第70話:雪山の二人と、魂の守護
その夜、雪洞の中は、外の猛吹雪が嘘のような静寂に包まれていた。
アストルが、魔力を極限まで絞って灯した小さな炎だけが、二人の影を壁にぼんやりと映し出している。昼間、ノエルの知識を頼りに確保した乾いた薪が、ぱちり、ぱちりと控えめな音を立てていた。
ダンジョンを脱出して、既に二日が過ぎようとしていた。
あの日、真祖が指し示した道の先は、雪と氷に閉ざされた、容赦のない自然そのものだった。
最初の一日は、生存のための、静かで、しかし必死の協同作業に費やされた。
アストルが、その圧倒的な炎の力で雪を払い、道を切り開き、空腹であろうノエルのために、雪兎を狩った。しかし、彼はその獲物をどう処理していいか分からず、ただ途方に暮れるだけだった。
ノエルは、その知識で、雪の下に埋もれた食用の植物の根を見つけ出し、アストルが狩った獣の有毒な内臓を的確に取り除いた。そして、アストルが起こした火で、質素だが温かい食事を整えた。
互いがいなければ、自分はここで死んでいた。
その、あまりにも明確な事実が、言葉よりも雄弁に、二人の間に確かな信頼の礎を築き始めていた。
しかし、その脆い絆を試すかのように、二日目の夜、アストルの精神は限界を迎えていた。
雪洞の外で吹き荒れる風の音が、彼の脳裏に、帝国で過ごした鳥かごの日々の記憶を、容赦なく呼び覚ます。
「……ぅ…」
眠りについたはずのアストルが、苦しげに呻いた。その体から、制御を失いかけた魔力が、蒼い燐光となって、ぱちぱちと不吉な火花を散らし始める。
悪夢にうなされているのだ。故郷を焼いた罪の記憶か、あるいは、帝国での屈辱の日々か。その両方が、彼の心を蝕んでいた。
その、禍々しい魔力の揺らぎに、浅い眠りについていたノエルは、はっと目を覚ました。
(……魔力の暴走? このままでは、この雪洞ごと、吹き飛ぶ…!)
彼女の魂に宿る軍人の知識が、冷徹に最適解を囁く。
――対象は精神的に不安定。極めて危険。ただちに拘束し、無力化せよ。それが、最も合理的な生存戦略である。
しかし、ノエルは、その声に、静かに首を横に振った。
彼女の脳裏に蘇ったのは、戦場の論理ではない。ニューログレインのギルドで、ハンナが、呆れたように、しかし何度も口を酸っぱくして叩き込んでくれた、あの言葉だった。
『いいかい、ノエル。あたしたち受付嬢の仕事はね、ただ依頼を捌くだけじゃない。危険な任務から帰ってきた冒険者どもの、心と体をケアするのも、大事な仕事なんだよ』
『やつらは、みんな強がってるけど、その心は、あんたが思うよりずっと脆い。励ましの言葉なんざ、いらない時もある。ただ、黙って話を聞いてやったり、温かいスープを一杯、出してやるだけでいい。……それだけで、救われる命もあるんだからね』
ノエルは、静かに立ち上がった。
そして、受付嬢として学んだ、完璧なマニュアル対応を、一つずつ、丁寧に実行し始めた。
まず、残り少なくなった薬草の中から、精神を安定させる効果のあるカミツレの葉を数枚選び出す。それを、雪解け水を沸かしただけの白湯に浮かべ、温かいハーブティーを淹れた。
そして、悪夢にうなされるアストルの傍らに、そっと膝をつく。
声をかけはしない。ただ、彼がいつでも飲めるように、温かい湯気の立つカップを、彼の近くに置くだけ。
その、ハーブの穏やかな香りが、張り詰めていた雪洞の空気を、ほんの少しだけ和らげた。
ノエルは、何も言わず、ただ静かに、彼の隣に座った。
そして、恐怖で固く握りしめられていた、アストルの震える手を、自らの、小さな両手で、そっと、包み込むように握った。
「……大丈夫です」
彼女は、ただ、それだけを、何度も、何度も、子守唄のように、優しく、静かに、繰り返した。
「私が、そばにいます。あなたは、もう、一人じゃありません」
その、あまりにも純粋で、温かい言葉と、手のひらから伝わる確かな温もり。
それが、アストルを悪夢の淵から、ゆっくりと、しかし確実に、引き上げていく。
彼の体から発せられていた、禍々しい魔力の燐光が、すうっと、静かに収まっていった。
やがて、彼の呼吸は、穏やかな寝息へと変わる。
アストルは、初めて、他者に心を救われたという、不思議な安堵感の中で、深い眠りへと落ちていった。彼は、ノエルが自分にとって、単なるパートナーではない、かけがえのない『魂の守護者』であることを、その夢の中で、深く、深く、理解していた。
ノエルは、静かに眠るアストルの横顔を見つめながら、受付嬢としての仕事が、初めて「完璧にうまくいった」ことに、静かな自信と、ささやかな喜びを感じていた。
それが、対人スキルがほとんど必要ない、アストルという特殊な相手だからこその、限定的な成功であることに、彼女はまだ、気づいていない。
◇
同じ頃、遥か地下深く。ダンジョンの闇の中を、四つの灯りが、揺れていた。
『鉄の街道』の四人は、広間でノエルたちが残した焚き火の跡を発見し、ひとまず彼女たちの無事を確信していた。
