【第一話】 歴史上初の女性騎士、誕生
一 歴史上初の女性騎士、誕生
騎士団に入団してから、朝早く起きることすら任務のように感じるようになった。
それはまるで、アスリートにとって食事も睡眠もすべては訓練の一環だというように。
まだ朧げな頭で、そんなことを考えながら、そろそろ起きねばと体を起こす。
ベッドの淵に腰掛けた状態だと、真正面の窓からちょうど庭が見える。
朝日を透かして半透明になったレース越しに、サワサワと揺れる葉を見た。
穏やかで、澄み切った風が吹いているのだと分かる。
この街は風がよく吹く。まるで風の通り道のように。
カラッと乾燥した風が生み出す気候特有の日差しが、真っ直ぐに地上へと降り注いでいる。
日の差し具合から、もう出なければならない時間が迫っていることを思い出して、すぐさま支度をする。
顔を洗い、歯を磨く。最低限の食事を済ませてから、騎士団の制服に袖を通す。
紺色の制服に身を包んで、騎士館の一室である自分の寝床の扉を開けて出る。
そのときに思う。
今日も私は同じような日を繰り返しに行くのだと。
◇◇◇
騎士団の朝礼は、毎朝決まった時刻に城の大広間で行われる。
そこに向かうため城の廊下を歩いていると、一つの窓が開けっぱなしになっていた。
侵入者がいたのではないかと、両開きになった窓から外を覗き込んだ瞬間、入れ違いのようにサァッと風が入ってきた。
風は、季節によって異なる匂いを持っている。
騎士団に入ってから、感情が大きく揺れることがなくなったが、朝の清らかな風を受けると心が少し動く。
冬にはまだ遠く、心になにかを語りかけるような懐かしい風。
部外者が侵入した痕跡はないかと、窓の下に広がる芝生に足跡を探し、窓枠に足をかけた際に付着した土の跡などはないか、隈なくチェックする。特に形跡は見受けられなかった。
よほどの間抜けな侵入者でない限り、侵入後に窓を閉め忘れはしないだろうと思い直して、窓を閉める。
窓から吹き込んでいた風が、今度は追い出されるようにして、ファッっと出ていく。
風には音があるのだ。そんなことを考えながら、大広間へと足早に向かった。
◇◇◇
今日も変わらず、騎士団長グランドマスターの号令から始まる朝礼。
毎朝、同じことの繰り返し。
入団してからまだ半年ほどしか経っていないのに、私はもうすでにその変わらない朝にうんざりしていた。
同じような日々の繰り返し。変わらない毎日。
大広間を埋め尽くす、統一された制服に身を包んだ大勢の騎士たち。
そのなかには、憧れて念願の入団を果たしたという熱意ある者もいるだろう。
だが、私はそうではない。
騎士団に入団したことは、一つの手段に過ぎなかったのだ。
男兄弟に囲まれて育った私は、家族の即戦力になれない自分に劣等感を抱いていた。筋力など肉体的な意味でも、労働力という金銭的な意味でも。
だが、それと同時に、同性の幼なじみや、その姉妹たちが生活のために男に嫁いでいく姿を見て、私はそうはなりたくないとも強く願っていた。
だれにも頼らず、だれにも養われず、自分の力だけで生きていきたいと。
でも、現実は残酷だ。
そんな願いを少しでもこぼすと、変な奴だと周りから後ろ指を差され、幼きころは仲の良かった友人からも、生きる道が違うことを理由に疎遠になっていった。
私は、大人に近づくにつれて、少しずつ孤立していった。
その孤立を埋めようと、他人から認められるにはどうすればいいか、その道を探るようになった。
私は正しかったのだと、周りに認めさせる手段はなにか。
賞賛や羨望の眼差しを得るためには、どうすればいいのだろうと。
そこで辿り着いた結論が、自分の身分を上げることだった。
王族に嫁ぐのではなく、自分で自分の身分を上げるために残された唯一の方法。
それは、女性には不可能だ言われていた、この国において歴史上初の女性騎士になること。
騎士団に入団すれば、身分が変わる。
平民から、軍事貴族と呼ばれる騎士に。
身分が変われば、周りからの目も変わる。
いつだって周りを見渡せば、自分と同じ性別の者はいなかった。
それは、騎士団に合格するための訓練に限らず、自分の年齢で結婚をしない、どこにも嫁いでいないという点でも。
前例がない分、道のりは長く厳しいものだった。
いままでに女性騎士が誕生しなかったのは、挑戦する者の数が極めて少なかったことも理由にはあるが、なによりも肉体面でも精神面でも入団試験を乗り越えられた者がいなかったからだ。
私は自分で決めた目標に対して必死に鍛錬を積んだ。
肉体は震え、心は叫んでいた。
数え切れないほど悔し涙を流した。
だが、涙を流せば女だとやじられた。
