磨り減るのだけどね。
オレの執務しているのは社屋の三階。トントンと鉄で出来た階段を踏み鳴らしながら、上がって行く。いつもこの執務室で仕事をしている訳じゃないけど、今から重要な打合せがあるので、執務室へ行く。
「おはようございます・・・・・・」
オレは自慢のテノール・ボイスで朝の挨拶をしながら、執務室のドアを開け入る。
「おはよーエルウィン」
執務室の奥にあるミーティング・コーナーから女性の声が聞こえてきた。彼女はこれから実施するミーティングの資料のコピーを机に並べていた。
オレは席に付いてコピーに目を通す。ページ数にして軽く二十ページはあろうかという資料。これからの仕事に必要な大切な資料だ。良く中を読んで、頭に叩き込んでおく。
「おはようござーまーす!」
ドアを押し開き、大きな声で挨拶をして来た女性が一人。真っ直ぐオレの居るミーティング・コーナーに向って来る。
彼女は・・・・・・オレの仕事の相方なのだ。そのまま、オレの隣の席について、資料を見入っている。なかなか熱心なヤツだ。
「全員揃ったわね。じゃあ、始めましょう!」
「ハーイ」
オレの前に、居る女性がミーティングの進行役となって、資料の内容を説明している。
相方は一生懸命、資料にカリカリとペンシルの先を削り取るように、説明される内容を書き込んでいる。オレは聴いた内容を脳内のハードディスクへ書き込む事にする。オレは書くのが苦手なんだよ。悔しいのは脳内ハードディスクの容量が大きくない事だ。自分に都合の悪い事は忘れる主義なのだ。
「航路上に発達した低気圧があります。ここは高度を取って回避しましょう。今日の積荷はニッポンのソールフードの《豆腐》が一万三〇〇〇ポンドですから」
「はーい、エリザベスさん、トーフって何ですか?食べた事、ないです」
「マリオンちゃん、お豆腐って健康に良くって、美味しいのよ・・・・・・それにとても柔らかくって崩れやすいの。慎重に運搬しないと、お客様の荷物を壊してしまうわ」
オレの目の前で小学校の授業のような光景が広がっているが、これは正真正銘、飛行前のデスパッチ・ブリーフィング。パイロットが飛行機で飛ぶ前に行う打合せ。そう、彼女達は飛行機のパイロットなんだ。
ここは小さな小さな航空会社。ど田舎の地方空港の貨物ターミナルにその所在を置く貨物輸送専用の航空会社だ。
「あとノータムの発行で注意しなきゃならない情報はと・・・・・・今日は人工衛星の打ち上げがあるみたいたいだけど、航路には全く関係ないわね。それと、渡り鳥の季節だから、バード・ストライクには十分注意してね。特に飛行機の操縦席のフロント・ウインドウ・シールドは弱点だから、鳥さんが団体でぶつかると、割れちゃうかも」
「はーい、注意します。エリザベスさん」
オレの前でこの会社の社長、エリザベス・ブラックバーンさんが航路図を広げて、目的地までのルートを説明してくれている。ここはその小さな会社の事務所の運行管理室。その会社の社員の内、飛行機の運航に携わっているパイロットは社長を含め三名のみ。はっきり言って吹けば飛ぶような零細企業だ。
「あとね、相変わらず、テロとかハイジャックに注意と出ているわ。まあ、私達の飛行機は貨物機だら、ハイジャックの可能性は低いわね・・・・・・。だって乗客は乗らないもの」
社長のエリザベス・ブラックバーンさんは若い細腕で会社を切り盛りしている。オレは彼女の事をとても尊敬している。あの若さで航空会社を仕切っているのは凄い事だと思う。
彼女は印象的な長く美しいブロンドの女性だ。そのキラキラした黄金色の髪の毛は背中で太く編み込まれている。瞳はアメジストのような深い赤紫だ。白いパイロット制服、肩には金色の三本線が入った徽章。サンシャインレッドのネクタイとキュロットスカート。どこから見ても完璧な女性。見ていて心洗われるようだ。
そして、オレの左側には同僚が机を並べている。
「目的地のブルジェル空港までの燃料は・・・・・・距離と積荷の重さ、少々の余裕を見て・・・・・・一万三〇〇〇ポンド」
左側の同僚はが燃料の計算をしている。彼女はマリオン・ライスハート。
