終電の向こう側で、貴方が殺そうとした私の音が息を吹き返しました
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あらかじめご了承の上、お楽しみください
金曜日、午前零時十三分。
終電は、私を置いて行った。
ホームに立ち尽くしたまま、遠ざかるテールライトを見送る。赤い光が闇に溶けて消えるまで、私はただ呆然としていた。
(終わった)
何が終わったのか、自分でもよく分からない。残業で乗り遅れた終電のことなのか、それとも——一年前に終わったはずの、すべてのことなのか。
「お客様、本日の運行は終了しております」
駅員の声が、がらんどうの構内に響く。私は小さく頭を下げて、改札へと向かった。
タクシーを拾う気力もない。いや、正確に言えば、帰りたくなかった。あの六畳一間のワンルームに帰って、また天井を見つめながら眠れない夜を過ごすくらいなら——。
足が止まった。
駅構内の片隅、普段なら人だかりができているはずの場所に、それはひっそりと佇んでいた。
ストリートピアノ。
白と黒の鍵盤が、蛍光灯の光を受けて鈍く光っている。深夜の駅には誰もいない。監視カメラの赤いランプだけが、無機質に瞬いていた。
(馬鹿みたい)
一年前の私なら、見向きもしなかったはず。いや、見ることすらできなかった。ピアノを見るたびに、あの言葉が蘇るから。
『音楽なんかで食べていけるわけないだろう。いい加減、現実を見ろよ』
高城翔。私の元婚約者。あの完璧な営業スマイルで、私の夢を否定した男。
音大受験を控えた二十三歳の冬、私は彼の言葉に従って願書を破り捨てた。愛していたから。彼が正しいと思ったから。そして何より——自分の才能に、自信がなかったから。
(結局、私が弱かっただけ)
婚約破棄されたのは、その半年後。彼の仕事の都合で、まるで不要になった書類を処分するみたいに、私は捨てられた。
『君のためを思って言ったんだ。分かるだろ?』
あの時の彼の顔を、私は一生忘れない。善人面をしながら、その目の奥には何の感情もなかった。私という人間に対する興味が、最初から欠片もなかったのだと——あの瞬間、ようやく気づいた。
気づいたところで、もう遅かったけれど。
足が動いていた。
ピアノの前に立つ。埃を被った黒い筐体。誰かが乱暴に弾いたのか、いくつかの鍵盤が少し沈んだままになっている。
(何してるの、私)
伊達眼鏡を外して、ポケットに押し込む。疲れた目元を隠すために買った、度の入っていない眼鏡。地味に見えるように。目立たないように。波風を立てないように。
この一年、私はずっとそうやって生きてきた。
椅子に座る。高さを調節する。その動作だけは、身体が覚えていた。
鍵盤に指を置いた瞬間——Loss先が、震えた。
(弾けるわけない。一年も触ってないのに)
頭ではそう思っているのに、指が動き出す。
最初の一音は、かすれていた。二音目は、少しだけ滑らかになった。三音目で——堰を切ったように、旋律が溢れ出した。
ショパンの夜想曲。第二番。
子供の頃から何百回と弾いた曲。指が勝手に鍵盤の上を滑り、深夜の駅構内に音が響き渡る。
錆びている。確実に錆びている。かつてのような滑らかさはないし、強弱のコントロールも甘い。でも——。
(ああ、私、まだ覚えてる)
涙が頬を伝った。泣いているつもりはなかったのに、勝手に流れてくる。
悔しい。悔しい。悔しい。
なんであの時、諦めたんだろう。なんであの男の言葉を信じたんだろう。なんで——自分の音を、自分で殺したんだろう。
最後の和音を弾き終えた時、背後から声がした。
「その音、殺すには惜しい」
心臓が跳ね上がった。
振り返ると、そこに男が立っていた。
長身痩躯。無造作に伸ばした黒髪は、蛍光灯の下でわずかに藍色がかって見える。首にはヘッドフォン。季節外れの黒いコート。そして——夜空みたいに深い色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「……っ」
言葉が出ない。涙で濡れた顔を見られた恥ずかしさと、突然現れた見知らぬ男への警戒心で、頭が真っ白になる。
「俺も終電、逃した」
男は私の動揺など意に介さず、淡々と言った。表情の変化が乏しい。というより、無表情に近い。
「もう一回、弾いてくれ」
「は……?」
「聴きたい。お前の音」
何を言っているのか分からなかった。こんな錆びついた演奏を、なぜ。
「技術は鈍ってる。ブランクがあるのは明らかだ。でも——」
男が一歩、近づいてくる。
「音に、餓えがある。飢えてる人間の音だ。だから聴きたい」
(何、この人)
変な人だ、と思った。深夜の駅で見知らぬ女の演奏を聴きたいと言う男。普通じゃない。危ない人かもしれない。
でも——その瞳だけは、嘘をついていないと分かった。
私の音を、この人は確かに聴いていた。
「……一曲だけ」
気がついたら、そう言っていた。
男が頷く。壁に寄りかかり、腕を組み、目を閉じた。聴く体勢だった。
深呼吸をして、もう一度鍵盤に指を置く。
今度は——ドビュッシーの『月の光』。
母が好きだった曲。音大を目指すきっかけになった曲。あの男に否定されてから、一度も弾けなかった曲。
弾き始めた瞬間、世界が変わった。
蛍光灯の無機質な光が、月明かりに見えた。深夜の駅構内が、どこか遠い場所に繋がっているような気がした。
錆びていてもいい。下手でもいい。今この瞬間、私は——。
(生きてる)
演奏が終わった後、男は長い沈黙の後、口を開いた。
「名前」
「え?」
「お前の名前」
「……藤崎、凛音」
「凛音」
私の名前を、噛みしめるように呟く。
「俺は神崎蒼真。作曲をやってる」
作曲家。その言葉に、心臓が跳ねた。音楽業界の人間。つまり、あの男と同じ世界の住人——。
「来週の金曜、同じ時間にここに来い」
「……なんで?」
「お前の音を、もっと聴きたいから」
神崎蒼真はそれだけ言うと、背を向けて歩き出した。黒いコートの裾が、夜風に揺れる。
「あの——!」
思わず声を上げると、彼は振り返らずに片手を上げた。
「終電逃したやつ同士だ。深夜の共犯者になれ」
その言葉を残して、彼は改札の向こうに消えていった。