だから私は、いつからか涙を流さないようになっていった。
涙が流れないように、感情を動かさないことも学んだ。
周りが寝ている時間にも、月明かりで勉強に励んだ。
筋力で負ける場面では、知識の力で。
体格で負ける場面では、技術で抗おうと必死にここまでやってきた。
いつでも自分に厳しく、どんな訓練士にかけられる怒号よりも厳しい言葉で自分を鼓舞してきた。
いつしか私は泣くこともしなければ、笑わなくもなっていた。
感情を動かさない術を学びすぎたのかもしれない。
もはや人間らしい感情が薄まってしまった末に、やってきた騎士団への入団最終試験の日。劣等感という強い感情に突き動かされた日々の結果、私は晴れて騎士団に合格した。
この国において史上初の女性騎士、誕生。
これですべてが報われると思った。
そこにたどり着けば、周りからの賞賛や承認を得られ、やっと認めてもらえると、そう信じていた。
実際、両親はとても喜んでくれたし、両手をあげて褒め称えてくれる者も多くいた。
そうではない者もたくさんいたが、もはや気にしなくなっていた。私自身が満足していたから。
だが、そんな誇らしい気持ちはそう長くは続かなかった。
満足感は一瞬で消え去り、その後に続くのは、ただただ同じような日々の繰り返しだった。
朝起きて、騎士団の朝礼に参加する。
国を、城を守るため、心身ともに厳しい訓練と任務をこなす日々。
騎士団への入団をゴールテープに定めていた私は、それを切ったあと、どうして良いのか分からなくなってしまった。
いったんゴールテープを切ったあと、なんのために走り続ければいいのか。私は走り続けてどこへ行きたかったのか。いままで必死に走ってそこを目指してきたのに、そこにたどり着いて見渡せば、自分がなにを望んでいたのかすら、分からなくなってしまっていた。
感情を捨て去ってきてしまったため、もはや自分の気持ちが分からない。
一人で生きていく道を選んだのは他ならぬ自分なのに、家族から離れ、幼なじみたちからも離れ、体力的にも精神的にも困難な道を選んだことを悔やんだ。
騎士団に入れば、すべてが手に入ると、そんな淡い期待だけを胸に、猛スピードで駆け抜けてしまった青春。
もう戻らない青春だと気がついたのは、過ぎ去ってからのこと。
私は、青春を捧げてまで、いったい誰に認めてほしかったのだろう。
そんなことに考えを巡らせたところで、特定の人物の顔は浮かばない。
おそらく、私は、自分で自分を認めたかったのだ。
他のだれでもなく、自分で自分を。
そうするためには、自分で自分にムチを打って、厳しく頑張るしかない。
その考え方はいまでも変わらない。
自分を認めるために、自分に厳しく。
だから、私は次の高なる目標として、王室からエクセス(※国から与えられる名誉ある騎士の称号)の称号を得ると決めた。
そのために、ここでの日々も耐え忍んでみせようと。
名声高い称号を得さえすれば、次こそは、きっと自分を認めれらるだろうと信じて。
~ 姫エルサ side ~
朝起きたとき、自分が何者なのかだなんて意識はしない。
他人の目もなく、いままで浸っていた神聖な眠りから覚めたときは、純粋な気持ちがまだ残っている気がする。でも、すぐに国を背負う姫という自分の立場や、今日しなければならない責務が頭を駆け巡る。
また始まる一日に、ため息をついてしまいそうになる。
自分が昨日までに背負ってきた重荷を、今日もまた背負い重ねなければならないのだと。
やっときた新しい朝に、ついそんなことを考えてしまう。
昨日までとは違う朝、明日とも違う今日の朝。
それはそうなのだけれど、つねに気を張って忙しく頭を働かせていると、余裕のある考えができなくなる。
永遠のように続く階段を、また今日も一段ずつ登っていくような感覚に襲われる。
登っていく先はモヤに隠れていて、よく見えない。
行先には、一体なにが待っているのだろう。
私はいつまで登り続けなければならないのだろう。
どこを目指して歩んでいけば良いのだろう。
生まれてから死ぬまで終わることのない、この世で一生続く姫としての責務。
そうか、分かった。
一日の区切りとは、私にとっては階段を登っている途中で眠っているような感覚に過ぎないのかもしれない。
登ることに疲れたら、一段上の階段に身をもたれかけて少し眠る。起きたらまた階段を登る。疲れたら、また少し眠る。
それの繰り返し。いままでもそんな感じだった。
ときには立ち止まり、どうして登らなければならないのか考える。
どうして立ち止まっていてはダメなのか。
それらを考え尽くす前に、自分の立場を思い出してまた登り始める。
