第2話 聖女像が崩れた日
「……えっと……その……」
合同討伐の翌日。蒼玉騎士団は、野営地に留まっていた。
報告書の整理、備品の確認、負傷者の経過観察。
――つまり、胃が痛くなる作業の時間である。なお、原因は魔物ではない。
焚き火の前。蒼玉騎士団の聖女、エリシアは、小さく息を吸ってから口を開いた。
「聖女、というのは……その……ああいうもの、なのでしょうか……?」
声は控えめで、遠慮がちで、まるで小鳥が枝先で首を傾げるような調子だった。
蒼玉騎士団の騎士たちは、全員、ぴたりと動きを止めた。
エリシアは十八歳。聖女に任命されて、まだ一年も経っていない。
治癒も浄化も正確で、詠唱も安定している。優秀ではある。
だがそれは、“聖女として模範的な優等生”という意味であって――
「……聖女って……」
膝の上で指を絡め、エリシアは虚空を見つめる。
「……どういう、存在なのでしょうか……?」
聖女とは、前に出る存在ではない。後方から状況を見て、判断し、支える存在だと。
少なくとも――エリシアは、そう教わってきた。
だが、今日一日で、彼女の中にあった“聖女像”は、音を立てて崩れ去った。
***
「前へ出ろォ!!その筋肉は飾りか!」
思い出すだけで、耳が痛い。
「ほら行け!!大腿四頭筋が泣いてるぞ!!」
あれは、本当に聖女の声だったのか。
白を基調とした聖女服を翻し、誰よりも前線に立ち、魔物の群れに向かって叫び、即座に回復処置を判断する。
「治癒。骨折一、筋断裂二。行動継続に問題なし!」
「ありがとうございます!!」
数で告げられる回復。
そして――その声に、感極まった顔で突撃していく鋼鉄騎士団。
蒼玉騎士団の騎士たちの脳裏には、白衣の裾と、怒号と、筋肉という単語が、ぐちゃぐちゃに絡まって焼き付いていた。
***
「……私も……」
エリシアは、そっと自分の細い腕を見下ろした。
「……前に、出なければ……いけないのでしょうか……?」
その瞬間。
「ダメです!!!!!!」
蒼玉騎士団が、ほぼ反射で叫んだ。
――違う。
――そういう意味ではない。
――誰も、そういう聖女像を求めていない。
全員の脳裏に、鋼鉄騎士団の聖女の姿がよぎる。
怒号。筋肉。折れた骨は治るという断言。
あれを。
あれを、エリシアに?無理だ。
「お、お願いですから……」
「そのままでいてください……!」
「今のままで、十分すぎるほどです……!」
必死すぎる声だった。
「え……で、ですが……」
エリシアは戸惑いながら言う。
「鋼鉄騎士団の聖女様は……」
「あの方は例外です!!」
「特異点です!!」
「参考にしてはいけません!!」
即答だった。しかも全員一致。
「……そ、そうなのですか……?」
エリシアは小さく首を傾げる。
「わ、私は……聖女に、ずっと憧れていて……」
声は小さく、震えている。
「困っている方を、後ろから支えて……皆さんが無事に帰ってくるのを、見守る……そういう存在だと……」
蒼玉騎士団の騎士たちは、深く頷いた。
「それでいいんです」
「それが正しいです」
「理想です」
全員、本心だった。
「……でも……」
「でもも何もありません!!」
一人の騎士が、震える声で言った。
「もし、エリシア様が……」
「前に出て……」
「怒鳴って……」
「筋肉とか言い出したら……」
想像。
「…………」
全員、無言で首を横に振った。
「精神が耐えられません」
「心が折れます」
「我々が」
「……あ」
エリシアは、はっとして目を見開いた。
「それは……折れてはいけないのですね……?」
「はい!!」
「絶対に!!」
そのとき。
「おや?」
柔らかな声が、焚き火の向こうから届いた。
「どうされました?」
噂の張本人――