彼女はもう少年じゃないかってくらい短い栗色のショートヘアー。おまけにタッパも低い。よくパイロットの身体検査に合格したなってくらいの身長だ。身長は二十一歳の朝飯まで伸びると言うけど、彼女はもう望めないだろう。社長のエリザベスさんと同じ意匠の制服だが彼女のスカーフはインディゴブルー。同じく肩には金色の三本線が入った徽章。それは機長の証。
「じゃあ、出発は二時間後。みんな準備をお願い」
社長が席を立つ。オレとマリオンはエリザベスさんの所へ行き、円陣を組む。出発前の儀式を始める。
「愛と真心と荷物をお客様へお届けする我が《フレイヤ・インターナショナル・エアカーゴ》は運行開始以来の人身事故ゼロ記録をこれからも続け行きます。安全第一で行きましょう」
エリザベスさんが安全唱和を詠唱した。
「ゼロ災で行こう!」
「「「おー!」」」
マリオンの掛け声で皆が重ねた拳を宙に高々と突き上げる。飛行機を墜とす事は絶対に許されない。幾ら乗客の乗っていない貨物機だって、地上で暮らす人々の上を飛ぶ以上、その人達の命も預かっているのだから。更に、わが社には稼ぎ頭の飛行機は一機しかない。
それを墜としたら、会社は倒産。従業員とその家族は路頭に迷う運命になってしまう。
「エルウィン、荷物の積み込みお願い。マリオンちゃんは操縦席でフライト・マネージメント・システムへ航路の入力をお願いするわ」
エリザベスさんはニコニコ顔で拍手を付いた。
「マリオンちゃんが機長のライセンスを取って初めてのフライトね」
「やったー!」
マリオンはバンザイしながらぴょんぴょん飛び跳ねている。よっぽど嬉しいんだろうね。気持ちは分かるよ。オレも初フライトの前の日は興奮して寝れなかったもの。
「了解しました。オレは格納庫で準備しています」
オレは格納庫へ向う。この格納庫はわが社の社屋で有り、事務所であり、格納庫でもある建物。オレ達、運行要員の事務所三階にある階段を下りて一階の格納庫へ降りる。鋼鉄製の重い格納庫入り口のドアを開け、中に入る。その先にはわが社の保有機材で、かせぎ頭のご本尊がいらっしゃる。
格納庫内に鎮座していらっしゃるのはA300‐600ST貨物機。機材登録番号《G‐FLYJ》エアバス・ベルーガの愛称で良く知られている飛行機。我が社に一機しか無い貨物機。
そしてオレもその貨物機のパイロット、エルウィン・シュレディンガー。毎日、貨物機に荷物を積んで、空を飛ぶのが仕事だ。
オレも肩に金色の四本線が入った徽章を持っている。
オレはこのエアバス・ベルーガの機体を見上げていつも思う事がある。
「相変わらず、カッコ悪い。もはや《醜い》と言えるカッコ悪さではなかろうか・・・・・・」
エアバス・ベルーガのカッコ悪さを説明したい。
ベルーガ(シロイルカ)って愛称はこの機体の外観をそのまま言い表したものだ。ベースとなった機体はエアバスA300‐600型。それを胴体の上半分をぶった切って、上半分に巨大な貨物室をくっ付けた外観となっている。本当にシロイルカへ翼とジェットエンジンをくっ付けたように見える機体だ。突き出た操縦席とレードームはイルカの口に見えるし。真正面から見ればぼてっとした太った型。非常に特殊な機体構造となっている。
あと、ベースのA300‐600R型との違いは垂直方向の安定性を保つ為に、垂直尾翼の前側に、ドーサルフィンが追加となり、水平尾翼端に垂直安定板が追加されている。
白い胴体に赤い文字でFruja Air Cargoとカンパニーロゴが書かれていて、垂直尾翼には豊穣の女神様フライヤをイメージした我が社のコーポレートマークが描かれている。
胴体にはリボンの模様が描かれていて、丁度、おでこの所でリボンを結んだような絵柄になっている。リボンの意味は「大切なお届け物を運んでいますよ」って事らしい。
エリザベスさんは「可愛い」とか言ってるし、マリオンも「キュート」とか。女性の美的感覚はわからん。挙句の果てには《アーリャ》なんてパーソナル・ネームまで付けちゃってるし。正直に言うとオレはこの飛行機を操縦するのがいまだに恥ずかしい。カッコ悪い上に、恥ずかしいとはダブルパンチだ。
機体の正式なコールサインは《フレイヤ・ゼロ・ワン》。
かの有名な技術者の残した言葉に「機能的に優れた物は見た目も美しい」ってあったけど、コイツには当てはまらないと思うよ。
