送り盆の二刀
迎え盆の朝、一合の酒が伝説を呼び覚ました。
金杉剣治、二十二歳。幼少より剣道に励み、地元では「負け知らずの剣士」と謳われた若者であった。
だが、大学に入ってからは、その自信も揺らぐ。
広大な世の中には、己を遥かに超える剣士たちがいた。
大学剣道部では補欠にすらなれず、日々、道場の隅で汗と悔しさを噛みしめていた。
剣治が所属する大学には、特別な伝統があった。
二刀流だ。剣道界では異端ともいえる二刀は、この大学において神聖な伝承として息づいていた。
その起源は、かつての伝説の剣豪、藤本薫に遡る。
薫は、右手に小刀、左手に大刀を操る「逆二刀」の使い手として、武勇伝を後世に残した。
その名は今なお道場に響き合い、剣士たちの胸に刻まれている。
そして現代、この大学の誇るもう一人の二刀の剣士が、持田五郎先輩だった。
正二刀――左手に小刀、右手に大刀を構える彼は、藤本薫以来の天才と称され、試合で敗北を知らなかった。
剣治は練習で何度も胸を借りたが、持田の竹刀に触れることすらできず、圧倒的な技量の差に打ちのめされていた。
それでも、剣治の心には憧憬が燃えていた。
いつか自分も二刀を手にし、持田先輩のように道場に立つ日を夢見て、ひたすらに鍛錬を重ねた。
剣治には、毎朝欠かさぬ習慣があった。
誰よりも早く道場に赴き、床を丁寧に拭き、清めること。
そして、藤本薫が座していたとされる道場の隅に、水と線香を供えることだった。
それは、先輩への敬意であり、剣治自身の誓いでもあった。
だが、八月十三日、迎え盆の朝は少し違っていた。
剣治は水の代わりに、地元・香川が誇る銘酒「金陵」を一合、そっと供えた。
「薫先輩、これが地元で一番の酒です。稽古の後に好んで飲まれたと聞きました」と、静かに呟いた。
その瞬間、空気が震えた。
道場の床が微かに軋み、竹刀がひとりでに倒れた。
剣治が目を上げると、そこには青白い影が揺らめいていた。
藤本薫だった。幽霊とも神ともつかぬ存在感で、道場の空気を支配していた。
「金杉君。毎朝、水と線香を欠かさず供えてくれて、ありがとう。君に伝えたいことがあったが、姿を現すのは容易ではなかった」
薫の声は、静かだが剣のように鋭く響いた。
剣治の胸は高鳴った。驚きよりも、抑えきれぬ衝動が口をついた。
「薫先輩! どうか、俺に稽古をつけてください!」
無意識の叫びに、薫の影はかすかに笑みを浮かべた。
「立派な剣士だ。俺に驚かず、稽古を申し込むとはな。よし、受けて立とう」
薫は逆二刀を構えた。小刀を右手に、大刀を左手に握る姿は、まるで古の武士そのものだった。
剣治は一刀を構え、飛び込んだ。
だが、薫の動きは神速だった。
何度も、何度も打ち込まれ、剣治はただ防戦一方で稽古を終えた。
礼を終えると、薫は静かに告げた。
「明日も待っているよ」そして、影は消えた。
翌朝、八月十四日。剣治は再び「金陵」を一合と線香を供えた。
半信半疑だったが、道場の板の間に、薫はすでに立っていた。
剣治は急いで防具を着け、竹刀を構えた。
「金杉君、君は十分に強い。だが、二刀を前に心が揺れている。構えを正中から外さず、真っ直ぐに打ち込め」
薫の言葉は、剣治の心に刃のように突き刺さった。
「はい!」と応じ、剣治は恐れを捨てて踏み込んだ。
薫の小刀が竹刀を押さえに来るが、剣治の勢いはそれを弾いた。だが、面には届かず、浅い一撃に終わった。
この日もまた、明日の稽古を約束し、薫は消えた。
八月十五日の朝。剣治は「金陵」と線香を供えると、薫が現れた。
竹刀を合わせ、静寂の中で薫が口を開いた。
「小刀はまやかしと思え。大刀の柄頭に竹刀の切っ先を合わせ、小刀を外して構えろ。
俺が大刀で打ち込んだら、切り落としで面を狙い、捨て身で打ち込め」
「はい!」剣治は全身で応えた。
一合い目、薫の面に反応できず打たれた。二合い目、打ちつぶされ面を許した。
三合い目、剣治は鍔元で薫の面を受け止めた。四合い目以降、互いの面が相殺し、鍔が激しくぶつかり合った。
何合い目か、剣治の竹刀が薫の面を割った。
「参った」薫の声が静かに響き、影は消えた。
翌朝、八月十六日。剣治はいつも通り「金陵」と線香を供えた。だが、薫は現れなかった。
代わりに、道場の正面玄関が開き、胴着姿の持田五郎先輩が現れた。
「金杉、一人か?」持田の声に怪訝な響きがあった。
「はい」と答えつつ、剣治は先輩の様子を窺った。
「はは、夢に藤本薫が出てな。俺と勝負したいと言ってきたんだ。あまりに現実的で、こうして道場に来たが…夢だったか」
剣治の胸が熱くなった。
「先輩、俺に胸を貸してください。一本、お願いします」
「せっかく来たんだ、よし、やろう」
持田は正二刀を構えた。
剣治は薫の教えを胸に、大刀の柄頭に切っ先を合わせ、小刀を外して構えた。
持田が面に打って出る。剣治は切り落としで応じ、正中線を割って持田の面に竹刀を叩きつけた。
「お見事!」道場に藤本薫の声が響いた。
持田もその声を聞き、感慨深げに呟いた。
「やはり、俺は藤本薫に呼ばれたんだな」
剣治が供え物を見ると、一升瓶は消え、代わりに使い古された大刀と小刀の竹刀が置かれていた。
送り盆の今日、薫はあの世へ還ったのだろう。剣治は静かに手を合わせ、道場の空気に感謝を捧げた。
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