一人残された私は、しばらくピアノの前から動けなかった。
(何、今の……)
夢でも見ているみたいだった。でも、指先にはまだ鍵盤の感触が残っている。頬には涙の跡がある。
終電を逃した夜。誰もいない駅で、私は一年ぶりにピアノを弾いた。そして——。
スマホの画面を見る。金曜日、午前一時。
(来週の金曜日)
来るかどうかも分からない約束。でも、胸の奥で何かが疼いていた。一年間、死んでいたはずの何かが。
『その音、殺すには惜しい』
彼の言葉が、頭の中でリフレインする。
私の音を、殺すには惜しいと言った人。あの男——高城翔に『音楽なんかで食べていけない』と否定された私の音を。
(終電逃した私が一番終わってる、なんて思ってたけど)
帰り道、深夜のタクシーの中で、私は小さく笑った。
もしかしたら——終電の向こう側には、何かがあるのかもしれない。
◇◇◇
一週間は、永遠に続くかと思った。
月曜日。いつも通り出社して、いつも通りデスクワークをこなす。誰とも目を合わせず、必要最低限の会話だけで一日を終える。それが、この一年の私の日常だった。
「凛音さん、これコピーお願いできます?」
「はい」
「あと、この書類も今日中に——」
「分かりました」
波風を立てない。目立たない。空気みたいに存在して、空気みたいに仕事をして、空気みたいに帰る。それが一番楽だと学んだ。
(でも——)
指先が疼く。鍵盤の感触を、まだ覚えている。
「凛音さん」
声をかけられて、顔を上げた。ふわふわのミルクティー色の髪。まん丸い目。同僚の白石柚月が、不思議そうな顔で私を見ていた。
「どうしたの? なんか今日、ぼーっとしてない?」
「え……そう?」
「うん。あと、なんか——」
柚月がじっと私の顔を覗き込む。
「表情、いつもと違う気がする」
(鋭い)
この子はいつもそうだ。おっとりした見た目に反して、観察眼が異常に鋭い。入社以来、私がひっそりと壁際に追いやられていることも、時々陰口を叩かれていることも、全部気づいているはず。それでも詮索せず、ただそばにいてくれる。
「別に、何もないよ」
「ふーん」
柚月は納得していない顔で、でもそれ以上は追及しなかった。
「まあいいけど。何かあったら言ってね、凛音さん」
「……うん。ありがとう」
火曜日。水曜日。木曜日。
日を追うごとに、私の中の何かがざわめき始める。
(本当に来るのかな、あの人)
『終電逃したやつ同士だ。深夜の共犯者になれ』
あんな言葉、普通言わない。というか、あの人自体が普通じゃなかった。無表情で、言葉少なで、でも——私の音を「聴きたい」と言った。
(神崎、蒼真……)
作曲家だと言っていた。帰宅してからネットで検索してみたけれど、有名な人物はヒットしなかった。無名の作曲家。でも、あの聴き方は——音楽を本気でやっている人間の聴き方だった。
そして金曜日。
仕事が終わる頃から、心臓がうるさくなり始めた。
「凛音さん、お先です」
「お疲れ様」
同僚たちが次々と帰っていく。私は残業するふりをして、時間を潰した。終電まで、あと三時間。
(何やってるんだろう、私)
自分でも分からない。あんな約束、守る義理はない。見知らぬ男との深夜の逢瀬なんて、冷静に考えたら危険でしかない。
でも、指が震えていた。ピアノを弾きたい。あの深夜の静寂の中で、誰にも邪魔されずに。
(一年間、我慢してきたのに)
馬鹿みたいだ。たった一度弾いただけで、こんなにも——。
午後十一時。私はオフィスを出た。終電に乗るふりをして、わざと乗り遅れる。先週と同じ駅で、同じように取り残される。
午前零時十五分。
駅構内は、先週と同じように静まり返っていた。ストリートピアノは、変わらずそこにある。
そして——。
「遅い」
壁に寄りかかって腕を組んだ男が、無表情のまま言った。黒いコート。首にヘッドフォン。夜空みたいな瞳。
神崎蒼真。
(来てた)
胸が、どくんと跳ねた。
「……何時から待ってたの」
「さあ。時計は見てない」
嘘だ、と思った。でも追及しなかった。
「弾け」
彼は顎でピアノを示した。先週と同じ。言葉が少なくて、ぶっきらぼうで、でも——聴く姿勢だけは、本物だ。
私はピアノの前に座った。
今日は何を弾こう。考えて、結局決められなかった。だから——指が動くままに任せた。
即興。
子供の頃、母と一緒にふざけて弾いていたような、とりとめのない旋律。上手くもないし、形にもなっていない。でも、今の私から出てくる音は、これだった。
弾き終わると、沈黙が落ちた。
「……下手だな」
蒼真が言った。
「っ……」
分かってる。一年のブランクは重い。即興なんて、もっと技術がないとできないことも。
「でも、嘘がない」
顔を上げると、彼は壁に寄りかかったまま、じっと私を見ていた。
「先週より、音が素直だ。何があった」
「……別に、何も」
「嘘つけ。音に出てる」
(この人、怖い)
音で人の内面を読む。それができるということは、相当な耳を持っているということだ。
「……一週間、ずっと弾きたかった」
気がついたら、正直に言っていた。
「仕事中も、電車の中でも、寝る前も。指が勝手に動くの。エアピアノっていうか……馬鹿みたいだけど」
「馬鹿じゃない」
蒼真が壁から身体を離し、ピアノに近づいてきた。
「それが普通だ。音楽やってる人間にとっては」
「……私は、もう音楽やってる人間じゃない」
「誰が決めた」
「……私、が」
言葉が詰まった。そうだ。誰に強制されたわけでもない。あの男に言われて、自分で選んで、諦めた。
「じゃあ、お前が決め直せばいい」
蒼真が、ピアノの端に腰かけた。近い。この距離で見ると、彼の瞳の色が本当に深いことが分かる。
「音楽をやるかやらないかは、お前が決めることだ。他の誰でもない」
「……簡単に言わないで」
声が震えた。
「私には、才能なんてない。音大も諦めて、一年間ピアノに触れなくて、もう二十五で——」
「才能の話はしてない」
蒼真が遮った。
「音楽をやりたいか、やりたくないか。それだけだ」
「……やりたいに、決まってる」
言ってしまってから、はっとした。
一年間、蓋をしてきた本音。誰にも言えなかった言葉。それが、こんなにあっさり——。
「なら弾け」