「おーい、クルトの親爺さん!仕事だよ!これから飛ぶから積み込み準備だ」
オレは格納庫に響き渡るよう、大声で叫んだ。
「でけー声出すな!エルウィン、聞こえている」
機体の陰からヨレヨレのオッサンが出てきた。ボサボサの髪の毛と無精髭。だが、白い作業着は折り目が付いてバリッとしている。汚れも無く綺麗。足の安全靴は顔が映るくらいピカピカだ。その名はクルト・タンク整備班長。
「クルト親爺。格納庫の扉開けてくれ。オレはアーリャのカーゴ・ドアを開いておく」
「了解」
格納庫の扉が開きだした。朝日が薄暗い格納庫に差し込む。鋭い光が目に沁みて痛い。
オレは機体のカーゴ・ルームにある開閉釦を操作している。ウイイイイイインと油圧モータの音が機体のカーゴ・ルームへ響いている。
貨物扉を開けた。
アーリャのカーゴ・ドアは操縦席の上。丁度シロイルカのおでこの部分、生物学的にはメロン体って言ったけ?そこの部分がガバッつと開く。
純白の機体が日の光を浴びて、キラキラ光る。全長五六・十六メートル。全幅四四・八四メートル。全高一七・三四メートル。って言うと大きい機体に感じるけど。エアバスA380と比べたらずいぶんと小さい。
オレは明るくなった格納庫で荷物の積み込みを始めた。
プップーとクラクションが鳴った。
「エルウィンさぁーん!キャリア・リフターを機体に取り付けます!」
カーゴ・ドアの目の前。オレの足元にコンテナ搬入用のキャリア・リフターを装着している若者がいる。 彼の名はチャールズ・フェアリー。地上作業員の一人。浅黒く健康的で、マッチョな肉体の持ち主。ある意味、羨ましいぞ。
「チャック!こっちの準備はOKだ。積み込みを始めてくれ!」
両手を振り、チャックへ合図する。彼は、牽引車を巧みに操り、リフターを機体へ装着した。
カーゴ・ドアから豆腐の入った銀色に光るジュラルミン・コンテナを機体へ積む。チャックがコンテナをどんどん積む。機体のカーゴ・ルームでクルト親爺がコンテナの固定をしている。
オレはコンテナがしっかりと固定されているか、自分の目で確認する。別に、クルトの親爺の事を信用していない訳じゃないけど、飛行機が空を飛んでいる間は、操縦者がその責任を負うのだから、オレは自分の目で確認する事にしている。
コンテナの搬入が完了したので、オレは機体外部の点検を始めた。チェックリストに従って、機体の各所を見て回る。これもパイロットが行う大事な運行前点検だ。もちろん手抜きは許されない。現代の飛行機は超ウルトラ精密機械だから、機体のコンディションを最良に保つ必要がある。そう、そんな精密機械に翼をつけて、時速800Km以上の速度で飛ばしていると思うとゾッとする。
機体の外部点検が完了したら操縦席へ入る。飛行機を離陸させるまでには、まだまだやるべき事がいっぱいある。
「マリオンちゃん、チェックリスト・・・・・・」
「了解です。エリザベスさん」
既にエリザベスさんとマリオンはコクピットで出発準備を始めた。FMSへ飛行データの入力をしている。経由ポイントの設定や飛行高度の設定をする。昨今の航空機はこのデータ入力の方が実際の操縦よりもプライオリティが高い作業となっている。間違って入力したら、大空で迷子になってしまう。
「遅れてすみません、オレも出発準備始めます」
「ちょっと待って。エルウィン」
オレは副操縦席へ座ろうとした所で、エリザベスさんに引きとめられた。
「ネクタイが曲がっているわ、仕事に対する真摯な気持ちは服装に現れるのよ」
オレのブラックのネクタイを直してくれるエリザベスさん。なんだか照れくさい。反面チョット嬉しい。
「あ、有難う御座います」
声が裏返っちまった。恥ずかしいのう。
気を取り直して、副操縦士席へ座る。副操縦士席は操縦席入り口から見て右側。左側は機長席だ。機長席の後方にサード・シートがある。このシートは本来、ローダーと呼ばれる貨物積み込み要員が座る。サード・シートにはエリザベスさんが座った。シートベルト装着。
「今日の機長はマリオンだよ。宜しく頼むよ」
「うん!機長は私、副操縦士はエルウィンね」
マリオンはシートを目イッパイ前進させ、且つ、お尻の下にクッションを入れている。前見えてるのか?