たまには階段以外の、広く平な場所で思いっきり羽を伸ばして心身ともに解放されたい。
そんなことを考えながら、ベッドから起き上がる。
夢うつつな考えから、一気に現実へと引き戻される。
見慣れた部屋。
生まれてからずっと住んでいる自分の城の、自分の部屋。
広いようで、窮屈な場所。限られた範囲でしか行動ができない。
いきたい方向へ歩んだところで、壁によって阻まれる。
一見すべてが与えられているように見えるのに、自由はない。
あらかじめ決められた範囲のなかでしか生きられない。
動けない。いつだって、ずっしりとのしかかる責任感と閉塞感がある。
部屋だけの比喩ではなくて、なにもかもが。
生まれによって決まった高貴な身分。
その身分を羨む者には決して分からない、私の心。
朝から、そんなことばかりを考えてしまう自分にため息をついて、支度にかかる。
こんなことを考えるずっと前から、もうすでに部屋の扉の前で洗面具を持ったメイドたちが待ち構えている。
待つ人がいるというのは、たまにとても疲れてしまう。
一度でいいから身分を捨てて、自由になりたい。
自由に動きまわれる、平民になってみたい。
そんな願いが国民にバレたら、私はどうなるのだろう。
◇◇◇
メイドたちに着替えさせてもらい、部屋を出る。
騎士団の朝礼に出席するため、大広間を目指す。
向かう途中、廊下の窓を開け放して掃除している小柄なメイドを見た。
近づいてみると、顔には幼さが残り、背丈も私よりだいぶ低い。
ふんわりとカールした淡い色の巻毛に、丸みが残る手。
可愛らしい子だと思って見ていると、私の視線に気が付いたのか、すぐさま姿勢を正して恐縮してしまう。
私はそれを手でやんわりと制して、開け放たれた窓に近づいた。
窓から入ってきた風が私の髪をサラリと撫でる。
朝から渦巻いていた感情が冷やされて、清められたような気持ちになる。
心が一瞬どこかへ退避するような、そんな感覚。
遠くに広がる山々を見て「素敵な日ね」と独り言のように呟いた。
その子は私を見上げて、キラキラとした目で「はいっ」と返事をした。
ただそれだけのことなのに、私にはその子の純粋さが身に染みた。
私は、その純粋な気持ちを一体どこに置き忘れてきたのだろうと思う。
やさしい気持ちが私の口角を上げたのを合図に、大広間へと足を進めた。
去り際にその子の頭にソッと手を置いた、カールした軽やかな髪の毛の手触りが、まるで私の心までもを柔らかくしたようだった。
◇◇◇
大広間にある、突き出したバルコニーの部分から、私は朝の式典を佇んで見守る。
毎朝、決まった時刻に行われる式典。
まずは騎士団の朝礼から始まるいつもの朝。
騎士団長から号令がかかり、それを合図に紺一色に揃った制服を着た騎士たちが動きを揃える。一斉に同じ動きをする様は、まるで泉に落ちた一滴の滴から始まる波及ようだと思う。
そこでは任務報告や、こちら王室からの情報などが発表される。
だが、大切な事柄や機密事項は個人間でしか共有しないため、ここではごく広く浅い情報だけが共有される。
騎士団からの報告として、見張りの範囲を広げた方がいいという意見が出た。
声を張って報告を行う上官を見ながら、私は考える。
見張りの範囲を広げるということは、それだけ多くの騎士が必要となる。
大勢の騎士を配置すればするほど、どうしても個人間の連携が希薄になり、情報が交錯してしまう。
すなわち、スパイ行動などが察知しにくくなる。
外側からの敵を恐れるべきではあるけれど、それ以上に内側の敵を警戒した方がいい。ただ、見張りの範囲を広げるということ自体が、攻めてくる相手に対して抑止力ともなる可能性もある。
一つの物事には、デメリットとメリットがある。
百パーセント善良な人間が存在せず、百パーセント善悪な人間が存在しないように。
完全にそちらの方がいいという選択肢なんて存在しない。
だから、私たちは迷い続けてしまう。
そんなことを考えながら、私は騎士団長の報告を聞いていた。
ふと、騎士団のなかにいる、特定の一人の人物に目を移す。
女性には不可能だと言われていた騎士団への入団を突破した唯一の者。
その噂は王室にもすぐさま共有された。
「ルカという女が騎士団の試験に合格し、入団いたしました。出身は平民であります」
我が国の歴史上、初めて、女性が騎士団に入団した。
その事実が、私の胸を高鳴らせた。
まるで水槽の底に溜まっている砂がかき回されて舞い上がるように。
どうしてだろう。
自分も同じ女であり、国の責任を担っているから?
それとも、立場上だれにも言えない心の奥底の気持ちに触れたから?