蒼真が立ち上がった。
「毎週金曜、終電の後。俺はここにいる。お前が来なくなるまで」
「……なんで、そこまで」
「さあ」
彼は首を傾げた。無表情のまま、でも——ほんの少しだけ、口元が緩んだような気がした。
「お前の音が、気になるから。それだけ」
◇◇◇
それから、毎週金曜日が特別な日になった。
仕事を終え、終電を逃し、深夜の駅でピアノを弾く。蒼真は毎回、黙って聴いてくれた。時々、短い言葉でアドバイスをくれた。
「今の、左手が走りすぎ」
「そこ、もっと溜めていい」
「感情に任せすぎ。でも、悪くない」
褒められることは少ない。でも、彼の言葉には嘘がなかった。良い時は「悪くない」、駄目な時は「駄目だ」。それだけ。
「神崎さんは、なんでこんなことしてるの」
三回目の金曜日、思い切って聞いてみた。
「こんなこと?」
「毎週わざわざ終電逃して、私の演奏聴きに来るなんて」
「わざと逃してるわけじゃない。仕事が遅いだけだ」
「嘘でしょ」
「……半分は」
蒼真が、珍しく視線を逸らした。
「俺は今、映画音楽の仕事をしてる。来年公開の作品で、メインテーマを任された」
「すごい……」
「すごくない。まだ完成してない」
彼はヘッドフォンを弄びながら、続けた。
「ピアノが必要な曲なんだ。でも、イメージに合う音が見つからなかった。技術のある奏者は山ほどいる。でも——」
「でも?」
「魂が聴こえる音は、少ない」
私を見た。夜空みたいな瞳が、真っ直ぐに。
「お前の音には、それがある」
息が止まった。
「待って——それって——」
「今すぐどうこうって話じゃない。まだお前は錆びてるし、俺の曲も完成してない」
蒼真が立ち上がった。
「でも、覚えておけ。お前の音を、俺は探してた」
黒いコートの裾が翻る。いつものように、彼は背を向けて歩き出した。
「神崎さん」
「蒼真でいい」
「……蒼真、さん」
呼び慣れない名前。でも、口に出すと、少しだけ距離が縮まった気がした。
「来週も、来るから」
彼は振り返らなかった。でも、片手を上げて応えた。
先週と同じ。でも、意味は全然違う。
深夜の駅で、私は一人、ピアノの前に残った。
『お前の音を、俺は探してた』
その言葉が、胸の中で何度もこだまする。
(才能なんてない、って思ってた)
高城翔に否定されてから、ずっとそう思い込んできた。私の音楽には価値がない。私の夢は、現実を見ていない子供の戯言だ、と。
でも——。
鍵盤に指を置いた。深夜の静寂の中、小さく音を鳴らす。
『その音、殺すには惜しい』
蒼真の言葉が、少しずつ、私の中の何かを溶かしていく。
一年間、凍りついていた何かを。
(もしかしたら——)
まだ、間に合うのかもしれない。
まだ、取り戻せるのかもしれない。
終電の向こう側で、私は少しずつ、息を吹き返し始めていた。
◇◇◇
それは、四回目の金曜日の夜だった。
「凛音」
蒼真が、いつもと違う声色で私の名前を呼んだ。
「来月、プロデューサーとの打ち合わせがある。お前も来い」
「え……?」
「映画音楽の件だ。ピアニストの候補として、お前を推薦したい」
頭が真っ白になった。
「待って、待って。私、まだ全然——」
「分かってる。まだ錆びてる。でも、あと一ヶ月あれば、形になる」
蒼真が真っ直ぐ私を見た。いつもの無表情。でも、その奥に——確信があった。
「俺の曲を弾けるのは、お前だ。お前の音じゃないと、意味がない」
(そんな)
嬉しさと恐怖が、同時に押し寄せてくる。
プロの現場。映画音楽。一年前に諦めた夢が、突然、手の届く場所に現れた。
「……考えさせて」
「一週間待つ」
蒼真はそれだけ言って、いつものように帰っていった。
◇◇◇
翌週、月曜日。
会社で、それは起こった。
「藤崎さん、来客です」
受付からの内線を受けて、私は首を傾げた。仕事で来客の予定はない。親しい友人もいない。誰が——。
ロビーに出た瞬間、血の気が引いた。
「久しぶりだな、凛音」
高城翔が、立っていた。
完璧に整えられた茶髪。仕立ての良いスーツ。人当たりの良い営業スマイル。一年前と何も変わらない。変わらないまま、私の前に——。
「なん、で……」
「驚いた顔してるな。まあ、突然で悪かったよ」
悪びれる様子もなく、翔は近づいてきた。
「ちょっと話したいことがあってさ。時間、もらえる?」
「……仕事中なので」
「すぐ終わるから。昼休み、付き合ってくれ」
選択肢を与えない言い方。昔からそうだった。彼は常に、自分のペースで物事を進める。
断れば、職場で騒ぎになる。それは避けたい。
「……十二時に、一階のカフェで」
「ああ、待ってる」
翔は満足げに微笑んで、ロビーを出て行った。
その背中を見送りながら、私は拳を握りしめていた。
(なんで、今なの)
一年間、何の連絡もなかったのに。私がやっと前を向き始めた、このタイミングで——。
「凛音さん?」
振り返ると、柚月が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「今の人……知り合い?」
「……昔の、知人」
「そう」
柚月は何も聞かなかった。でも、私の表情から何かを察したのだろう。そっと、私の腕に触れた。
「何かあったら言ってね。私、味方だから」
「……うん」
その言葉に、少しだけ救われた。
◇◇◇
昼休み。カフェで向かい合った翔は、開口一番こう言った。
「お前、最近ピアノ弾いてるんだって?」
心臓が跳ね上がった。
「……どこで、それを」
「業界は狭いからな。神崎蒼真がピアニストを探してるって話、耳に入ってきてさ。まさかお前の名前が出てくるとは思わなかった」
翔がコーヒーを啜る。余裕のある仕草。私の動揺を楽しんでいるようにすら見えた。
「正直、驚いたよ。お前、音楽は諦めたんじゃなかったのか?」
「……」
「俺が言ったこと、忘れたわけじゃないよな。『音楽なんかで食べていけない』って。あれ、お前のためを思って言ったんだぞ」
(お前のため)
何度聞いたか分からないその言葉。一年前は、信じていた。信じて、諦めて、自分を殺した。
「それで——」
翔が身を乗り出した。
「実は、俺も神崎の映画プロジェクトに関わることになったんだ。プロデューサー側としてな」
「……え?」