サード・シートのエリザベスさんもニコニコしながら頷いている。
パイロットとしての総飛行時間のトータルは、オレの方がマリオンより多い。マリオンには内緒だけど、一年前までは音速を超えて飛んでいた身分だったから。
「マリオンちゃん、頑張って。私は後ろのサード・シートから見守っているから」
「有難う御座います。エリザベスさん。私、頑張っちゃいます」
オレも副操縦席に座り、シートベルトを締めた。マリオンは白い手袋をして「よし!」と気合を入れている。オレも白い厚手のフライトグローブをはめた。
「前から気になっていたんだけど、エルウィンのフライトグローブって、もしかして・・・・・・」
「マリオン、これは、最強の手袋、アーミー・グローブって言うんだよ」
オレは自信満々に答えた。
「簡単に言って、軍手ね。エルウィンのファッションセンスって・・・・・・信じられないわ」
エリザベスさん、言ってくれるね。最強の手袋だぜ。これが一番使い易い手袋なんだよ!だって安いし、汚れたら捨てればいいし。暖かいし。しかもオレのヤツは綿一〇〇パーセントだ。化繊のヤツは嫌い。ちなみに、黄色いブツブツの滑り止めは付いていない。適度に滑る方が操縦幹を握りやすいから。
チャックの運転するトーイング・トラクターが機体を格納庫から引き出してくれている。
機体は晴天の空の下、エプロンに出された。日差しがコンクリートに反射して眩しい。機長席のマリオンは早速、サングラスを掛けた。
やっと、飛行機を飛ばす体勢が整ったのだ。こんな事を毎日、毎回繰り返す。
フライト前にやる大量の仕事を終え、機体は誘導路から滑走路へと侵入した。いよいよ離陸。
「さあ、行くぞ、マリオン」
「了解です」
マリオンがヘッドセットでコントロールタワーと交信を始めた。
「こちらフレイヤ・ゼロ・ワン。リクエスト・フォーテイクオフ!」
『フレイヤ・ゼロ・ワン・ヘビー、クリアードフォーテイクオフ。ウインドウ・スリー・ナイナー・ツー』
間髪をいれず管制塔から応答がきた。彼らも空の安全を預かる身。仕事に抜かりは無い。飛行機一機飛ばすにも、何百人もの協力が有って成し得ることだと改めて思う。
マリオンがコントロールタワーと連絡を取っている間、オレはフラップのチェックと、飛行計器の状態をチェックする。アーリアは絶好調だ。
「コピー。フレイヤ・ゼロ・ワン、クリアード・ノーマルテイクオフ」
マリオンがスラスト・レバーを前に倒す。
「スラスト・レバー、TO/GAポジションへセット!」
CF6‐80C2ターボファン・エンジンが甲高い音を奏でる。両足で踏んでいるラダー・ペダルを解放する。
車輪のブレーキがリリースされ、アーリャの機体は滑走路を風上へ向かって全力疾走する。
「行くわよ!」
機体の速度がドンドン上がり、離陸速度に近付く。オレは対気速度計のスピードレンジを読み上げる。
「V1!」
離陸決心速度。マリオンは正面を見据えたまま、無言だ、離陸中止は無しだな。
「ローテイト!」
機首上げ速度。マリオンは「えい!」と言って、操縦幹を引く。アーリャは機首を上下始めた。思いのほか、機首上げ速度が遅いので、オレはスラスト・レバーの横にあるスタビライザー・トリム・ホイールを後ろに回して、機体の前後バランスを取る。荷物の積み方で機体の前後重量バランスが変化するので、トリム調整が必要となる。うーん、良い感じで機首上げ動作が出来るようになった。
「V2!ポジティブ・レイト!」
安全離陸速度。ここまで来れば、飛行機は安全に上昇して行く。
「ランディング・ギア、アップ!」
「ギア・アップ」