どちらにしても、いまは答えを定めることすら許されない。
私はいつものように、舞い上がった砂が静かに底へと沈んでいくのをただただ待った。
統一された騎士団の紺色の制服に埋もれながらも、ルカという女性騎士の燃えるような赤い髪は、どこにいても目を引いた。
ゆるくウェーブした肩につかない程度の赤髪は、まるで風にゆらめく炎のようだと思った。
そんなことを思いながら、さっき廊下で触れた幼きメイドの髪の感触が手のひらに蘇る。
身分や性別の制限すらも超えて、難関な騎士団の試験を通る。
女性でありながら騎士として生きるという、前例のないことを成し遂げるパワーは、いったいどこから湧き出ているのだろうと、私は興味があった。
私も、いつかそんなふうに命を燃やすような、熱い生き方ができるだろうか。
自分の生まれた身分や立場を嘆くのではなく、自分が自分に生まれたからこそ、成し遂げられたことを誇れるような人に、私もなれるだろうか。
そんな思いで赤い髪を見つめていたら、ふとこちらを見上げた貴方と目が合った。
~ ルカ side ~
綺麗な人だと思った。
騎士団の厳しい訓練を経て、城に配属されてから、生まれて初めて姫さまをこの目で見た。
そのときの第一印象がそれだった。
城内のこもった空気のなか、まるで姫さまにだけ清らかな風が吹いているようで。
見るからに高貴な身分だということが全身から分かる。
日光にあまり当たっていない白く透き通った肌に、丁寧に手入れされた滑らかに流れる川のような豊かな茶色い髪。
上質な服を纏っている上辺だけでは決してなく、内側から溢れ出る高貴で上品な佇まい。それら、すべて。
生まれながらにすべてを与えられて、手にしている人。
身分や財産、権力やそのすべて。自分で自分を認めるだなんてことをしなくても、国民から存在を祝福され、認められている人。
生まれながらにして、自分が進むべき道がはっきりと示されている人。
いったい、どんな気持ちなのだろう。
きっと、心も満たされているのだろう、とも。
だが、朝礼や城内でお顔を拝見する回数が増えれば触れるほど、その考えに疑問が浮かぶようになった。いつからか姫さまの凛とした瞳のなかに、孤独を見つめるような、そんな瞳を私は感じとるようになったのだ。
どれだけ大勢のなかにいても、ポツンと一人で孤独に耐えるような、そんな瞳。
私は、そこに一人の人間としての姫さまが現れているようで、そこが気にかかった。
◇◇◇
朝礼を終えると、騎士団の午前訓練がすぐさま始まる。
筋力トレーニングから、基礎的な武道や剣術まで。
さっきまで着ていた標準の行動用の制服から、練習着へと着替えて訓練に向かった。
午前の訓練を終え、額から吹き出してくる汗を拭きながら歩いていると、ロイに話しかけられた。
「おつかれ。相変わらず、自分に厳しいなぁ」
ロイとは騎士団への入団試験の直前に出会い、晴れて二人とも騎士団に入団したため、同期となった。
ブルーがかったようなアッシュな髪色にサラサラの直毛、というのが印象的で、自分のカールした赤い髪と対照的だなと思ったことを覚えている。
「もっと、自分に優しくすればいいのに」
私より十センチほど身長の高いロイが隣を歩きながら、続けて言う。
「エクセスの称号を得るには、いまのままじゃダメだから」
ロイが驚いたような表情でこちらの顔を見る。
「エクセスの称号!? 入団したばかりなのに、もう称号が欲しいのか?」
違う、入団したばかりだからこそ、エクセスの称号が欲しいのだ。
歴史上初の女性騎士、さらには入団早々にエクセスの称号を得る。
そこで私は称賛や喝采を浴びて、満足したい。
「できるだけ早くエクセスの称号を得て、家族を安心させたいから」
私は本心ではなく、耳障りがいい理由を思わず口から出す。
「ふーん。もうすでに親御さんは心底、安心してると思うけどな」
「どうして?」
「だって、自分の娘がこの国の歴史上初の女性騎士になったんだぜ。俺が親なら、もう鼻高々。きっと誇らしいだろうよ」
ロイがおどけながら、鼻に手を当てて、ピノキオのように鼻を伸ばすような仕草をする。嬉しい言葉をかけてもらっているのに、私は素直に喜ぶことができない。
「入団だけでは不十分だもの。名誉あるエクセスの称号を得てこそ、私には意味があると思う」
ロイは、私のことを呆れたよな表情で見ている。
「相変わらずだなぁ。尊敬するのと同時に、俺は心配になるよ。ルカが自分を追い込みすぎててさ」
まるで責められているように聞こえて、私はムッとする。
いいじゃないか、誰かに迷惑をかけているわけではない。
私が私を認めるために、周りから認められるために頑張ることの、一体なにが悪いのだ。
「お、ロイ! 昼飯を一緒に食べないか!」
少し先を歩いていた集団の一人がこちらを振り返って、声を掛けてくる。
「すぐいく!」
ロイは嬉しそうに手をあげて返事をしている。
「ルカも一緒にどうだ?」
さっきまでの居心地の悪いムードなど、まるでなかったかのように、ロイは私にもすぐ声を掛けてくれる。
「ありがとう。でも、図書の本を取りに一度、自室まで帰るから、また今度」
オッケ、とロイはニカッと笑い、親指を軽く立てて、先をいく集団に合流していった。
図書の本を取りに帰るのは、別に今日でなくてもいい。
私は、適当な断る口実を答えたのだった。