「だから、ピアニストの選考にも口を出せる立場ってわけ」
嫌な予感がした。この男が、何を言い出すのか——。
「凛音、お前の気持ちは分かるよ。もう一度音楽をやりたいって思う気持ちはさ。でもな——」
翔が、あの笑顔を浮かべた。善人面の、でも目の奥には何もない、あの笑顔。
「プロの世界は甘くない。お前程度の実力で、映画音楽なんて無理だ。恥をかく前に、辞退した方がいいと思うぜ」
「……」
「俺が言わなかったら、誰も言わないだろ? だから言ってやってるんだ、お前のために」
まただ。また「お前のため」。
一年前と、何も変わっていない。この男は——。
「……ありがとう、忠告は聞いたわ」
私は立ち上がった。
「でも、決めるのは私。翔くんじゃない」
「おい、凛音——」
「一年前は、あなたの言葉を信じて諦めた。でも——」
翔を見下ろす。一年ぶりに、この男の顔を正面から見た。
「今の私は、違う」
踵を返して、カフェを出る。背後で翔が何か言っていたけれど、聞こえないふりをした。
足が震えていた。心臓がバクバクしていた。でも——。
(言えた)
一年前は、言えなかった言葉。あの時は、彼の言葉に従って俯くだけだった。
『決めるのは私』
蒼真の言葉が、頭の中で響いた。
『音楽をやるかやらないかは、お前が決めることだ。他の誰でもない』
そうだ。誰に何を言われても、決めるのは私。
私の音を、私の人生を、もう誰にも奪わせない。
◇◇◇
金曜日の夜。
蒼真に、すべてを話した。高城翔のこと。元婚約者だったこと。彼に夢を否定されて、音楽を諦めたこと。そして——今日、再会したこと。
蒼真は黙って聞いていた。表情は変わらない。でも、その瞳が少しだけ、冷たくなった気がした。
「……そいつは、くずだな」
短い言葉。でも、それだけで十分だった。
「俺のプロジェクトに口を出す権限は、そいつにはない。安心しろ」
「でも、プロデューサー側だって——」
「関係ない」
蒼真がピアノの前に立った。
「ピアニストを選ぶのは俺だ。誰がなんと言おうと、お前を選ぶ」
「……蒼真さん」
「だから——」
彼が振り返る。夜空みたいな瞳が、真っ直ぐに私を見た。
「お前は、弾くことだけ考えろ」
不器用な言葉。でも、それが——今の私には、何よりも心強かった。
「うん」
私は頷いて、ピアノの前に座った。
今夜は——蒼真が作曲した曲の、デモを聴かせてもらうことになっていた。映画のメインテーマ。まだ完成していないという、その曲を。
蒼真がスマホを操作し、イヤホンの片方を私に渡す。
「まだラフだ。完成形じゃない」
「うん」
再生ボタンが押される。
ピアノの旋律が、耳に流れ込んできた。
最初の一音で、息を呑んだ。
静かで、寂しくて、でもどこかに希望がある。夜明け前の、一番暗い時間みたいな曲。そこから少しずつ光が差してきて、最後には——。
涙が溢れた。
「どうした」
「……っ、ごめ、なさい……」
止まらない。涙が止まらない。
「なんで泣いてる」
「だって——この曲——」
私を見ているみたいだった。
夢を諦めて、感情を殺して、惰性で生きてきた私。でも、その奥にずっとくすぶっていた何かを——この曲は、知っている気がした。
「蒼真さん、私——」
顔を上げる。涙で滲んだ視界の中、彼の顔が見えた。
「この曲、弾きたい」
「……」
「絶対に弾く。私の音で、この曲を——」
言葉が詰まった。でも、蒼真は——。
初めて、笑った。
口元だけの、小さな笑み。でも確かに、彼は微笑んでいた。
「待ってた」
その一言で、私の中で何かが決まった。
迷いは、もうない。高城翔が何を言おうと、関係ない。
私は——この曲を弾く。
深夜の駅で磨いてきた、私だけの音で。
◇◇◇
打ち合わせの日が来た。
都内のスタジオ。ガラス張りの会議室。長いテーブルの向こう側には、映画の監督やプロデューサーたちが並んでいる。
そして——その中に、高城翔がいた。
(やっぱり、来てる)
予想はしていた。でも、実際に顔を合わせると、胃の奥がきりきりと痛む。
「藤崎凛音さんですね。本日はありがとうございます」
監督が穏やかに声をかけてくれる。私は頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「神崎くんから話は聞いています。ぜひ、演奏を聴かせてください」
隣に座る蒼真が、小さく頷いた。彼の存在が、少しだけ心を落ち着かせてくれる。
「では——」
私が立ち上がろうとした、その時だった。
「ちょっと待ってください」
翔が、手を上げた。
「藤崎さんの経歴、確認させてもらってもいいですか」
(来た)
予想通りの展開。でも、心臓がうるさい。
「音大卒業ではないですよね? プロとしての実績も——」
「高城」
蒼真が遮った。冷たい声。
「経歴の話は、事前に説明済みだ。今日は演奏を聴く場だ」
「いや、でもね、神崎くん。映画音楽は責任が重い仕事だ。素人を起用するリスクは——」
「素人かどうかは、聴いてから判断すればいい」
蒼真の声が、さらに低くなった。
「それとも、お前は聴く前から判断できるのか」
会議室に、緊張が走った。
翔の表情が、一瞬だけ歪む。営業スマイルの下から、苛立ちが覗いた。
「……分かった。聴かせてもらおう」
渋々といった様子で、翔が引き下がる。
私は立ち上がり、会議室の隅に置かれたグランドピアノに向かった。
深呼吸をする。指が震えている。でも——。
(大丈夫)
蒼真の視線を感じる。彼は椅子に深く座り、目を閉じていた。いつもと同じ。深夜の駅と同じ。彼がそうしているなら——私は弾ける。
鍵盤に指を置く。
蒼真の曲。完成したメインテーマ。この一ヶ月、毎晩練習してきた曲。
最初の一音を、鳴らす。
深夜の静寂。誰もいない駅。錆びついた指で、初めてピアノに触れた夜。
あの夜から、私の時間は動き始めた。
旋律が流れる。静かで、寂しくて、でも——そこには確かに、光がある。夜明け前の暗闘から、一筋の光を求めて手を伸ばすような音。
目を閉じて弾く。テクニックは足りない。プロの演奏者には遠く及ばない。
でも、この音は——私だけの音だ。
誰にも否定させない。誰にも奪わせない。深夜の駅で、一人で磨いてきた、私だけの——。