マリオンから車輪格納の指示が出た。復唱する。オレはギアレバーを上に引き上げる。ギヤランプが赤く点灯し・・・・・・格納完了で消灯。
ゴトンと言う軽い衝撃が機体に伝わる。
『フレイヤ・ゼロ・ワン・ヘビー、アルチ三〇〇〇、左バンク、ヘディング二七〇度で飛行して下さい』
「マリオンちゃん、アルチ三〇〇〇、ヘディング二七〇。宜しい?」
「コピー、アルチ三〇〇〇、ヘディング二七〇!」
サード・シートに座るエリザベスさんから指示がでた。マリオンが元気良く復唱する。
オレはオート・パイロットに指示されたデータを入力して行く。
「あと、燃費考えてね。今月、燃料代苦しいから」
エリザベスさんが社長の立場から指示を出す。マリオンがスラスト・レバーを動かして最適な推力設定している。エリザベスさんはサードシートから、フラップを段階的に格納した。
その二人のやり取りの間、オレは天気図を確認していた。出発前に確認した天気図と飛行計器のナビゲーション・ディスプレイのウェザー・レーダーの表示を見比べていた。
「N・Dに積乱雲が映っている。一時間前より発達しているから迂回した方がいい」
「そうね、高度を二万三〇〇〇フィートまで上げましょう。今日の荷物はお豆腐だから、余り振動を与えたくないわ。崩れてしまってはいけないから」
エリザベスさんから上昇の指示だ。マリオンは「了解!」の掛け声と共に操縦幹を引き上昇を始めた。エンジンの音が大きくなって、機体に加速を感じた。
「積乱雲を迂回しても、多少の揺れは覚悟した方がいいよ」
「了解よ。任せておいて」
マリオン、張り切っているな。機長ライセンス獲得して始めてのフライトだからな。気持ちはわかるよ。オレの初めての単独飛行はワクワクしたもんだ。
「高度三万三〇〇〇フィート!水平飛行に移ります。オート・パイロット、オン」
マリオンがオート・パイロットにした。これでひと段落。だが、対空監視は怠らない。他の飛行機と空中衝突はゴメンだから。航空管制の航路指示に間違いは無いけど、最後に頼りになるのは自分の目だ。
「はい、マリオン。交代でお茶飲んで」
エリザベスさんが魔法瓶からコーヒーを注いだ紙コップをマリオンに渡そうとしている。
「エルウィンからどうぞ。私、機長だから・・・・・・副操縦士さんからどうぞ」
マリオンは真面目なやつだな。
「じゃあ遠慮なく。有難う、先に貰うよ」
オレはカプチーノをすすった。
ガタガタ・・・・・・。
機体が揺れだした。気流の悪いとこに来たようだ。
「オート・パイロットをカット。マニュアルにします」
「コピー」
グラッ・・・・・・。
結構揺れた。
横目でマリオンを見ると、必死の形相で操縦幹を握っている。肩に力が入ってガチガチだ。顔色も悪い。
グラッ・・・・・・。
また大きく揺れた。
ははーん。大きく揺れる原因がわかったよ。機体が横風を受けて流れるから、マリオンが《当て舵》をするんだけど、力入っちゃって余計に舵を入れるから反対側に大きく揺れるんだ。機体が大きく余計に動いているのがわかる。
「マリオン、もっとゆっくり操縦幹を動かすといいよ。動かす量は自分の思う半分でいい。エリザベスさんの持っている紙コップのカプチーノがこぼれないように飛ぶのが理想だけどね」
「りょ、了解」
「マリオンちゃん、深呼吸、深呼吸、いつもの通りにして・・・・・・マリオンちゃんが副機長の時だって、上手く出来たじゃない」
エリザベスさんがマリオンの肩に手を乗せて、リラックスさせている。おおっ、機体が安定したぞ。エリザベスさんのハンドパワーが利いたか。いつもはフツーに操縦出来たんだけど、初めての機長で固くなっているのかな?
