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第6話:死の世界に隠された生命の園

 目の前の光景が、僕の脳の処理能力を一時的に飽和させた。

t目の前の光景が、僕の脳の処理能力を一時的に飽和させた。

 死と汚染に満ちた〈滅びの森〉。そのど真ん中に、こんな場所が存在するなど、誰が想像できただろうか。

 結界の穴から流れ込んでくる空気は、澄み渡り、生命の匂いに満ちている。僕のスキルが感知する微生物の生態系も、森の外とは全くの別物だ。汚染に適応した歪なものではなく、健全で、多様性に満ちた、完璧なバランスで成り立つ生態系。


「……人工的に作られた、閉鎖生態系(バイオスフィア)か? あるいは、古代の魔法によって保存された、汚染以前の自然そのものか……?」


 無数の仮説が、頭の中を駆け巡る。どちらにせよ、これは学術的に計り知れない価値を持つ、第一級の発見だ。

 危険を冒してでも、中に入る価値はある。いや、科学者として、入らねばならない。


「マッシュ、先行して内部を偵察。ただし、絶対にそこの植物や生物には触れるな。未知の生態系に、僕たちが不用意に干渉するわけにはいかない」


 僕の命令を受け、マッシュはその不定形な体を慎重に結界の穴から滑り込ませた。彼の菌糸が、内部の地面や空気に触れ、その情報を僕に送ってくる。

 ―――危険性なし。敵対的な魔力反応なし。空気成分、清浄。


「よし、僕たちも続くぞ」


 俺は光学迷彩の外套を深くかぶり、フロートを伴って、聖域へと足を踏み入れた。

 結界をくぐった瞬間、世界が一変した。

 外の森の、あの鼻を突く異臭と、常に肌を刺すような魔力瘴気が嘘のように消え去る。代わりに、湿った土と、青々とした草の匂い、そして微かに花の蜜のような甘い香りが、僕の肺を満たした。

 足元の地面は柔らかく、空を見上げれば、結界の向こうの淀んだ空ではなく、まるで本物のような青空が広がっている。おそらく、これも結界による光学投影だろう。


 僕たちは、息を潜めながら、中央にそびえ立つ巨大な世界樹を目指して進んだ。

 周囲の木々になる果実は瑞々しく、小川を流れる水は水晶のように透き通っている。時折、見たこともない美しい蝶や、小鳥たちが僕たちのそばを通り過ぎていく。

 だが、この完璧すぎる自然に、僕は逆に言いようのない違和感を覚えていた。

 あまりにも、整いすぎているのだ。捕食者もいなければ、病に倒れた植物もない。まるで、箱庭の中で、徹底的に管理された楽園のようだ。


 やがて、僕たちは世界樹の根元にたどり着いた。

 そこには、木の根や幹と一体化するように、優美な曲線を描く建物が寄り添うように建っていた。蔦が絡まり、壁には苔が生しているが、明らかに人の手によって作られたものだ。おそらく、エルフ族の建築様式だろう。

 人の気配は、ない。静寂だけが、この場所を支配していた。


 僕は建物の入り口に、慎重に近づいていく。

 そして、その入り口のすぐそば、世界樹の太い根に寄りかかるように、倒れている人影を発見した。


「……!」


 息を呑む。

 それは、長い耳を持つ、エルフの少女だった。

 歳は、人間のそれに換算すれば、十五、六といったところだろうか。陽の光を吸い込んだかのような金色の髪が、地面に力なく広がっている。白い簡素な衣服を身につけ、その顔立ちは人形のように整っていたが、血の気は失せ、陶器のように青白い。

 浅く、不規則な呼吸を繰り返しており、その身が衰弱しきっているのは明らかだった。


 助けるべきか? いや、そもそも僕に助けられるのか?

 普通の人間なら、ここで駆け寄り、声をかけたりするのだろう。

 だが、僕が取った行動は、それとは全く違っていた。


 僕はまず、彼女から数メートル離れた物陰に身を隠し、スキル【菌界創生(マイコジェネシス)】の感度を最大まで引き上げた。

 僕の目的は、救助ではない。分析だ。


「……なるほど。これは……」


 スキルの解析によって、彼女の体の状態が、僕の脳内に詳細なデータとして流れ込んでくる。

 まず驚いたのは、彼女の体内に満ちる魔力の質だ。極めて純度が高く、清浄。この聖域の自然そのものを体現したような、美しい魔力だ。

 だが、その美しい魔力の中に、異物が存在した。

 黒い、染みのような影。それは、ウイルスとも細菌とも違う、魔力に寄生する性質を持つ、未知の微生物だった。

 この微生物は、外部の森に満ちている汚染物質とは全くの別物だ。むしろ逆。汚染された環境では生きられず、彼女のような清浄な魔力だけを餌として増殖する、極めて特殊な病原菌。


 そして、僕は理解した。

 この聖域を外界から守る結界は、同時に、彼女たちをこの聖域に閉じ込める檻でもあるのだ。

 おそらく、この病は、この聖域の内部で発生したのだろう。そして、外部の多様な菌類や微生物と触れることなく、あまりに清浄な環境で生きてきたエルフたちには、この未知の病原菌に対する免疫(抗体)が、全く存在しない。

 完璧すぎた生態系が、逆に彼女たちの命を蝕んでいる。なんと皮肉なことか。


 僕は、どうすべきか、思考を巡らせる。

 このまま彼女を見捨て、この聖域のサンプルだけを採取して立ち去る。それが、最も合理的で、安全な選択肢だろう。僕には、見ず知らずの他種族を助ける義理も義務もない。


 だが……。


「……これほどの貴重なサンプルを、みすみす失うのは、科学者として耐え難いな」


 僕の口から、本音が漏れた。

 このエルフの少女。清浄な環境で育ち、未知の病に侵されている、唯一無二の生体サンプル。

 この未知の病原菌。清浄な魔力だけを餌とする、新種の微生物。

 この二つが織りなす症例は、僕の研究者としての探求心を、どうしようもなく刺激してやまない。

 この病を、僕のスキルで治療できるのか?

 僕が森で培養した様々な菌類の中に、この病原菌に対する特効薬(抗生物質)となるものは存在しないか?

 これは、僕の【菌界創生】というスキルの可能性を試す、最高の実験(チャレンジ)ではないか。


 リスクはある。だが、得られる学術的成果(リターン)は、計り知れない。

 決断に、時間はかからなかった。


「……よし、決めた」


 僕は外套の光学迷彩機能を解除し、ゆっくりと物陰から姿を現した。

 僕の気配に気づいたのか、エルフの少女が、うっすらと瞼を開けた。その翠色の瞳が、弱々しく僕の姿を捉える。

 彼女の瞳に浮かんだのは、安堵や希望ではなかった。

 見たこともない、奇妙な装備を身につけ、得体のしれない雰囲気を纏った男。そんな闖入者(ちんにゅうしゃ)に対する、純粋な恐怖と警戒の色だった。


 僕は、そんな彼女の視線など意にも介さず、ただ冷静に、観察対象(ペイシェント)を見つめる研究者の目で、彼女を見下ろした。


「初めまして、かな。どうやら君は、僕にとって、非常に興味深い研究対象のようだ」


 僕の呟きは、助けを求める少女にかける言葉としては、あまりにも不適切だったかもしれない。

 だが、それが、僕という人間の、偽らざる本質だった。

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