最後の和音を弾き終えた時、会議室は静まり返っていた。
目を開ける。
監督が、目を潤ませていた。
「……素晴らしい」
掠れた声で、彼は言った。
「技術的な話じゃないんです。この音には——魂がある」
「私も、同意見です」
別のプロデューサーが頷く。
「神崎くんの曲と、彼女の演奏は——響き合っている。これは、稀有なことです」
蒼真は、目を閉じたままだった。でも——その口元には、あの小さな笑みが浮かんでいた。
「高城さん、いかがですか」
監督が翔に視線を向けた。
翔は——。
固まっていた。
顔色が悪い。営業スマイルは完全に消えていて、その下から覗いているのは——動揺と、屈辱と、信じられないという表情。
「……確かに、悪くは、ない」
絞り出すような声だった。
「でも、本番はまた別だ。プレッシャーのかかる場面で、同じ演奏ができるかどうか——」
「それは、どの演奏者も同じだろう」
蒼真が目を開けた。夜空みたいな瞳が、翔を射抜く。
「お前の懸念は理解した。でも、俺は彼女を選ぶ」
「神崎くん——」
「異論があるなら、俺を降ろせ」
会議室が凍りついた。
蒼真は本気だった。無表情だけれど、その声には鉄のような意志があった。
監督が咳払いをした。
「……神崎くんの意見を尊重しましょう。藤崎さん、正式にオファーさせていただきます」
「え——」
「この映画のメインテーマ、あなたに弾いてほしい」
息が止まった。
夢を見ているみたいだった。一年前に諦めた夢。高城翔に否定されて、自分でも価値がないと思い込んでいた夢。
それが今——。
「……ありがとう、ございます」
声が震えた。涙が出そうになるのを、必死に堪えた。
「こちらこそ。素敵な演奏をありがとうございました」
監督が微笑む。他のスタッフたちも、温かい拍手を送ってくれた。
その中で——翔だけが、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
◇◇◇
会議が終わり、スタジオを出ようとした時だった。
「凛音」
背後から、翔の声がした。
振り返ると、彼が廊下に立っていた。さっきまでの営業スマイルは完全に消えていて、その顔には——明らかな敵意があった。
「……何?」
「さっきの演奏——確かに、悪くなかった」
「ありがとう」
「でもな」
翔が一歩、近づいてきた。
「これで終わりじゃないぞ。プロの世界は甘くない。お前みたいな素人が——」
「高城」
冷たい声が、翔の言葉を遮った。
蒼真が、私の隣に立っていた。いつの間に来たのか分からない。黒いコートの裾が、廊下の風に揺れている。
「話は終わったんじゃないのか」
「……神崎くん。これは俺と凛音の問題だ。君には——」
「彼女は、俺のピアニストだ」
蒼真の声が、さらに低くなった。
「手を出すな」
翔の顔が、赤くなった。怒りと、屈辱と——かつて自分が切り捨てた女が、自分より先を行っていることへの、嫉妬。
「……神崎くん、お前——」
「蒼真さん」
私は、蒼真の腕に触れた。
「大丈夫。私が、話す」
蒼真が私を見た。心配そうな——いや、彼の表情は相変わらず無表情だけれど、その瞳には確かに、私への気遣いがあった。
「……分かった」
彼は一歩下がった。でも、その場を離れようとはしない。見守っている、という姿勢だった。
私は翔と向き合った。
「翔くん」
「……なんだ」
「一年前、あなたに言われた言葉、ずっと覚えてる」
『音楽なんかで食べていけるわけないだろう。いい加減、現実を見ろよ』
「あの時は、あなたの言葉を信じた。自分に才能がないって、思い込んだ」
「……凛音」
「でも、違った」
私は、翔の目を真っ直ぐに見た。
「才能があるかないかは、あなたが決めることじゃない。私が弾くかどうかも、あなたが決めることじゃない」
「何を——」
「私は弾く。あなたが何を言っても、もう止まらない」
言い切った。
声は震えていない。膝も笑っていない。一年前とは違う。今の私は——違う。
翔は、何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
しばらくの沈黙の後、彼は背を向けた。
「……後悔するぞ」
捨て台詞を残して、翔は去っていった。
その背中を見送りながら、私は——ふっと、力が抜けた。
「お疲れ様」
蒼真の声がした。
「……蒼真さん、ありがとう。庇ってくれて」
「庇ってない。事実を言っただけだ」
「事実?」
「お前は、俺のピアニストだ」
何でもないことのように、彼は言った。
無表情で、ぶっきらぼうで、でも——その言葉は、どんな甘い言葉よりも、私の胸に響いた。
「……うん」
涙が滲んだ。今度は、堪えられなかった。
「蒼真さん、私——」
「泣くな」
「泣いてない」
「嘘つけ」
蒼真がポケットからハンカチを出して、ぶっきらぼうに差し出した。黒いハンカチ。彼らしい。
「……ありがとう」
受け取って、目元を押さえる。
スタジオの廊下で、私たちは二人で立っていた。窓の外は、もう夕暮れ時だった。オレンジ色の光が、蒼真の横顔を照らしている。
「帰るぞ」
「うん」
「今日は——」
蒼真が、少しだけ言葉を詰まらせた。珍しい。
「いい演奏だった」
「……っ」
また涙が出そうになった。
「だから、泣くなって言ってるだろ」
「蒼真さんが変なこと言うからでしょ」
「変じゃない。本当のことだ」
不器用すぎる会話。でも——今の私には、それが何よりも心地よかった。
◇◇◇
映画の仕事が正式に決まってから、私の日常は一変した。
週末は蒼真のスタジオでの練習。平日の夜は自宅でひたすら譜面と向き合う。会社では相変わらず地味なOLだけれど、終業後の私は——ピアニストとして、生まれ変わろうとしていた。
「凛音さん、最近なんか変わったよね」
金曜日の昼休み。柚月が、にやにやしながら言った。
「え?」
「なんていうか、顔色が良くなった? あと、目の下のクマも薄くなったし」
「そ、そう?」
「うん。あと——」
柚月がぐいっと顔を近づけてくる。
「金曜日だけ、妙にそわそわしてるよね」
「っ——」
図星だった。
「何かあるでしょ。教えてよー」
「……ちょっと、ピアノを再開して」