鋼鉄騎士団の聖女、リリアーネが、ひょこっと顔を出した。
可憐な微笑み。穏やかな声。
蒼玉騎士団の空気が、一瞬で凍った。
――来た。
――まずい。
――想定外。
「い、いえ!!」
「全く!!」
「何でもありません!!」
全力で否定する騎士たち。
つい数刻前まで、怒号を戦場に響かせていた人物とは、とても同一とは思えない。
だが、エリシアは、慌てて立ち上がった。
「あ、あの……!」
「はい?」
「私も……あのように、振る舞うべきなのでしょうか……?」
その言葉にリリアーネは、きょとんとした。
「……あのように?」
「前に出て、声を張って、筋肉を……」
数秒の沈黙。そして。
「ああ!」
ぽん、と手を打つ。
「いえいえ。そんな必要はありませんよ?」
「えっ……?」
「私は……前に出ないと、間に合わないだけなので」
リリアーネの言葉を聞いたエリシアは、目を見開いた。
「……では……」
「はい」
「私は……?」
リリアーネは、にこりと微笑んだ。
「あなたは、あなたの位置で、見て、判断して、支えてくだされば、それで十分です」
蒼玉騎士団が、心の底から安堵した。
「ありがとうございます……!!」
「本当に……!!」
「助かりました……!!」
リリアーネは、少し不思議そうに首を傾げる。
「……そんなに、大変そうでしたか?」
「……ええ、とても」
エリシアは、小さく息を吐いた。
「聖女とは……ひとつの形では、ないのですね……」
ぽつりとこぼれたエリシアの言葉に、リリアーネは、にこりと笑った。
「ええ。それぞれ、できることが違うだけです」
そして、少しだけ楽しそうに。
「ただ―― 筋肉は、裏切りませんけどね」
「そこは揺るがないのですね!?」
場が、わずかに和んだ。
――そのはずだった。
***
エリシアは、少し離れた場所から、リリアーネを見ていた。
迷いなく。自然体で。誰かを鼓舞することも、支えることも、すべてを当たり前のようにこなす姿。
その視線が――
気づけば、きらきらと輝いていた。
すごい……
あんな聖女も、いるんだ……
私も、いつか……
その瞬間。
蒼玉騎士団の騎士たちは、全員、同時に理解した。
――まずい。
誰も言葉にしない。
だが、視線だけで通じ合う。あの目だ。完全に、憧れている。
純粋で素直なエリシアの価値観が、ここでひっくり返ってしまったら――まずい。
誰かの脳裏に、最悪の未来がよぎった。
将来、鋼鉄騎士団の聖女のようになってしまったら、どうする。
前に出て。怒鳴って。筋肉とか言い出したら。
……無理だ。
だが。
落ち着け。
考えろ。
世の中には、「吊り橋効果」というものがある。
極限状態で感じた動悸や高揚を、本来とは別の感情――たとえば恋愛などと、人は簡単に錯覚してしまうらしい。
ならば。
今日、エリシアが感じたこの「すごい」「かっこいい」という気持ちも、本当に尊敬なのだろうか?
討伐で響いた怒号。
圧倒的な存在感。
戦場で浴びた衝撃。
あのときの胸の高鳴りを、尊敬だと“思い込んでいる”だけではないのか。
……きっと、そうだ。
恋愛に錯覚することがあるなら、尊敬に錯覚することだって、あっていいはずだ。
鋼鉄の聖女は、うちの蒼玉の聖女には刺激が強すぎた。
誰かが、さりげなく一歩前に出た。
誰かが、自然な動作でエリシアの視線を遮るように立った。
エリシアは、きょとんとする。
「あ……?」
そして蒼玉騎士団は、心の中で固く誓った。
――二度と、
――不用意に、
――鋼鉄騎士団の聖女に近づけてはならない。
その誓いが、後に「非公式・鋼鉄の聖女接触回避ルール」と呼ばれることを、
この時点では、誰も知らない。
読んでいただき、ありがとうございます!




