第1話:追放、あるいは至高のフィールドワーク開始
「レン・アシュトン。貴様の術は、不潔だ」
聖剣に選ばれし勇者ゲイルが、まるで汚物でも見るかのような目で、そう吐き捨てた。彼の整った顔は嫌悪に歪み、握りしめた拳がわなわなと震えている。
ここは薄暗いダンジョンの一室。たった今、宝箱を守っていたオーガを倒したばかりだ。俺の貢献度は、まあ、皆無だったが。
「僕の術が、不潔? ゲイル、君は何を言っているんだ。今しがた君が斬りつけたオーガの傷口から侵入した腐敗菌の活動を、僕が投入した拮抗菌で抑制したばかりだろう。おかげで君の聖剣は、質の悪い体液による汚染を免れた。感謝こそされ、不潔呼ばわりされる謂れはないはずだが」
俺は事実を淡々と述べた。足元では、オーガの死骸から採取したばかりの、緑色に光る粘菌がビーカーの中でゆっくりと脈動している。素晴らしい。おそらく新種の魔力感応型粘菌だ。この原始的な知性の動き、たまらない。
「そういうところだと言っているんだ!」
ゲイルが声を荒らげた。彼の隣で、聖女アリアが青ざめた顔で小さく震えている。彼女の視線は、俺が持つビーカーに釘付けになっていた。
「レンさん……お願いです、それ以上、それに近づかないでください……。見ているだけで、気分が……」
「気分が? アリア、これは世紀の大発見かもしれないんだぞ。この粘菌の自家発電能力を解析できれば、永久機関すら夢では……」
「もうやめてください!」
アリアの悲鳴じみた声が、部屋に響き渡った。彼女は涙を浮かべ、美しい顔を恐怖に引きつらせている。
「貴方がダンジョンで見つけたキノコをスープに入れようとした時も! スライムの粘液から培養したという酵母でパンを焼こうとした時も! 私はずっと我慢してきました! 貴方の術は、神聖魔法を扱う私にとって、生理的に受け付けられないのです! カビ、粘菌、細菌……どれもこれも、死と腐敗を連想させる忌まわしいものばかりではありませんか!」
心外だ。彼女の言うそれは、生命の循環を司る、気高くも美しい分解者たちだ。死は新たな生の始まりであり、その橋渡しをする彼らこそ、真に聖なる存在と言える。神聖魔法などという現象不明のエネルギーより、よほど信頼できるというのに。
だが、このパーティの権力構造は、勇者と聖女がトップだ。俺のような、戦闘力ゼロの変わり者の学者が何を言っても無駄なことは、とうの昔に理解している。
最後に口を開いたのは、銀縁眼鏡の魔術師セラだった。彼女はいつも通り無表情で、事実だけを告げるように言った。
「レン。合理的に判断して、貴方はパーティに不要です。貴方の知識は特定の状況下でしか機能せず、汎用性に欠ける。そして何より、パーティの士気を著しく低下させている。アリアの精神的負担は、既に治癒魔法の効率に影響を及ぼすレベルに達しています」
「……つまり、僕はお払い箱だと。そういうことか」
俺がそう言うと、ゲイルは待ってましたとばかりに頷いた。
「そうだ! もはや我慢の限界だ! レン、お前は本日ただ今をもって、このパーティを追放する!」
来た。ついに、来たか。
俺は内心で、歓喜の雄叫びを上げていた。やった! やったぜ! これでようやく、あの鬱陶しい人間関係と、興味もない魔王討伐ごっこから解放される! これからは、誰にも邪魔されず、思う存分フィールドワークに没頭できるんだ!