「え、凛音さんピアノ弾けるの!?」
「昔、ちょっとだけ——」
「すごい! 聴きたい!」
柚月が目をキラキラさせる。
「実は私も、学生時代バンドやってたんだー。ベース担当。だから音楽やってる人、めっちゃ応援したくなる」
「そうだったんだ」
「うん。色々あって辞めちゃったけど……でも、今でも音楽は好き。だから——」
柚月が、私の手を握った。
「凛音さんがまた弾き始めたって聞いて、嬉しい。頑張ってね」
「……うん」
胸が温かくなった。こんな友達が、すぐそばにいたなんて。一年前の私は、気づけなかった。
「ありがとう、柚月」
「えへへ。何かあったら言ってね。私、凛音さんの味方だから」
◇◇◇
終業後、蒼真のスタジオへ向かう途中だった。
駅の改札を出たところで——見覚えのある女性が、立っていた。
艶やかな黒髪のロングヘア。赤いルージュ。モデルのように整った顔立ち。
橘美羽。高城翔の現在の恋人。
「あなたが藤崎凛音さん?」
彼女は、私を見下ろすように言った。ヒールが高いせいで、私より頭ひとつ分背が高い。
「……はい」
「ちょっと話があるの。時間、いい?」
有無を言わさない口調。断ることもできたけれど——この人が何を言いに来たのか、知っておきたかった。
「手短にお願いします」
近くのカフェに入る。橘さんはアイスティーを注文し、私はホットコーヒーを頼んだ。
「単刀直入に言うわ」
彼女がストローを弄びながら、言った。
「翔から離れて」
「……は?」
「あなた、最近翔に近づいてるでしょ。映画の仕事がどうとかで。でもね——」
橘さんが、私を睨みつけた。
「翔は私の恋人なの。元カノが今さらしゃしゃり出てこないでくれる?」
呆れた。心の底から。
「近づいてるのは、彼の方です」
「はぁ?」
「映画の仕事に私が関わることになったのは、神崎さんの推薦です。高城さんとは——関わりたくもありません」
「嘘つかないで。翔はあなたのことを気にしてるわ。最近、『藤崎が』『凛音が』って——」
(そんなこと、私に言われても)
内心でため息をついた。この人は、自分の恋人が元婚約者を気にしていることに気づいていて、だから私を排除しようとしている。でも、問題の根本は——。
「橘さん」
「何よ」
「高城さんが私を気にしているのは、私のせいじゃありません。彼自身の問題です」
「どういう意味?」
「彼は——私を否定したことで、自分の優位を保っていた。でも今、私が彼の予想を裏切って前に進んでいる。それが気に入らないだけです」
橘さんの顔が、歪んだ。
「あなたが、翔より上だって言いたいの?」
「そうは言ってません。ただ——」
私はコーヒーカップを置いた。
「彼の目は、私を見ていない。見ているのは、『かつて否定した私が成功すること』への恐れです。あなたのことも——」
言葉を切った。これ以上言うのは、残酷すぎる気がした。
「……何よ」
「何でもありません。私は行きます」
立ち上がる。伝票を持とうとしたら、橘さんが先に掴んだ。
「……呼び出したのは私だから」
「そうですか。では、失礼します」
背を向けて歩き出す。
「待って」
振り返ると、橘さんは——さっきまでとは違う顔をしていた。虚勢が剥がれ落ちた、不安そうな顔。
「翔は——私のこと、本当に好きなのかな」
「……」
「あなたと婚約してた頃の翔を、私は知らない。でも——時々、私を見てないって思う時がある」
(この人も——)
気づいているんだ。高城翔という男の本質に。でも、認めたくなくて、目を逸らしている。
「橘さん」
「何」
「答えは、私じゃなくて、彼に聞いた方がいいと思います」
それだけ言って、今度こそカフェを出た。
◇◇◇
スタジオに着いた時、蒼真は不機嫌そうだった——いや、彼はいつも無表情だから、不機嫌かどうかは分からない。でも、なんとなく空気が重い。
「遅い」
「ごめん、ちょっと立ち寄るところがあって」
「……誰かに会ったのか」
「え?」
「顔に書いてある」
(この人、本当に怖い)
隠し事ができない。
「……橘さんっていう人に呼び止められて」
「橘?」
「高城さんの、今の恋人」
蒼真の眉が、ぴくりと動いた。
「何を言われた」
「翔から離れろって」
「……」
「断ったけど。というか、近づいてるのは向こうなのに」
「そうだな」
蒼真が、ピアノの前に座った。
「高城は、お前を見ている。でも、それは——」
「分かってる。彼は私を見てるんじゃない。自分が否定したものが、自分の予想を超えていくのが怖いだけ」
「……」
蒼真が、私を見た。いつもより、少しだけ長く。
「凛音、お前——成長したな」
「え?」
「前は、もっと自信がなかっただろう。今は——違う」
「……蒼真さんのおかげ」
「違う。お前自身の力だ」
不器用な褒め方。でも、彼の言葉には嘘がないから——どんなお世辞よりも、心に響く。
「練習、始めるぞ」
「うん」
ピアノの前に座る。今日の課題は、メインテーマの後半部分。感情の高まりを表現する、一番難しいパート。
弾き始める。蒼真は目を閉じて、聴いている。
彼の前で弾く時、私は——誰よりも自由になれる。
◇◇◇
休憩時間、蒼真が珍しく自分のことを話し始めた。
「俺も、昔——音楽を否定されたことがある」
「え?」
「親父に」
蒼真の父親。神崎律。日本を代表する指揮者。その名前は、音楽をかじったことのある人間なら誰でも知っている。
「子供の頃、『神崎の名を継ぐ者として恥ずかしくない音楽を』って言われ続けた。レールを敷かれて、その上を走ることだけを求められた」
「……」
「十五の時、俺はキーボードを壊した。反抗期だったっていえばそれまでだけど——あの時、俺は本気で音楽を辞めようと思った」
「でも、辞めなかった」
「ああ」
蒼真が、窓の外を見た。夜空には、星がちらほら見え始めている。
「辞められなかった。音楽がないと——俺は、息ができなかったから」
「……」
「それで、分かったんだ。俺は、誰かのためじゃなく、自分のために音楽をやりたいんだって。親父の名前でも、業界の評価でもなく——俺自身の音を、追求したいって」
「だから、無名でいるの?」
「無名かどうかは結果論だ。でも、売れるために音楽を変える気はない。それだけは——」
蒼真が私を見た。