「……間違いない。これは、ひよっこの火の熾し方だ。あいつ、妙に几帳面だからな」
バルガスの言葉に、仲間たちが安堵の息をつく。
しかし、その安堵は、長くは続かなかった。
彼らがさらに奥へと進むと、壁に走り書きされた、ノエルのメモを発見したのだ。
「……西の砦、帝国軍、侵攻計画……食料不足……資材不足……」
レオンが、その切迫した内容を読み上げる。エルラは、そのメモが、軍事的な分析だけでなく、自分たちの生存可能性を、極めて冷静に計算したものであることに気づき、息をのんだ。
「……この子、こんな状況で、自分のことより、アストルの心配を……」
その時、カイが、通路の壁の一点を、ランタンの光でしきりに照らし出した。
「おい、見ろ。この壁、おかしいぜ」
そこには、自然の岩肌とは明らかに違う、何者かの魔力によって、不自然なほど滑らかに修復された痕跡が、生々しく残っていた。
「……誰かが、この道を作ったのか? それとも……」
「このダンジョン自体が、生きている、とでも言うのか…?」
バルガスとカイは、顔を見合わせる。このダンジョンが、ただの古代遺跡ではない、もっと異質で、危険な理に支配された場所であることを、彼らは本能的に悟っていた。
彼らは、ノエルが、自分たちの想像を絶する、とんでもない危機に直面している可能性を察し、彼女を必ず救い出すと、改めて強く誓うのだった。
◇
夜が明け、猛吹雪は嘘のように止んでいた。
ノエルとアストルは、雪山を越え、眼下に広がる、小さな町の姿を発見する。
そこは、ノエルが知るニューログレインよりもずっと小さく、しかし、家々の煙突からは、確かに生活の煙が立ち上っていた。
人の営みがある。その事実だけで、二人の心は、ほんの少しだけ軽くなった。
町へ向かうべきか、逡巡が生まれる。ノエルが知る世界は、故郷の村と、ニューログレイン、そして領都アウロラだけだ。アストルもまた、生まれ育った集落と、帝国軍の管理下に置かれた天幕しか知らない。未知の共同体に入るという行為が、どれほどの危険を伴うか、二人にはまだ想像もつかなかった。
「……行ってみましょう」
先に口を開いたのは、ノエルだった。
「このままでは、いずれ食料が尽きます。ここがどこか、情報を得るためにも、リスクを冒す価値はあります」
アストルは、その合理的な判断に、静かに頷いた。
二人には、町の入り口に門衛がいるなどという常識はない。町を守る壁が見えないことから、ただ一番近い家屋へと向かうだけだった。
その直後だった。
「待て。見ない顔だな。こんな冬山から下りてくるとは、一体何者だ?」
背後からかけられた、鋭いが、敵意よりは戸惑いの色が濃い声。振り返ると、そこには、町の自警団員らしき男が二人、訝しげな顔で立っていた。
アストルの体が、咄嗟に強張る。しかし、ノエルは、相手の服装が統一されていないこと、そして腰の剣が、白沢村で見た帝国軍のそれとは違う、ありふれた量産品であることから、彼らが正規の軍人ではないと瞬時に判断していた。
どう答えるべきか。ノエルが思考を巡らせるよりも早く、自警団員の一人が、二人の疲弊しきった様子を見て、その口調を和らげた。
「まあ、待て。ここは小さな町だ、入るのに税をとるわけじゃない。……お前たち、何か困っているんじゃないか? 助けが必要なら、そう言え」
その、あまりにも真っ直ぐな、不器用な善意。ノエルとアストルは、顔を見合わせた。
ノエルは、受付嬢として学んだはずの対人スキルを発揮しようと、一歩前に出る。しかし、極度の緊張から、口から出たのは、しどろもどろの言葉だけだった。
「あ、あの、私たちは、その、旅の者で……お金が、その……」
しかし、極度の緊張からか、彼女の頼りない一面が顔を覗かせてしまう。
その、あまりにも頼りない姿を見かねて、アストルが、静かに前に出た。
「……旅の途中で、道に迷った。所持金も、ほとんどない。途中で狩ったこの獣を、どこかで売ることはできないだろうか」
その、堂々とした、しかし、どこか影のある青年の姿に、自警団員は何かを察したようだった。
「なるほどな。……分かった。冬場の狩りの取引は、ハンターギルドが全て取り仕切っている。案内してやろう」
アストルは、落ち込んでいるノエルの方を向き、ほんの少しだけ、その口元を緩めた。それは彼がこの旅に出てから初めて見せた、穏やかな笑みだった。その凍てついていた感情が、ノエルとの旅路の中で、確かに溶け始めていることを示す、小さな、しかし確かな変化だった。
ハンターギルド。
その、聞いたこともない言葉の響きを、二人はただ、黙って反芻する。
自警団員に案内されながら、二人は、自分たちが、全く新しいルールの下にある盤面へと、足を踏み入れたことを、予感していた。
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