もちろん、そんな内なる興奮を顔に出すほど俺は愚かではない。俺は表情筋を完璧に殺し、ビーカーをそっと背負い袋にしまいながら、事務的に尋ねた。
「わかった。追放の件は了承しよう。それで、退職金は?」
「なっ……貴様、この期に及んで金の話か!」
「当然だ。僕はこのパーティに数年間所属し、知的財産を提供してきた。その対価を要求する正当な権利がある。まさか無一文で放り出す気ではあるまいな。それは人道にもとる行為だ。違うかね、聖女アリア?」
俺に話を振られ、アリアはびくりと肩を震わせた。彼女は罪悪感に苛まれているのか、俯いてしまう。ゲイルは忌々しげに舌打ちすると、革袋を乱暴に投げつけてきた。
「……これでも食らえ! 金貨30枚だ。これまでの功績に免じてくれてやる。さっさと失せろ! 二度と我々の前に姿を現すな!」
「結構だ。研究費として、ありがたく使わせてもらおう」
俺は革袋を拾い上げると、中身を確認もせず懐にしまった。もう彼らに用はない。俺は一瞥もくれず、ダンジョンの出口へと背を向けた。
「あ、レンさん……」
アリアが何か言いかけたが、俺は振り返らなかった。どうせ、「ごめんなさい」の類だろう。謝罪など、何の役にも立たない。それより一秒でも早く、俺だけの聖地へ向かいたかった。
ダンジョンの外は、鮮やかな夕焼けに染まっていた。
俺は大きく息を吸い込み、そして吐き出した。体中の空気が入れ替わるような、途轍もない解放感。パーティにいた数年間は、無菌室に閉じ込められているような息苦しさがあった。だが、それも今日で終わりだ。
「さて、と」
俺は懐から古びた地図を取り出す。向かう先は、もうずっと前から決めていた。
王国の北東に広がる、広大な森。あらゆる生命を拒絶し、一度足を踏み入れれば二度と生きては戻れないと噂される呪われた土地。
―――〈滅びの森〉。
常人にとっては死の土地。だが、菌類学者である俺にとっては、おそらくこの世で最も魅力的なフィールドだ。
あれほど広大で、強力な汚染に満ちた環境。そこにはきっと、既存の生態系では考えられないような、独自の進化を遂げた新種の菌類や微生物たちが、俺に見つけられるのを待っているに違いない。
考えただけで、全身の細胞が歓喜に打ち震える。
「待っていてくれ、僕の愛しい菌たち。今、会いに行くよ」
俺は地図をしまい、夕日を背に、北東へ向かって歩き出した。その足取りは、追放された男のものとは到底思えないほど、軽く、弾んでいた。
◇
数日間、野宿をしながらひたすら歩き続けた。
ついに、俺は目的地の入り口にたどり着いた。そこだけ、まるで世界に穴が空いたかのように、生命の色が抜け落ちていた。木々は黒く炭化し、地面は毒々しい紫色に変色している。腐敗臭とも薬品臭ともつかない、鼻を突く異臭が立ち込めていた。
街道に立つ「この先、立ち入り禁止」の看板が、ここが人間の住む世界との境界線だと示している。
だが、俺の目には、この光景は全く違って見えていた。
俺のユニークスキル【菌界創生】は、周囲の菌類・微生物の存在と活動を、色と音と匂いとして知覚できる能力を持つ。
スキルを起動すると、モノクロームだった世界に、爆発的な色彩が溢れ出した。
「……おお……素晴らしい……!」
紫色の土壌では、石油のような重金属汚染を分解してエネルギーに変える、黄金色に輝くバクテリアのコロニーが広がっている。
枯れ木には、魔力瘴気を吸収してキノコを形成する、青白い燐光を放つ新種の糸状菌がびっしりと張り付いている。
空気中ですら、目には見えない無数の胞子や酵母が、オーロラのように揺らめきながら漂っているのがわかる。
ここは死の森などではない。常識外れの環境に適応した、未知の生命が織りなす、豊穣の生態系。まさに菌類の黄金郷だ。
俺は恍惚の表情で一歩、森へと足を踏み入れた。
まずやるべきは、安全な拠点の確保と、この素晴らしい環境の分析だ。
俺は地面に膝をつき、紫色の土にそっと手を触れた。
「【菌界創生】――アクティベート」