「マリオン、このベルーガはフツーじゃない機体形状だから、気流の影響を受け易く操縦が難しい。それにFBWを装備していない。パイロットの腕の差が出やすい機体だよ。だけど、コイツを乗りこなせたら、世界中どのエア・ライナー、A380でも747でも操縦できるよ、自信を持っていいよ」
「わかった、頑張るわ・・・・・・大丈夫、私に任せて」
マリオンに笑顔が戻った。飛行中のパイロットはある程度緊張感が必要だけど、必要以上に硬くなるのは良くない。それはどんな仕事だって一緒だと思うよ。
それから一時間は何事も無く順調に飛行を続けていた。自動操縦装置ってホント便利だよな。オレが以前、操縦していた飛行機は自動操縦装置が付いて無かった。
それと、エリザベスさんが持ってきてくれたお手製のスコーンが美味しかった。
「そろそろ、降下を開始して、着陸態勢に入るわよ」
マリオンが降下ポイントの指示を出した。
「ブルジェル進入管制、こちらフレイヤ・ゼロ・ワン降下許可を」
『こちらブルジェル進入管制。六〇〇〇フィートまで降下されたし』
「フレイヤ・ゼロ・ワン、了解。六〇〇〇フィートへ降下」
マリオンがブルジェル空港侵入管制と連絡を取っている間にオレはFMS着陸の情報を入力する。身体に軽いマイナスGを感じたから、マリオンはもう降下シーケンスを開始している。
「あらあら・・・・・・雲がでてきたわね」
FMSの入力を終えたオレはエリザベスさんの声で、コンソールへ向けていた顔を上げ、窓の外を見た。
窓の外は真っ白だ、ミルクの中を遊泳しているような感じだ。
ドクン!ドクン!
ヤバイ、オレの心拍数が上昇してきた。外は真っ白。機体の姿勢が非常に気になる。
・・・・・・ちゃんと水平に飛んでいるのだろうか?・・・・・・。
オレは正面のプライマリ・フライト・ディスプレイのスイッチを操作し水平儀を表示させようとした。
「ADI・・・・・・ADI・・・・・・なかなか出てこない」
オレは普段なら何の躊躇いも無く出来る事が出来なくて、自分自身にイライラしてきた。
「やっと出た」
表示された水平儀『Attitude indicator』は機体の姿勢が何の問題が無い状態を表示している。だが・・・・・・オレは更に焦る状況を自分の心の中に作っていた。
「コイツ・・・・・・壊れていないか?」
・・・・・・この水平儀は正常に動作しているのだろうか?間違った表示じゃないのか?・・・・・・。
『計器は正しい』と自分に言い聞かせるが、そう思えば、思うほど、どんどん疑心暗鬼になっていく。窓の外は相変わらず、真っ白で機体は地上に対して水平を維持しているか、目視確認は不可能だった。
ま、まさか・・・・・・また空間識失調・・・・・・。こんな時に・・・・・・。
そう考えた瞬間、オレは血の気を引くのを感じた。『同じ過ちを繰り返すのか?』と。
オレの両肩を優しく揉んでくれる人が居た。
「エ、エリザベスさん・・・・・・」
「エルウィン・・・・・・深呼吸して、私のイルカちゃんは空で溺れたりはしないわ」
どうやら、オレがパニクっているのをエリザベスさんに気付かれたようだ。でも助かりました。今は落ち着いて、計器を安心して見る事が出来ます。
エリザベスさんの手は不思議な能力があるんじゃないか?うーん癒される。
『ブルジェル進入管制よりフレイヤ・ゼロ・ワン・ヘビー、アルチ三〇〇〇フィート。ヘディング、三四〇へ』
進入管制より高度と進入コースの指示か出た。
「了解、アルチ三〇〇〇、ヘディング、三四〇度」
マリオンの元気一杯の復唱。これは見習わなきゃならないな。飛行機において不明瞭な復唱は事故の元だ。過去の事故事例でも幾つかあるから。
「フラップ、スラット」
「コピー、チェック・エアスピード・フラップ、ワン。スラット展開」
フラップを下げ、機体速度を殺す。スラストも絞って、エンジン出力を下げた。
『こちらブルジェル進入管制。フレイヤ・ゼロ・ワンへ。クリアード・トゥ・ランディング。ウィンドウ、スリー・シックス・ゼロ、ワン・ファイブ』
「了解、クリアード・トゥ・ランディング」