「お前と、同じだろ」
息を呑んだ。
同じ。私たちは——。
「誰かに否定されて、一度は諦めかけた。でも、結局——音楽を手放せなかった」
「……うん」
「俺がお前の音に惹かれたのは、たぶん——そこだ」
蒼真が立ち上がった。
「休憩終わり。後半、行くぞ」
「うん」
ピアノの前に戻る。彼の話を聞いて——私の中で、何かが繋がった気がした。
私たちは、似ている。
傷があって、迷いがあって、でも——音楽を愛している。それだけは、同じだ。
鍵盤に指を置く。
後半部分。感情の高まり。暗闘から光へ向かう、最も激しいパート。
弾き始めた瞬間——今まで出せなかった音が、指先から溢れ出した。
蒼真の曲が、私の中で——呼吸し始める。
(これだ)
この音を、私はずっと探していた。
誰のためでもない。自分だけの音。深夜の駅で、孤独の中で、ひとりで磨いてきた——私だけの旋律。
演奏が終わった時、蒼真は——珍しく、言葉を失っていた。
「……今の」
「うん」
「今の音を、本番で出せ」
「出す」
迷いなく、答えた。
蒼真が、また——あの小さな笑みを浮かべた。
「待ってる」
深夜のスタジオ。二人きりの空間で、私たちは——同じ夢を見ていた。
◇◇◇
収録当日。
スタジオには、大勢のスタッフが集まっていた。監督、音響エンジニア、プロデューサーたち——そして、高城翔。
彼は相変わらず、完璧な営業スマイルを浮かべていた。でも、その目は——私を値踏みするように見ていた。
(負けない)
グランドピアノの前に座る。スタジオの照明が、鍵盤を白く照らしている。
「藤崎さん、準備はいいですか」
監督の声に、頷く。
「はい」
「では——本番、行きましょう」
赤いランプが点灯する。録音開始の合図。
深呼吸をして、目を閉じる。
(大丈夫)
蒼真の姿を探す。彼は——ガラスの向こうのミキシングルームにいた。腕を組んで、目を閉じている。いつもと同じ。深夜の駅と同じ。
彼が聴いてくれている。
それだけで——私は弾ける。
最初の一音を、鳴らした。
深夜の静寂。誰もいない駅。錆びついた指で、初めてピアノに触れた夜。
『その音、殺すには惜しい』
蒼真の声が、頭の中で響く。
あの夜から、私は変わった。変わり続けている。
旋律が流れ出す。静かで、切なくて、でも——どこかに希望がある音。暗闘の中で、一筋の光を探し続ける音。
中盤に入る。感情が高まっていく。ピアノが、私の代わりに叫んでいる。
夢を諦めた悔しさ。否定された痛み。一年間、感情を殺して生きてきた苦しさ——。
でも、それだけじゃない。
蒼真に出会えた喜び。もう一度弾けることへの感謝。そして——。
後半部分。最も激しいパート。暗闘から光へ。
指が鍵盤の上を駆け巡る。技術的には、まだまだ足りない。プロの演奏者には遠く及ばない。
でも——。
この音は、私だけの音だ。
誰にも真似できない。誰にも否定できない。深夜の駅で、孤独の中で、ひとりで磨いてきた——私だけの旋律。
『お前の音を、俺は探してた』
蒼真の言葉が、胸の中で輝く。
私は——ここにいる。
もう、逃げない。もう、諦めない。
最後の和音。渾身の力を込めて、鍵盤を押さえる。
音が消えていく。余韻だけが、スタジオに漂う。
長い沈黙。
目を開けると——スタッフたちが、呆然としていた。
「……」
誰も、言葉を発しない。
私は——失敗したのだろうか。
不安が押し寄せてきた、その時だった。
「素晴らしい」
監督が、立ち上がった。目が潤んでいる。
「藤崎さん——これは、素晴らしい」
スタッフたちが、次々と拍手を始めた。
「最高でした」
「鳥肌が立ちました」
「この映画、絶対成功しますよ」
温かい言葉が、波のように押し寄せてくる。
涙が滲んだ。でも、今は——泣いている場合じゃない。
「ありがとうございます」
頭を下げる。
ガラスの向こうを見ると、蒼真が——笑っていた。
口元だけの、小さな笑み。でも、今日のそれは——いつもより、ずっと大きかった。
◇◇◇
収録が終わり、スタジオを出ようとした時だった。
「藤崎さん」
高城翔が、声をかけてきた。
「……何?」
「さっきの演奏——」
翔の顔は、蒼白だった。営業スマイルは消え失せていて、その下から覗いているのは——動揺と、困惑と、そして——。
「悪くなかった」
「……ありがとう」
「でも——」
翔が、一歩近づいてきた。
「お前にそんな才能があるわけない。俺は——俺は、お前のことを誰よりも知ってるんだ。だから——」
「翔くん」
私は、彼の言葉を遮った。
「私のことを知ってる? 本当に?」
「……何?」
「あなたは、私の何を知ってるの」
翔が言葉を詰まらせる。
「私が何を好きで、何に傷ついて、何を諦めたか——あなたは知らなかったでしょう」
「そんなことは——」
「知らなかった。知ろうともしなかった」
声が震えそうになるのを、必死に堪えた。
「あなたは、私を見ていなかった。見ていたのは——あなたにとって都合のいい私だけ。従順で、夢を諦めて、あなたの言う通りに生きる私だけ」
「凛音——」
「でも、私はもう——その私じゃない」
一歩、後ろに下がる。翔との距離を取る。
「蒼真さんは——私を見てくれた。私の音を聴いてくれた。あなたが否定したものを、彼は認めてくれた」
「神崎に何が分かる——」
「彼には、分かるの」
言い切った。
「だって、彼は——私の音を、探してた人だから」
翔は——何も言えなくなっていた。
その顔を見て、私は初めて気づいた。この人は——本当に、何も分かっていなかったんだ。私のことも、音楽のことも、たぶん——自分自身のことも。
「さようなら、翔くん」
背を向けて、歩き出す。
「凛音——!」
翔の声が追いかけてきた。でも、振り返らなかった。
振り返る理由が、もうなかったから。
◇◇◇
映画の公開日——それは、私にとって、生まれ変わりの日だった。
都内の映画館で、完成披露試写会が行われた。招待客には、業界関係者やメディア、そして——。
「蒼真」
威厳のある声が、ロビーに響いた。
振り返ると、銀髪をオールバックに撫でつけた男性が立っていた。隙のない佇まい。鋭い眼光。
神崎律。蒼真の父親であり、日本を代表する指揮者。
「……親父」
