表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

31/39

第31話:手術台の王と、最後の希望

 玻璃の豹を乗せた緑のゆりかごは、森の中を滑るように進んでいった。シルヴァンが操る蔓は地面の凹凸や木々の障害を、まるで揺りかごをあやす母親のように巧みに避け、患者に一切の振動を与えない。それは神聖な儀式を思わせる、静かで、荘厳な帰還の行列だった。


 研究所に到着した我々は、眠る豹をあらかじめ準備しておいた一室へと運び込んだ。そこは俺がこの日のために設えた、即席の「手術室」。壁も、床も、抗菌作用を持つ白い菌糸で隙間なく覆われている。天井からは、手術に十分な光量を確保するための発光ゴケが、青白い光を放ちながら、いくつも吊るされていた。


 豹が部屋の中央に設えた柔らかな苔のベッドの上へと静かに横たえられると、俺はミリに麻酔胞子の効果が切れないよう定期的に追加投与するよう指示した。彼女はもはや俺の有能な麻酔科医だった。


「本格的な治療(オペ)の前に、より詳細な最終診断を行う」

 白衣代わりのコートを羽織った俺は、まずマッシュによる超音波診断を始めた。マッシュがその体を薄いゼリー状の膜に変形させて豹の腹部をそっと覆い、内部の立体映像を俺の脳内へと映し出す。「……やはり内臓の機能もかなり低下しているな。特に魔力を循環させる心臓に似た器官の動きが極めて微弱だ。遺伝的欠陥が全身に及んでいる証拠だ」俺はスクリーンに映し出された弱々しい心拍の波形を見ながらミリに解説した。


 次に俺は滅菌した菌糸のメスで豹の皮膚をごくわずかに傷つけ、血液と組織のサンプルを採取した。それを顕微粘菌で数万倍に拡大して分析を進める。

「見ろミリ。これが君たちの聖域が抱える病の正体だ」

 俺が指さした映像には、いびつな形をした魔力細胞が映し出されていた。そして、その細胞膜に突き刺さるように形成されている、微細な結晶構造。「本来ならば体毛の強度を保つために制御されるべき結晶化のプロセスが、遺伝子のエラーによって暴走している。体中のありとあらゆる細胞でこの無意味で有害な結晶化が起きているのだ。これでは細胞は正常な機能を維持できない。ゆっくりと内側から体がガラスに変わっていくようなものだ」


 ミリは衝撃的な映像と俺の冷徹な解説に息を呑んだ。彼女はこの豹の苦しみの正体を、初めて視覚的に、そして論理的に理解したのだ。


「……もう時間がない。これ以上躊躇している暇はないな」

 俺は最終診断を終えて決断を下すと、研究所の最も厳重に保管されていた一本の注射菌を取り出した。その中には、淡い虹色に輝く液体、俺がこの豹のためだけに調整した第二世代の『進化促進ウイルス・プロメテウス』が封入されている。これが、この聖域の最後の希望だった。


「ミリ、君はこれからこの豹のすぐそばにいろ」

「え……?」

「君の清浄な魔力には精神を安定させる効果がある。気休めかもしれんが、君がそばにいるだけで患者の負担はわずかに軽減されるはずだ」

 俺の意外な言葉にミリは少し驚いた顔をしたが、すぐに力強く頷いて眠る豹の頭の横にそっと座り込んだ。そしてその美しい結晶の毛皮を優しく撫で始めた。


 俺は深呼吸を一つすると注射菌を構えた。狙うは最も太い大腿部の魔力血管だ。俺は菌糸のメスで最小限の切開を加えて血管を剥き出しにすると、そこに注射菌の針を正確に突き立てた。

 虹色の液体が、ゆっくりと、豹の体内へと注入されていく。それは、この聖域の未来そのものを注入しているかのようだった。


 投与は完了した。

 俺は一歩後ろへと下がる。手術室には張り詰めた静寂が満ちていた。俺と、ミリ、そしてゴーレムたちと、守護者。全員が固唾を飲んで眠る王者のその変化を見守っている。


 一分、二分……。何も起きない。ただ豹の弱々しい呼吸の音だけが聞こえてくる。

 その時だった。豹の体がピクリと痙攣し、あの鳥の時と同じ現象が始まった。

 豹の体を覆う美しかった結晶質の毛皮、その根元から、病的な淡い光が放たれ始めたのだ。光はみるみるうちに強くなり、ミリは俺の上着の袖を白くなるほど強く握りしめた。彼女の体が小刻みに震えている。


 俺はそんな彼女の肩にそっと手を置き、自分と、そして彼女に言い聞かせるように呟いた。

「……大丈夫だ。変態が始まる。これからこの王の古い世界は一度死ぬ。

 ―――そして、全く新しい生命として生まれ変わるのだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