それに気が付かないフリをしてくれているのか、気にしない性格なのかは分からないが、どちらにせよ、さっぱりとしたロイの性格に救われていた。
いったん部屋に帰るとロイに伝えてしまった手前、変なところで出くわしては面倒だと思い、私は本当に一度、部屋へと帰った。
城から騎士館の自室まではほんのすぐの距離だ。
緊急時などに城へ騎士たちがすぐさま駆けつけられるよう、騎士団長の館は城に隣接され、私たち騎士が寝泊まりする騎士館もすぐそばに建てられている。
入団した騎士たちは、それぞれの母国語などによって住む館が振り分けられ、一人一室、広くはないが狭くもない簡素な部屋が割り当てられていた。
先週の休日に街で購入して保管していた硬いパンとチーズ、それに塩辛いハムという簡素な昼食を自室で摂ってから、本を持ち、部屋を出る。
騎士館で挟まれた石畳の路地にコツコツという足音を響かせながら、城内にある図書室を目指す。
本が好きな姫さまのご意向で、城の関係者ならだれでも、たとえそれが掃除係やメイド、シェフたちであっても本を借りられる。
いつかの朝礼では、いずれ国の財力が高まったら、平民たちが自由に使用できる図書館を創設すると姫さまは宣言していた。
◇◇◇
図書室の扉を開ける。
開けた途端に、こもった室内特有の空気と共に、ムアっと重厚な本たちの匂いが押し寄せる。
歴史が詰まった空間。私はここの図書部屋が好きだ。
大抵、人はおらず、まるで時が止まったように、静かな空気だけが充満するこの空間が。いつも気を張っている騎士団の時間とは違い、自由に呼吸ができるような感じがする。それは実戦練習での重たい甲冑を脱いだときの開放感にも近い。
借りていた本を元の場所に戻し、新たに読む本を探求する。
午後の訓練まではまだもう少し時間があるので、ゆっくりと本棚を散策できそうだ。
私は等間隔にずらっと並んだ本棚を縫うように歩く。
ふと、人の気配を感じた。
部屋に入った瞬間には誰もいないと思っていたが、いまはどこかに人の気配がする。
床には絨毯が敷き詰められているため、足音は立たないが、布の擦れるような微かな音が耳に入った。
聞き間違いかもしれないと疑いながらも、神経を研ぎ澄ます。
大体の位置を予測して、息を潜めながら近づく。
本棚に背を当てながらそこに近づき、そっと裏側の本棚を覗き込む。
すると、しゃがみ込んだ姫さまと目が合った。
「っ、姫さま!?」
まるで、かくれんぼをしている子どものように、本棚の影に隠れてしゃがむ姫さまの姿があった。白いワンピースを膝裏に織り込んでいることからして、身を隠そうとしていた意図が汲み取れる。
たがいになんと声をかけて良いのか分からず、気まずい空気が流れる。
「大丈夫ですか、どこかお身体でも……」
私がそう言いかけると、姫さまは慌てて立ち上がり、ワンピースの裾を直しながら、しどろもどろになって誤魔化す。
私の方がやや高い、五センチほどの身長差。伏せ目がちにした瞳を彩る長いまつ毛、少し赤くなった鼻先、高揚した桃色の頬などその細部のすべてが瞬時に脳裏へと焼きつく。
「ちがうの、誰かが入ってきたと思って反射的に隠れたら、出るに出られなくなってしまって」
頬と同じほど色鮮やかな、ふっくらとした唇が言葉を紡ぎ出す。
間近で聞いた声は、どこまでも安らぎに浸れそうなほど奥深い好きな声だった。
姫さまはぎこちなく笑いながら、まだワンピースの裾を直している。もうすでにワンピースは直っているのに。
「このまま出ていくまでやり過ごそうとしていたのだけれど、さすがね。誤魔化せなかった」
そう言って、まだ目が合わない。
こんなに近くで姫さまに会うことも、ましてや直接話すことすら初めてだった。
近くで見る姫さまは、少女のようでありながら、ときに女神のような大きななにかを感じさせる。髪の毛は光を反射して輝いており、白いワンピース姿は、まるでこの世に降り立った天使のようで神話の絵画を彷彿とさせた。
一度触れて仕舞えば、その瞬間に空気に溶けて蒸発してしまうのではないかと真剣に思ってしまうほど、どこか不思議な感覚だった。
他の人とはちがう。
明らかに、そう感じた。
「申し訳ございません」
無礼な行為に当たるのではと思い、口から謝罪の言葉を出す。
「どうして謝るの? 私が勝手に隠れたのだから、謝らないで」
姫さまそう言いながら笑って、私を見る。
目が合った。
吸い込まれそうなほどの目。
瞳に力がある。
少し見つめ合うだけで、こちらが固まってしまいそうなほどの目。
瞳に世界が広がっているような、光の加減で瞳孔が動き、まるで瞳が一つの生命体のようだと思った。
それほどに、私はその瞳に魅せられてしまった。
私がなにも言えずに立ち尽くしていると「初めて会えたわね、ルカ」そう名前を呼ばれて、ハッと我に返る。
「私の名を?」
姫さまはやさしく頷きながら、続ける。
「我が国において史上初の女性騎士ですもの。知っていて当然」
姫さまが喋るたびに、口から花びらがこぼれ落ちているのではないかと錯覚するほど、どこまでも厳かで柔らかい声と口調が鼓膜を震わせる。
ずっと聞いていたいと願うように、その声がまた聞きたくて、私は返事をする。
「それは……この上ない光栄です」
騎士団伝統の敬礼をしてから、右手を左胸に当て、姫さまに頭を下げる。