蒼真の声が、硬くなった。
「招待状をもらった。見に来てやった」
「頼んでない」
「知っている」
父と子の間に、張り詰めた空気が流れる。
(これが——蒼真さんのお父さん……)
緊張で、心臓がうるさい。でも、ここで引くわけにはいかない。
「初めまして、神崎律様。藤崎凛音と申します」
頭を下げる。
律さんの視線が、私に向けられた。値踏みするような、鋭い目。
「お前が、蒼真が見つけたピアニストか」
「はい」
「……演奏は、映画で聴かせてもらう」
それだけ言うと、律さんは踵を返して、試写室へ向かっていった。
「……大丈夫か」
蒼真が、小声で聞いてきた。
「うん。緊張したけど」
「あの人は——口より、耳で判断する人間だ。だから——」
「だから?」
「お前の音を聴けば、分かる」
蒼真が、私の目を見た。いつもより、少しだけ柔らかい目。
「自信を持て」
「……うん」
試写室に入る。会場は、すでに満席に近かった。
照明が落ちる。スクリーンが光を放つ。
映画が、始まった。
◇◇◇
メインテーマが流れ始めた瞬間——会場の空気が、変わった。
私の演奏。あの日、スタジオで弾いた音。
深夜の駅で磨いた、私だけの音が——今、スクリーンの中で、物語を紡いでいる。
主人公の苦悩。挫折。そして、再生。
音楽が、映像と溶け合う。私の音が、誰かの心に届いている。
涙が溢れた。
隣に座る蒼真の手が、そっと私の手を握った。
「……っ」
声を出せなかった。ただ、握り返すことしかできなかった。
エンドロールが流れる。私の名前が、スクリーンに映し出される。
『ピアノ演奏:藤崎凛音』
一年前には、想像もできなかった光景。
終電を逃した夜。誰もいない駅で、錆びついたピアノに触れた夜。あの夜から——ここまで来た。
映画が終わり、照明が点く。
会場から、拍手が湧き起こった。
温かい拍手。私の音を、認めてくれる拍手。
立ち上がって、頭を下げる。涙で視界が滲む。でも、今は——泣いてもいい気がした。
「藤崎さん——!」
監督が駆け寄ってきた。
「素晴らしかった。本当に、素晴らしかった」
「ありがとうございます」
「あなたの音がなければ、この映画は完成しなかった。心から感謝します」
次々と、人々が声をかけてくれる。
「感動しました」
「CDは出ないんですか」
「次の作品でも、ぜひ——」
夢みたいだった。これが、現実なのか分からないくらい。
ふと——視線を感じて、振り返った。
神崎律が、立っていた。
相変わらずの威厳。隙のない佇まい。でも——その目は、さっきまでとは違う色をしていた。
「藤崎凛音」
「はい」
「いい音だった」
短い言葉。でも、その言葉の重さを——私は、知っている。
「ありがとう、ございます……」
声が震えた。
「蒼真」
律さんが、息子の名を呼んだ。
「お前の曲も——いい曲だった」
「……」
「長い間、お前の音楽を認めようとしなかった。それは——俺の傲慢だった」
「親父——」
「お前は、お前の音楽を見つけた。俺には、できなかったことだ」
父と子が、向き合う。長年の確執が、今——。
「……ありがとう」
蒼真が、小さく言った。
「俺も——ずっと、親父に認めてほしかった。ずっと——」
言葉が詰まる。無表情の彼が、初めて——感情を露わにしていた。
「知っていた」
律さんが、目を伏せた。
「知っていて——言えなかった。すまなかった」
父と子の和解。長い時間をかけて、ようやく——。
私は、その光景を見守りながら——胸がいっぱいになっていた。
私の音楽が、二人を繋いだ。私の音が、誰かの心を動かした。
これ以上の喜びが、あるだろうか。
◇◇◇
試写会の後、蒼真と二人で、あの駅に行った。
深夜の駅。ストリートピアノ。すべてが始まった場所。
「ここで、お前に会った」
蒼真が、ピアノの前に立った。
「覚えてる」
「あの時——お前の音を聴いて、初めて思った。この音が、欲しいって」
「……」
「俺は、ずっと——自分のためだけに音楽をやってきた。誰かと一緒に何かを作ることに、興味がなかった」
蒼真が、私を見た。夜空みたいな瞳が、街灯の光を受けて輝いている。
「でも、お前と出会って——変わった」
「蒼真さん——」
「お前の音と一緒に、何かを作りたいと思った。お前と——一緒にいたいと思った」
心臓が、止まりそうだった。
「それは——」
「好きだ、凛音」
不器用な告白。でも——彼らしい、真っ直ぐな言葉。
「俺と——これからも、一緒に音楽をやってくれ」
涙が溢れた。今日、何度目か分からない。
「私も——」
言葉にならない。でも、伝えたい。
「私も、蒼真さんが好き。ずっと——ずっと、好きだった」
蒼真が、一歩近づいてきた。
彼の手が、私の頬に触れた。涙を拭ってくれる。
「泣くな」
「泣いてない」
「嘘つけ」
笑いながら泣く。こんなに幸せな涙は、初めてだった。
「凛音」
「うん」
「弾いてくれ」
蒼真が、ピアノを指した。
「ここで、もう一度——お前の音を聴かせてくれ」
深夜の駅。誰もいないホーム。ストリートピアノ。
一年前、すべてが始まった場所で——私は、鍵盤に指を置いた。
何を弾こう。考えて——決めた。
ショパンの夜想曲。第二番。
最初に、蒼真の前で弾いた曲。錆びついた指で、下手くそに弾いた曲。
今なら——あの時とは、違う音が出せる。
弾き始める。深夜の静寂に、旋律が響く。
一年前より、ずっと上手くなった。技術も、表現も。でも、一番変わったのは——。
私自身だ。
夢を諦めて、感情を殺して、惰性で生きていた私。でも今は——。
夢を取り戻して、感情を取り戻して、誰かを愛することを思い出した私。
演奏が終わる。
蒼真が、目を閉じていた。いつもの姿勢。でも、その口元には——あの、小さな笑みが浮かんでいる。
「いい音だ」
「うん」
「お前の音は——俺の、宝だ」
不器用な言葉。でも、世界で一番、嬉しい言葉。
深夜の駅で、私たちは——二人で、立っていた。
終電を逃した夜から始まった物語。諦めた夢と、諦めなかった想いが交差する、再生の物語。
これからも——私は、弾き続ける。
蒼真の隣で。蒼真と一緒に。
誰のためでもない、私だけの音で——。
終電の向こう側には、確かに——光があった。
【完】