コントロール・タワーとの通信をしている間に雲の下に出た。地上は濃いグリーン一色の畑が広がっている。この先にブルジェル空港がある。
「ローカライザーに乗ります。ILS、一一〇・九。アルチ二〇〇〇フィート」
「マリオン、アウター・マーカーまで十三マイル。チェック・エアスピード・フラップ、ツーポジション」
「結構、横風が強いわね」
マリオンが左のラダー・ペダルを踏み込んで、横風を受けて、流されようとしている機体をコントロールしている。
「マリオン、スラスト・レバーはオレに任せろ」
「エルウィン、お願い」
マリオンが機体コントロールへ集中出来るよう、オレがスラスト・レバーを握った。
機体の速度が低下するに従い、横風にどんどん流される。マリオンがだんだんと必死の形相になってきた。こんなシュチュエーションはシミュレーターで散々訓練してきただろうが、実機となるとやっぱり違う。アーリャはその機体形状のお陰で横風の影響をもろに受ける。いざとなったら、オレが交代するけど、何とか彼女に最後までやり遂げて欲しいと思う。
「チェック、エアスピード・ギアダウン!」
「了解!ランディング・ギアダウン!」
マリオンの指示でランディング・ギアを出す。ゴトン!と言う音がした途端、ゴーと言う風切音がした。更に機体速度が低下する。
「このおおおお!言う事聞いて!」
マリオンはその小さな身体で、操縦幹と格闘している。ラダー・ペダルを踏みっぱなしだ。機体は滑走路に対して左に横すべりしながら進入しようとしている。飛行機でドリフトしている状態だ。
この横滑りって、強風時の着陸では通常使われるテクニックの一つだ。機体が流されないようにしながら、真っ直ぐ飛ぶと、ベクトルが釣り合う角度に機首が向く。そのまま滑走路に進入するんだけど、車輪が地面に付く瞬間が難しい。当然車輪は機体軸に真っ直ぐくっ付いているから、横滑りのまま接地すると滑走路の横に機体が飛び出してしまう。接地する直前に機体を滑走路に正対させる必要がある。それが難しい、大きくて、重いベルーガなら反応が鈍いからなおさらだ。
「ミニマム!」
オレは機長のマリオンにランディング『着陸』かゴーアラウンド『着陸履行』するか決断する高度まで降下してきた事を伝えた。
「ランディングよ!」
マリオンは着陸を決断した。
「さあ、行こうか、マリオン。接地する直前に機体を直進だ」
「了解。私に任せて。最後までやりたいの」
オレはチラッと後ろをみた。エリザベスさんは両手を握り、目を皿のようにしながら薄笑いを浮かべていた。まるでヒーロー映画のクライマックスを見ているような感じだ。
滑走路は目の前に迫っている。
「フィフティ・・・・・・フォーティ・・・・・・サイティー・・・・・・」
オレ高度を読み上げる。滑走路に車輪が付く。
「もうちょっと・・・・・・ナウ!」
マリオンの掛け声と同時に機体がスッと向きを変えた。滑走路のセンターラインが機体軸と重なる。
ドスン!
「リバース・スラスト・レバー、オン!」
ヒュゴォォォォォォォォ!
オレはエンジンを逆噴射にする。リバース・スラスト・レバー全開!
「グランド・スポイラー!」
主翼上面のスポイラーを立て、翼の揚力を殺す。
「アンチ・スキッド、フットブレーキィィィィィィ!」
マリオンが一生懸命、両足のラダ―・ペダルの上端、フットブレーキを踏んでいる。飛行機のブレーキはそんなに力いっぱい踏まなくても、ちゃんと止まる。マリオンは自分の脚力で百五十五トンの機体を止めているように見える必死の形相だ。オレの脚まで、力が入っちまう。
「頑張れ!マリオンちゃん」
エリザベスさんにその必死さが伝わったのか、後ろで応援している。
「スラスト・レバーをアイドルへ、スラスト・リバーサーをロック。四番スポットへ移動」
速度は三〇ノットまで落ちた。これから、駐機場へ移動して積荷を降ろす。
「四番は・・・・・・これを左ね」
「ローカル空港は迷うほど駐機場が無いよ。リラックスしていいから」
「ハイ。誘導員がいる。あそこね」
オレ達の前にパドルを振って誘導してくれている。グランド・サービスがいる。彼の誘導に従い、駐機場に機体を止めた。
「エンジン・ストップ。ブレーキ・ロック」
シュウンンンン!