『その姿勢には、自分の忠誠を貴方様に捧げるという意味が込められている。それ故、剣を握る右手を心臓の位置に持っていくのだ』と書物に記されていた一節を思い出した。
そんなことを思い出していると、頭上から姫さまの無邪気な笑い声が聞こえてきた。なにかと思って視線だけを上げると、おかしそうに笑っている姫さまが目に入る。
好意的な笑い方だった。
「貴方、思ったより真面目で面白い人なのね」
目の淵に溜まった涙を指で拭いながら、姫さまが言う。
「朝礼のときに貴方のことを見ていて、クールそうな人だなって。そしたら、いい意味で違った」
今度は少しだけ真剣な表情に戻って姫さまが、そう言う。
「まさか、こんなところでお会いできるとは思っておらず、心づもりが」
一気に砕けた雰囲気に、つい私も姿勢を崩し、恥ずかしさを誤魔化すため自然と自分の右手で後頭部の髪の毛に触れてしまった。
すると、フワッと姫さまが近づいてきて、私の髪の毛に触れた。
「燃えるような赤髪。ずっと触ってみたかった」
姫さまの瞳が、すぐそこ、間近にある。
私の耳元でそう優しく囁いたかと思えば、図書部屋の扉を開けて去っていってしまった。
まるで、風が通り抜けたかのように。
いままで見ていたものはすべて夢だったのではないかと思った。
うたた寝をしていて見たつかの夢だったと言われても、信じてしまうほど一瞬の出来事。
でも、たしかに私の鼻腔には姫さまの香りがまだ残っている。
それはまるで春風のように、甘くて穏やかな匂いだった。
◇◇◇
午後の訓練は、あまり記憶にない。
流れ作業のように体が覚えているままにこなしていたら、今日の訓練がすべて終わっていた。交代制で担当する城の夜間守衛ではないため、騎士館の自室に帰る支度をする。
いつもなら城内にある訓練室で自主的な筋力トレーニングを行い、さらには水泳室で泳いで肉体を鍛練してから帰宅するのだが、今日はとてもそんな気分になれなかった。
昼間に出会った姫さまとのやり取りを何度も思い返してしまう。
姫さまが目の前にいたこと、私の名前を知っていたこと。髪の毛に触れられたこと。
家に帰ってからも頭から離れず、なにを食べたか、味すら朧げな騎士館の食堂での晩の食事の後、ただそれらすべてを反芻しながら眠りに落ちた。
朝、目が覚める。
いつもとなんら変わらない、特別な行事がある日でもないのに、昨日とはなにかがハッキリと違う。
まだぼんやりした頭でそれがなにだったか思い出そうとする。
すると、間近でみた姫さまの瞳を思い出した。
そこばかり反芻してしまうからか、あの瞬間が永年のように長い時間だったと錯覚してしまうほど。
瞳自体が命を宿した一つの生命体のように動いていた。
揺れ動きながら、それでも私だけを捉える意思の持った目。
自由で気高い。
そんなことを思い出しながら、身体を起こす。
いつもと変わらない朝の支度。
それなのに朝食の味さえも違って思えるのはなぜだろう。
毎日、同じように繰り返される朝に、一体どんな意味があるのだろうなんて思っていたのに。顔を洗う水さえも愛おしく、その清らかな美しさに気がつくなんて。
いつもより時間をかけて身支度をし、騎士団の制服に袖を通す。
鏡に映る自分を見ながら襟を正して、髪の毛を整える。
そのとき、昨日姫さまが触れたのと同じ箇所の髪の毛にふと自分で触れる。
鏡に映る自分の姿でその動作を改めて認識し、そんな自分に驚きながら、自室の扉を開け、また城を目指して石畳を歩き始めた。
草木は若々しく輝いており、それらを風が踊らせる。
新芽が鮮やかな生命力あふれる緑を惜しげもなく覗かせるその隣では、蕾から花ひらいた小さな花々が誇らしく朝日を浴びて輝いていた。
いままで何十回、何百回と同じ道を歩いていたのに、そんな足元の変化に気づかず、意識すら向けていなかったのだ。
そんな自分が信じられないと思うほど、いまでは世界のどんな小さなことにでも愛おしいと感じる。
そんな自分の足取りが軽いことをも自覚しながら石畳を踏み締める。
あんなにもウンザリしていた朝礼を心待ちにしている自分がいた。
~ 姫さま side ~
大胆なことをしてしまった。
図書館の扉を閉めて廊下に出てから、思わずその場にしゃがみ込む。
手のひらを見ると、両手が小刻みに震えている。
興奮と恐れが入り混じったような感覚をなだめようと、両膝を抱くように顔を埋めて息を深く吐く。
こんな姿を誰かに見られたらと思い直し、すぐさま立ち上がって自分の部屋へと急ぐ。
感情が目まぐるしく交錯していて、さっきの出来事を思い出しながら口元が綻んだり、それらを振り払うように首を振ったりと忙しなく表情に出てしまう。
廊下の角を曲がると反対側を歩く爺やが目に入った。悟られぬよう、少し俯きながら意識して真顔をつくる。
「お疲れ様でございます。姫さま、なにか御用はありませんか」
私の姿を確認するやいなや、爺やが頭を下げる。
すぐに頭を下げる様子に、自分の表情を間近で見られていないという安堵感が胸に広がる。
「ご苦労さま。特に用事はありません。私は、これから夕食の時刻まで自室で勉強をします」
いつもと声色が変わってしまわないよう意識しながら、澄ました声で爺やに告げる。
「かしこまりました。では、くれぐれもお疲れが出ませんように」