スキルを深く同調させる。土壌に広がる微生物ネットワークにアクセスし、情報を読み解いていく。
脳内に、奔流のごとく情報が流れ込んでくる。無数の微生物たちの名前、性質、相互作用が洪水のように意識を満たす。
そして、見つけた。この土壌生態系の中核種となっているバクテリアを。
「……君か。この汚染物質を分解し、無機物に変えているのは。なんて健気で、力強い子なんだ。よし、決めた。君にもっと活躍してもらおう」
俺は魔力を練り上げ、そのバクテリア――仮に『超分解菌オリジン』と名付けよう――に注ぎ込んだ。俺の魔力を栄養源として、彼らの活動を爆発的に活性化させる。
すると、俺の手のひらを中心に、奇跡が起きた。
紫色の死んだ土が、みるみるうちに毒素を分解され、生命力に満ちたふかふかの黒土へと変わっていく。異臭は消え、雨上がりの森のような、清浄な土の匂いがした。
「完璧だ。これなら、どんな作物でも育てられる」
次に必要なのは、労働力だ。この広大な森を一人で調査するには、時間がいくらあっても足りない。
俺は周囲を見渡し、あるものを発見した。岩陰に、バスケットボールほどの大きさの、奇妙なキノコが群生している。傘はなく、硬い石くれのような見た目だ。だが、その内部では、強靭な菌糸が複雑に絡み合っているのがスキルで見て取れる。
「自己修復能力と、高い物理強度……。うん、これなら使える」
俺はそのキノコの菌床を一つ、浄化した黒土の上に置いた。そして再び【菌界創生】を発動。俺の魔力を注ぎ込み、そのキノコの菌糸に命令を下す。
「起きろ。形を成せ。僕の手足となって働くんだ」
菌床が、脈動を始めた。中から無数の白い菌糸が溢れ出し、互いに絡み合い、盛り上がっていく。それは決まった形を取らず、粘菌のように蠢きながら、徐々に人型のようなシルエットを形成していった。
数分後、俺の目の前には、身長1メートルほどの、白い菌糸の塊でできた不定形の人形が立っていた。頭も顔もない。ただ、塊の中心に、俺が核として埋め込んだ魔力石が、赤い光をぼんやりと灯している。
「はじめまして。君の名前は『マッシュ』だ。僕の記念すべき最初の助手だよ」
マッシュは言葉こそ発しないが、赤い光を瞬かせることで、肯定の意を示したように見えた。
「よし、いい子だ。じゃあ、さっそく仕事だ、マッシュ。まずは……ああ、腹が減ったな」
興奮のあまり、丸一日何も食べていないことを思い出した。
食料は、この森にいくらでもある。
俺は辺りを見回し、近くの枯れ木に生えている、傘が瑠璃色に輝く美しいキノコを指さした。
「マッシュ、あのキノコをいくつか採ってきてくれ」
マッシュは体を液状化させるように地面に広がり、するすると枯れ木まで移動すると、体の一部を触手のように伸ばしてキノコを器用に摘み取った。素晴らしい汎用性だ。
受け取ったキノコを、早速スキルで分析する。
「フム……。キシメジ科の新種か。成分は……豊富な魔力とアミノ酸。毒性物質は……微弱な麻痺毒。加熱すれば分解されるレベルだな」
俺は錬金術釜を取り出し、浄化した水とキノコを入れて火にかける。すぐに、食欲をそそる芳醇な香りが立ち上ってきた。
出来上がったシンプルなスープを一口すする。
「……うん、美味い!」
ぷりぷりとした歯ごたえと、口の中に広がる濃厚な旨味。わずかに舌が痺れる感覚が、またスリルがあっていい。何より、新種のキノコを世界で最初に味わうこの背徳的な喜び。これだからフィールドワークはやめられない。
追放されて、本当に良かった。
俺は心からそう思った。不自由な人間関係も、退屈な使命もない。
あるのは、未知の菌類たちと、無限の研究対象、そしてそれを味わう自由だけ。
「さあ、マッシュ。僕と菌たちの楽園を始めようじゃないか」
俺の言葉に、マッシュの中心の赤い光が、ひときわ強く輝いた気がした。
こうして、人間嫌いの菌類学者による、最高に自由で、最高にマッドな研究生活が、この滅びの森で始まったのだった。