エンジンが止まり、急に静寂が訪れた。マリオンとオレが、フューエルポンプ、油圧システム等のスイッチをドンドン切って行く。
「マスター・スイッチ、オフ」
マリオンが主電源を切った。これで機体は一ミリも動かない。
「チョーク・イン」
オレが両手親指を立て顔の前で交差させる合図をグランド・サービスへ伝える。彼は親指を上げた。
機体の車輪に車輪止め《チョーク》が挿入された。
「ヒト・フタ・サン・マル時、ブルジェル空港へ、とーちゃーく!」
エリザベスさんがパチパチと拍手している。
「はああっ、緊張した・・・・・・」
マリオンが大きなため息を付いて、機長席にへたり込んだ。気持ちはわかるよ。初めての機長だもんな。
「お疲れさんだね。マリオン。ナイスランディングだよ」
彼女は初めての機長で、あの強風吹き荒れる滑走路へこの操縦しづらい飛行機をやんわり、下ろした。機体内の貨物を気遣って。見事だよ。
「エルウィン、色々助けてくれて有難う」
「気にしなくていいよ。オレは機長の指示に従っただけだよ」
マリオンは「てへへへへへ」とか言って、照れている。見ているこっちも嬉しい気分になってしまう。
「さあ、後片付けして、お昼ごはんを食べましょう!」
「了解」
オレと、マリオンは到着後の機体チェックを始めた。パイロットの仕事って到着してからも色々あるんだよな。
まあ、こんな問題児と新人機長とのんびり社長が貨物機を飛ばしているような会社なんだ。だけど、安全第一、の精神だけは絶対に妥協しないと誓った。
オレ達三人はブルジェル空港の社員食堂で昼食を採っていた。
「エリザベスさん、ロンドンで会議ですか?イングランドはもう寒いですよ」
マリオンがベーグルを食べながら、エリザベスさんと談笑している。女の子同士の会話にはオレは入りづらい。
「そう思って、コートを持ってきたの。この前フンパツして買ったベルサーチのコート。着るのが楽しみ」
エリザベスさんの昼食はクロワッサンとミルクだ。
「わああああ・・・・・・いいなあ、いいなあ・・・・・・私も欲しい」
「今度、安いお店、紹介してあげるわ」
オレは、焼きそばパンとカプチーノ。オレ達は食中毒を警戒して、一緒のメニューは意識して避けている。だって飛行中にお腹痛くなったら飛行機が墜落して、命に関わるから。
「エルウィンは相変わらず、ファッションセンス無いわね。それ、工事現場のおじさんが着ているジャンパーじゃないの?」
「余計なお世話だよ。暖かけりゃいいんだよ」
オレはファッションなんて興味ないよ。
「今度、私が選んであげるわ。エルウィンに似合うヤツ。貴方は色白だから、どんな色でも似合いそうよ」
「有難う、エリザベスさん。気持ちだけ貰っておくよ。オレにファッションなんて猫に小判だよ」
まあ、オレはファッションより、実用性を取りたい。マリオンが工事現場のおじさんって言ったジャンパーはCUW‐45P。フライトジャケットなんだけどね。緑色だし、ワペンは全部取ってあるからそう見えたんだろう。ドカジャンそっくりだし。でも暖かいんだよ。丈夫だし、難燃性ノーメックス製だから、家が火事になってもジャケットだけは焼け残る。
「あらあら、そろそろ行くわ。ヒースロー行きの飛行機の時間だから」
「気をつけてね」
「わかったわ。マリオンちゃん」
「オレ達は、先にホームベースへ戻っています」
「エルウィン、マリオンちゃんと、アーリャをお願いね」
エリザベスさんが小さく手を振って、行ってしまった。コロコロバッグを引っ張りながら。一抹の寂しさを感じてしまうのは何故だろう。
暫しの沈黙。
「ねえ、エルウィン。出発まで後、何時間?」
マリオンが沈黙に飽きたのか、話しかけてきた。彼女はテーブルに突っ伏してストローをクルクル回して遊んでいる。
「三時間だけど、まだ荷物が到着していない」
「積荷は何だっけ?」
「故障して墜落した空軍の輸送機の残骸」
「行き先は?」
「リントン空軍基地」
「フーン・・・・・・」
「出発前の点検、もう一回やるかい?」
「そうね、ここにいても暇だし、アーリャのコクピットのほうが落ち着くわ」
オレ達は食堂を後にした。
でも・・・・・・リントン空軍基地には行きたくねぇなあ・・・・・・。昔の職場には。
オレの中に凄く後ろめたい気持ちが湧き上がって来る。