チラッと目があったのを最後に、また爺やが頭下げる。
それに微笑みながら軽く頷いて答え、自室の扉を開ける。
私が部屋に入り切るまで見送ってくれる爺やの存在を背中に感じながら、扉を閉め切る。
部屋に入った途端、またドッと感情の波が押し寄せてきた。
はじめて近くでルカを見た。
同じ騎士団の制服に身を包んだ群衆の中でも一際目を引く燃えるような赤髪。
凛とした視線にスラッとした体格。
朝礼では、笑顔などもちろん見たことがなかった。
そのせいか、勝手にクールな人物なのだろうという印象を抱いていた。
だが、実際に間近で言葉を交わしたルカはもっと柔らかい印象で、まるで包み込むような優しい笑顔をつくる人だった。
「触っちゃった」
自分しかいない部屋に、自分の声がそのまま響く。
自分にしか聞こえないような小さな声で呟いたつもりだったが、その言葉だけでがやけに頭に反芻して、大きな声になっていたのではないかと不安になる。
少しでも落ち着こうと窓に面した机まで歩く。
机の椅子を引いて静かに腰を落として座る。
手のひらを見る。
いままで無意識に力が入っていたらからか、真っ白なところと赤いところがおり混ざっている。
それで全身に力が入っていることに気がついて、フゥーと息を長く吐く。
我ながら大胆なことをしてしまったと思いながら、変に思われていないだろうかと、図書部屋での一部始終を思い返す。
いままで全身がこわばっていた分、机に突っ伏す。
姫らしくない、年相応の一人の女の子のように、だらしない体勢になってしまった。
机の木の匂いがする。
幼少期から嗅いでいる慣れ親しんだ匂いが心を解けさせる。
目を閉じてもう一度、最初から細かいところまでを思い出す。
燃えるような髪色、凛とした眼差し。
すらりとした体格。
冬の朝にピンと張り詰めた空気のようにスッキリと澄んだ声。
そのどれもが、あの瞬間だけは私に向けられたものだったと一種の満足を覚えてしまう。
「素敵な人」
つい口からこぼれ落ちた言葉もまた、部屋にただ消えていった。
◇◇◇
知らないうちに寝てしまっていたようで、目を開けると夕日が差し込んでいる。
あっ、と思って身体を起こすと首が痛い。
机に突っ伏した格好で寝てしまっていたため、全身があちこち痛む。
夕食の時間を過ぎてしまっただろうかと思った矢先に、城内に鐘が鳴り響いた。
ちょうど夕食の時間だ。
そんなにも長い時間を寝てしまっていたのかと思いながら、急いで晩餐室へと向かう。
姫である私自身が急ぐ必要はないと思いながらも、晩餐室につく。
相変わらず、大きなテーブルに私一人分のカテラリーが用意されているだけだ。
席につくと爺やがスープを持ってきてくれる。
湯気が出ているスープにスプーンを通す。寝起きにはちょうどいい優しい味がした。
「ここのところ、お疲れだったようなので心配していました」
あっという間に飲み干したスープの皿を下げながら、爺やが言う。
「どうも眠たくて、困っちゃう」
そんなときは無理をせず、しっかりと食べて眠ることが一番です、と次の料理の準備をしながら爺やが言う。説教臭くならないよう、いつもさり気なさを演出して言うのが爺やの言い方だった。
たまに夜に寝付けないことがある。
寝ようとすればするほど、頭が働いてしまって、苦しい瞬間。
でも、そんな苦しい瞬間からいつの間にか解放されるかのように寝付けた夜明けはホッとする。
いつもより朝が神聖なものに思え、眠ってまた起きられることにすら感謝するのだ。
自分がこの世を去るときも、こんな感じだったら良いのになと思ったことがある。
まどろみながら、夢かうつつかわからないような状態で、最後は解放されたように眠りにつく。
そんなだったらいいのに、なんて。
「ごちそうさま」
最後のデザートワインを飲み干して、ナプキンで口を拭く。さて、と席を立とうとしたとき「夜はちゃんと、ベッドでおやすみになったほうがいいですぞ」爺やが自分の右ほっぺたを指で差しながら、茶目っ気たっぷりな表情で言う。
あっ、と思って私は自分のほっぺたを手で隠す。
机に突っ伏して寝ていた跡が残っていたのだ。
「ほんとね」
私も思わず笑いながら爺やに返す。
こんなにも砕けたやり取りができるのは、もはや爺やだけだった。
私にとってそんな些細なことですら、心の救いになっていた。
「おやすみなさい」
口元に笑みを残したまま、爺やにそう言い残して私は自室へと戻る。
あたたかな光が灯った晩餐室を出ると、暗くひんやりと冷たい空間が広がる。
冷たい空気で満たされたホールにある大理石の階段を登る。
階段を登るとき、私はいつも孤独を感じる。
毎日、一人で登り続ける階段。
その先になにが待っているのか、どこに繋がっているのかすら分からない。
一寸先にはもう階段がないかもしれない。
それでも、私たちは一段一段、日々を登り続けなければならない。
それが生きるということだから。
そんな永遠のように続く階段を、もし誰かと一緒に登れたら。
心だけでも軽くなるのだろうかなんてことを考えながら、私は自室へと歩いた。
~ ルカ side ~
姫さまに会える。
そう思っただけで自然に心が浮き立つ。
だが、わずかに残った冷静な頭で考える。
どうして私は、姫さまに会えるのが嬉しいのだろうと。
この国で一番の権威ある方に特別、認められたいという気持ち?
それとも、愛国心からなのだろうか。
私は、この気持ちを明確に表現することが自分に対しても出来なかった。
だが、いま目の前にある現実が楽しくてたまらない。
姫さまと自分の関係が今後どう変化していくのか。
もっと近づいてみたい、もっと話してみたい。もっと。
この気持ちが一体なになのか分からないが、いまは純粋に、ただその先を見てみたいと願う。
朝礼の時刻が近づいている。
あんなにもうんざりしていた朝礼を心待ちにしている自分に自分で驚いた。
ただ、そんな心のうちを悟られぬよう、表情には出さずに騎士団員の群衆に埋もれるように整列する。
大広間のバルコニー部分から今日も変わらず、朝礼を見守る姫さまの姿がある。
真面目に朝礼に参加している姿を装いながら、チラチラと盗み見てしまう。
だが、まるで昨日の出来事は私しか見なかった夢であるかのように、寸分も姫さまがこちらを意識することはなかった。
あの瞳に自分が映ることはなく、自分に向けられることすらなかった。
あらためて、姫さまが座る遠く高くに聳え立つバルコニーと、私がただポツンと立つ群衆との遥か遠い距離を痛感した。
私が勝手に思い上がっていただけなのだ。
姫さまから偶然手を握ってもらった国民が一生の思い出としてそれを周囲に自慢するように、私も騎士団員とは言え、城にお仕えする群衆に埋もれる内のただ一人でしかない。
さっきまでの浮かれた気分に自分で水を差し、浮き足だった気持ちを抑え込んだ。勘違いしてはいけない。
騎士団長の勇ましい号令で朝礼が終わる。
私は勝手に思い上がっていた。
「燃えるような赤髪、ずっと触ってみたかった」そう言ったとき間近にあった姫さまの瞳。
光が透き通った水面のようにキラキラと瞳自体が煌めいていた。
あのときの、なんとも形容し難い感情の昂りは自分だけだったのだと、そんな事実に落胆する。
だが、これで良い。
当たり前だ。姫さまと私とでは住む世界が違う。
身分などでは言い表せられないほど、生まれた世界が違う。
なにを思い上がって言っていたのだ。
だから、これでいい。
必要以上に近づかず、期待せずに淡々粛々と。
諦めにも近い感情でそう思い直して、私は午前訓練へと向かった。
~ 姫さま side ~
朝礼に出席する。
大広間のバルコニーから騎士団の群衆を見下ろす。
統一された紺色の制服のなかに燃えるような赤い髪。
どこにいても、なにをしていても、私の意識がそこに行ってしまう。
視界の端でその存在を感じながら、私は断じてルカの方を見ないように務めた。
いまならまだ戻れる。
なにもなかった元のように。
時間が経てば、あの感情もいつか忘れる。
いずれ時が持ち去っていくだろう。
そんなことを考えながら、意識していないと視線をついルカへと落としそうになってしまう。
いま貴方はどこを見て、何を考えているのか。
私のことを見ていたりする? それとも?
この握った手のひらに、あの燃えるような赤い髪の感触を思い出す。
それと同時に全身の血流が一気に頭に上り、顔が熱くなるような気すらした。
大胆なことをしてしまった自分が手にした、経験への歓喜と恐れ。
私が生まれたこの立場では、自分の感情を全面に押し出すことなど許されない。
まだ、いまなら元に戻れる。
ルカを目の前にして話しているとき「素敵な人だな」と思った。
直感にも近いような、魂の叫び。
生まれてきてから初めて抱いた言葉では上手く説明できない強い感情。
この人のことをもっと知りたい。もっと話したい。
大胆にも髪に触れてしまった以上、その場にはいられず図書部屋をあとにした。
私はどう立ち振る舞えば良いか分からなくなってしまって、胸の鼓動が心臓を突き破って体から飛んでいってしまうのではないかと思った。
でも、私はあれ以上にどうすることができたのだろう。
そんなふうに心を忙しく動かしていたため、朝礼会の内容はあまり覚えていない。
騎士団長の号令で朝礼が終わり、今日も一日が始まる。
自分の立場を考え直し、しっかりせねばと自分を律して大広間をあとにした。




